第十九話 仮面の下に残ったもの




 荒野の空は、色褪せた灰色だった。

 だが、焚火のまわりにあったのは、ぬるい熱気と、静かな安堵。


「おい、今日の斬り方、ちょっとえぐすぎなかったか?

 あの牙獣、胴体から真っ二つだったぞ? 怖えよ、カティス姉さん」


 陽気な声で笑ったのは、斧使いの男――名はダート。

 肩にかけた戦斧を軽々と振るいながら、カティスの隣に薪を投げた。


「えーっと……私は逆に助かりました」

 と、もごもごと喋ったのは、回復魔術師の青年ミアス。

 彼はいつも視線を合わせるのが苦手だったが、パーティでは最も頼りにされていた。


「背中は任せるって言ったでしょ、あの時」


 そう言って笑ったのは、弓使いの女――リーデル。

 焚火の奥で革の手袋を外しながら、ふっとカティスの方を見やる。


 カティスは、無言でうなずいた。

 その表情の裏で、ふと、兜の縁を持ち上げる。


 ──“仮面”は、今は外していた。

 火の光が彼女の横顔を照らし、目元にわずかな疲労と、安らぎが重なる。


「……今の私は、“誰でもない”けど」

「この時間だけは……忘れていられる」


 心の中で呟いた言葉を、誰も知らなかった。


 任務は小さなものだった。

 ゴブリンの巣の掃討、旅人の護衛、古井戸の調査。

 だが、そのどれもが命を預け合うには十分だった。


 夜、テントの前でダートが大声で歌いながら酒を飲み、

 リーデルが苦笑しながらミアスに薬草の煎じ方を教える。


 その横で、カティスは剣を研いでいた。

 だが、どこか――微笑んでいた。


 翌朝、彼らが並んで朝靄の中を歩く。

 並んだ背中、足音、交わる言葉。


「お前さ、実はけっこう人間っぽいよな。へへっ」

「……人間の定義が曖昧すぎる」


 乾いた笑い声と、意味のない返答。

 だがそのやりとりに、ほんのわずかな温度が宿っていた。


 カティスの心の奥に、ひとつだけ芽生えたものがあった。


「……信じてみても、いいのかもしれない」


 そう思った。

 剣を振るうだけじゃない時間が、ここにはあった。


 だが、そのわずかな希望は――

 次の夜に、すべて踏みつけにされる。



 ***



 夜風が冷たく、月のない夜だった。

 任務の報酬を受け取り、パーティは街の酒場でそれなりに騒いでいた。


 カティスは早めに席を立ち、宿の二階の部屋へと戻っていた。

 仮面は外したまま。

 扉に背を預け、長く息を吐いた。


 ふと、背後で足音が止まる。


 ノックもせず、扉が開け放たれた。


「よぉ、姉さん」


 現れたのはダート。

 戦斧を置き、酒の匂いを身にまといながら、にやついた顔でこちらを見ていた。


「せっかく仲間になったんだ、もっと仲良くしようや?

