仙女様と☯風の茶会

春風 嬉鳳 -Y.Harukaze-

仙女様と☯風の茶会

 空は重たく曇り、山の気は静かに沈んでいた。


 若き旅人は、濡れた木の遊歩道を一歩一歩たどりながら、足元のぬかるみに沈む靴先に、自らの心を映していた。何かに引かれるように、彼は山へ分け入っていた。

 踏みしめるたび、木がわずかに軋み、耳を澄ませば鳥のさえずりと風が微かに交じり合う。やがて、木々の合間から落水の音が届いてきた。山の奥にひそやかに在る、「澄心(ちょうしん)の滝」と呼ばれる滝──

 滝に向かう木の道は、やがて流れの上を横切り、絶壁の中腹へと続く石の階(きざはし)へと繋がる。

 その石段を登り切った先に、木組みで広く拵えられた舞台のような踊り場がある。空に開かれ、滝の飛沫と風が交わる場所。

 踊り場には大きな無垢の木のテーブルと、簡素な椅子がいくつか置かれている。風に揺れる草木の香、木漏れ日、滝のしぶき。すべてがそこでは一服の茶の香へと混じっていく。

 その踊り場の脇には、緑深い山肌に沿って古き中華風の木造家屋が建っていた。黒瓦と朱梁、苔むした石の敷石。俗世の音が届かぬ、風と水と茶の世界──

 青年が踊り場へと足を踏み入れると、すでに彼女はそこに居た。長い黒髪を後ろに結い、大きな木のテーブルの前に腰を下ろしながら、静かに茶を点てている。その身の佇まいはまるで山に棲む霧のようであり、空気の一部のようであり、「人」というよりは、この地そのものの精のようにも思えた。

 ふと彼女は顔を上げ、ほのかに笑んで言う。


「よく来られましたね。今日は、風が澄んでいます」


「うん。なんとなく、ここに来たくなっただけなんだ。気がついたら足が勝手に動いてて⋯⋯」


 青年は彼女の向かいに腰を下ろす。椅子の木の感触が衣の下から静かに沁みて、胸の奥のざわめきが少しだけ和らいでいく。言葉は少なかったが、沈黙は心地よく、彼女は湯を沸かし、茶を淹れ、その所作にすべての気配を込めていた。

 湯の音。滝の音。森の囁き。山を渡る風がテーブルの上の湯気を揺らしながら、時の輪郭を曖昧にしていく。

 やがて、青年がふと口を開いた。


「⋯⋯俺さ、自分が“人間”やってるの、向いてないんじゃないかって思って」


 仙女は首を少しだけ傾ける。


「人として、生きることに⋯⋯向いていないと?」


「うん。毎日何かを“がんばってるつもり”なのに、結果が出なきゃ意味がないって言われてさ。⋯⋯頑張ることがどんどん空っぽになってく感じがして」


 彼は俯き、手の中の茶碗を見つめる。


「誰かの評価とか、SNSの“いいね”とか⋯⋯そんなものを気にしてばかりで、自分の心まで“アルゴリズム”に乗っ取られてるみたいでさ」


 仙女はわずかに微笑み、静かに茶を淹れながら言った。


「茶葉も、湯の温度を選びますね⋯⋯熱すぎれば、香りは遠のきます」


 差し出された茶碗からは、仄かな白梅の香が立ちのぼる。


「いいなあ⋯⋯俺にも“温度設定”が欲しい。今日ちょっと疲れてるんで、常温で動かしてくださーい、とかさ」


 冗談めかした彼の言葉に、仙女は目を細めて笑みを浮かべた。


「たとえ湯が熱すぎても、茶は香ります。⋯⋯ただ、いつもとは違う香りになるだけ」


「⋯⋯じゃあ、失敗しても、それはそれで?」


「“失敗”という言葉が、ふさわしいかどうかは⋯⋯」


 青年はゆっくりと茶を口に運ぶ。その味わいは静かに苦く、しかし心にそっと灯をともすような温かさがあった。


「⋯⋯俺、自分が“空っぽ”なんじゃないかって、思ってたんだよ。誰にも必要とされなくて、やりたいこともなくて⋯⋯バグみたいだなって」


 彼女の声が、葉擦れの音に混じるように届く。


「空である器がなければ、茶も注げませんよ」


「⋯⋯空っぽなのが、前提、なのかな」


「そうかもしれません。空であるからこそ、満たすことができる。何を満たすかは、焦らずとも⋯⋯風が、いつか教えてくれるでしょう」


 滝の音がふいに強まり、雲の合間から陽光が差し込む。水しぶきが踊り場に舞い上がり、風がそこをすり抜けていった。

 青年は顔を上げ、ぽつりと言った。


「今日さ⋯⋯ここに来て、何かが変わったわけじゃない。でも、ちゃんと呼吸できてる気がするんだ」


「それなら、もう充分です」


「変わるっていうより⋯⋯戻る、ってことなのかもな」


 仙女は頷いた。

 彼女の茶碗の縁に陽が差し、小さな虹がそっと浮かんでいた。

 青年は静かに立ち上がり、滝を見下ろす。風がそっと頬を撫でる。


「そろそろ行くよ。また来ると思う。たぶん、何回でも」


「ええ。風のあるときに、また」


 振り返ったとき、彼女はすでに新しい湯を沸かしていた。それが誰のための一服なのか──おそらく、風だけが知っている。


 帰り道、青年は深く、ゆっくりと息を吸った。

 そういえば──こんなふうに呼吸したのは、本当に久しぶりだった。

 

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仙女様と☯風の茶会 春風 嬉鳳 -Y.Harukaze- @H-Yoshikaze_032

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