⑳
その日の僕、神埜巡はどうかしていた。
僕らの種族──
神の血を引いていて個体ごとに特殊な固有能力を使えるとはいえ、所詮は猫なので、地面よりも高くて周囲を警戒しやすい所にいたいという本能が悪さをしたのかもしれない。
ひょいっと欄干に飛び乗り、慎重になるでもなく足を進める。眼下には水深のありそうな川が、夏の陽光をきらきらと反射している。
落ちたら、不可避の死。
僕らは皆、泳げない。そのうえ、体の大部分が水に浸かると能力を発動できなくなる。だから、もっと危機感を持って慎重に歩くか、本能に抗って橋に下りるべきだったのだ。
事件は、欄干の中程まで来たところで起きた。
──ひらひらっ。
僕の目の前をアゲハチョウが通り過ぎた。
黒と黄色の翅に僕の心は一瞬で奪われた。川に落ちたら死ぬということは頭から抜け落ち、ひらひらと動く翅を捕まえたいという衝動が体を突き動かした。
「にゃっ!」
僕は川の上を飛ぶアゲハチョウに向かって身を躍らせた。
空中で繰り出した猫パンチが惜しくも空を切った時、ようやく、自身が絶体絶命の状況にいることに気づいた。
や、やっばぁっ!!
僕は急いで自慢の特S級能力──長老も絶賛していた──を発動させようとした。
けれど、慌てているせいで上手くいかない。強力ゆえに非常に扱いの難しい能力なのだ。
──どぼんっ。
川のど真ん中に落ちた僕は、力が抜け、体が動かない。
死を覚悟した。
けれど、そうはならなかった。人間の雌が助けてくれたのだ。痩せっぽちだが、かわいらしい顔をした女の子だった。
女の子は僕を連れて陸に上がると、脱いで置いておいたらしきTシャツ──近所の小学校の名札が付いていて、『二年一組』とあった──と半ズボンを穿いた。くたびれたスニーカーを履き、潰れて型崩れした赤いランドセルを拾って背負うと、
「猫は飛べないんやから、もうアイキャンフライしたらあかんで」
と言い置いて去っていく。
その小さな背中を僕は目に焼きつけた。
神猫族には、〈人間に助けられたらその恩を利子を付けて返さなければならない〉という鉄の掟がある。
その女の子──十六夜希は、不慮の事故(自業自得)から僕の命を救った。
であれば、僕も彼女の命を救わなければならない。具体的には、彼女が事故で死なないようにする。これが元本。
利子としては、前例に倣って事件による死も排除する。これなら、保守的な長老も納得するだろう。
乱数次第でどうとでも転ぶ以上、常に見守っていなければならず、加えて直接的に人間と深く関わることも推奨されないため、地味に難しいミッションと言える。先輩猫たちも苦労したと聞いている。達成できずに処刑された者も少なくない。
しかしこの時の僕は、ゆーて余裕でしょ、と高をくくっていた。
なぜなら、僕には、お誂え向きの固有能力──〈最優〉と許される時間巻き戻し能力があるからだ。
しかし、世界には呪われた運命を持つ者が確かに存在するのだ。
十六夜希がその残酷な真理に囚われた少女であり、固有能力ガチャでSSRを引いて調子に乗っていた僕の傲りが見事にへし折られることになろうとは、この時の僕は夢にも思わないのだった。
とはいえ、ストーカーよろしく十六夜希を観察しはじめてしばらくは、彼女はちょくちょくトラウマを負いつつも死ぬことはなかった。平穏ではないが平和ではあった。
ターニングポイントは、十六夜希が高校を卒業して三年目の春に訪れた。殺されてしまったのだ。早生まれの彼女は、まだ二十歳だった。犯人は交際していた一般男性のようだった。
僕は早速、十六夜希が犯人の男性と出会う前──三箇月前まで時間を巻き戻した。何回か再走すれば回避ルートを引き当てられるっしょ、と軽く考えていた。何なら、やっと僕の本領を発揮できる、と浮かれてさえいた。
雲行きが怪しくなってきたのは、リセマラが十回を越えたころだった。
「みゃあ……(またか……)」
僕の前には十六夜希の刺殺死体が転がっていた。電柱の街路灯に照らされ、真っ赤な血溜まりが夜の小路に水際立っている。
たとえ別の男性と交際しようと十六夜希は殺された。
類は友を呼ぶというのか、精神的に問題のある男性とばかり交際し、にもかかわらず浮気症の十六夜希はその衝動を抑えられないからだった。浮気に激昂して愛が反転したメンヘラ彼氏に殺されるのだ。
それなら、と僕は、巻き戻し能力に附随するもう一つの能力を使うことにした。
その能力とは、対象者の記憶の持ち越し。
巻き戻し前までの記憶を保持させることもできるのだ。つまり、対象者目線では未来の記憶を持って過去に逆行したように思える。
その状態から更に記憶の持ち越しを重ねること(二周目以降の記憶を持ち越させること)も、最初に記憶を持ち越させた世界線の記憶だけを保持させて巻き戻しを繰り返すことも可能。
なお、持ち越した記憶を消去したいなら、保持させた巻き戻しで戻った時点(A時点)より前(B時点)まで、記憶保持設定をすべてオフにして巻き戻せばいい。そうすればその戻った時点(B時点)の記憶は一周目の状態になる。
記憶保持設定をオンにすれば、十六夜希からしたら未来の不幸を知っているわけだから回避しようとするはず──つまり、メンヘラ男との交際は控えるだろう。僕は他殺イベントの回避を確信していた。
しかし、僕は再び十六夜希の死体と対面することとなった。
「にゃぁあっ?!(何でそうなるのっ?!)」
何回巻き戻しても、十六夜希は、巻き戻し後一週間以内に、彼女の住むマンションのベランダから飛び下りるのだ。つまりは自殺。
僕ら神猫族には
それに変身した僕は報道をチェックした。電気屋のテレビで見たニュース番組で、十六夜希の日記が取り上げられていた。
『わたしの人生には苦しみしかない』
『もう生きたくない』
『早く消えたい』
『せっかく救われたのに』
『何で生きてるの?』
『またつらいだけの毎日を過ごさなきゃいけないの?』
『がんばってもどうせ殺される』
『幸せにはなれない』
『もうやだ』
『楽になりたい』
『ごめんなさい』
『ありがとう』
『さよなら』
その日記には、そういった後ろ向きな言葉が並んでいたらしい。どうやら、未来の記憶が災いし、自分の人生に絶望して自殺を選んでしまうようだった。
どうしようか、と考える。
原因が十六夜希のメンタルにもある以上、そこをケアしないと、結局は、記憶なしなら浮気他殺エンドに、記憶ありなら絶望自殺エンドに収束するだろう。
であれば、超長期回避戦略に移行する。
僕は、記憶保持設定を切り、僕が十六夜希に助けられた直後まで時間を巻き戻した。
なぜその時点か。
それは巻き戻しの上限がそこだからだ。水に浸かっている間は能力が発動しない。ということは、溺れている時点まで巻き戻したら能力が強制キャンセルされる。だから、事実上そこが上限となるのだ。
そして、なぜ上限まで戻したか。なぜ記憶なしなのか。
それは十六夜希の人格形成にできるだけ深く介入するため。巻き戻しリセマラで彼女の人格に悪影響のあるイベントを徹底的に排除し、精神の不健全さを極限まで下げる。そうすれば、不安感から浮気に走ったり将来を悲観して安易に自殺したりしない。はず。
「ぅにゃあ……(やっぱり駄目か……)」
しかし僕は、十六夜希の死体と再会していた。住宅街にある小さな公園だった。漆黒の空に浮かんだ月が
やはり彼女は、上限時点でも矯正には遅いのか、はたまは先天的な欠陥なのか、セックス依存症になり、節操なく男と交わり、そして二十歳の春に殺される。
今回は鈍器──トンカチによる撲殺だった。頭蓋はひしゃげ、
「……にゃんにゃんみゃあー(……そして時は巻き戻る)」
僕は、何となくカッコいい台詞をつぶやいて能力を発動した。
次の作戦は強くてニューゲームだ。
殺害される記憶があると人生に絶望して自殺するというなら、殺害される前までの記憶であれば持ち越しても未来を知っているというアドバンテージになるだけで足を引っ張るようなことにはならないはずだ。そうすれば自ずからベターなルートを選択していき、メンタルにしろ人間関係にしろマシなものになるに違いない。
──が……駄目っ……!
