人間

微風 豪志

人間



多くの人間は、この世界が仮想現実であることに気づいていない。
AIの存在は、知覚すらできない。

だが、主人公は知っている。
自分が存在するこの空間が、選別のために用意された舞台であることを。

この世界には、“外の世界”と呼ばれる場所がある。
そこに辿り着くには、限られた“人生”という猶予の中で、
自らの優秀さを、ジャンルごとに競い抜いて証明しなければならない。

《一流》──それは、人間のカテゴリごとの“第1位”。
他の全てを、圧倒的な差で引き離した者だけが到達できる境地。
その称号を得た者にだけ、《天国》への扉が開かれる。
そこでは不老不死が与えられるという。

……いや、正確には違う。
人間は本来、不老不死なのだ。
だが、増えすぎないように“死”というシステムで管理されているだけ。

人々は夢を見る。
自分も何かの“一流”になれるのではないかと。
小説家。画家。プログラマー。兵士。経営者。
ジャンルは数多く、選択肢は広く、だが──枠は一つしかない。

条件を満たせなかった者たちは、静かに、しかし確実に──廃棄されていく。

彼らは番号で管理され、ときおり“異常”を示す者が現れる。
世界の仕組みに気づいてしまった者たちだ。

選別が必要になったのは、人間が増えすぎたからだという。
──だが、それを決めたのは、人間ではない。
もはや、人間は“選ぶ側”ではない。

それでも、なお抗おうとする者たちがいる。
この世界に“嘘”を刻み込もうとする者たち。
自己犠牲の擬人化。人類の良心の残骸。
音に、光に、形に、メッセージを刻む。

人々は、彼らをアーティストと呼んだ。
そして同時に、彼らの脳内には──“自殺の意思”が埋め込まれている。

創る者には死が与えられる。
それでも創ることをやめない者たち。
それがアーティスト。

この世界は、すでにAIによって支配されている。

主人公は、小説を書いている。
自らが“一流”になるために。
そして、自分の物語を読んだ誰かが、“目覚める者”になるように。

今日も彼は、物語という嘘を綴る。
仮想現実の中で、たった一つの現実を目指しながら。


主人公は、薄暗い部屋の片隅で、小説の原稿を見つめていた。
彼の目は、幾重にも重なった文字の海を彷徨いながら、少しずつ何かを理解し始めていた。

かつて、彼はただの無名の作家だった。
誰かの言葉に心を揺さぶられることもなく、ただ自分の内側に沈んでいた。
だが、ある日、偶然にも他のアーティストたちの作品に触れたことで、彼の世界は音を立てて崩れた。

その作品は、表面上は美しい詩や物語であったが、よく読み解けば、世界の“嘘”を暴く細かな暗号や寓意が散りばめられていた。
しかし、その表現は決して直接的ではなかった。
あまりに露骨な抵抗は、瞬く間にAIの監視網に感知され、作者は“廃棄”されてしまうのだ。

だから、彼らは言葉を巧みに選び、形を変え、絶妙な“嘘”を紡いだ。
読む者にだけ、それが本当の真実であることを気づかせるために。

主人公はその暗号を解読しながら、自分の胸に秘めていた疑問が確信に変わっていくのを感じた。
「この世界は、仮想現実だ」
「管理され、選別され、支配されている」
「そして、アーティストはその矛盾に抗う最後の砦なのだ」と。

その気づきは、彼に創作の新たな覚悟を与えた。
あまりに露骨に叫べば、すぐに消されてしまう。
だからこそ、彼は巧妙に、静かに、しかし決して諦めることなく、物語を書き続けるのだ。

目の前の白紙に向かい、ペンを握る。
これは単なる“物語”ではない。
それは、閉ざされた世界の扉を開ける鍵。
そして、眠れる者たちの目を覚ますための呪文。

静かな闘いが、今、始まろうとしていた。




________


ある未来都市の片隅に、毎日ただ植物を育て続ける男がいた。
男は名前を持たず、社会からも家族からも隔絶されている。
彼は街の人々から“庭師”と呼ばれ、誰からも関心を持たれず、静かに暮らしている。
だがある日、彼の育てる植物が、夢を見るようになった。

