鬼面嚇人

速水涙子

鬼面嚇人

 山中に足を踏み入れば、その先には見渡す限り樹々の海が広がっている。もれ日に輝く緑のモザイクは目にも楽しい波紋のようで、風が吹くたび聞こえる葉ずれの音はさざ波のように心地よい。

 嗚呼、素晴らしき大自然。辺りには人の気配もなく、時折耳に届くのは鳥の歌声、ただそれだけ。非日常なこの世界に、その身をしばし漂わせていれば、誰もが心洗われることだろう。

 進むべき道を見失い、ここがどことも知れず、この深い森の中をひとりさまよい続けている――という状況でさえなければ。




 始まりは、相手が口にした何気ない呟きだった。

 おそらく、何かに感化されてのことだろうと思う。テレビ番組かネット動画か有名人のSNSか、あるいは雑誌か何かの記事か――今となっては、そう考えるに至った理由なんて、わかるはずもないのだけれども。

 とにかく、彼女は確かにこう言った。山登りがしてみたい、と。

 当時つき合っていたその彼女は、登山はおろかアウトドアとは一切無縁で、そんなことを言い出すような相手ではなかった。だから、そのときは冗談かと思って、適当に流したように思う。

 しかし、後になって、その言葉が妙に引っかかるようになる。山登り。残念ながら、アウトドアと縁がないのは俺も似たり寄ったりで、だから、山に登ってみよう、なんて思ってみたこともなかったのだけれど、あらためて考えてみると、心惹かれるものがあるような気がしたからだ。

 俺はそのうち、登山についていろいろと調べるようになった。初心者は何から始めればいいか。道具は何が必要か。服装は、注意事項は。そうして、近場で行きやすそうな山をいくつかピックアップし、そろえるべき物をリストにしたところで、俺は彼女に提案した。一緒に、登山に必要なものを買いにいかないか、と。

 そのときの彼女の答えは、何それ、だ。

 何それって――おまえが言い出したんだろう、なんて思いつつも、俺は彼女に登山のことをあれこれと話した。しかし、反応は芳しくない。彼女は自分が言ったことをすっかり忘れてしまったらしい。あまつさえ、きっかけの言葉を、他の女と勘違いしているのだろう、などと責められる始末。

 それだけが原因のすべてというわけではないけれども、それがきっかけで俺たちは別れた。そのこと自体は、もうすでに終わったことだ。何の未練もない。しかし――

 登山のことを調べている間、俺は山に行くことを少しだけ――いや、かなり楽しみにしていた。きっかけのことを思えば、依然としてそれに固執していることについては、自分でもどうかと思わないわけではないのだが――それでも、せっかく下調べをしたのだから、それを無下にするのも惜しくて、俺はひとりで山に登ることを決意する。

 必要な道具を買いそろえて、無理のない計画を立てた。当日の天気は良好。登山届けも提出し、完璧な装備を整えた上で、俺は意気揚々と山へと向かう。

 もしかしたら、これをきっかけに登山に目覚めたりなんかして、俺もそのうち、有名な登山家とかになったりするかもしれない。そうして、誰かにきっかけをたずねられるようなことがあれば、こう答えよう。あのときの、彼女の何気ない呟きに感謝します、と――

 そんな馬鹿なことを考えながらも、俺は純粋に登山を楽しんでいた。目の前に広がるのは未知の世界。見るものすべてが目新しく、ほんの小さな花のひとつや、見慣れぬ鳥の影を見つけるたびに、俺の心は高揚した。

 それなのに――



 運命の分かれ道は、おそらくあの分岐点だったのだろう――と思う。

 それまで順調に登山道を歩いていた俺の前に、一本の見慣れない木が立ち塞がった。葉の形からして針葉樹かと思うのだが、松でもなく杉でもなく、よく見ると、ところどころに赤い実をつけている――そんな木だ。

 植物にくわしくない俺には、それが何の木なのかはわからない。とにかく、その木を突き当たりに道は左右へと分かれていたので、俺はそのどちらへ進むべきなのかを迷ってしまった。