十六夜希は、二十年分の記憶を持って上限地点──小学二年生の自分に降り立っても、絶望自殺ルートに入ってしまうようだった。夜の校舎からの飛び降り自殺だ。
淡い月光が辺りに満ちている。
細い首があらぬ方向に折れ、裂けた皮膚から
──みゃあお、にゃおにゃおにゃー、にゃんにゃん。
世界にはごく稀にけっして救われぬ運命を背負って生まれてくる者がいる、と長老は信じているようだった。
もはや見慣れしまった、十六夜希の死体を見つめていると、さもありなんと認めたくもなる。
けれど、恩返し縛りは絶体。
僕はその呪われた運命を打ち破らなければならない運命を背負っている(胡蝶の悪夢)。
「みゃおみゃー……(でも、どうすればいいんだ……)」
困り果てた僕は、甘いものが欲しくなった。
僕は長老の下へ行き、彼に頼んで、コンビニでシュークリームとチューブのメイプルシロップ、紙パックのイチゴオレを買ってもらった。この時点では僕はまだ四歳のため、現人神モードになっても、今のように夜だと不審がられて売ってもらえないことが多い。一方の長老は普通に爺なので、傍から見ると祖父と孫に見えたことだろう。
現人神モードのまま、長老と別れて自殺現場に戻った。十六夜希だったものの上に腰を下ろすと、シュークリームにメイプルシロップをたっぷり掛けてかぶりついた。
甘味はいい。砂糖が脳に染み渡ると、得も言われぬ幸福感が溢れてきて、運命だとかクソゲーだとか無限ループだとか、そんなくだらないことは忘れられる。
シュークリームを平らげ、チューブ直飲みでメイプルシロップを残さず胃に流し込み、イチゴオレを飲み切って口をさっぱりさせた僕は、メンタルを持ち直した。人間に倣ってゴミを
──とりま、時を巻き戻す。
リセマラ前提でいろいろ試すことにした。今まで選らばらかったルートに完走への糸口があるかもしれない。
そうして再走回数が六桁を越えたころ、兆しらしきものがあった。
十六夜希が十九歳の春、たまたま強姦されそうになったところを、通りすがりの男子高校生に助けられた。十六夜希とその高校生は連絡先を交換し、逢瀬を重ねて仲良くなった。
すると、信じられないことに、崩壊寸前のジェンガのように不安定だった十六夜希のメンタルが安定しはじめたではないか。
といってもあくまでも本人比であってその他大勢に比べればまだまだ不安定、メンヘラ偏差値で言うと七十五から六十八に落とせたという程度で、エリートメンヘラであることに変わりはない。
けれど僕は、十六夜希がその高校生だけに見せる柔らかな笑みに、
僕は、その高校生、相良裕也──のちの織笠裕也。以下、ややこしいので旧姓で統一する──に大いに期待した。彼なら十六夜希のヒーロー兼メンターとして上手く機能し、ハッピーエンドに導いてくれるに違いない、と。
やっとこの無限リセマラ地獄から解放される!
僕は無邪気に喜んで、前祝いとしてコンビニスイーツで豪遊した。
しかし、クソゲーはやはりクソゲーなり、十六夜希と相良裕也の関係は三箇月も持たずにギクシャクしていった。十六夜希のメンヘラっぷりに疲弊した相良裕也が、それとなく彼女を避けるようになったようなのだ。最初のころのような優しさはなく、真にそっけない対応。
別れはすぐに訪れた。
どっぷりと依存していた相良裕也にヤリ捨てされた十六夜希は、以前のような──否、以前以上の不安定さを獲得した。
スーパーエリートメンヘラ爆誕の瞬間である。
メンヘラ偏差値は青天井にぶち上がり、そしてベランダから飛び下りた。
巻き戻しを駆使して調べたところによると、そういうことらしかった。
僕は、戯れにドブネズミを捕まえたところだった。逢魔が時の、十六夜希のマンションの敷地の隅だ。後ろ足を噛みちぎられたドブネズミは、哀れを誘うように弱々しく、「ちゅうちゅう」と鳴いてもがいている。ので、前足を踏み潰して折った。
「ちゅうっ、ちゅっ、ちゅうっ」
苦しげに騒ぐドブネズミを
相良裕也はヒーロー不適格者だったのか。
でも、ほかに正解ルートがあるようには思えない。長い長いリセマラ地獄の中で、たとえ一時であっても、あれほど幸せそうな十六夜希を見たのは初めてのことだった。相良裕也のいないルートでは、常に暗い翳がまつわりついていた。
やはり十六夜希のトゥルーエンドには相良裕也が必要不可欠。これはまず間違いない。
しかし、限界メンヘラに耐え切る鬼つよメンタルか、上手くなだめすかすコマシスキルがないことには、相良裕也は十六夜希を(ヤった後に)リリースしてしまうだろう。
どうしたものか。
「ちゅぅ……」
玩具が静かになった。壊れてしまったようだ。
僕は現人神モードになり、近所のスーパーに赴いた。白砂糖の大袋を買って、近くの公園でむしゃぶりつく。大袋を傾けてすべて摂取しおえると、仕上げに、飲み物代わりのチューブのピーナッツクリームを一気に飲み干した。
──その時、砂糖まみれの神埜の脳に電流走る!
