⑲
高校二年生にして人生の墓場に自ら鎖で繋がれることで愛理と仲直りした俺は、平穏な日常を取り戻していた。
十月も下旬の土曜日、午前からのバイトを終えて帰路に就き、午後の五時過ぎに嫁の実家兼自分の実家に帰り着いた。
十六夜は、投機で増やした金は俺のものだから学費に充てればいい、と言ってくれているが、馬車馬労働の
家の塀の上に茶トラ猫を見つけた。たまに見かけるから、おそらく、ここら辺が縄張りの野良猫か、近隣住民に愛嬌を振り撒いて食いつないでいる地域猫だろう。
俺を見て茶トラ猫は、にゃあ、と鳴くと、道路に飛び下りた。こちらに尻を向けて夕暮れの町をどこかへ歩いていく。
俺は玄関口に足先を向けた。
異変に気づいたのは、玄関扉を開けて三和土が視界に入った時だ。
見覚えのある、膝下までのブラウンのロングブーツがあったのだ。
いや考えすぎか、と思った。きっと愛理か、母さんのだろう。彼女たちの友人が来ている可能性もある。
靴を脱ごうとしたところで、廊下の中程、その右側にある客間の襖が開き、
「おかえりなさい、あなた」
愛理が現れて迎えた。
「あ、ああ、ただいま」
愛理はトテトテと小走りに歩み寄ってくる。機嫌は悪そうではない。むしろにこやかである。しかし、どうにも薄ら寒いものを感じる。
密かに警戒する俺に、愛理は言う。
「大事なお話がありますので、客間まで来ていただけますか」
妻から大事な話があると言われて喜ぶ夫は、おそらく少ない。面倒な話か厄介な話か退屈な話かのどれかであることはほとんど確実。しかしそれを顔に出す夫も、やはり少ないだろう。
俺は何食わぬ顔で応じて客間に向かう。
そして、困惑した。
ロングブーツの持ち主──十六夜希が、しおらしそうな面持ちで座布団に正座していたのだ。借りてきた猫のようだ。違和感がすごい。
やはり状況が理解できない。
何が起きている? 愛理は不機嫌ではない。ということは、また浮気を疑っているわけではあるまい。では、十六夜を交えた大事な話とは何だ? 修羅場ではないからと安心していいのか?
「こちらに」
と愛理に促されて、座卓を挟んで十六夜の向かい側の座布団に胡坐をかいて座った。愛理は十六夜の隣に腰を下ろした。正座だ。
何やら、俺VS愛理&十六夜の交渉事が始まりそうな布陣。マジで何なんだよ……。
まず口を切ったのは、愛理だった。
「希さんから全部聞きました」
ドキッとした。何を聞いたというのか。十六夜との間にやましいことはない(?)が、知られたくないことはある。俺は気を引き締めた。
「裕也さんは間違っています」
愛理の断言に俺は首をひねった。「というと?」
「裕也さんは、希さんの嘘に騙されていたのです。希さんが同性愛者であるという嘘に」
訝る俺に、愛理は──若干のどや顔で──事情を説明した。十六夜は緊張した様子で座卓に視線を傾けて静かに聞いていた。
愛理曰く、俺にガチ恋していた十六夜だったが、愛理にはかなわないと悟り、次善の策として同性愛者だと嘘をついて近しい女友達の地位を確保しようとした──たしかにそういう解釈もできるが……。
「そもそも、愛理と希はどういう関係なんだ?」
俺は尋ねた。俺の知る限り、二人に接点はなかったはずだが。
「SNSの友達でした」愛理は答える。「それが、わたしが希さんの恋心に気づいたきっかけだったんです。
そこではわたしはドライフラワー、希さんは牛タンバーガーと名乗っていてお互いに相手の素性は知らなかったんですが、わたしは以前から希さんと仲良くしていました。
その関係で、希さんに好きな男性がいることと、けれど諦めていることを聞き及んでいました。とはいえ、固有名詞や具体的な関係性、同性愛の嘘については会話に出てきていなかったので、それだけでは牛タンバーガーと十六夜希は結びつきませんでした。
気づいたのは、裕也さんから希さんとの物語を聞いてからです。牛タンバーガーさんから聞いた話と符合する点がいくつもありました。
わたしは、その登場人物を、わたしと裕也さん、そして希さんに置き換えて検証してみました。結果、二つの物語──恋物語は、十六夜希が同性愛者だという一点を除いて一つに重なりました」
「それで希の真意に思い至ったわけか」
俺の合いの手に、
「ええ」愛理は控えめに顎を引いた。「希さんが同性愛者だと事実認定するには証拠が足りない──その瑕疵も、逆説的ながらわたしの推理を傍証していました。
そしてわたしは、答え合わせに臨みました。つまりオフ会です。希さんの立場を考えると断られても不思議はありませんでしたが、希さんは了承してくれました」
経緯はわかった。
しかし、結局のところ愛理と十六夜の目的は何なんだ?
