【短編】ち◯こを忘れた大人たちへ

鷹仁(たかひとし)

第1話 家に忘れてきました。

 インパクト産業 第一営業部。

 出社時間の朝十時になると、早出の社員以外がばらばらとオフィスに入ってくる。

 一部上場の弊社の中でも、早出の社員はみんな出世街道をひた走るエリートだ。そして、そのエリートたちをまとめる頭脳。オフィスの最奥、入室する社員に挨拶を返しながら、眼鏡の向こうに光る鋭い眼光で事業計画を睨み返す男がいる。


 新卒入社してから今年で二十年目――次期社長候補と目されている榊雄一部長の元に、新卒二年目で若手のホープであり、榊の直属の部下である高橋亮介が歩いてきた。

 高橋は榊の元に来ると、何か話を切り出そうともじもじしている。大阪大学を首席で卒業し、先月の社内コンペで社長賞を獲った高橋が自分に何の話だろうか。

「すいません、榊部長。忘れ物をしたので、午前休を頂いて家に取りに戻るのは駄目でしょうか?」

 高橋が申し訳なさそうに告げたのは、半休の申請であった。

 弊社では申告さえすれば有給の取得は自由だ。結果さえ出せば、大まかな裁量は各社員に委ねられている。しかし、榊の心に気にかかったのは、申請理由の方だ。

「忘れ物って、何。スマホ?」

 普段、忘れ物などしない高橋が珍しいと思いながら、榊は眼鏡のつるに触れた。

 自分の目の前には、沈痛な面持ちで前かがみになっている高橋がいる。

 おおよそ、とんでもないものを忘れてきたに違いない。


「驚かないでくださいね?」

 厭な予感がする。高橋の前振りに、榊は眉根を寄せた。

「まさか、会社の重要な書類を置いて来たんじゃないだろうね?」

 高橋の沈み具合から察するに、きっと仕事上で重大な過失を犯したのだろう。

 しかし、自分も昔は大きな失敗で幾度も肝を冷やしたものだ。どんなことを言われても、自分が高橋を守ってやるつもりで、榊は高橋の顔を見た。

「違いますよ。書類は持ち出したりしませんし、ちゃんと金庫に入れてあります。あのですね、家に……を」

 高橋は大学時代にラグビー部主将として全国大会を連覇に導いた男だ。

 そんな彼が前かがみの内股で、しょんぼりしている。よほど自分の失敗が堪えているらしい。

「何、もっと大きな声で話してくれないと分からないよ! 失敗がなんだ! 胸を張れ‼」

 いつもはハキハキものを言う彼が口ごもるのを見て、榊は檄を飛ばす。

「ですから!」

 すると、高橋は意を決したように声を張り上げた。

 何やら覚悟を決めているようだ。高橋は二度深呼吸をして、よし。と、拳を握った。

 そして、高橋は、榊の耳元に近づき、次のように言う。

「家に……家に、ち〇こを忘れてしまったんです」

 聞き間違いだろうか。榊が怪訝な顔をすると、高橋が申し訳なさそうな表情をした。


「なにて?」

「ですから、ち〇こを。お〇ん〇んを家に忘れてきたのです」

 うーむ。榊は腕を組んだ。そして天井を見上げて、高橋の言葉を自分の中で何度も反芻する。榊の人生で、最大の危機。ふー、と吐いた息の分だけ、榊は無性に煙草が吸いたくなった。