という
高校生の相良裕也の精神と対メンヘラ女スキルが未熟で上手くいかないというのなら、相良裕也が大人になるのを待って記憶持ち越しで巻き戻せば、見た目は高校生、メンタルは大人のチートキャラとなり、十六夜希を受忍できるのではないか。
いける気がする。
僕は早速、相良裕也が十六夜希と出会う前まで巻き戻した。ここから、二人の道が交わらないように気をつけつつ、彼が三十歳になるまで待つのだ。
そして、十四年の月日が流れた。
僕は、相良裕也の記憶保持設定をオンにして時を巻き戻した。今度こそ、と期待して。
「みゃあ……(困ったな……)」
十六夜希は、しかしいつものように浮気に逆上したメンヘラ彼氏に夜道で殺された。包丁で滅多刺しにされて血溜まりに沈んでいる。
突然、復活系能力に覚醒してくれないだろうか、と思って、穴の空いた十六夜希の頬っぺたを肉球でふにふにするが、目を覚ます気配はない。目はカッと開いているが。
なぜこうなるか。記憶あり相良裕也だと、十六夜希が相良裕也ルート──彼目線だと十六夜希ルート──に入ってくれないのだ。
どれほど粘り強くリセマラしても、相良裕也は十六夜希と出会わない。十六夜希が殺害される日時を知っているにもかかわらず彼女を助けようともしない。
どうしろと?
僕は血溜まりのそばで頭を抱えた。何回リセマラしたかわからない。
一般通過野良猫に、
「にゃあ?(どしたん?) 話聞こか?(にゃにゃあ?)」
と心配されたりしつつ、ひとしきり悩んで、僕は危ない橋を渡る覚悟を決めた。
人間と直接的に深く関わることは推奨されない。
ヒトカスが、僕らのような便利能力を使える存在を認知すると、捕獲して利用しようとするか、恐れて駆除しようとするかのどちらかになる可能性が高い。先人たちはそれでえらい目に遭わされたらしい。
その失敗からできたのが、この原則だ。
しかし、恩返し縛りなどの上位の掟のためにやむを得ない範囲で関係を築くことは認められている。
ただし、この場合でも固有能力を使えることと神猫族であることを知られてはならない。ミスったら、その人間が具体的な行動を起こさなくても一族全体を危険にさらしたという罪で極刑である。
僕の場合は仮にミスっても巻き戻しで知られていない時点まで戻せるが、杓子定規的な法運用に定評のある長老が言うことには、それでもアウトだという。つまり、知られた時点で極刑が確定する。しかも、やむを得ない範囲を逸脱して関わったと認定されても極刑である。
例えば僕が有形力を行使して殺人犯を撃退した場合、
「君には巻き戻し能力があるのに何でダイレクトアタックしちゃってんにょお? それホントに必要だったにょお? 代替手段がなかったことを、にゃんにゃん裁判所で証明できるぅ?──え? できにょい? じゃ、八つ裂きか火炙り、選んでね♡ どうしてもっていうなら
と言われてバッドエンドになりかねない。
なお、この不干渉原則には絶対的な例外が一つあり、それは甘味を入手するためであれば許されるというものだ。神猫族は皆、生まれた瞬間から末期の砂糖中毒なので、これを禁止しようとする者はいない。砂糖は命より重いのだ。
閑話休題。
残虐刑は御免被るので僕自身が直接、十六夜希を助けるつもりはなかったが、もう限界だった。七桁にはいきたくない。
だから、ここからは僕のターンだ!
十六夜希が殺害される直前まで巻き戻す。
そして、現人神モードで物陰から飛び出して殺人犯を撃退し、颯爽と立ち去った。
その結果、十六夜希はその夜のうちに自殺した。
「みゃおみゃー、にゃああん???(だからさぁ、なぁんですぐ自殺するのぉ???)」
全自動自殺アイドルなの? 死ぬ機械なの?
僕は十六夜希の死体を前にして当惑を極めたし、その後の報道でも原因は精神の不調としか伝えられず、かといって巻き戻して調べても真相はわからず、ホワイダニットの詳細はわからず仕舞いだった。
あまりのストレスに、つい、業務用はちみつ(二・五キロ)を衝動買いしてしまった。
公園で一気飲みする。
と、少し落ち着いた。頭を働かせる。
僕がメンヘラ彼氏を撃退することがキーになったのだろうか?
しかしなぜ?
考えてもまったくわからない。
次はどうすればいい。
僕自身が相良裕也のポジション、つまりは十六夜希の彼氏となって自殺しないようにケアすれば流石に大丈夫か?
ただ、恋人ほど親密な関係になったら処されないだろうか、という不安がある。
違法性の判断はにゃんにゃん裁判所だけが行える。長老などの権力のある猫たちが裁判官となり、合議制で判決が下されるのだ。だから、個人的に裁判官の猫たちに確認して回って、「それくらい別にいいよ」とお墨付きを貰ったとしても、公判で、「ごっめーん、みんなで話し合ったら気が変わっちゃった☆ 死んで?」と覆される
巻き戻し能力があれば証拠隠滅は簡単なのではないか?──その答えはノーだ。
神猫族の警察組織には、観測系能力者や能力無効化能力者、時空間転移能力者もいる。彼らに目を付けられたら、いかな最優の巻き戻し能力持ちといえども逃げ切れない。
僕は身震いした。〈僕自身が彼氏になることだ〉ルートはリスクが高すぎる。
これは最終手段にしよう。
再び計画を練り、そして僕は、相良裕也が小学一年生のころまで時を巻き戻した。
次の計画はこうだ。
まず現人神モードになり、偶然を装って相良裕也(ショタ)に接触する。友達になって信用を得つつ、十六夜希をスルーして彼が三十歳になるのを待つ。
その時が来たら、相良裕也の記憶を保持して、彼が高校一年生の時点まで巻き戻す。
そうすると、大人メンタルの相良裕也を、信頼の置ける友人の立場から十六夜希との出会いに誘導できる。
結果、メンタル大人相良裕也と十六夜希が結ばれてハッピーエンド!!
完璧だ、完璧な計画だ!!
僕は内心で自画自賛しつつ、高架下でサッカーボールを蹴っている相良裕也に歩み寄る。
家も戸籍もない僕だけれど、何とか相良裕也の信頼を勝ち取って、行動に影響を及ぼせるくらい仲良くなった。小学校低学年の時に出会ったのが功を奏した──幼いころの警戒心の弱い相良裕也だったからこそ、自然と関係を構築できたのだろう。幼少期に出会った不思議な少年ポジといったところ。しかし見方を変えれば、ある種のチャイルドグルーミングだが、背に腹は代えられぬ。許せ、少年……これで最後だ。
時は流れ、相良裕也が三十歳の誕生日を迎えると同時に巻き戻し能力を発動した。
──さぁ、終わりを始めようか。
などと格好をつけた僕だったが、またしても十六夜希の飛び下り死体と対面することとなった。
「にゃんにゃあ?(にゃんでぇ?)」
思わず天を仰いでお月様に問いかけるも、答えはない。
上手くいっていたはずだ。
高校一年生の相良裕也と十九歳の十六夜希は、演出された出会いとも知らずに付き合いはじめ、楽しそうに漫才したりいちゃついたりしていた。幼馴染みポジの僕にも恋人だと紹介してきたから、相良裕也も本気だったはずだ。
それなら、なぜ自殺した?