裁判においては、実際の内心にかかわらず、外形上の言動から推認される客観的内心が事実として認定されるべき内心だ。主観的内心──本当の気持ちなどというものは存在しない。だから俺と十六夜は、十六夜の片恋は認められるかもしれないが、心身ともに友達でしかなく、コンプライアンス上の問題はない。やはり目的が不明だ。
「裕也さん」愛理は尋ねた。「あなたと希さんは本当に友達だったのですか?──裕也さんの本当の気持ちを教えてください」
「それは……」
と言い淀んで時間を稼ぎつつ目の端で十六夜の顔色を窺うと、彼女も俺を見ていた。泣き出しそうな、すがるような、しかし淡い期待をたたえた目だった。
愛理はというと、見定めるような真剣な眼差し。
「……友達だよ」
そう答えるしかないだろう?
「ゆうくん」
と、ここで十六夜も口を開いた。
「あたしは好きやから、あたしはゆうくんこと大好きやから。心から抱かれたいって、何でもしてあげたいって思えたのはゆうくんだけ。
……全部あたしだけやったの? あんなに大切にしてくれてたのに……あんなにいっぱい出してくれたのに……」
いやいやいや、と突っ込みたいところ。妻の前で何を言っているんだ、そして何を言わせようとしているんだ、このふしだら関西娘は?
その妻が言う。
「おこらないので、正直に答えてください」
うっそだぁあ。それ言ってる時点でおこってるだろ──おこられる
……マジでそうなんだよな。
と改めて思う。
愛理は、俺が十六夜を同性愛者だと誤認していたと考えている。それなら、具体的な不貞行為もなかったと思っているはずだ。換言すれば、過去の過ちを詰めようとしているわけではないということ。
すると、俺に自白させて愛理はどうしたいのか、という疑問が湧く。
まさか、わずかでも好意を抱いたら浮気と認定するガチ束縛系おっぱいだったのか……?
だったら、これは浮気裁判……?
そうであれば自白したら最後、絞首台へご案内である。
変な汗出てきた。
「い、いや、俺はそんなつもりは──」
「裕也さんは自分にも人にも厳しい人です」しかし愛理が被せてきた。「けれど、一度自分のうちに入れた人に対しては、わかりやすく甘くなります。そしてその甘さは恋情が絡むとより顕著になります。海羽ちゃんや昔お会いした裕也さんのご友人もそうおっしゃっていました。
希さんの証言から考えて、希さんへの裕也さんの態度はわたしへのそれと同種のものです。
希さんのために投機で荒稼ぎしているそうですね?
プライドの高い完璧主義者の裕也さんが、自らのこだわりを曲げてまで助けようとしている──それが何よりの証左ではないでしょうか」
四つの眼球に見つめられる沈黙があって、
「……ふぅ」俺は息をついた。この状況、首を縦に振らないと終わらなそうだ。「わかったよ、認める。たしかに希のことも愛しはじめていた」
と言った瞬間、十六夜の顔に可憐な花が咲き、見とれかけた。
「だが」と俺は努めて表情を消した。「だからといって、愛理と別れて希と付き合うつもりはない」
と、今度は愛理がはにかみ笑いを零した。
本当におこっていないようだ、と俺は安堵した。
のも束の間、愛理は笑顔で爆弾を投下してきた。
「では、
「……は?」俺は、もちろん呆気に取られたし、
「愛理ちゃん愛理ちゃん、はしょりすぎやて」十六夜もあきれぎみに突っ込んだ。
ハッとして愛理は、取り繕うように、んんっとわざとらしい咳払いをし、きりりとした顔で、
「希さんもお嫁さんにしてあげてください」
「え、無理」俺は即答した。
「何でや?! そういう流れやったやろ!?」十六夜がいつものキレで突っ込んできた。「両手に花で、あんなことやこんなこともできるんやで!!」
「だって重婚は犯罪だし、貞操観念的にもちょっと……」
「事実婚は該当しませんよ」愛理が切り返す。「裕也さんもご存じでしょう?」
「まぁそうだが──ってことは、愛理とは婚約届を出して希とは事実婚でいろってことか?」
「それでもええし」と十六夜が言い、
「二人とも事実婚でも構いません」と愛理が引き継いだ。
「……愛理はそれでいいのか」
なぜ十六夜のためにそこまでするのか。
はい、と愛理はうなずいた。
「わたしはずっと希さんの悲恋を聞いてきました。初めは何とか上手くいけばいいな、という程度の気持ちでしたが、いつしか希さんに深く感情移入するようになっていました。それは、恋愛アニメのヒロインに自分を重ねる感覚に似ていました。ヒーローの正体が裕也さんだったからこそ、より深く共感し、没入できたのだと思います。わたしにとっては、ヒロインの恋心にこの上ない説得力がありますから。
