卑怯な僕らを許して

雲居晝馬

第一話

 親友と同じ人を好きになってしまった。

 それだけは避けようと思ってたのに。


 佑月が汐見くんのことを好きだと言ったのは二年の初夏頃。

 文化祭の準備で仲良くなって、何度か一緒に帰ったりする内に、好きになってしまったと。

「愚直で、努力家。顔は普通だけど、正直に話せるし、一緒に居て居心地がいい」

 佑月からの評価は上々。佑月はこれまで何度も色んな男子に片想いしてきたが、初めて彼女がイケメン以外を口に出したので、今回は何かが違うと思った。


 案の定、佑月の恋は夏休み経ても続いていた。

 未だかつて、彼女の恋が長期休みを超えたことはなかったので、私は驚く。

 偵察のため、などと称して何度か別の友達と汐見くんに話しかけに行くだけなら良かった。

 たまたま帰り道が一緒になった時などに、ちょっかいをかけてやるつもりで、汐見くんに恋愛の話をしているうちに、少なからず仲良くなってしまっている自分がいることに気付いた。


 我ながら最悪だな、と思った。それに、恋愛の話で盛り上がっただけで、ちゃっかりその話し相手にも気持ちが動いてしまっている自分が情けなかった。救いようがなかった。

 この気持ちをどうすればいいんだろうか。莫迦みたいに勘違いな、この心を。


 答えは決まっていた。


 佑月が、汐見くんを好きだと言うたびに、私の心は激しくざわついた。いま動かなかったら、この娘に汐見くんを取られてしまうんじゃないか。可愛いこの娘に。

 それは完全に自業自得なのだけれど、私は、さも愉快そうに、くすぐったそうに自らの恋路を語ってみせる親友の姿が憎くて仕方がなかった。

 「ごめん、でも譲れない」なんて言えたらどんなにいいだろう。ライバルとして認め合えたら、どんなに素敵だろう。でもそれはやっぱり独りよがりの妄想だった。


 夏が終わって、秋になった。


 嫌なのに、やめたいのに。私はまだ、汐見くんの横顔にときめいている。


「好きです。付き合ってください」

 それを言ったのは、私ではなかった。

 二人だけの帰り道。秋の紅葉が散る、山道の天辺。街を見下ろす高台の上で、汐見くんが、私に、告白した。私は、言葉が、出ない。嬉しいはずなのに、喜びは全くと言っていいほど込み上げて来ない。私は本能的な癖に、理性的で、保身的な癖に、利他的だった。私の頭に浮かぶのは、佑月の顔だけ。

「ごめんなさい」

 口をついて出た言葉は、汐見くんの精神をへし折るにはうってつけの言葉だった。


 その後は、何かと気まずい日々が続いた。もちろん、周りにそのことを勘づく人はひとりもいなかったけど、それだけにやりきれなかった。


 私は告白された翌日も登校したが、空席の汐見くんの席を見て、「あぁ、私の恋心ってこんなもんだったのかな」なんて思ったら、今更涙が込み上げてきて、私はそんな自分が気持ち悪くて吐きそうだった。


 昼休みには相変わらず佑月の恋バナが華を咲かせた。私は今まで自分がどんな顔でそんな話を聴いていたのか、まったく思い出せなかった。


 三日ほど後、汐見くんは今までと何も変わらない様子で登校した。佑月は待ちかねていたかのように彼の元に話しかけに行って、その姿がなんとも痛ましかった。


 噂が流れ始めたのは、それから二週間ほど過ぎた頃だった。


 噂を聞きつけた他教室の女子がインスタで事実確認をしてきたことで、私は噂の存在を知った。事実の露呈に青ざめた私は、どうにか対処しようとしたが、手のつけようなんてなかった。誰かが見ていたか、汐見くんが話したか、ということだろう。


 「なんで言ってくれなかったの!」と、佑月が泣き腫らしたような眼で私に迫ったのは、翌日の放課後だった。私が図書室の書架の奥で本を読んでいる時に、彼女はやってきた。ああ、私はなんて莫迦なんだろう。焦った私は、具にもつかない言い訳を並べて、佑月の悲しみを私への攻撃かのように回避しようとした。