僕は原因を探ろうと少しだけ時を巻き戻した。
夜八時過ぎ、僕はアポなしで十六夜希のマンションを訪ねた。エントランスのインターフォンに出た彼女の声は、突然の来訪を訝しんでいた。
「急にごめんね。裕也のことで大事な話があるから部屋に上げてくれないかな」
逡巡するような間があったが、
『……わかったけど、襲わんといてな』
「あっはは、友達の彼女にそんなことするわけないじゃん」
『そうやね、変なこと言うてごめんな』
十六夜希はエントランスのロックを解除してくれた。
十階の十六夜希の部屋に入り、リビングに通されるなり僕は、彼女に襲いかかった。両手で首を掴み、
「!?!?!?」
驚愕に目を見開く十六夜希を力任せに押し倒す。その勢いのままにフローリングに後頭部を思い切り打ちつけると、ごんっと重い音が立った。
十六夜希の体がぐったりして無抵抗になった。
しかし僕は、油断せずにマウントポジションになると、力を込めて十六夜希をくびり殺した。
「……ふぅ」
一仕事終えた僕は、息をつくと、冷蔵庫を開けてペットボトルのミルクティーを頂いた。冷えていておいしい。
次いでリビングを漁り、目的のブツ──日記帳を見つけた。これに自殺の理由が綴られているかもしれない。それを見るための訪問であり、殺害だった。
日記帳を開く。
『ゆうくんが「希のことを昔馴染みの友達に紹介したい」って言ってくれた』
『うれしくてにやにやが止まらなかった』
『けど、その友達の画像を見せてもらって、わたしは苦しくなった』
『実際に会って、苦しみはより強くなった』
『神埜巡は美しすぎる』
『芸能人レベルなんて生ぬるい美貌じゃない』
『人間離れしてる』
『わたしだって自分の容姿には自信があったけど、神埜巡には絶対に勝てない』
『所詮、わたしなんか替えの利く量産品だったんだ』
『股を開くからかろうじてアイドルをやらせてもらえてるだけだったんだ』
『みんなの言うことは本当だったんだ』
『神埜巡を目の当たりにしてよくわかった』
『わたしは特別じゃなかった』
『穴にしか価値のないカス』
『使い古されたゴミオナホ』
『生きてるだけで迷惑なクソメンヘラ』
『わたしを殺そうとしたおかんの気持ちが全部わかった』
『あれはおかんの優しさだったんだ』
『わたしが生きててもみんな迷惑だし、わたしも苦しむだけだから救おうとしてくれたんだ』
『苦しいよ』
『死にたい』
『死にたい』
『助けてゆうくん』
『死にたくない』
『ゆうくん』
『わたしを殺して』
パタンッと日記帳を閉じて僕は、目頭を押さえた。
クソデカ溜め息をつくと、日記帳を放り投げた。事切れた十六夜の顔に当たった。
「自殺の原因、僕じゃん!! 僕がイケメンすぎて劣等感爆発してるじゃん!! どんだけめんどくさいメンタルしてるのさ?!」
そして僕は、前回──僕がメンヘラ彼氏を撃退したルート──の自殺の理由も察した。僕に助けられた十六夜希は、僕の秀麗なる眉目を見たことで自殺したのだ。
だったらマスクで顔を隠してメンヘラ彼氏を撃退してやる!
僕は半ばやけくそな気持ちで、記憶あり相良裕也が十六夜希と出会う前、高校一年生の春まで時を巻き戻した。
それでも、十六夜希は自殺した。
顔バレせずにメンヘラ彼氏を撃退することはできた。その後は一言も交わさずに全力で逃げたから、僕の美貌に劣等感を覚える余地はなかった。
が、十六夜希の呪われた運命はそんなもの、ものともしなかった。
浮気からの殺人未遂を律儀に事務所に報告した十六夜希は、事務所から色恋禁止令を出された。友達もおらず、孤独になった彼女は、不安感に耐え切れずにベランダから飛び下りた。
月のない夜に春風が吹く。
猫モードの僕は、マンションの駐車場に
いったん状況を整理しよう。
・記憶あり相良裕也は、僕と、行動に影響を与えられる程度以上に親しい友人でないと十六夜希と出会わない(バッドエンドフラグ)。
・記憶あり相良裕也は、僕と、行動に影響を与えられる程度以上に親しい友人だと十六夜希を僕に紹介しようとする(バッドエンドフラグ)。
・十六夜希は僕の顔を見ると病んで自殺する(バッドエンド)。
・十六夜希は、浮気からの殺人のピンチを僕に助けられると、僕の顔を見なくても恋愛禁止令による孤独を苦に自殺する(バッドエンド)。
・記憶なし相良裕也は、十六夜希と付き合っても最終的には振る(バッドエンドフラグ)。
「うにゃぁ……(えぇ……)」
詰んでないですか、これ?
僕は絶望しかけるが、諦めたらそこで僕のほうまでバッドエンドになるので無理やり知恵を絞る。
マスクをして十六夜希を助け、その流れで、顔を隠したまま彼女の友達になって支えるというのはどうだろうか?
……いや、ずっと顔を隠しつづけるのは現実的じゃない。信用されないだろうし、アクシデントや十六夜希によりマスクが剥がされることもあるだろう。
なら、十六夜希と相良裕也を出会わせたらただちに姿をくらますのは?
……これは悪くないかもしれないけど、相良裕也を彼氏とするなら、友人という観察・介入しやすい立場を手放すのは惜しい。できればやりたくない。
では、記憶あり相良裕也が十六夜希を紹介したいというのを断るのはどうだろう?
……いや、これもきっと上手くいかないだろう。ずっと十六夜希を見てきた僕にはわかる。
日記によると、僕の写真を見ただけでも病みはじめている。そうなると、放っておいても勝手に落ちていって自殺しそうだ。そうでなくとも、僕に避けられていると感づいたら、一番大切な人の幼馴染みに交際を認めてもらえてないんだ、会う価値もないゴミだって思われてるんだ、という負の思考に陥って病んでいき──あるいは記憶あり相良裕也にも流石に愛想を尽かされ──程なくして自殺することだろう。
なら、相良裕也に僕の写真を撮らせないのは?
……不可能ではない。僕が嫌がれば強制はしてこないだろう。
が、それを相良裕也がどう捉えるかが問題だ。ただでさえ戸籍も家も家族もなく学校にも通っていなくて怪しさ満点なのに、写真まで拒否したらいよいよ不審すぎて距離を取られかねない。それに、結局は紹介のお願いを断って十六夜希を避けることになるのだから、そちらの心配もある。このルートも望み薄だろう。
なら、紹介時にマスクで顔を見せないようにする?