すべてを知った今、希さんを押しのけて裕也さんを独占しても、わたしの心は納得しません。推しカプが引き裂かれるのは我慢ならないのです。自分の半身が殺されるようなものです。ですから、事ここに至ってわたしが幸せになるには、わたしと希さんの二人が等しく裕也さんに愛されるしかないのです」
俺はあんぐりと顎を落としていた。こ、これが本物のオタクなのか。
い、いや、たしかに、愛理は神経質つまりHSP気質で、人並み以上に共感力の高い女だからこういうこともあるのかもしれない、と理屈をつけることはできる。思えば、『ヨスガノウミ』にもコロッと影響されていたし。
結論──神経質オタクやべぇ。
俺はやべぇオタクに見切りをつけて十六夜に助け(?)を求めた。
「希は本当にそれでいいのか?」
うん、と十六夜もうなずいた。
「ゆうくんの愛は義妹ちゃんのもの、って思ってた。
やから、ゆうくんの愛の半分でもあたしにそそいでくれるんなら全然マシなんや。半分あれば余裕で生きていける。
あたしな、死のうと思ってたんや。
ろくな人生やなかった。あたしはとっくに壊れとる。そんな女に本当の恋なんて絶対に無理やと思ってた。
でも、ゆうくんは違った。生まれて初めてほんまに人を好きになった。
初めてやったんや。えっちされるとこを想像しても嫌な気持ちにならへんかった。嫌どころか、してほしくてたまらへんかった。
でもゆうくんは、絶対にあたしを愛してくれへん──それでも大丈夫やと、ゆうくんが幸せになるならええと思ってた。
けど、駄目やった。全部が嫌になった。オフ会の誘いに応えたのも、もしかしたら悪い人にひどい目に遭わされるかもしれないって、ほんで自殺のきっかけになればええなって思ったからなんや。
やからな、あたしは半分死んでるようなもんなんや。そんな女には半分の愛でも十分や。むしろちょうどええまである。やからゆうくんは何も気にせんで、気持ち良く美女二人をこませばええ」
俺は再び顎を落としていた。こ、これが本物のメンヘラなのか。
自己肯定感が妙な感じに低いせいで、よくわからない理屈で貞操観念を突き破ってしまっている。
結論──半死半生メンヘラやべぇ。
「う、うーん」俺は腕組みをして悩む。
やべぇ女二人と結婚して本当に大丈夫なのか? 一人ならまだしも、二人同時になんて捌き切れるか?
気分はマリッジブルーである。
顔と体はピカイチだが性格に難あり──あの人、すっごい美人なのに何で四十路過ぎて独身なんだろ? ってひそひそされる類いだろう。いと悲し。
しかし、ここで固辞したらどうなるのか。血を見る羽目にならないとも限らない。そんな圧を感じる。
というか、十六夜を拒絶すると愛理が納得しないとなると、愛理との婚姻予約を滞りなく履行して円満な法律関係を形成するには十六夜を受け入れざるを得ない。すなわち、状況はオールorナッシング。
かといって、婚約を破棄して愛理と別れるつもりは……まぁ、あんまりない。
……あれ、これって初めから詰んでいたのでは?
あまりの衝撃的急展開に思考力を奪われて気づけなったが、よくよく考えるまでもなくルートは一つ、ただの一本道イベントやないかい!
それなら、ま、いっか。
俺は、パッと気持ちを切り替えた。考えても詮なきことにはリソースを割かない主義なのだ。そんなことより働こうぜ! の精神である。
「わかった」俺は、悟りの境地にも似た穏やかな心持ちで言う。「二人と結婚するよ」
愛理と十六夜が同時に華やいだ。
「今日は記念日ですね」愛理がはしゃいだ様子で言う。「3P記念日です」
どんだけヤりたいんだよ。
「ごねれば何とかなるゆうくん最高や! それでこそあたしが惚れた男やで!」
十六夜は十六夜で、相変わらず褒めながら貶してくる。
女二人がきゃっきゃっしているのを、適当に相づちを打ちながら眺めていると、玄関扉の開く音が聞こえた。
愛理の耳がピンと立った。もちろん比喩だが、音にも敏感な彼女は足音で誰なのかを正確に判別でき、こういうときの彼女は兎のような雰囲気ではある。
「お義母さんが帰ってきたようです。希さんのことはどう説明しましょうか」
「そうだな……」
十六夜はコンパクトを開いて手櫛で髪を整えている。
婚約者として紹介したほうがいいか。そのほうが十六夜も安心するだろう。どうせ遅かれ早かれだ。
「わかりました」愛理が立ち、
「よっしゃ、猫被ってパパッと魅了してまうか」十六夜も続いた。
俺も立ち上がり、襖を開けた。さて、第二ラウンドといこうか。
「うっそぉ……」
重婚前提の公認彼女として十六夜を紹介された母さんは、先ほどの俺と同じようにあんぐりと口を開けた。
親子やなぁ、と十六夜が笑った。
愛理も、口元に手をかざしてくすくすと笑った。
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