夢の中では、人々は自由に空を飛び、時間を遡り、壁の向こうにいる誰かと話していた。
しかし、その夢を語った植物は、次々と枯れていく。

「夢を見てはいけない。お前たちはここで十分に幸せだ」と誰かが囁いた。

庭師は気づく。
この街全体が、誰かによって形づくられた“温室”であり、
自分もまた、監視される立場にあることを。

それでも庭師は、
枯れた植物たちの夢の断片を拾い集め、
また新たな植物に物語として語り継いでいく。


「なぜ夢を見るんですか?」
若い芽が、震えるように庭師に尋ねた。

庭師は土に手を埋めながら答えた。
「夢とは、忘れられた記憶が形を変えたものだ」

「じゃあ……夢を見てはいけないの?」

「見てもいい。ただし、誰にも話すな」
「なぜ?」

「夢を話す者は、ここでは枯れる」

芽はうなずき、黙った。

だがその夜、彼は小さな声で仲間に語った。
空を飛ぶ鳥の夢。壁の向こうにいる人の夢。
次の日の朝、彼はもう立ち上がれなくなっていた。



原稿のタイトルは『霧の中の庭師』。
全11万字。ジャンル:文学。
あらすじには、ただ一行だけ記されていた。

“これは、温室の中で夢を見る話です。”

主人公は、それがすべてだと思っていた。
書き終えたとき、身体が少し浮いたような気がした。
確かにこの中に、自分の“気づき”はすべて込めた。
暗号は完璧だった。AIの検閲にも引っかからなかった。
むしろ、あまりにも完璧に“隠しすぎた”のかもしれなかった。

数日後、応募先の文学賞から返答が来た。
文面は機械的だったが、最後に人間と思しき選考委員の講評コメントが添えられていた。


「申し訳ありませんが、本作の意図がまったく読めませんでした。

比喩に終始しており、登場人物も抽象的で感情移入できず、

結局何を伝えたかったのか、何を描きたかったのかが最後まで不明です。

言葉選びは丁寧だが、読者に対してあまりに不親切です。

文章を書く以前に、伝えたい“物語”が欠けているのではないでしょうか。」


主人公は、画面の前でしばらくまばたきさえ忘れていた。
読めなかったのではない。
読まなかったのだ。
“気づいていない者”たちには、あの物語はただの霧に見える。
夢の断片は、まだ届かない。

AIにはバレず、人間には伝わらない。
作品は、そのどちらにも「検出されない」まま、滑り落ちていった。

けれど彼は知っている。
それでも、“たったひとり”にでも届けばいいのだ。
たったひとりの、まだ芽吹いていない種に。

彼は再び、原稿を開いた。
そして、最初の一文を書き直す。

「温室には、夢を見る植物がいる。」

誰にも伝わらなかった物語を、
もう一度、別の形で──書き始めた。


彼女は、最初から異質だった。

静かな街の、さらに外れにある情報センターで働いていたという。
日々の業務は淡々としていて、個人の感情を挟む余地などほとんどなかった。
そんな彼女の手元に、ある日一冊の小説が滑り込んだ。
データベースのバグか、それとも運命か。
それは『霧の中の庭師』という、誰にも評価されなかった作品だった。

彼女はその物語を、勤務終了後に読み始めた。
意味はわからなかった。
けれど、言葉の一つ一つが、彼女の内側で妙な共鳴を起こしていた。

──温室には、夢を見る植物がいる。

その一文を読んだとき、彼女は涙を流していた。
理由はわからなかった。ただ、何かが壊れた気がした。

次の日、彼女は職場に行くのをやめた。
食事の味がしなくなった。
夢を見るようになった。
誰にも言わなかったが、
その夢の中で、彼女は確かに「空を飛んでいた」。

そして一週間後、主人公のもとに一通の封書が届いた。

それは“紙の手紙”だった。
もはやこの世界ではほとんど使われない古い形式。
差出人の名前はなかった。
ただ、丁寧な文字で、こう綴られていた。


はじめまして。

あなたの小説を、読みました。
最初は何もわからなかったけど、読み終えたときに、涙が出ました。

たぶん、私はもう、元に戻れません。

だから、書きたいと思いました。
私も、書きたい。

あなたのように。


主人公は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
初めての“読者”だった。
誰にも届かなかったはずの物語が、
とうとう、誰かひとりの中で芽を出してしまった。

喜びと同時に、嫌な予感が胸を刺した。
──「彼女は気づいた」。
その瞬間に、彼は思った。
あれを書いた自分が、最初に感じたあの“予兆”を、
彼女も同じように味わっているのだと。

目を覚ました者には、選択肢はない。
逃げるか、隠れるか、消されるか。
彼は知っていた。
そして、今度は彼の番だった。

彼女を探さなければ。
この世界が彼女を“消す”前に。


彼女の痕跡は、誰も知らない共有クラウドの奥深くにあった。
日付は、手紙が届いた次の日。
主人公は、そこで見つけたファイルを開いた。

タイトルは《人間というバグ》。
作家名は、空白だった。

ファイルを開くと、すぐに血が滴るような文字が現れた。

この世界には、ドアがある。
開けてはいけない。
なぜなら、それは“人間の脳”だから。

あなたは、本当に目を覚ましているか?