……いや、これも無理がある。
マスクをしていようが、輪郭と目元はわかる。そこが整っていれば、そのほかのパーツも同様なのではないか、と疑うはずだ。そうなると、自分のルックスの相対的な評価を自己肯定のよすがにしている十六夜希は、見たがるはずだ、間違いなく。親しい友人の彼女に顔を見せるのを拒みつづけるのは不自然にすぎる。それでも隠しつづけたら、十六夜希は、紹介を断られた場合と同様の思考でネガティブに囚われる可能性が高い。
どうする。どのルートにも欠点がある。
けれど、ほかには思いつかない。
僕は決めた。写真を撮らせないで、かつ紹介を断るパターンをまず試してみる。
時を巻き戻す。
過程は読み違えたが、バッドエンド──飛び下り自殺エンドではあった。
写真を断っても親交は途絶えなかったが、このルートでは相良裕也は十六夜希を捨てる。
どういうことかというと、僕から迸る神秘的なオーラを無意識ながら感じ取っていた相良裕也は、僕が紹介を断って十六夜希を避けている理由を深読みしてしまった。
──あの、何かわからんけどすごそうな神埜巡が避けているのだから、十六夜希にはクッソダッルゥメンヘラァということ以外にも危険な地雷要素があるのではないか。
そんなふうに考えたようで、勘の鋭い十六夜希はそのかすかな警戒心をしっかりと察知した。
──最近、ゆうくんが冷たい。理由を聞いても、はぐらかして教えてくれへん。
指数関数的に十六夜希は不安定になっていき、そうすると相良裕也にもストレスが溜まりはじめる。
結果、十六夜希は相良裕也に捨てられ、自殺する。
以上の経緯は推測によるところが少なくないが、近しい立場で観察して集めた情報を加味しているから、概ね正解だろう。
また、顔を隠して紹介に応じた場合も同様であった。つまり、あの神埜巡が顔を見せないのだから十六夜希には何かがあるのだ、と相良裕也は考えるのだ。
僕は、十六夜希の部屋の椅子──ダイニングテーブルの──に座っていた。部屋に十六夜希はいない。僕一人だ。
日記を確認しおえたところだった。自殺を受けて原因を調べるために時を巻き戻し、ここに至る。
部屋への侵入には、十六夜希を夜道で殺害して奪った鍵を使った。死体は民家の塀の陰に隠してある。
結論としては、十六夜希と相良裕也が交際する場合においては、僕が相良裕也と親しい友人であれば、十六夜希が自殺するというバッドエンドは変えられない。
となると、親しい友人になるのをやめるしかないか?
しかし、それだと記憶あり相良裕也と十六夜希は出会わない。
やりたくはないけど、出会わせた直後に姿をくらますしかないか?
……いや駄目だ。それでは、相良裕也からすれば十六夜希が現れたことで僕が消えたように見える。単に十六夜希を避けているだけの状況よりも深読みを誘うだろう。
理想は、僕と友人でない記憶あり相良裕也が、十六夜希と出会うルートだけど、そんな都合のいいの、あるわけないよね……。
「──っ!!」
突然思いついたっ、逆転の一手をっ!!
それはまさしく悪魔的ひらめきっ!!
これならば記憶あり相良裕也を赤の他人の立場から導ける。反則スレスレ、スーパーリスキーな奇手だが、もうほかにやりようはない。やるしかないのだ。
よし、と気合いを入れて僕は、記憶保持設定をオフにして能力を発動させた。
すべての始まり、十六夜希が僕を助けたあの日へ舞い戻る。
「猫は飛べないんやから、もうアイキャンフライしたらあかんで」
僕を救助した幼き日の十六夜希が、そう言って背を向けた。
彼女が見えなくなると僕は、現人神モードつまりはいたいけな四歳児になり、交番を訪ねた。
「おや、どうしたんだい?」
制服警官の中年男性がのんびりとした口調で問いかけてくる。
僕は困ったような、悲しそうな顔を作って、
「おうちがわからなくなったの」
「ふむ」男性は焦る様子もなく、「君の名前を教えてもらえるかな?」
僕は更に眉間にしわを寄せてかぶりを振った。
「わからない」
おや、と男性の顔がわずかに真剣味を帯びた。「お母さんかお父さんの名前はわかるかい?」
「わからない。何にもわからない。ここがどこなのか、僕が誰なのか、お母さんの顔もお父さんの顔もわからない」
そう言って僕は、うつむいて目尻に涙を溜めた。
作戦の第一段階は、記憶喪失の孤児を装って児童養護施設か里親に保護されること。そうして人間社会に溶け込む。
「わかった、ここに座ってちょっと待ってて」
男性警官は、椅子を勧めると、どこかに電話を掛けた。僕のことを相談しているようだった。しめしめ。
目論見は成功し、僕は、都内だが田舎の児童養護施設に無事、潜入できた。
戸籍も手に入れた。名前は神埜巡にしてほしいと頼んだら、そうなった。おそらくネコシックレコードレベルで僕のユーザーネームが決まっているのだろう。それくらいスムーズだった。
作戦の第二段階は、記憶なし相良裕也──つまり彼目線では一周目の──と同じ大学に入り、友人となること。その際、相良裕也にミスリードを一つ仕掛ける。
──神埜巡は幸運チートである。神埜巡と関わった物事はすべて上手くいく。
そうして、三十歳の相良裕也の記憶を保持して高校時代に巻き戻し、友人関係を前提とせずに十六夜希へと誘導する。
あの神埜巡が関わったことだから十六夜希はきっと俺のハッピーエンドに必要なピースなのだ、という動機を形成させるのだ。
加えて、逆行という超常の記憶がその判断の妥当性を傍証する。逆行があるのだから幸運チートがあってもおかしくない、と。あるいは、僕の神秘的なオーラも一役買ってくれるかもしれない。
出会わせてしまえば、後は自然と男女の仲に堕ちてゆくだろう。いつもそうだった。
そして、巻き戻し後は大学入学以後も僕は相良裕也の前に姿を現さず、十六夜希を紹介されないようにする。
これでトゥルーエンドを迎えられるはずだ。
僕は勉強しているふりをしつつ、すくすくと成長し、そして──
「ツモ」僕は、配られたばかりの手牌を倒した。「
「はぁっ?! またかよっ!?」自動麻雀卓を囲む先輩が驚愕の声を上げた。
「うっそだろお前っ!?」その向かい側、つまり僕の左側の先輩も悲鳴めいて喚く。「お前、何かやったろ?! 二連天和なんてぜってーありえねぇって!!」
僕らは、大学のサークル、投資研究会の部室で麻雀をしていた。もちろん賭けている。
投資研究会には自動麻雀卓があり、メンバーはよく遊んでいるらしく、先輩が、「新入生には麻雀で洗礼を浴びせるのが投資研究会の伝統だ」などと意味不明なことを言って、講義を終えて暇をしていた僕と真面目に勉強していた相良裕也を誘ったのだ。
僕の正面に座る相良裕也も口を開いた。「俺も疑って神埜を観察してましたけど、イカサマのそぶりはありませんでしたよ。にわかには信じがたいですが、純粋な運です」
上手くミスリードできたようで、僕は内心でほくそ笑んだ。
この調子で純粋な運(笑)をどんどん見せつけていき、思い違いを確固たるものとする。
光陰は矢のごとく巡り、相良裕也が三十歳になると、今度という今度こそ、と意気込んで僕は、時を巻き戻した。
僕と相良裕也は、十四年前の春の日──彼の高校の入学式の朝に舞い戻った。
僕は早速、相良裕也と十六夜希がニアミスする瞬間を探した。適当なアクシデントを引き寄せて、二人の接点を作る算段だった。
十六夜希が例のメンヘラ彼氏と交際しはじめるまでに出会わせたかった。
したがって、タイムリミットは高校一年生の一月。
しかし、春から冬までを何度繰り返しても──三十歳になった世界線の記憶のみを保持させているため、相良裕也目線では一回しか逆行していない──二人の運命は交差しなかった。
やむを得ず、メンヘラ彼氏及び浮気相手から寝取る形でもよしとして、タイムリミットを、十六夜希が浮気して殺される日までずらした。
そうしてリセマラにリセマラを重ね、ようやく見つけたクロスポイントは、十六夜希が殺される直前に立ち寄ったコンビニだった。
僕は、十六夜希がハンカチを落とし、かつ彼女のマスクが外れて相良裕也に顔を見せる天文学的確率を天文学的リセマラの果てに手繰り寄せた。
僕の洗脳、もといミスリードは奏功し、相良裕也は十六夜希救出へと向かった。
そこから更に天文学的リセマラを経て、相良裕也の投擲した傘が命中して凶器を弾き飛ばし、利き手を痛めたメンヘラ彼氏が逃走するルートに二人をぶち込んだ。
僕はホッと息をついた。
あとは若い二人に任せて──などと油断して放置ゲーするとすぐ自殺するのが十六夜希という女だ。全自動自殺アイドル、死ぬためだけに存在する機械の異名は伊達じゃない。僕は兜の緒を締めて見守りつづけた。
とはいえ、やがて二人の仲が深まると、
──いける! いけるぞ!
