エピローグ
俺は、十一月の高い空の下、週末の住宅街を歩いていた。
希の婚約指輪を買うために家を出たところだった。すいているであろう開店直後に着く予定だ。
両隣には愛理と希がいる。昨夜から希が泊まりに来ていて、三人で出発したのだ。体面を気にして手を繋いだり腕を絡めたりはしてこないが、指先のみならず肩までもがしばしば触れる近さではある。二人とも。
だから、すれ違う人々は、おや、という目をする。両手に花とは珍しい、といった好奇の目だ。
「そういえばさ」
右側の尻のデカい女、希が、ふと思い出したように言った。「ゆうくん、前、俺は尻派だ、言うてたやん?」
「え゛っ」俺はどきりとした。
「やけど、愛理ちゃんには違うこと言うたらしいやん」
左側の胸のデカい女、愛理も参加する。「わたしには胸派だとおっしゃいましたよね」
「い、言ったかな?」俺は政治家になったつもりでとぼけた。「記憶にないなぁ」
「またまたぁ」希が悪戯っぽく言い、
「裕也さんなら覚えているでしょう?」愛理が引き継いだ。
「ま、まぁ、薄ぼんやりとなら」俺はしぶしぶ認めた。
愛理と希は、ふふっと笑うと、
「本当はどちらがお好きなんですか?」「ほんまはどっちがええんや?」
と声を揃えた。
何だこの理不尽な二者択一は。どっちを選らんでも角が立つじゃないか。
俺は、
「どっちも好きだよ」「愛理と希なら全身好きだよ。嫌いなとこなんてない」「まぁぶっちゃけ、胸とか尻はおまけっていうか、穴さえあれば事足りる、みたいな?」
などと言い張り、のらりくらりとかわしてやり過ごした。
そして、愛理の婚約指輪を買ったジュエリーショップに到着した。
ガラスの自動ドアをくぐる。狙いどおり、客はいないようだった。
スカートスーツの女性店員がにこやかに応対してくる。
目的を伝えると、店員は笑みを深め、
「サイズはご存じでしょうか?」
「わかるけど、一応測ってほしい」希が答えた。
「かしこまりました。それではこちらへどうぞ」
女性店員の案内に従って進みはじめると、背後から自動ドアの開く音が聞こえた。新たな客が入店してきたらしい。
何とはなしに振り向いて──俺は息を呑んだ。
目出し帽で顔を覆った、三人の、おそらくは男が、黒光りする拳銃──サイレンサーらしきものが装着されている──を持って踏み込んできていたのだ。
「手を上げろ!」そのうちの一人──中肉中背の男が、銃口をこちらに向けて語勢鋭く言った。耳にざらつくしわがれ声だった。
「不審な動きをしたら撃つぞ! 死にたくなかったらおとなしくしてろ!」別の小柄な男が、同じく銃を構えながら甲高い声で念を押す。
俺たちは、言われたとおり手を上げて立ちすくむ。
と、バールのようなものを振り上げてショーケースを割ろうとしていた最後の一人──大柄な男が、
「おいっ!!」喚いた。「手を下げるなっ!!」
ショーケースの向こうのスーツの男性店員が、下ろしかけていた右手を上げた。ショーケースの下のほうに非常ボタンがあるのかもしれない。しかし、阻まれてしまった。男性店員は苦々しい顔をしている。
「てめぇっ!!」甲高い声の小男が、怒髪天を衝かんばかりに激昂する。「舐めてんのかぁっ!?」
「一人殺しておくか」
中肉中背の男が、いやに冷めた声で低く言い、一瞬、視線をさ迷わせ──希に目を留めた。ためらう様子もなく銃口を彼女に向ける。
「待ってくれっ」
俺はたまらず希の前に出て射線を遮った。「何もしないから撃たな──」
いでくれっ。
そう言おうとした俺の前に希が飛び出した──次の瞬間、
──パスッ。
軽い音が、聞こえた。
希の背中が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「お、おいっ、嘘だろ?」
俺は膝を突き、首から血を流す希に触れる。瞳は小刻みに揺れるが、体は動かせず、呼吸すらできないようだった。頸椎の神経をやられたのかもしれない。早く救急車を呼ばないと。
横で、ぺたん、というような音がした。見れば、愛理がへたり込んでいた。瞠目して絶句している。
希に視線を戻すと、目に涙を浮かべていた。
ふつふつと怒り──強盗への明確な殺意が湧いてくる。
──パスッ。
再び銃声。一拍遅れて胸に熱を感じた。目をやれば、ジャケットに穴が空いていた。痛み。俺まで撃たれたらしい。ゴホッと血を吐いた。
「な、なぜ……」
俺は、胸を押さえながら声を絞り出した。殺すのは一人ではなかったのか。
「反抗の気色を感じたからだ」しわがれ声があっさりと答えた。
はぁ? ふざけんなよ。思っただけでアウトなのかよ。
文句の一つでも言ってやりたいところだが、力が出ない。希の上に折り重なるように倒れ込んだ。
意識が朦朧とし、薄れていく。
ああ、もう死ぬんだな。
そう悟った俺の目に、今際の際の幻だろうか、おかしなものが映り込んだ。
入り口のガラスのドアの向こうに、見覚えのある茶トラ猫がいて、非常に人間くさい引きつった顔でこちらを注視していたのだ。
その猫の瞳が、虹色に輝いた。
それが俺の見た最期の──
「そういえばさ」
右側の尻のデカい女、希が、ふと思い出したように言った。「ゆうくん、前、俺は尻派だ、言うてたやん?」
「え゛っ」俺はどきりとした。
その時、
──にゃあ。
どこかで猫が鳴いた。
(了)
アン×アンハッピーマリッジ 虫野律(むしのりつ) @picosukemaru
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