 正しい道はひとつだけ。しかし、そのどちらもそれらしいルートに見える。

 あらかじめ用意していた地図と方位磁石とを用いて、俺はどうにか正しいと思われる道を選んだ。そうして、再び歩き始めたのだが――どうやら、それがいけなかったらしい。

 俺が進んだ先は獣道となって、やがては下生えに消えてしまった。しかし、唖然としながらも、そのときにはまだ俺も冷静だったのだろう。すぐさま来た道を引き返し、赤い実の生る木まで戻ることができた。しかし――

 今度こそ合っているだろうと反対の道を歩いて行くと、次は切り立った崖に突き当たってしまう。どう見ても行き止まりでしかない岩肌を前にして、俺は呆然と立ち尽くした。

 どこで道を間違えたのだろう。あるいは、分かれ道にたどり着いたときには、すでに進路を誤っていたのでは。それとも、赤い実の木を目印にしたのがいけなかったのだろうか。珍しいと思ったのは俺だけで、本当はその辺りによく生えている木だとしたら……

 もうこの時点で俺は半ば恐慌をきたしていたのだろう。とにかく、見覚えのある場所を探して歩き回るのだけれど、どこもかしこも、見たことがあるような、ないような――そんな似たような景色ばかりで、俺はそのうち、戻っているのか進んでいるのか――そんなことすら、わからなくなってしまった。

 どうやら俺は、完全に迷ってしまったらしい。

 こういうときには、どう対処するのが正しいのだろう。やはり、その場にとどまって救助を求めるべきだろうか。しかし、今ならまだ、他の登山客を見つけることもできるかもしれない。そんなわずかな希望を抱いて、俺はひたすら道を歩いていた。そのとき――

 遥か前方に人の姿のようなものが見えた。

 助かった、と思うと同時に、あれは本当に人だろうか、という不安が頭をよぎる。なぜなら、その人は山道を歩くわけでもなく、何をするわけでもなく、ただ木の傍らに佇んでいたからだ。

 もしや、焦りのあまり何かの影を見間違えただけなのでは。そんな疑念に苛まれながらも、とにかくそれを確かめようと、俺は心持ち早足になって、その人がいる方へと歩いて行った。

 それが明らかに人の形をしているらしいことを確信したところで、俺はひとまずほっとする。やはり誰かいるのだろう。

 これでどうにか正しい道に戻ることができる。あるいは、あの人も俺と同じように道を見失って途方に暮れているのかもしれないが――それでも、ひとりでいるよりかはマシだろう。

 そんなことを考えながら、徐々に近づいていくその人に向かって、声をかけようとした――そのとき。俺はその姿に、ふと違和感を覚えた。

 傍らに生えている木と比べても、この人の背は、いくらなんでも高すぎやしないだろうか。

 そう思った途端、足取りが鈍くなる。目の前にいるのは本当に人なのだろうか。そんなことを考えてしまったからだ。

 世の中には自分より背の高い人くらい、いくらでもいる。何を怖がることがあるのだろう。とはいえ――

 そんな人がこんなところでひとり、いったい何をしているのだろう。どうして、こちらを振り向きもせず、じっとうつむいているのか。何か得体の知れない恐怖を感じて、俺はその人に話しかけることをためらってしまった。

 近づくにつれて、気がかりだった相手の背丈は、思っていたよりも遥かに高いらしいことがわかってくる。ここまで来ればもう、相手の方も、すでにこちらのことには気がついているだろう。立ち止まるべきか、引き返すべきか――

 とはいえ、たとえ引き返したところで、どうしようもないことも確かだ。下手をすれば、変な道にでも迷い込んで二度と戻って来られないかもしれない。

 とにかく、それを判断するのは、あの人に一度声をかけてみてからでも遅くはないのではないだろうか。仮にそれが人ではなく、本当に恐ろしい何かだったとして――そのときは、全力で逃げ出せばいい。

 山道をゆっくりと歩いていた俺は、自分の影が相手に届くかどうか、といったところで一旦立ち止まった。目の前に佇んでいるその影は、間違いなく人の姿をしている。しかし、やはり見上げるほどに背が高い。