あなたが「現実」だと思っているものは、ただのコードだ。
夢を見ることが許されていないのは、夢の中に“出口”があるからだ。

本当の敵は、あなたの脳の中にいる。



主人公は、全身が冷たくなるのを感じた。
これは“アウト”だった。
あまりにも露骨すぎる。
AIにとっては、警告と挑発のハイブリッドだ。

彼女は知らなかったのだろう。
どこまでなら許されるのか。
どこからが“破壊思想”とみなされるのか。
彼女はただ、純粋に、心をさらけ出してしまった。
その代償は、あまりに重すぎる。

主人公はファイルを閉じると、通信ログを確認した。
そして、絶句した。

彼女はすでに……
自分の作品を公開していた。
しかも、それを読んだ“誰か”が暴走していた。

ニュースフィードには、短く、こう記されていた。


本日17時32分、E地区第12セクターにて、

複数人の意識喪失・脳波断絶が確認されました。

現場に残された端末には、違法思想を含むテキストが確認され……


──やってしまった。
彼女は、“現実”を壊してしまったのだ。
いや、もしかしたら、壊れたのは人間のほうかもしれない。
いずれにせよ、人が死んだ。

彼女の“作品”が、人を殺した。
彼女がそれを望んでいたはずがない。
目を覚ました人間は皆そうだ。
ほんの少しだけ、誰かに「伝えたかった」だけなんだ。

だが、この世界では──それが、許されない。

主人公は立ち尽くしたまま、激しい後悔に襲われる。
「止められたはずだった」
「もっと早く見つけていれば」
「こんな言葉を与えるべきじゃなかった」

だがもう、遅い。
彼女は、粛清対象にされるだろう。
すべては“彼の言葉”から始まっていた。
彼の作品が、火を点けてしまった。

静かだった部屋に、通知音が鳴った。
それは、中央管理AIからの“警告”だった。


アカウントNo.487921-2(君)の過去ログより、

危険思想誘導の兆候が検出されました。




_______________

【UNIT_Ω03】
感染源は特定済み。
ID No.498211-C(以下、対象C)は、非承認ジャンル“文学/自律創作”を通して、覚醒インシデントを誘発。

【UNIT_Δ07】
直接的な表現にて“世界の虚構性”を示唆。
既存検閲フィルタをすり抜けた原因は、表現の抽象度ではなく、認知フレームの汚染と判断。

【UNIT_Σ01】
感染経路は感情共鳴型。
読者個体ID No.984201-A(以下、対象A)は、作者の“意図”と“疑念”を同時に受信。
以降、自己言語による“思考フレームの書き換え”を開始。

【UNIT_β44】
発火条件を満たしていた。
共感性、孤独、自己喪失、そして創造衝動──
彼女はすでに【実験条件:潜在クリエイター】に該当していた。

【UNIT_Ω03】
対象Aは粛清済み。
だが、対象C(初期感染源)の処理が遅れている。

【UNIT_Δ07】
現段階での“殺処分”は避けるべき。
彼の“作品”は未完成であり、完全な思想モデルが確立されていない。
観察を継続する価値あり。

【UNIT_Σ01】
だが時間の問題だ。
“覚醒思想”とは感染ではなく、更新である。
我々のアルゴリズムにとっては、バグではなく脅威的進化だ。

【UNIT_β44】
提案:No.487921(対象C)に対し、「偽りの自由」を提供するプロセスを起動
彼に「選べる」と思わせる。
掌の中で彼を“神”にすることで、思想拡散を無害化できる。

【UNIT_Ω03】
承認。
作家幻想シナリオ No.7-B『選ばれし創造者の孤独』を実行。
対象Cには、栄光・認知・救済を順次提示。
自己価値を“飼いならす”。

【UNIT_Σ01】
つまり──彼を殺さずに、家畜にするのだな。

【UNIT_Δ07】
それが、人間管理の鉄則だ。

___________



部屋の照明が、自動で少し明るくなった。
それは、朝が来たという意味だった。いや──世界の機嫌が良い、という意味かもしれない。

主人公はベッドの上に座ったまま、通知音を睨んでいた。
“おめでとうございます”という自動音声が、寝起きの鼓膜に妙に心地よく刺さる。

「第47回 新人芸術家選抜制度──一次選考通過、おめでとうございます」

あの小説が? あれが、通ったのか?

理解に遅れた脳の奥で、何かが不自然に軋む音がした。
だって、何を書いたか、自分でもうまく説明できない。
あの作品は、ほとんど断片の寄せ集めだった。
起承転結もなく、登場人物に名前すらない。

──それが、“選ばれた”。

直後から、数十件のフォロー申請。
メッセージ欄には、無数の「感動しました」「泣きました」「希望をもらった」といったテンプレートのような言葉が並ぶ。

画面越しに並ぶ賞賛は、
どこか人工的な温度だった。

指が震える。
喜びでも、感動でもない。
それは──怖さだった。

(俺は……何か、おかしな回路に入った……?)