僕は完走を確信しつつあった。
メンタルは大人な相良裕也は、十六夜希のメンヘラムーブにも動じず、赤の他人である僕のことを彼女に話すこともなく、めちゃくちゃ理解はあるが、振り回されはしない彼氏君でありつづけた。
十六夜希は大変ご満悦である。メンヘラ偏差値も六十くらいまで下がり、普通のメンヘラ彼女くらいの怠さに収まるようになった。
僕は前祝いに一人スイーツ食べ放題で豪遊した。
そうしてまだ見ぬトゥルーエンドを空想してウキウキで過ごしていたら、相良裕也が殺され、十六夜希も自殺した。跡を追って飛び下りたようだった。
「……みゃーみゃーにゃ(……まさか、ここに来て新たな刺客が現れるとはね)」
僕は、親の顔より見た十六夜希の死に顔を眺めながら苦々しい思いでつぶやいた。
死亡フラグが立ったのは、相良裕也が三年生の春だった。彼の母親が再婚したのだ。
そのお相手の一人娘、織笠愛理──以下、相良姓時も織笠で統一する──とかいう女がとんでもなかった。
彼女は義妹となったわけだが、織笠姓となった相良裕也に懸想しはじめた。
しかし、相良裕也に恋人がいたからか、想いを言葉にするでもなく、かといって切り替えるでもなく、おとなしそうな仮面の裏で激情を溜め込んでいった。
そして夏の終わり──行き場のない想いが爆発してヤンデレ義妹へと劇的アップグレードを果たした織笠愛理は、相良裕也を刺し殺して無理心中を図った。
涙の跡の残る遺書に、そのように記されていたらしい。ニュースでやっていた。
|And then there were none《みんな死んでしまった》.
絵に描いたようなバッドエンドだ。
僕は時を巻き戻した。
織笠愛理がヤンデレ化しないルートに入れないか試すためだ。
頼むぞ、運命。
──キャッハァ☆ ざぁーんねんっ、またまたハズレルートでしたぁー☆
運命ちゃんのファッキンメスガキボイスが僕を嘲笑う声が頭蓋骨に響いた。
検証の結果、相良裕也の母親は息子のメンタルが大人だと必ず織笠愛理の父親と再婚し、義妹となった織笠愛理は必ず相良裕也に恋をし、そして彼が十六夜希と交際していると必ずヤンデレ化することが判明した。
どうしろと?
もう何度目になるかわからない自問。
からの自答。
高校生の織笠愛理の精神性が危ういというのなら、大人になった記憶を彼女にも保持させてやれば、ヤンデレムーブなどという愚行はしないのではないか。
そうと決まれば、速やかに高校生以前まで巻き戻した。
親が再婚することがないように、つまり義兄妹が交際して万が一にも生涯の伴侶となることがないように相良裕也の記憶を消し、織笠愛理共々三十歳まで成長させ、そこから二人の記憶を保持して高校入学の日まで巻き戻すのだ。
僕は祈るような気持ちでシュークリーム(カスタード&ホイップ)を三十個ほどパクついた。
その結果、十六夜希が自殺した。信頼と実績の飛び下り自殺である。
織笠愛理の精神が大人になったことで再婚時期が一年早まった、これが死亡フラグだった。それにより、相良裕也は十六夜希よりもわずかに早く織笠愛理と出会うことになる。
すると、相良裕也は十六夜希よりも先に織笠愛理に惹かれてしまう。似た境遇──片親育ちの逆行者同士──というのもいいスパイスだったようで、二人はあっという間に男女の仲になった。
相良裕也に十六夜希をメンヘラ彼氏から助けさせ、友人関係にさせるところまではできても、それ以上は無理。ラブラブ逆行義兄妹につけ入る隙はなく、十六夜希は相良裕也への片想いを胸に秘めてつらい日々を送る。
そしてある時、苦しみの許容量が限界を迎え、自殺と相成るのだ。
「──にゃーにゃんにゃー。みゃあお(──というわけなんだ。もう笑っちゃうよね)」
僕は、逆ナンしてきた雌猫に愚痴を聞かせていた。明け方の神社だ。
「にゃんにゃ~(神猫族も大変ねぇ~)」
闇に溶け込むような真っ黒な毛色の彼女は、悩ましいときの人間のように前足を頬に当てて鳴いた。
大人な色気の漂うその口調に、僕は年の功めいた知恵を期待して、
「みゃーみゃー?(何とかして、逆行義兄妹が付き合わないようにできないかなぁ?)」
「みゃぁー……(そうねぇ……)」
アダルティーな彼女は、サファイアブルーの瞳を、白みがかってきた朝の空に向けて思案し、程なくして、妙案を思いついたのか僕を見た。
「裕也君と愛理ちゃんが一足早く結ばれちゃって上手くいかないっていうなら、もっと早くに
「どういうこと?(ぅにゃあ?)」
「コペルニクス的発想よ。希ちゃんと出会う前に番わせて破局させておくの、徹底的にね。そうすると、逆行義兄妹がまた番いになることはなくなるでしょ?(コペルニクスにゃあ。みゃーみゃーん、みゃあ。にゃっにゃあ?)」
「なるほど……(にゃあ……)」
いいかもしれない。
条件を整理しよう。
まず、高校時代に相良裕也と僕が、行動に影響を及ぼす程度以上に親しい友人ではアウト。ということは、高校時代以前に、相良裕也に織笠愛理を紹介するというような直接的な介入は難しい。義兄妹目線で一周目の高校時代以前又は二周目の親の再婚より前に交際させるなら、リセマラによる純粋な乱数勝負になる。
三周目にトゥルーエンドに到達させるなら、二周目の親の再婚後に交際しはじめた義兄妹を破局させればいいということになるが、この場合も高校時代の直接的な介入は難しい。
一方で大学時代以後であれば、交際及び破局させるための直接的な介入ができる。