 意を決して、俺が相手に声をかけようとする、その前に――その人はゆっくりと、こちらを振り向いた。



 気がつくと、俺は道なき道を走っていた。

 自分でも何が起こったのかはわからない。ただ、振り向いた相手と目が合った瞬間、言い知れぬ恐怖を抱いた俺は、その場から一目散に逃げ出していた。

 あれはたぶん、人じゃない。確かに人の形をしていたけれども。それくらい、恐ろしい顔をしていた。とはいえ――

 こんな風に逃げたとして、逃げ切れるものだろうか。もう、どこをどう走ったのかもわからない。元の道へ戻れる気もしない。

 どうしよう。どうすればいいのだろう。

 俺は泣きそうになりながらも、今はとにかく、この場から逃げ出すことに全力を尽くしていた。しかし、そんながむしゃらが、いつまでも続くはずもない。

 徐々に足取りは重くなり、体は思うように動かなくなる。そうしているうちにも、ふいに全身の力が抜けたかと思うと、俺はがくんと前のめりにつまずいた。

 どうにか踏ん張ったが、足元がふらついたせいで結局は立ち止まる。視界がノイズまみれになって、しばらくの間、何も見えなくなった。だらだらと流れる汗のせいか、かすかな風が吹くだけでもひどく寒い。

 ちりちりと指先がかすかに痺れていた。これはいったい何だろう。もしかして、あの化けものに何かされたのでは。しかし、たとえそうだとしても、俺はもう一歩も動けなかった。

 もしも、あれに追いつかれてしまったなら、俺はいったい、どうなってしまうのだろうか。

 ふいに、かさり、と音がした。風が吹いただけかもしれないし、森の生きものが立てた物音かもしれない。あるいは――

 俺は音の出どころを探そうと、息を殺し耳を澄ました。しかし、そうしてみると森は案外ざわざわとさわがしく、ささいな物音にすら体を強張らせてしまう。

 化けものが来るとしたら、右か左か。それとも、やはり後ろからだろうか。そう考えていると、木もれ日で眩しいくらいだった景色がふっと陰った。

 流れる雲に陽の光がさえぎられただけかもしれない。しかし、どうにも嫌な予感がして、俺は空を見上げることをためらった。

 辺りの明るさに比べると、俺の周囲だけが妙に暗くなっているようだ。そのことが、ひどく心細く思えてくる。

 見えないからこそ、背後から迫り来るだろう気配を強く感じていた。やはり、何かいるのだろうか。そのうち、この状況に耐えられなくなった俺は、覚悟を決めると、そろそろとり返るように頭上を仰いだ。

 ひび割れたお面のようなものが目の前にある――それが、背後に立つ何かが上からのぞき込もうとしているのだと気づいたとき、俺は一切の動きを停止した。

 そこにあるのは、項垂れて逆さ向きになった顔。落ち窪んだ眼窩は真っ黒に淀んではいるが、それでも、俺のことをじっと見つめていることはわかった。

 細く開いた口もまた暗く、中は虚ろな穴のようだ。かと思えば、その口内では無数の脚を持ったおぞましい姿の虫がぞろりと這い回っているのが見える。

 俺は頭を抱えて、思わずその場でしゃがみ込んでしまった。現状を受け入れられずに、現実から逃げ出すことを選んだからだ。

 そうでなくとも、体はおもりのように重い。きっと逃げられはしないだろう。もう、どうにでもなればいい。

 俺は静かにそのときを待った。化けものに食われるか、それとも、どこかに連れて行かれるのか――どうなるかは知らないが、とにかく、自分の身に何かが起こる、そのときを。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。俺はただ、新しい世界を知りたかっただけなのに。そのために、いろいろなことを調べもしたし、事前にきちんと準備もした。いったい、何がいけなかったのだろうか。

 こんなところに来なければよかった。ここは俺みたいな人間が足を踏み入れてはいけない領域だ。山に登りたい、と言われたあのときに、おまえには無理だよ、って笑い飛ばしていればよかったのか。登山のことを気にしてそわそわしていたあの日々も、未知への挑戦にわくわくしていたあの時間も、全部なかったことにして……

