第5話「本物のアトリエ」

 僕は浮き足だったまま、ガラスの扉を開く。

 カランカラン、そんな音が無音の店内に響き、お姉さんの姿がないことに気がついた。

 あれ? カウンターで頬杖ついてタバコを吸っているはずなのに……。


「……買い出しかな?」


 呟く声は、夕暮れの店内に吸い込まれて消えていく。

 オレンジ色の光が宙を舞う埃に反射して、キラキラと輝いていた。

 染みついたバニラの香りが鼻をくすぐる。僕はその空間に、そっと身を置いた。


 その時、ガタン──上階で何かが倒れたような音が聞こえる。


 僕の心に小さく好奇心が芽吹く。

 二週間くらい、お姉さんに会うためこの雑居ビルに通っていたが、他の階がどうなっているのか、見たことがない。

 上の階には何があるんだろう……と。


「……ちょっと、行ってみようかな……」


 足取りは軽やかに、気分は冒険的に。

 ガラス扉が鳴り、僕はそこから続く階段をゆっくりと上がる。

 一段一段を踏み締め踊り場を通り過ぎた時、鼻をつく絵の具の独特な匂い。


 高校の美術で触った程度だったけど、僕はその匂いが嫌いじゃなかった。


 同時に頭に浮かぶ。昨日見た煙の中の情景。

 夕暮れに照らされる乱雑に散らばった絵。そのどれもが綺麗だったのに……お姉さんは白紙のキャンバスを前に俯いていた。

 そんなイメージを見た僕は、ギュッと心臓を締め付けられるような感覚と共に口を開き、お姉さんに尋ねたのだった。


『お姉さんは絵を描くんですか?』


 僕はその言葉に、いろいろな意味を込めたのだと、今になって気がつく。

 こんなに上手な絵を……綺麗な絵を描けるの? なんでそんなに悲しい顔でキャンバスに向き合っているの?

 でもそうは聞けなくて、ただ意味だけを込めて言ったのだ。


 一歩ずつ階段を上がっていく。


 その足取りは徐々に重くなっていた。そうして扉の前に立つ。

 換気のために数センチ開けられた扉の中から、絵の具の匂いが香る。

 目を向けると、煙の中の情景と同じ『キャンバスを前に俯くお姉さん』がいた。


「……あっ」


 どう声をかけたらいいのかわからずに、触った扉がキィと軋む。


「誰……?」


 お姉さんの問いに、その場で固まった。

 ついで少し考え込む。言い繕ったらダメな気がした。


「……八雲です」


 言いながら、俯いて部屋に入る。

 ゆっくりと顔をあげると、無理やり笑顔を貼り付けたようにぎこちないお姉さんがこちらを見ていた。周りには、制作途中の絵が散らばっている。


「見られちゃったね……」


 お姉さんは情けなさそうに笑う。

 その表情に僕は眼球を掴まれ、目が離せなくなった。

 心臓がキュッとなって、締め付けられる。そうして口から自然と言葉が漏れた。


「ごめん、なさい……」

「なんで君が謝るの……何も悪くないでしょ?」


 言われて僕は、口を手で覆った。

 なぜ謝ったのか自分でもよくわかっていなかったのだ。理解不能な感情が体を駆け回っている。

 湯水のように溢れ出そうになる言葉を、精一杯に押し込んだ。


「……綺麗です、どれも」


 飲み込んだ言葉を押して出たあまりに月並みなセリフ。

 夕焼けの光の粒が部屋を舞う。僕はそれを目で追いかけて、乱雑に置き並べられた油絵たちを見た。


 ──鳥籠の中で嘆く、翼を切られたセキセイインコ。

 ──水辺を見て涙を浮かべた、極端に短い鼻の象。

 ──空っぽの金魚鉢に干からびて倒れ込む金魚。


 それらは『何かが欠けた動物の絵』だった。

 目にしただけで、痛くなる。絵の中の動物たちがまるでそこにいるような感覚。上手いとか綺麗とか……そんな言葉にしたくない。

 僕は一度、スゥーッと息を吸い込んだ。鼓動が早くなって苦しいのだ。

 お姉さんは、息を吐く。


「ありがとう……、あたしみたいでしょ? 無様で」

「そんなこと──」


 いいかけて言葉を飲む。

 気休めにもならない慰めは、悲しくなると知っていたから。

 だけど、僕は何かを言いたくなった。


 ……まずは、お姉さんを知らないと、じゃないと言葉も掛けられない。


 だから言う。


「あっ……、あの! 僕──」

「何?」


 言え、早く。

 今言わないと、一生口にできない気がした。


「シーシャバーのお姉さん……、今は違う」

「え? どう言う……」

「名前! なんて言うんですか?」


 ドクンドクンと脈動する心臓も、グッと握り込んで汗だくの手のひらも、抑えても治らない肩の震えも。全部言葉に込める。

 覚悟を持った僕の言葉に……お姉さんは、笑った。


 ゲラゲラと、涙を流しながら笑った。

 それから、ふぅー、と目元の涙を指先で拭いながら答える。


野木のぎ月花つきか……お先真っ暗な凡人だよ」


 月花さん、僕は名前を聞けた喜びに体を震わせる。

 引き上がった口角を抑えようとしても、抑えきれない。


「ねぇ、八雲くん? ちょっと、顔……」


 あはは! 声をあげて笑う月花さん。

 いつもならムッとする僕も、今この時だけはそんな気持ちにならなかった。

 部屋を舞う埃の輝きがカメラのフィルターみたいに、笑う彼女を魅力的に映していた。

 僕はつい口走ってしまう。


「絵を描いたら、また見せてくださいね!」


 それが、彼女にとって呪いになるとは知らずに……。



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【完結】明日の僕は、きっと煙の中。 戸部 ヒカル @To_be_Arina

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