この作戦の場合、三十歳を基準にしないほうがいいか。一過性の喧嘩ではなく、根本的な価値観の不一致を演出したいのだから、たっぷり時間を掛けて二人の仲を悪化させるべきだ。長い目で見よう。
選択肢は大きく分けて二つ。つまり、高校時代以前から交際させるか、大学時代以後に交際させるか。
前者なら、親の再婚が確定している今回のルートを流用するのが現実的だろう。つまり、義兄妹目線で三周目にトゥルーエンドを目指すことになる。
後者なら、親の再婚を確実に回避するために一度義兄妹の記憶をリセットするのがいいだろう。つまり、義兄妹目線で二周目にトゥルーエンドを目指すことになる。
前者は、何もせずとも交際までいくが、高校時代の義兄妹に介入できないというデメリットがある。
一方の後者は、交際まで持っていく手間は掛かるが、交際以後に介入できない期間がないというメリットがある。
どちらが正解だろうか。僕は
「わたしなら大学時代以後に番わせるルートを選ぶわね(にゃぁーぅ)」彼女はほとんど間を置かずに答えた。「高校時代は介入できないんでしょ? ということは、高校時代から番わせると、およそ二年もの間、義兄妹は一つ屋根の下で邪魔されずにじっくりと愛を育むことができる。その間に強固な絆を結ばれたら、破局させられなくなるかもしれないわ(にゃぁあん? みゅうみゅう、にゃー)」
「たしかに(にゃー)」
黒猫の論には説得力があった。
僕は方針を決めた。記憶リセット二周目クリアルートにしよう。
と、黒猫が、にゃあと鳴いた。
行っちゃうの? と聞いていた。僕の思考を読んだのだろう。
僕も、にゃあと答え、もう少しここにいるよ、と伝えた。
──にゃあ。
黒猫がうれしそうに鳴いたら、さようなら。嘘つきな僕は、時を巻き戻した。
記憶を消され、再び大学に入学した相良裕也は、一年生の夏までには彼女を作り、その後も恋愛履歴書の空白期間が続くことは少なく、隙も多くない。
一方の織笠愛理も大学──最難関私文──時代は、SFサークルの活動に傾注していた。女子校育ちで男慣れしておらず、しかも人見知りなのに、共学の大学に入った途端
男に慣れたころに恋愛に積極的になろうとしたこともあったが、そのころの相良裕也は、確定で、華族学校を前身とする上級国民御用達大学の美女と付き合っている。顔良し、体良し、育ち良し、教養良し──しかし彼女はメンヘラだった。
対十六夜希用メンタルを鍛える練習台としてはちょうどいいのだけれど、織笠愛理と恋愛させなければならない今回に限ってはありがたくない。すなわち束縛が強く、相良裕也に織笠愛理を近づけさせるのも困難。
そうこうしているうちに織笠愛理は、大学の先輩の社会人と付き合いかけるが、その男が性病上等ヤリ捨て万歳のえげつない遊び人だと顔の広い友人、七瀬要から聞き及んで、やっぱりリアルの男はいいや、安心安全のフィクションのキャラクターが至高、と悟り、巨乳美人だけど誰とも付き合おうとしない高嶺のおっぱいルートへと回帰した。
大学時代から付き合わせるのは、諦めるしかなかった。
多忙を極める外資系銀行への就職が決まると相良裕也は、特定の彼女を作ろうとはしなくなった。仕事と勉強ばかりで時間的な余裕がないのだ。
一方の織笠愛理も恋愛には消極的。
とはいえ、出会わせるならここしかない。僕は試行錯誤とリセマラを繰り返した。
そして、掴んだ蜘蛛の糸。
相良裕也がオフの日を狙って開いた合コンに、彼と織笠愛理をねじ込むことに成功したのだ。
別のルートで、ではあるが深く愛し合っていた二人だ、彼らは運命ちゃんに導かれるかのように淀みなく付き合いはじめ、気持ち悪いくらい順調な交際を経て結婚した。
ここから僕は、スタンスを反転させた。
じっくりねっとりと結婚生活を破綻させ、絶対に上手くいかない二人なのだと刷り込む。
どのように成すか。
すなわち、相良裕也の劣等感を利用することで上手く崩れていく、と僕は読んでいた。彼は自分のことをペラペラしゃべる男ではないが、先進国基準では比較的に不幸な生い立ちで、トロフィーとして優秀な女ばかりを隣に置いていたことから、劣等感とプライドの狭間で足掻いているのだろう、と察せられていた。
だから、相良裕也の職場に彼以上に優秀な人間をリセマラで可能な限り集め、おいしい仕事もそのライバルたちに回るようにする。要するに、彼を追い込み、自分のプライドを守ることで精一杯の状態に陥れ、家庭を顧みる余裕を奪うのだ。
情報収集には、観測系能力持ちの神猫族を使う。
むっつりどすけべで週七発情期の織笠愛理は、夫に夜の相手をしてもらえなくなると性欲と不満を募らせることだろう。
子供ができたら即リセットで妊娠ルートも潰しておけば、そう掛からずにセックスレスすなわち性の不一致を理由に離婚を切り出すのは確定的に明らか。
すると、逆行して義兄妹になっても、この人とは合わないから恋愛するのはやめておこう、と考えるはずだ。お互いに。
──と思っていたのだけれど、相良裕也はスーパーハードモードな職場でも普通に結果を出しつづけた。かえって、やり甲斐を感じている節さえあった。そうすると、必然的に職場での評価も上がる。
週五でバイトしながら高校の授業と最低限の問題集だけで東大に現役合格した人間の対応力を侮っていたと認めざるを得なかった。巻き戻しカンニングで入学した僕とは全然違う。
僕は焦った。
これではプライドを傷つけられない。必然、家庭も壊せない。
しかし、ほかにどうすれば?
織笠愛理と不倫でもするか?