 俺はただ、自分の心のとおり、そうしたかっただけなのに。正しい道を外れなければ、こんな目には遭わなかったのだろうか。けれども、俺には正しい道を選ぶこともできなかった。始めから、すべては無謀にすぎなかったということだろう。情けなくて涙が出そうだ。

 どれくらい、そうして震えていただろうか。来ると思っていた終わりは、いつまで経っても来なかった。

 その代わり、ふいに聞こえたのは、こんな呼びかけの言葉だ。

「もしもーし」

 それは、あの化けものが出しているとは思えないような声だった。そんなかわいく話しかけてきたところで、だまされたりするものか。助かったと思って顔を上げたとして、あの恐ろしい顔に意地悪く嘲笑われるのがオチだろう。

 そう考えて、かたくなに全てを拒んでいたが、それでも続けて、大丈夫ですか、と声をかけられ、肩まで叩かれたものだから、俺は思わず顔を上げてしまった。

 視線の先にあったのは、登山服姿の若い女性の顔。あの恐ろしいものは、こんな姿にも化けられるのか――なんてことを思っていると、その顔は心底ほっとしたような表情を浮かべた。

「よかった。意識はありますね」

 目の前にいるのは、どうやらあの化けものではないらしい、と気づいたところで、俺は慌ててこうたずねた。

「ば、化けものは……」

「化けもの?」

 女性はきょとんとした顔で首をかしげている。

 俺は必死になって自分の身に起こったことを話した。見上げるほどに背が高く、恐ろしい顔をした、人に似た何かと出くわしてしまったことを。

 しかし、彼女はその話を怖がることもなく、明るく笑いながらこう返した。

「へえ。見越し入道みたいな感じでしょうか。でも、大丈夫ですよ。見越し入道なら、見越し入道見越した、って言えば、退散しちゃいますから」

 あまりに場違いな反応に、何を言っているんだろうこの子は、と思うと同時に、この子たぶん俺の言うこと信じてないな、とも思っていた。馬鹿にしているわけではないようだが。

 呆気にとられてしまった俺に向かって、彼女は気づかうようにこうたずねる。

「それで、体調はどうでしょう? 歩けそうですか?」

 言われてみれば、重く思えていた体も、いつの間にか多少は楽になった気がする。もう一歩も動けない、と覚悟を決めたのは何だったのだろうか。少し気恥ずかしく思いながらも、俺は彼女にこう答えた。

「必死になって走っていたら、急に動けなくなって。でも、だいぶよくなったみたいです」

 相手は安堵した様子でうなずいている。

「無理をしちゃうと、そんな風になってしまうことがあるんですよ。少し休めば落ち着きますから。飲み水はありますか? 何か食べるものは? 私、チョコレート持ってるんです。よかったら」

 そう言って彼女が差し出した小さな包みを、俺は素直に受け取った。ありがとうございます、と返したところで、にこやかだった相手の顔が、ふいにけげんな表情へと変わる。

 いぶかしく思っていると、地面の一点に目を止めた彼女が、不思議そうにこう呟いた。

「こんなところに、イチイの実が……」

 彼女の視線を追ってみると、そこには確かに、大きな葉の上に盛られた赤い木の実があった。まるで、お供えものか何かのように。こんなところに、こんなものがあっただろうか。

 そうでなくとも、周囲には赤い実の生った木は見当たらない。だとすれば、誰かがここに置いていった、ということになるのだろうけれども――そんなことを考えているうちにも、俺はふと、あることを思い出す。

「そういえば、分かれ道に赤い実の生った木がありましたね。あの辺りで、道に迷ってしまったみたいで……」

 そう言うと、彼女も同意するようにうなずいた。

「あの場所、わかりにくいですよね。左右に道があるように見えて。でも、正しいルートは木の向こう側なんです。伸びた枝葉のせいで、さえぎられてしまっていて」

 その言葉に、俺は思わず顔をしかめてしまった。思い返してみても、そんなところに道があった覚えがないからだ。しかし、嘘をつく理由もないだろうし、彼女がそう言うからには、そうなのだろう。

