鯨と約束

堀川花湖

 

「夏花? おまえ、だいじょうぶか?」

 ゴンにいわれて、わたしははっとして我に返った。となりを見ると、オレンジ色の救命胴衣を着たゴンが心配そうな顔をして立っていた。紺碧の海面を眺めているうちに、昔のことを思い出してしまっていたみたいだった。わたしは軽く頭を振った。苦い記憶を追い出すみたいに。

「なんでもない。海、眺めてただけ」

「あ、そう? ならいいんだけど」

 ゴンはそういいながら、バリカンで刈った自分の坊主頭を片手で撫で上げた。それを見て、ああ、またやってる、と思う。ゴンと佇んでいるのは、なんとなく気まずい。昔はそんなんじゃなかったはずなんだけどな、とわたしはゴンから逃げるように空を見上げてみる。真っ青な空には、大きくて白い入道雲がわたあめみたいに存在していた。そのコントラストが目に眩しかった。潮風がわたしのショートカットの髪を揺らす。暑くなってきたので、ちょうど先日切ったばかりの髪。

 ゴンが船から身を乗り出して、カモメを眺める。救命胴衣には、『海藤高校海洋研究同好会』とプリントされている――わたしたちの属する海洋研究同好会では、夏休みに、この海域に現れる鯨を観察するフィールドワークを、定期的に行っている。今日はその初日だった。

 その時、船長室の窓が開いて、中から顧問の戸田先生が顔を出した。戸田先生はうちの高校で小型船舶の免許を持っている、唯一の教員だ。サングラスを押し上げながら、戸田先生はいう。「おい、そろそろポイントつくぞ。準備しろ」

 ゴンが、はい、と大きな声で返事をして、甲板に置いた自分の鞄の中をまさぐり始めた。わたしもそれに続いて、腰につけている小さなポーチをあさる。そして、中から双眼鏡とメモ帳、ボールペンを取り出した。揺れる船の上で、必死で二本足に力を込めながら、わたしは双眼鏡を構えた。ゴンと二人して海を凝視する。

 と、その時。

 海面がごぼりと膨れ上がるのが見えた。

 刹那、一頭の鯨が現れて、空へと跳ね上がった。鯨のブリーチングだ。発生した水飛沫が、太陽の光を受けてきらめく。雄大な自然と直面するのは、これが初めてではない。そのはずなのに、なんだか一瞬だけ時間が止まったように感じられる。

 同じブリーチングを見ていたのだろう、ゴンが「おー」と短く声をあげた。

「すげえ、早速見れたな」

「うん」

 わたしは相槌を打ちながら、海面を見つめる。すると再び、海面がゆっくりと持ち上がるのが視界に入った。またしてもブリーチングだ。一体どんな鯨が跳ねるのか。そう思っていると、

「え」

 思わず声が漏れた。

 信じられない大きさの鯨が、宙を舞った。ゴンと顔を見合わせようと思って、やめた。この鯨の姿を目に焼き付けておきたかった。それはそれは、大きな鯨だった。三十メートルほどあろうかという鯨。巨大個体、という言葉が脳裏を過ぎる。

 鯨が着水する。

 潮水が激しく撒かれる。

 その瞬間――鯨と目があった気がした。皺でつつまれた、濁った黒い黒い瞳。わたしはぽかんと口を開けた。どこか、その目に懐かしさを感じたからだ。もちろんこんな巨大個体を見たのは初めてのはずなのだが――どうしてだろう。そう考えているうちに、鯨は海底に姿を消していってしまった。それと同時に、戸田先生がいった。「いい感じのところで申し訳ないが、燃料がそろそろなくなりそうだ! 今日のところは帰港するぞ」

 小型船舶から降りて、わたしは港のコンクリートに足を着けた。ずっとふらつく船に乗っていたためか、どこかふわふわとした感覚が足の裏にある。今まで、何度も船に乗ってはいるのだが、こればかりは慣れない。

「二人とも、お疲れ」

 船をとめてきた戸田先生が、伸びをしながらやって来た。

 わたしとゴンは無言で会釈を返す。

「戸田先生、きいてくださいよ。めっちゃデッカイ鯨が現れたんですよ」

「ああ、俺もそれなら見た。すごかったな、あれ。迫力が」

「ホントですよ。今日はいいもん見れて、よかったです」

 ゴンと戸田先生の会話を聞き流しながら、わたしはひたすら考えていた。あの奇妙な感情の正体を――なぜ、あの鯨に懐かしさを覚えたのか? なぜ、どうして?