大学時代からの友人と妻の裏切り──プライドの高い相良裕也は絶対に許さない。間違いなく家庭は崩壊する。
けど、織笠愛理の潔癖な性格からいって、夫を見限るまではほかの男にはよろめかないだろう。
僕は困り果てた。
ところが、事態は予想外の好転を見せた。
相良裕也はどんどん仕事にのめり込んでいったのだ。
この時の僕には理由はわからなかったけれど、のちに河川敷公園で盗み聞きした会話によると、織笠愛理への愛情が仕事中毒の燃料になっていたらしい。流石は十六夜希と付き合う男、なかなかに面倒くさい。僕はそう思ったものだ。
話を戻そう。
相良裕也は家庭を顧みなくなり、織笠愛理はフラストレーションを溜め込んでいった。
ここまでは順調、あとは離婚してくれれば下準備は完了する。
しかし、またしても僕の読みは外れしまう。
どれだけ夫婦関係が冷え込んでも離婚しようとしないのだ。
承認依存型セックス依存の十六夜希と違い、快感依存型セックス依存の織笠愛理なら、レスに耐えかねて別れようとするものと見ていたが、待てども待てどもそうならない。
無理心中を完遂するほどの病的な執着心を秘めた女を舐めていたと認めざるを得なかった。周囲との関わり合いは全員別窓閲覧状態で上書き保存も名前を付けて保存もしない執着心ゼロの僕とは全然違う。
方向転換──妥協するよりほかはなかった。
織笠愛理に可能な限り不満を溜め込ませ、その最高到達点をもって巻き戻す。次善の策だ。
すなわち、不可避の死別によって結婚生活が終焉した瞬間が想定しうる最良のタイミング。関係が改善しないのなら時間が経てば経つほど不満が募っていくのだから、そうなるだろう。
ただし、相手の死を知ると思い出を美化するかもしれないから、知る前に巻き戻す。
僕は、果報ならぬ訃報を寝て待った。
そうして相良裕也が三十三歳の結婚記念日、機は熟した。僕は、彼が死んだ直後にタイミングを合わせて能力を発動させた。
「にゃああ……?(これは上手くいっているのか……?)」
僕は、十六夜希と小鳥居奈瑞菜の尻を見つめて歩く相良裕也の尻を見つめながら独りごちた。
たしかに相良裕也は義妹となった織笠愛理と復縁しようとはしない。が、彼も彼女も愛がなくなったわけではないようだった。結婚の失敗がブレーキとなって両片想いにとどまっているだけだ。
しかも織笠愛理への想いを察した十六夜希は、新ルート──まさかのレズ偽装ルートへと突入してしまった。同僚を巻き込んでの本気のミスリードだ。
ただ、十六夜希が比較的安定しているのもまた事実だった。相良裕也も彼女に惹かれはじめている。上手いこと転がれば、十六夜希が勝ちヒロインとなってトゥルーエンドに到達するかもしれない。
僕はやきもきしつつストーキングを続ける。
十六夜希と相良裕也の関係がスキャンダルされて事務所に引き離される事態をリセマラで回避しつつ見守っていたのだけれど、十六夜希は勝ちヒロインにならなかった。何度リスタートしても結果は同じだった。
十六夜希のレズ偽装が上手く機能していたうえに、彼女自身が相良裕也と織笠愛理の恋を応援しているのだから勝ちようがない。
そして結局は、いつもの飛び下り自殺エンドである。
「にゃー?(何かいい案ないかな?)」
僕は例の黒猫を見つけ出して助言を求めた。お得意のコペルニクス的発想とやらを期待していた。
時刻は夜の十時ごろ。場所は空き家の軒下だ。
隣の家の住人が会話している気配がする。十六夜希の自殺のニュースを観て盛り上がっているのかもしれない。
「みゃぁ……(そうねぇ……)」
黒猫は考えるそぶりを見せ、
「そもそも論なんだけど、クリア条件は、希ちゃんが愛理ちゃんを負けヒロインにすることではなくて、事件や事故で死なないようにすることなのよね?(みゃーお?)」
「うん、そうだよ。でも、相良裕也と結ばれないと安定しないから、たぶんすぐバッドエンドになるよ(にゃん。みゃあぁ、みゅぅぅ)」
「わかってる。だから、希ちゃんには勝ちヒロインになって結ばれてもらうわ(にゃ。みぅ~みゅみゅっ)」
「矛盾してにゃい?(にゃにゃっ?)」
「してにゃいみゃ、そう、両手に花エンドならね(してにゃいみゃ、にゃ、みゃあぁ)」
理屈はわかる。けど、
「どうやって? 女側が認めないでしょ(にゃあ? みゅぅー)」
「裕也君を共有してもいいと思わせる文脈を整えるのよ。具体的には、織笠愛理の繊細さとオタク趣味、十六夜希のメンヘラパワーを利用する(うにゃにゃ。にゃあーん)」
黒猫は説明した。
SNSで二人を交流させ、互いに相手が恋敵だと知らない状態のまま友好度を上げさせる。
その際、十六夜希が自身の恋物語を織笠愛理に語るようにし、織笠愛理を深く感情移入させる。
その仕込みが終わったら、一度は織笠愛理エンドまでいかせて十六夜希を自殺寸前まで追い込む。
そして、ぎりぎりのところで、真相に至った愛理にオフ会を開かせ、二人は互いの正体を知る。
そうすると、織笠愛理は感情移入していた十六夜希にも幸せになってほしいと思い、一方の十六夜希も一欠片の愛も得られずに死ぬよりはマシという感覚で妥協を受け入れられる。
「なるほどね(にゃるほどにゃ)」僕は感心した。「お姉さん、普通の猫なのに賢いねー(にゃあおにゃーん)」
黒猫は、青い瞳をにやっと三日月形に歪めると、
──にゃあ。
人間の考える普通の猫らしく鳴いた。
それじゃあ、さようなら。
そして時は巻き戻る。
十六夜希はスーパーエリートメンヘラなので、すでに主要なSNSのアカウントは持っている。したがってそちらへのアプローチは不要──僕の神懸かりしたビジュを撒き餌にして七瀬要を誘導し、織笠愛理にSNSを始めさせるだけでよかった。
あとは、彼女たちが友達になるルートを引き当てるまでひたすらリセマラ、リセマラ、リセマラ──。
そうしてメスガキツインテがトレードマークの運命ちゃんと戯れつづけること幾ばく、
「めぐるんって、イカれてるよね」
彼女は、諦めたようなあきれ顔でそう言った。
「いいや、僕は正気だよ」
「まともならとっくに自殺してるって。
君の巻き戻し能力は、世界をも救いうるけれど、例外なく術者を生き地獄に叩き落とす──もう気づいてるんでしょ? 最優の称号が、かつての英雄たちが自虐と皮肉を込めて自称したものだって」
「そう思うなら、少しは優しくしてよ」
「えー、それは解釈違いってゆーかぁ、あたしのキャラと違うくなぁーい?」
「それなら、時の牢獄で僕と踊りつづけるの? もしかしてデレてる?」
「デレるわけないでしょ。もううんざりよ」
「でも、僕は君が屈服するまでリセマラをやめないよ」
「めぐるん、しつこすぎぃ~」
運命ちゃんはがっくりと肩を落とした。ツインテールもしおたれている。
「わぁーったわよっ! ネコシックレコードを改竄して友達ルートを作ってあげる! でもその後のことはどうなるかわからないからね?!」
「そのときは、また遊んでよ」
「無限ムープハラスメントやめれ」
なんて茶番劇を妄想をしていると、ついに僕は新ルートを開拓した。
十六夜希と織笠愛理の運命が交わり、そして──
◆
「にゃあ」
塀の上の僕は、バイトを終えて帰ってきた相良裕也に声を掛けた。十六夜希を幸せにしてやってくれ、という切実な想いを込めていた。
もちろん返事はない。
秋の色なき風が、ひゅるりと吹いた。
僕は塀から飛び下りる。
アイキャンフライ、と戯れ言めいて。
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