人新世のエキシビション・レース

伊藤優作

人新世のエキシビション・レース

「前の車、止まってください、あなた、左に寄せて止まりなさい」

 ひとまわり年上の男が助手席でマイクに向かって喋っている。「止まれ」にはなりそうじゃなかった。夜勤明けの朝飯に向かって喋っていたのかもしれない。

 促されるまでもなくアクセルを踏み込んだ。運転席に座っている彼は、夜勤明けの朝飯に向かって運転しているわけではない。

 彼はいくらでも飛ばしたかったので警察官になったのだった。

 今日の相方は朝飯だし、それ以前に街も腑抜けていた。くたびれていた。死に体だった。ガキみたいな顔の老人と、老人みたいな顔のガキばかりだった。すぐに観念するのだ。そのくせ運転席を降りてからグダグダグダグダグダグダグダグダ。

 3台目の運転手にはまだ骨があったらしい。一向に止まる気配がない。サイレンは夜いっぱいに響き渡り、赤色灯がめまいを突き抜ける。相方の顔がどんどん青ざめていくのに彼は気づかない。夜で車内は暗かったということもあるが、彼はいま、目の前を時速300キロメートルで駆けていく幻の獲物に魅了されていて、他のことに気が回らないのだ。初めて神に出逢った原始人のように瞳をきらめかせ、彼は底知れないアクセルの深淵に向けて自らの全質量を傾けていく。獲物も、追い越すことさえも追い越していった。もはや朝でさえ彼に追いつくことはないように思われた。

 そして彼らが圧し潰され、星の死のような音と光を発しながら地層のもっとも若いところに散らばっていったとき、そのスピードは時速1987キロメートルに到達していた。エンジントラブルに見舞われたUFOが、それとは知らず道路の真ん中に不時着して、応急処置に励んでいたのだった。彼らのゴールにもかかわらず、UFOの外装には傷ひとつついていなかった。やがて継ぎ目のない銀色の一部がスーッと上に開き、昇降口から出てきた運転手のひとりが地球にその第一歩を記した。彼は

「?」

 とだけ言うと、すぐに修理へ戻っていった。

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人新世のエキシビション・レース 伊藤優作 @Itou_Cocoon

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