 そして、私は、もう自分でもほとほと死にたくなるような発言をひとつ。「ほんとは好きだったのに」。佑月の顔がみるみる崩れていくのが分かった。この純粋な乙女には確かに泣く権利があるのだと、私は上の空で思った。声をあげず、可愛い顔を押さえて泣く佑月は、本当に可哀想で、可愛かった。もし汐見くんがこんな佑月の姿を見ていたら、私なんかじゃなくて…。それより先は思わないようにした。


「最低」

 佑月はそう言って図書館を去った。あとに残ったのは、顛末を見ていた生徒の避難の眼と、途中から来て事態を飲み込めていない司書さんの呆気に取られた顔だけだった。

 私は暫く呆然とその場に突っ立ていたが、「あんた何がしたいわけ!?」と言って図書室に乗り込んできた佑月の友達らの声で、意識を取り戻した。私は最上階のトイレに連行され、罵詈雑言を浴びせられた後、本日二度目の「最低」という言葉を聞きながら、また、ひとりになった。


 私は翌日から学校へは行かなかった。


 会わないことが、顔を会わせないことが、お互いにとって一番良いと思った。いや、思いたかっただけかもしれない。それに事実、私は腹痛で登校できなかったのだ。

 朝になると吐き気が襲ってきてトイレに籠り、母親が仕事に出掛けた後では決まって良くなった。誓ってわざとしている訳じゃなかったが。実際にそうなったのだ。

 最初の数日間、私は朝も夜も別なくぼーっと考え事をしながら過ごした。考え事…考え事…一体何を考えていたのだっけ。とにかくそんな生活が四六時中続いて、そしてそれがもう何日続いたか分からないある日、私は唐突に吹っ切れて、初めて太陽の下に出た。その頃にはもう、紅葉はすべて散って、秋も終わろうとしていた。


 その日は、やけに上機嫌の母親の命令で、スーパーに高級な牛肉をおつかいに行っていた。季節はすっかり冬らしくなって、真っ白な雪が道路の脇に積もっていた。私は焼肉を楽しみにしながら、さっき買ったばかりのレジ袋を下げて、家路を急いでいた。

 その途中、私は正面から私の高校の制服を着た男子生徒が歩いてくるのを見て、思わず緊張した。心臓がバクバクと激しく鼓動する。私はなるべく眼を合わせないように歩いたが、男子生徒との距離が僅かになったところで、小さく顔を上げると、果たしてその男子生徒は汐見くんその人だった。彼は、私と目が合うと、無表情に眼を背けた。まるでもう、語ることは何も無いと言うように。


 帰宅すると、母は化粧をしていて、一体何事かと驚く。「お母さんの恩師の人なの」と母は言った。

 それは、事実だった。丁寧にトリートメントされた白髪で、黒縁の落ち着いた眼鏡をかけていた。母は彼を先生と呼び、三人で食事をした。私は少し彼を胡散臭く思ったが、一方で賢い人なのだろうと思った。母がトイレで少し席を外した隙に、私は思い切って悩みを打ち明けてみることにした。


「難しい状況だね」と彼は言った。

「君は偉いよ。そんなふうにちゃんと自分で考えて、何かを掴もうと苦悩している」

「それで?この先どうするのかな?」

彼は尋ねた。

「佑月に謝るとか?」

私は不意に尋ねられたので、うまく返答できない。

「そうだね。でもね、謝罪が時には攻撃になることも、理解しないといけないよ。一方的な反省が、あるいは自分の罪悪感を解消するための欺瞞かもしれない。謝罪によって、取り返しのつかない状況をチャラにしようなんてのは都合のいい言い訳かもしれない。」やっぱり胡散臭い、と私は思った。


 翌日、私はなんとなく学校に行く気になって、鞄を準備する。何日ぶりだろう。同級生は、私が教室に入るなり、一斉にこちらを向いて、それからまた、何もなかったかのように話し始めた。

 机が落書き帳になっていることも覚悟していたが、それはいつも通り綺麗で、「なんだ、こんなものか」と思った。


 暫くすると、教室に佑月が入ってきた。眼が合う。お互いに、眼は背けなかった。彼女の考えは分からないが、少なくとも、私が先に眼を逸らしてしまうのは、逃避だと思った。

 佑月は私を見ても無表情のままだった。喜怒哀楽のどれでも無い。壁を見るのと同じ。佑月はそのまま着席し、私からは彼女の背中が見えるだけだった。


 謝ってちゃんと償おう、というのはエゴだと分かっていた。あの、母の恩師とか云う人の言う通りだ。自分の罪悪感とか責任を払拭するための都合のいい欺瞞。罪に対して償うことなんてできない。罪には罰しか与えられない。罰は、ただ、これ以上関わらないことだ。自分の罪悪感を抑えて何もしないことが、彼女のためを思うなら今となっては一番マシな選択なのだ。