 そして、頭の中ですべてがつながった瞬間、榊は事の次第を理解した。

「ち、ち〇こを……! ち〇こを忘れたのかね⁉」

 部長職に支給されるキャスター付きのアーロンチェアが三メートル後ろに吹き飛ぶ。あろうことか榊自身も、勢いを持て余して後ろの棚にぶち当たった。

「しっ、声が大きいです!」

 榊の方から大きな音がして、オフィス中の視線がこちらに集まる。

 しかし、高橋が横たわった榊を引き起こすと、何事もなかったようにみんなは仕事に戻っていった。

「失礼。プライバシーの配慮に欠けていた。で、ち〇こを忘れたというのはどういう意味かね?」

 驚いては見たが、榊にとってはいまだにち〇こを忘れるという行為が理解できなかった。どこか哲学的で、形而上の出来事であったからだ。


「実際に見てもらった方が早いかと。部長、ちょっとお手を拝借しても?」

 そう言うと、高橋は榊の手を掴み、それを股間の方へと持っていく。

 二人の視線が重なる。榊はまるで結婚初夜の花嫁のような面持ちでいた。

「少し恐ろしい気もするが、何だかドキドキするね。よし、覚悟はできたよ」

 榊は大きく頷いた。高橋も榊が了承したことを確認すると、ゆっくりと手を自分の股間の方へと誘導する。

「失礼します」

 榊の手が、スーツの上から高橋の股間に触れた。榊は、そこにあるはずの輪郭をなぞろうと、何度も何度も試みる。


 しかし、榊の指は高橋のズボンの上を滑るばかりで、決してその輪郭を辿ることはなかった。

「本当だ! 確かに、あるはずのものがない」

 榊は驚愕した。それは高橋の主張が事実であることを意味する。とんでもないことになったぞと榊は思った。

 無いものを触った反動なのか、今までに感じたことのない恐怖に駆られて、榊の筋ばった手が震えている。

「でしょう?」

「あるものがあったところは、ブラックホールのように吸い込まれていく感じがする」

 スンという音がしそうな虚無空間は、かつて確かにち〇こがあった場所だった。しかしそれがないとなると、そこはまさに未体験ゾーンである。

「不思議体験ですよね。で、どうしましょうか」

「うーむ、これは難題だな……」

 高橋がち〇こを家に忘れてしまった以上、それを取りに戻るのは正当性がある。

 しかし、榊はどこか、納得できない気持ちだった。


「午前休の申請は構わないけれどもだよ、君のそれが無くなって、何か困ったことはあるのかい?」

 好奇心がむくむくと立ち上がってきた榊は、高橋にそう聞いてみた。

「トイレで用が足せないのです」

 高橋は、神妙にそう答える。

「文字通り、用が無くなってしまったと」

 榊の言に、高橋は深く頷いた。

 尿意を解消できないのは確かに辛い。


 さらに、榊は高橋に聞いてみることにした。

「ちなみにだよ?」

 これは、一般論である。

「男は股間でものを考えるとは言われているが……実際のところどうだね? 頭は……いや、ち〇こははっきりしている?」

 高橋は、どうにもならないとでも言うように、両手を顔の高さに上げる。

「お手上げです。仕事になりません。何せ、家にち〇こを忘れてしまったので」

「ううむ……困ったな」

 すでに、榊の気持ちは固まっていた。

 これは、高橋を家に帰らせようと。

 よし。と、榊は膝を叩く。

「ち〇こは家にあるんだね?」

「はい」

「そう気軽に取り外せるようなものでもないだろうに……」

「迂闊でした」

「迂闊も何も、現に君はち〇こに主導権を奪われているのだよ? 社会人としての意識が低いんじゃないのかね?」

「これも経験だと思って、次に活かしていこうと思います」

「……まあ、君のそのポジティブなところは評価するがね……分かったよ」

 榊は有給申請書に判を押し、高橋に見せつける。


 申請書と榊の顔を何度も見比べ、高橋の顔はぱあっと明るくなった。

「では、家に取りに帰ってもいいと?」

「午後イチでミーティングがあっただろう。それまでに帰って来なさい」

「ありがとうございます、部長!」

「くれぐれも、今後はち〇こを家に置き忘れないこと!」

 榊の言葉に、はい! といつものような元気で返した高橋の顔は、まるで弊社の行く末を期待させるほど光り輝いていた。

 榊は先ほどのアクシデントで歪んだ肘当てに腕を乗せ、椅子に向かって深く座りなおした。


「大型新人はかくあるべし。ということか。……別に彼の大きさを測りたいとは思わないけれども」

「榊部長、高橋君はなぜ出社してすぐに出ていったんですか?」

 一人ごちる榊の元へと、経理の緒方がやってきた。彼女は先日営業部で催した飲み会の経費について榊を詰めにやってきたのだ。

「色んな意味で事情があってね」

「……はなせないって、また不倫ですか?」

「違う。そんな分かりやすい問題ではない」

「さっき高橋君に変な動きしてましたけど、セクハラで訴えられても知りませんからね。後、有給の申請書出してください」

 自分よりも一回り歳下なのに、緒方は部署違いの自分に対して冷たい目線を送る。

 そして用を済ませたと言わんばかりに、彼女は書類を榊の前に置き、さっさと自分の机に戻っていった。

「分かった。……さて、申請理由をどう書くかが問題だな」

 榊はどこかすがすがしい気持ちでいた。

 確かに珍妙なことではあったが、自分も昔は高橋のような無茶をしてきたのかもしれないと思い出していた。

「ち〇こを家に取りに帰る……か――」

 多かれ少なかれ、高橋が頑張っているのは事実だ。

 個性の時代だと言われてしばらく経つが、まだまだ自分も時代に取り残されないよう頑張っていかなければならないと榊は思っている。

「私たちの若い頃から、時代は、変わったのかもしれないね……」 

 オフィスは禁煙だが、たまにはいいだろうと、榊は煙草に火をつけた。



   了

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【短編】ち◯こを忘れた大人たちへ 鷹仁(たかひとし) @takahitoshi

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