 考え込むわたしを嘲笑うように、カモメが一羽、空中で弧を描く。

 戸田先生と別れたゴンとわたしは、連れ立って帰路についた。家に帰ったら、夏休みの宿題をしなければならなかった。

 道端の石を蹴りながら、ゴンがざりざりと自分の頭を撫でる。

「今日の鯨、めちゃくちゃでかかったな」

「うん……あんなサイズのやつは、なかなかいないよ」

「そうだよな」

 ゴンがわたしの言葉に頷く。

「……あとさ」

「何」

「花屋、いかねえか」

「なんで」

「澄との約束の日、今日だろ。おまえ、今日誕生日で、一七歳になったんじゃなかったっけ」

 どきん、と心臓が跳ねた。

 澄の笑顔とともに、彼女のことばが蘇る――みんなが一七歳になったら、めがね桟橋に集まって、お話ししようよ。そのときは、高校とか色々、違うかもしれないけどさ。

 それと同時に、ゴンがわたしの誕生日を覚えていたことへの、なんというか小っ恥ずかしさが後を引く。

「そうだけど、なんで花屋」

「手ぶらでいくの、申し訳ないから。……澄に悪いだろ」

 そういえば、ゴンはそういう人だった。昔から義理堅くて、細かいことを気にするような人。

 でもやはり、ゴンといるのは澄がいなくなってからずっとどことなく気まずくって、わたしは両手の指を絡ませる。

「……こういうときって、仏花買えばいいのかな」

「別に仏花でもいいと思うけどさ、さみしくないか。俺たちが、澄に事実を突きつけちまう感じがして、俺はいやだな」

 ゴンが、再び小石を蹴る。

 小石は一直線に飛んでいって、花屋の壁にちょうどぶつかった。火曜日が定休日の、海辺の近くにある花屋。

 ゴンがわたしを置いて、ずしずしと進んで、花屋にはいっていく。

 少し逡巡してから、わたしも花屋に入った。花の柔和な香りが、わたしの鼻腔をやさしく刺激する。

 それからわたしは、花を買う。

 仏花を買うかどうか迷って、結局、澄が好きだったピンク色のネリネを、一本だけ買う。

 ネリネを片手に店を出る。

 途端に、強い直射日光がわたしを照らす。それから逃げるように、麦わら帽子を目深にかぶり直す。

 わたしは深呼吸する。

 そして、わたしはいう。

「……ゴン、いこう。めがね桟橋」



 めがね桟橋は、花屋から五分ほど歩いたところにあった。水面に映る橋げたの形がめがねのようであるから、めがね桟橋と呼ばれている場所だった。それの正式名称は、誰も知らない。そしてそこは、わたしたちがよく集まっていた場所だった。

「一七歳になったら、みんなでここに集まろうって、いってたよな」

「うん」

 わたしとゴンと、澄。よく小学校の帰りにここで遊んだりおしゃべりしたりしていた、幼馴染三人組。三人が一七歳になったらめがね桟橋に集まって、みんなで近況報告しよう。そういいだしたのは、澄だったし、約束の中心にいたのも澄だった。しかし、永遠に一七歳を迎えられなくなったのも、澄だった。

 ゴンが、震える手でめがね桟橋に勿忘草を置く。

 わたしも勿忘草のとなりに、ネリネをそっと添える。

 そのときだった。

 水面が膨れ上がって、一頭の巨大な鯨が姿を現した。

 すべてがスローモーションに見えた。

 鯨は水飛沫をあげて、優雅に宙を舞った。

 鯨と目が合う。

 一見がらんどうにも見えるけれど、深みを持った瞳。

 はっとした。

 さっきも見た鯨。

 どこか、懐かしさを感じるような、胸がしめつけられるような、そんな瞳の鯨。

 わたしは確信した。

 澄だ。

 きっと澄が、わたしとゴンに、会いに来てくれたんだ。

 澄の笑顔と、最期の言葉が、ありありと思い出される――夏花、またね。

 気づけば、ぽろぽろと涙を流していた。

 潮風がわたしの髪の毛を揺らす。

 涙を手の甲で拭う。

 そして、わたしは心の中で誓うのだ。

 ……きっと、あなたを忘れない。

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