創作におけるアンチコメントについて

卯柿魯安

第1話 批判されるということ

 SNSや創作サイトのコメント欄を見ていると、批判的な意見や否定的な声――いわゆる「アンチコメント」は、しばしば歓迎されない存在として扱われている。

「空気を読まない」「傷つけるだけ」「やる気を削ぐ」。たしかにそれらの声の多くは、言葉選びが雑で、配慮に欠け、建設的とは言い難い。

 それでも私は、そうした声に一方的なレッテルを貼り、ただ排除するだけでよいのかどうか、疑問に思う。


 このエッセイでは、アンチコメントや否定的な批評の「効用」について、少し真面目に考えてみたい。

 不快さや苛立ちの裏に、創作にとって本当に不要なものしかないのか。

 あるいは、そこにこそ、創作を続けるためのヒントや、より深い表現に至るための手がかりが潜んでいるのではないか。


 言葉には、耳に心地よいものと、そうでないものがある。だが、心地よさだけを求めるあまりに、私たちが「聞くべき声」まで遮断しているとすれば、それは創作者にとって大きな損失だ。

 だからこそ私は、あえて“歓迎されない声”に目を向け、その意味をもう一度問い直してみたいと思う。


 人は誰しも、自分の中に誤りを抱えている。

 理性では「完全無欠な人間など存在しない」と理解していても、実際に自分の考えや作品を否定されたとき、感情はやすやすとは割り切れない。

 動揺し、苛立ち、時にその言葉に傷つきさえする。だが、皮肉なことに――いや、だからこそと言うべきか――そうした「否定」の中にこそ、創作者にとっての成長の契機が眠っている。


 アンチコメントや批判的な意見は、私たちの心をかき乱す。

 その言葉に理不尽さや悪意を感じ取って、反射的に距離を取りたくなるのは、ごく自然な反応だろう。しかし、そうした声の中に、思いがけず自己を見つめ直すための鏡のような要素が潜んでいることがある。

 誰かの批判は、時にこちらが気づいていなかった盲点を静かに、あるいは乱暴に照らし出す。


 ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、意見の自由を擁護し、たとえ誤った意見であっても、公に語られることの意義を説いた。

 彼によれば、真理とは常に挑戦を受けることで磨かれ、対話と反論を経ることによって、より鮮明な輪郭を得ていく。

 彼が警戒したのは、正しさの沈黙による腐敗である。

 思考にとって本当に必要なのは、調和や賛同だけでなく、異なる声、鋭い反論、そして時には攻撃的な視点である――その姿勢は、現代においてもなお、有効な知恵として響く。


 また、古代中国の唐の太宗・李世民と、名臣・魏徴の関係も、その象徴的な例だ。

 魏徴は、皇帝である李世民に対しても、容赦なく政策の誤りを指摘し、進言を惜しまなかった。

 李世民は彼の存在を「鏡」と称し、魏徴の死後には「鏡を失った」と嘆いたという。

 絶対的な権力を持つ立場にありながらも、李世民は批判を歓迎し、それによって自己を正す術を学んでいた。

 真の賢者とは、耳に心地よい言葉ではなく、耳に痛い言葉にこそ耳を澄ます者なのだろう。


 この態度は、創作者にとっても決して無縁ではない。

 作品を世に送り出す以上、評価は千差万別である。

「面白くない」「キャラが薄い」「設定が雑すぎる」といった批判は、たとえ一行でも、深く突き刺さることがある。

 それでも、そうした批判に対して、ただ感情的に防御するのではなく、そこに“気づき”の種がないかどうか、冷静に見極める姿勢を持ちたい。


 創作とは、自己の内面を形にする営みであると同時に、他者の視点によって再構成されていく営みでもある。

 我々がどんなに自己完結した物語を紡いでいるつもりでも、それを読む他者の視点が加わることで、作品は初めて“開かれた世界”となる。

 そして、その視点は、好意的な読者からだけではなく、懐疑的な読者、時に敵意すら感じさせる読者からももたらされる。


 人間の限界とは、しばしば“自分では見えないもの”にある。

 だからこそ、他者の視線――特に、好意を前提としない視線――が、我々の盲点をあぶり出す。

 すべてのアンチコメントが正しいわけではない。中にはただの憂さ晴らしや、無責任な罵倒に過ぎないものもある。

 だが、それでもなお、そこに「違和感の痕跡」が感じられるとしたら――たとえそれが的外れであっても――創作者としては、その違和感がどこから生じたのかを探ってみる価値があるのではないかと思う。