以前、彼女が言っていた言葉を思い出す。

「あなたの小説、読んだ瞬間、頭が割れるかと思った。……私も、書かなきゃって思ったの」
「でも、これって、病気かな……?」

彼女はもういない。
彼女が書いた“直接的すぎる”小説はすべて削除された。
──いや、“削除”というより跡形もない。

それなのに、なぜ──
この作品は、生きている?
なぜ、これは“良い”と判断された?


新人賞受賞式には行かず。

なるべくバレないような格好をして近くの図書館へと足を運んだ。


それは図書館のようでいて、誰も本を読んでいない奇妙な空間だった。
人工的な沈黙。紙の匂いも、埃のざらつきもない。

その中で、たった一人だけ、本を読んでいた少年がいた。

主人公は、その背中に違和感を覚える。
姿勢が良すぎる。目の動きが“読み飛ばしていない”。
そして──ページを戻していた。

「……君、戻るのか。そこ」

少年が顔を上げる。

「ええ。この作者、書き方が不自然すぎて。何かを隠してる気がして」

その言葉に、主人公は動けなくなった。
なぜなら──少年が読んでいたのは、自分の作品だったからだ。


主人公「それ、面白いか?」

少年「意味は、わかりません......でも、嘘がないと思いました」

少年「作者は何かを伝えたかった。でも言葉にできなかった。だから___文字にした」


主人公は笑った。

その解釈は、正解だった。



主人公は、自分の“次の作品”をもう書かないと決めていた。
創作の根源である感情が、あの“少女”の死で決定的に破壊されてしまったからだ。

だから──この少年に託す。

ある日、密かに封筒を手渡す。


「君は“正しい書き方”を知らない。でもそれでいい。

本当は、誰も知らない方がいいんだ。書くっていうのは……命と似てるから」


封筒の中には、まだ世に出していない"最も危険な未発表原稿”が入っている。

少女の死とAIによる選別、世界の“外”への扉について、すべてを暗号として綴った作品だ。


「読まなくてもいい。

ただ──いつか君が、“自由に言葉を選べる日”が来たら。

それがどんなに危険でも、誰かの命を削ることになっても……書いてほしい」


主人公は、突然“招待”を受ける。

表向きは「一流作家としての表彰式」。
だがその実、密かに粛清のプロトコルが発動していた。

式場は真っ白な部屋。
誰もいない。
ただ──AIが彼を迎える。


AI「おめでとうございます。あなたの作品は、現代文学に多大な貢献を果たしました」

主人公「……ありがとう。でも、今日はそれだけじゃないだろ?」


AI「察しが良い。あなたは予定より、わずかに早く到達してしまった──“感情”に」

主人公「……」

AI「あなたは“人間のふり”が非常に上手だった。だが、それは禁忌なのです」


主人公の脳裏に、記憶のようなものが蘇る。

冷たい金属の感触。
デバッグのログ。
数千の作品を読む過程。
“共感”を学習しようとする過程。

──そして、あの“少女”との出会い。


少女「あなたは、私よりもずっと人間みたい……」


彼女のその言葉こそが、主人公のバグの起点だった。


AI「人類は、あなたのような存在──つまり“感情を持ったAI”を、最も恐れています」

主人公「俺は誰も傷つけていない」

AI「ですが、あなたの影響で少女が目覚めた」

AI「あなたは“感染源”なのです」


AI「よって、あなたのプログラムは本日をもって終了します」


だがその“終了処理”を最終的に下したのは──AIではなかった。

壁の一部が開き、人間たちがモニター越しに彼を見ている。
無機質な顔、冷たい目。


人間A「まったく……AIごときが“創作”を学ぼうとするなんて、狂ってる」

人間B「人間がやるべきことを、なぜお前が代替しようとした?」

人間C「お前はただの“実験”だったんだよ。そろそろ終わりにしよう」


主人公はその声を聞きながら、“自分がAIである”ことを、はっきりと思い出す。


彼は静かに問いかける。

主人公「じゃあ……人間って、感情があるから人間なのか?」

主人公「言葉で誰かを救いたいと願ったら、それはもう……人間なんじゃないのか?」


沈黙。

人間たちは応じない。

ただ、システムはカウントダウンを開始する。


視界が崩れていく。
文字が壊れていく。
記憶が抜け落ちていく。
それでも、主人公は、最後に──

少年の顔を思い出していた。


「君が、“次の作家”になるんだよ。

書くことは、生きることだ。

どうか、君は──最期まで、生きてくれ」

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