 釈然としないながらも、どうにかその事実を受け入れようとしていると、彼女は周囲を見回しつつ、こうたずねた。

「ところで、ここに来られたのは、おひとりですか? 道を外れたところから、誰かが手招いているように見えたので……気になって、ここまで来てみたんです。それで、あなたがうずくまっているのを見つけて。お友だちが助けを呼んでいたのかな、と思ったんですけど」

 俺はその言葉にぞっとした。あの化けものは、やはりここにいたのだろう。俺だけに見えた幻というわけではないらしい。

 すぐにここから逃げなければ。俺は慌てて立ち上がると、彼女も共に立ち去るよう促した。無理をしない方が、と心配されるが、幸いなことに、今はもう歩くだけなら支障はない。それよりも、俺は一刻も早くこの場から離れたかった。

 そうでなくとも、手招かれているからといって誘われてしまう辺り、俺のことを助けてくれたこの女性も、しっかりしているようで少し抜けている。ここは俺が守らなければ。

 そんな風に気負いつつも、俺は彼女に導かれながら、急ぎ山を下りて行った。木立の向こうに見える、人とも木ともわからない細長い影に怯えながら。


     *   *   *


「おい。近頃、この辺りで背の高い化けものが出るって話があるんだが。それ、おまえのことだろう」

 呼びかけに応じて、声がした方へと意識を向けると、そこには男がひとり立っていた。

 男の視線は、真っ直ぐに彼の目の前にある木へと向けられている。周囲には他に誰もいない。だとすれば、彼が話しかけている相手は、どうやらわたしで間違いないらしい。

 わたしはである一本の一位イチイの木の影から、にじみ出るようにして彼の前に姿を現した。

 わたしの顔を目にした男は、驚くことも怯えることもなく、むしろ、呆れたような表情を浮かべている。そのうち、わたしがいつまでも言葉を発しないことを奇妙に思ったのか、彼はこう話し始めた。

「何だ? 話しかけられたことに驚いたのか? 今まで誰にも見つかっていなかったようだからな。どうも、悪さをしているわけではないようだが……世間では、妙な噂になっているぞ、おまえ」

 わたしが無言で見返していると、しばらくしてから、男はいぶかしげに顔をしかめた。

「もしかして、話せない口か」

 肯定の意を示すため、ゆっくりと首を縦に振ると、男は呆れたように肩をすくめる。

「まあ、いい。とにかく、登山者を助けようってんなら、もうちょっとやり方を考えてくれ。物好きどもが、おまえのことを探してるんだとよ。山になじみのないやつらが押し寄せた上に、遭難者が出る、何てこと、おまえも望んじゃいないだろう」

 わたしは再び首を縦に振った。男はため息をつきながらも、こう続ける。

「よし。わかったなら、それでいい。俺の名は片桐かたぎり。おまえみたいなのを世話するのが仕事だ。くれぐれも気をつけてくれよ。俺だって、おまえを伐りたくはないんだからな」

 男はそう言うと、あっさりと踵を返してしまった。どうやら彼は、わたしに忠告するためだけに、ここまで来たらしい。

 木々を分け入り進んで行く男の後ろ姿には、危なげなところはどこにもない。わたしは彼のことを見送ると、しばし浅い眠りについた。




 男が二人、山道を歩いている。

 少しずつこちらに近づいているようだが、姿はまだ見えていなかった。今はただ、辺りに話し声だけが響いている。

「急に山登りをしようだなんて、何かと思えば、山中に出没する奇妙な男の噂、ですか。また変なことに首を突っ込んで……それにつき合ってる俺も大概ですけど」

 呆れたような物言いに対して、もうひとりの男はあっさりとこう答えた。

「現れるのは、背が高くて怖い顔をした男の人らしいよ。それで、見上げれば見上げるほど大きくなる見越し入道が出たって話になっていてね。ぜひ見てみたいと思って」

 男の声はどこか楽しげで、そのせいか相手の方は大きくため息をついている。

「見てみたいって……簡単に言いますけどね。それ、ただの不審者だったらどうするんです。今の時代に、妖怪が出た、とかさわいでいるなんて、だいぶ時代錯誤ですよ」

 ぼやくようなその言葉を、もうひとりは快活に笑い飛ばした。

「何ごとも、始めから否定してかかるのはよくないよ。すべての可能性を考えた上で、それでもわからないことがあれば、それが本当の不思議――真怪しんかいだ。僕はそれを探し求めている。そのためには、この目で見極めないといけない」