「ごめん」

私は、それでも、気付けば謝っていた。

「何?」

当然の反応。

「騙して、ごめん。調子のいいことして、ごめん」

私は謝った。許してほしいとは思わなかった。私は何も期待しなかった。ケジメもつける気はなかった。エゴでも何でも、適当な理屈で自分の中で結論付けて、黙っているなんて、それこそしょうもない。私はただひたすら我儘で、そしてその狡さを晒してしまおうと思った。自身の主導権を手放し、そしてその責任は私が負おうと思った。


「いまさらだよ。もう、私も冷めちゃったし」

 佑月は蔑むように苦笑した。

 私には何も言うことができない。

「あのあと私も考えたんだ。私たちはどうすればすれ違わなかったかなぁってね」

「……」

「分かるよ、あなたの気持ち。恋だもん。遅い早いとか関係ないよ。騙したり、奪ったりって言うのも…不義理ではあるけど、私が責めるようなことでもないのかなぁって思う」

 私は佑月の言葉を黙って聴いていた。朝の騒がしい教室の中で、私たちだけが静謐な空気を纏っていた。

「でも、申し訳ないけど、許す気にはなれないかな」

 彼女は笑いながら言った。

 私は、動揺しない。

「だからもう謝らなくて良いよ。私が困るだけだから。それよりも、話しかけないでいてくれた方がずっと有難い。ね、だから、お互いもうこのことは水に流しておしまいってことでいいでしょ?」

 私は、暫し沈黙の後、その提案に同意した。覚悟していたことだし、もはや惜しいとは思わなかった。私は佑月と別れ、再び席に着く。少し、涙が出たのが分かった。なぜ哀しいのか、分からなかった。


 その後のことを言えば、結局、私たちの縁が戻ることはなかった。私は、三年のクラス替えで同じクラスになった子と仲良くなって、また、普通の学校生活が始まった。もう恋はしないと思っていたが、隣の席の男子に告白され、私は彼と付き合った。佑月のことはもう思い出さないようにした。忘れるのが彼女の要求だったし、私にとっても忘れておくのが都合が良かった。


 卒業式の日、私は数日前に受験を終えたばかりで、気分は天下無双だった。友達と卒業旅行に行き、ひたすら遊び倒す予定だった。

 長い授与式が終わって、私は三年時、仲良くなった友達と写真を撮る。彼氏とも写真を撮る。そして、みんなに別れを告げ、私は帰路に就く。

 校門の前で、私はふと、何かを忘れていることに気が付いた。私の高校三年間の重要な核を占めたものをまるっきり、見落としている気がした。私は慌てて写真ホルダーを確認する。一体何が欠けているんだろう?しかし、写真ホルダーに残っているのは過不足なく私の友達ばかり。

 いや。違う。

 私は、一年間、意識の下に閉まった彼女の記憶を再び、思い出す。佑月の顔を、仕草を、言葉を。

「佑月!」

 私はまだ人が疎らに残る体育館へ走った。いまここで走らなければ、一生後悔すると思った。

 果たして、佑月はちょうど帰るところだった。

 彼女は驚いたような困ったような顔をして、私の名を呼び返す。

「一緒に、写真、撮らない?」

 余計な前置きは入れなかった。入れられなかった。どんな前置きをしても、それは私の保身のためにしかならないから。

 佑月はちょっと考えてから、「いいよ」と言った。


 シャッターを切る。一瞬が記録される。偽りの、でも、本物の。


 桜の木は、まだ開花していない。純白の梅が、ひらひらと舞って、地面に白い絨毯を敷く。

 最高の笑顔で、仲が良かった時にはそんな顔しなかったような、そんな笑顔で、私はシャッターを切る。佑月もまた、そんな風に笑った。


「ありがとう」

 私はそう言った。

「こちらこそ」

 佑月も言う。

「じゃあね」

 私は手を振る。満足と惜別。

「じゃあね」

 それ以上の言葉はもう、邪魔にしかならないと思った。別れを告げる言葉が一番の赦免になっていることに、私はやっと気付いた。

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