 なぜならその“違和感”こそが、こちらの内側にある盲点、つまり自分では気づけなかったズレや未完成な部分のシグナルかもしれないからだ。


 逆に言えば、「批判的なコメントを一切許さない」という立場の人々は、もしかすると、自分の欠点を他者の視点によって補完してもらう、という発想そのものがないのかもしれない。

 創作という営みが、本来、不断の調整と更新を必要とするものであるにもかかわらず、彼らは時に、コメント欄を閉じ、あるいは批判的なコメントを削除することで、自分に対する異論や異質な意見の流入を防ごうとする。


 もちろん、それも一つの選択だ。

 誰もが他者の言葉を受け入れるだけの余裕や体力を、常に持ち合わせているわけではない。

 だからこそ、彼らが何らかの形で財力や権力を持たない庶民である限り、私はその態度そのものを否定するつもりはない。

 だが、そうした言論の遮断は、結果的に「自分の創作をさらに高めるための契機」を自ら手放してしまっているようにも見える。

 そして、それは創作を“孤立した自己満足の箱庭”に変えてしまいかねない。


 私の個人的な考えとしては、創作とは本来、自己の表現であると同時に、他者との接点でもあるべきものだ。

 だからこそ、私は基本的にコメントを閉じることもしないし、よほど悪質なものでもない限り、批判的な意見を削除することもない。

 具体的には、殺害予告や爆破予告などの犯罪関連、他人のプライバシーを不当に侵害するときだけだ。

 それが自分の創作を建設的に育てるための、大切な土壌だと信じているからだ。


 とはいえ、批判的なコメントを受け入れられない人々の精神性について、私はあくまで憶測で語っているにすぎない。

 彼らにも、それぞれの事情や背景、あるいは過去に傷ついた経験があるのかもしれない。

 批判を受け入れることが困難になるほどに、自尊心が削られてしまった経験を抱えているのかもしれないし、創作に対するスタンスが、そもそも私とはまったく異なるものなのかもしれない。


 だから、私が彼らを一方的に責めたいというわけではない。

ただ、創作者としてのスタンスの違いについて、こうして言葉にしておくことには意味があると考えている。

 私は、自分の未熟さや限界を、他者の視点によって照らし出されることを恐れない。むしろ、それを「もう一段、前に進むための足がかり」として受け取りたいと思っている。

 その選択が、創作の本質により近いものであると、今のところ私は信じている。


 私は、物語の中で人間を描こうとするとき、いつも「欠点」にこそ関心を向ける。

 人間とは、完全ではない存在だ。苦しみ、過ちを犯し、ときに逃げ、そして、少しずつ変化していく。

 その“少しの成長”は、決して独力で到達できるものではない。

 他者の視線、それも時に容赦のない否定的な声によって支えられている。


 李世民のように、批判の声を「鏡」として受け取り、ミルのように対話と異論を恐れない姿勢を持つとき、我々は創作においても、より深く、より確かな表現へと近づけるのではないだろうか。

 アンチコメントは、敵ではない。

 それは、もう一つの可能性の声であり、我々の創作世界をより遠くまで照らす光でもある。


♢  ♢


 本作に対して、読者の方の中には反感を覚えた人もいると思います。ですから、否定的な意見、反対意見を持つ皆さまは、遠慮くなくその意見を応援コメント欄や近況ノートの方に書いて、私にぶつけてください。

 そういったコメントを頂ければ、私も勉強なりますから。もちろん、応援メッセージや賛成意見も大歓迎です。

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