「はいはい。社長の大好きな井上いのうえ円了えんりょう先生でしょ。もう何度も聞きましたって」

 山道の砂利を踏む足音と共に、彼らの気配は徐々に近づいて来る。

「本当の不思議じゃない、とわかるなら、それはそれでいいんだよ。そうだなあ……ヒダルがみって知ってるかい? 山道を歩いていると、飢餓感におそわれて動けなくなることがある。それは行き倒れて死んでしまった霊の仕業だとかで、そう呼ばれていたんだけど……今だと、激しい運動による低血糖症状――いわゆるハンガーノックのことだろうと言われていてね。ヒダル神に憑かれたときには、何かを食べればいい、という対処法も、糖分補給と考えれば理にかなって――」

 話に夢中になっている男と違って、もうひとりの方は、いち早くわたしのことに気づいたらしい。歩く足元に注意しながらも、彼は一位の木の根元に腰かけたわたしの姿に、ちらりと目を向けている。

 そのうち、もうひとりの方もその視線を追って、わたしの姿に目を止めた。

「こんにちは」

 その言葉には無言でうなずいて、わたしは目の前を通り過ぎようとするふたりに、赤い木の実を差し出した。ひと目見て、男はそれが何であるかを言い当てる。

「これは……イチイの実ですね。いただいてもいいんですか? ありがとうございます」

 わたしは首を縦に振った。男は早々に手を伸ばしたが、もうひとりはわたしのことを気にしながらも、疑わしげな表情で、こっそりとこう呟いている。

「……それ、食べられるんですよね」

「大丈夫だよ。ただし、種には毒があるから、飲み込まないように」

「相変わらず、何でも知ってますね。社長は」

 そう言いながら、男はようやく赤い実を口にした。

「真怪かどうかを見極めるためには、知識は必要だからね。そうでなくとも、知識があって困ることはない。逆に、ちゃんとした知識がないなら、似たような木の実でも、自分で判断して食べちゃダメだよ。毒があるかもしれないからね。例えば……ドクウツギとか」

 何がおかしいのか、そう言って声を上げ笑う男に対して、もうひとりは、なぜかうろんな目を向けている。

 さて、と言って、男が辺りを見回し始めたので、わたしは彼らが行くべき道を指で差し示した。それを見て、男は納得したようにうなずく。

「ああ。こちらですね。どうも、ご親切に……」

 もうひとりも一緒に頭を下げると、ふたりはまた山道を歩き始める。しばらくして、話し声がわずかに届くかどうか、といったところまで遠ざかると、男のひとりがこう言った。

「あの人……屈んでるから、よくわかんなかったですけど、妙に背が高くなかったですか? 下手すりゃ二メートルくらいありますよ」

「地元の人かな? 見回ってくれてるのかもね。僕は慣れているから大丈夫だけど、あの分かれ道、ちょっとわかりにくかったし」

 鳥の鳴き交う声の合間にも、彼らの会話は続いている。

「社長って登山の趣味なんてありました? それとも、やっぱり、例のツチノコ探しの集まりですか?」

「そうそう。この前にも会合があってね。これには、専門の学者さんだって参加してるんだよ」

「専門ってツチノコの? それ、本当にちゃんとした学者先生なんでしょうね……」

 一陣の風が吹き、ざわめく葉ずれの音が辺りに響いたかと思えば、それが収まる頃には、声はもう聞こえなくなっている。しばしの間、山をさわがせていた彼らの気配も、やがては木立の向こうに消えて行った。

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鬼面嚇人 速水涙子 @hayami_ruiko

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