 剣だけじゃ、寂しい夜もあるだろ」


 カティスの瞳が細くなる。

 その瞬間、空気が変わった。


「出て行け」


 冷たい声に、ダートは一歩踏み出す。

 その手が腰に伸びかけたとき、剣が抜かれた。


 ──銀の閃光。


 ダートの腕が裂け、血が飛び散る。


「……っぐ、あ゛ッ!?」


 呻きながら後ずさる彼に、カティスは一歩も追わなかった。

 ただ、剣を下げたまま、無言で立っていた。


 ダートはその目を見た。

 静かで、憎しみも怒りもない瞳。

 まるで――何も期待していなかったかのような、冷たい闇だった。


「……チッ、ちょっと触れただけだろうが」


 そう吐き捨てて、彼は扉を閉めた。


 翌朝、ギルドの掲示板にカティスの名前があった。

 “危険人物”“暴行容疑”――そして、“種族的凶暴性の疑い”。


 受付にいたギルドマスターは、一枚の書類を無言で突き出した。


「名を聞こう」


「……」


「いらんか。“仮面の女”で記録しとく。

 もう二度と、この街では依頼を受けることはできん」


 冷たいまなざし。

 見慣れたはずだった。


 だが、背後にいたはずの仲間たちは、誰一人として姿を見せなかった。


 リーデルも、ミアスも。

 “あの夜”のことを知っていたはずの仲間は――

 誰も、口を開かなかった。


「……そうか。

 “仲間”じゃなかったのか」


 ポツリと呟き、仮面をつけ直す。

 表情はなかった。

 ただ、剣だけが――僅かに震えていた。


 朝霧の漂う路地を、ゆっくりと歩く足音があった。

 背中には荷物をひとつ。腰には剣。

 その姿を、街の人々は遠巻きに見ていた。


「あれが混血の女よ……」

「ほら、例の“仮面の”……ほら、暴れたやつだって」


 耳に届く囁き声は、声量よりも冷たさのほうが重かった。

 言葉は針のように鋭く、容赦なく皮膚を刺す。


「殺しもしたって噂よ。

 夜中に斧使いを斬ったって……」

「“あの種”に関わると、ろくなことがないって、昔から言うじゃない」


 カティスは、足を止めなかった。

 ただ、片手で仮面を握りしめる。


 ふと、すれ違う人混みの中に――

 あの弓使いの女、リーデルの姿があった。


 以前、焚火を囲んで笑いかけてくれた、あの横顔。

 だが、リーデルは一瞬だけカティスと目を合わせ――

 何も言わず、目を逸らし、歩み去った。


 まるで、知らない人間を見たように。


 門を出た後、森の手前の小道でカティスは立ち止まった。


 風が、仮面の縁を撫でた。

 汗でも、雨でもない。

 目元から流れ落ちそうになるものを、彼女は指先でそっと拭った。


「信じた私が、愚かだった……」


 声は掠れていた。

 けれど、剣を握る手だけは震えていなかった。


「……もう、“名乗る”ことすら、いらない」


 静かに、仮面を顔に戻す。

 カチリと、留め具の音だけが響いた。


 誰もいない森の中、光の届かぬ木々の下で、

 ひとりの人間が――“名もない女”へと戻っていく。


「これで、誰にも失望しない」

「誰にも、裏切られない」


 その背に、鳥の鳴き声すら届かなかった。



 ***



 ――それから、数年が過ぎた。

 仮面の女は街から姿を消し、人々の記憶からも薄れかけていた。


 だが、消えたのは“女”だけだった。


 夜の街に、喧騒と煙の匂いが漂っていた。

 その一角、冒険者どもの溜まり場になっている娼館兼酒場では、

 笑い声と安酒の匂いが入り混じっていた。


「おいおい、聞いてくれよ。俺さぁ、前によ~」

 斧使いのダートが、娼婦の胸元を揉みながら、上機嫌に叫んでいた。


「仮面かぶった混血の売女をよォ、追い出してやったのよ。

 暴れやがったからよ、ギルドに報告してやったんだ。正義ってやつ?」


 周囲の笑い声。

 だが、それは本物の笑いではなかった。

 誰もが「止めない」、誰もが「黙って笑う」だけの夜だった。


「ったくよ、あんな血が混ざったヤツが“元騎士”とか――笑えるだろ?」


 杯を傾けながら、ダートはひとり、勝ち誇っていた。


 そのとき、店の扉が、コトン、と小さく開いた。


 冷気を引き連れて現れたのは、ひとりの男だった。

 つば広のフェルトハットを深くかぶり、ロングコートの裾が足元に揺れる。

 無精髭の顔は薄く影に沈み、首元には弾頭と指輪のネックレス、黄金の識鉄牌しきてっぱいが光っていた。


 男はカウンターに無言で腰をかけ、ウイスキーを一杯、指で示した。


 誰もが、その場の空気が変わったことに気づいていた。

 声が一段、下がる。喉が乾くような、沈黙。


 だがダートだけは、それに気づかず――

 笑いながら立ち上がった。


「おっと、そろそろ行くかね~。なあ、今日は奮発しようぜ」

 そう言って、娼婦の腰を抱きながら、出口へ向かう。


 わざとらしくよろめき、

 カウンターに肘をついた拍子に、男のグラスを弾いた。


 ウイスキーが、男の肩にかかる。


「うぉっと、わりぃな兄ちゃん! ハッハッハッ――」


 男は、ゆっくりと立ち上がった。


 何も言わない。

 ただ、左手でコートの裾を軽く払うと、右の拳を引いた。


 音はなかった。

 風の音も、息の音もなかった。


 次の瞬間、男の拳がダートの顔面を貫いた。

 骨の砕ける鈍い音。

 ダートの足が宙を浮き、そのまま壁に叩きつけられる。


 床には、歯と血と、砕けた顎が落ちていた。


 誰も声を上げなかった。

 男――黒江誠志郎くろえせいしろうはゆっくりとハットを直し、グラスの代      金を無言で置いて、

 背を向けて店を出た。


 その背中には、名も、理由も、怒りすらなかった。

 ただ――“気に入らねぇ”という感情だけが、そこにあった。


 店主が、扉の向こうを見つめながら、小さく息を吐いた。


「……名乗らず、語らず。

 それでも……あの人がやったってことだけは、皆、わかってる」


 娼婦が、呻き声もあげられないダートを見下ろしながら、ぽつりと呟いた。


「口じゃなくて、拳が正しい夜ってのも……あるんだね」


 その夜、誰も“あの仮面の女”のことを口にしなかった。

 ただ、街の片隅に染みついた“汚れ”だけが、

 拳によって――一時的に、消された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チートも魔法もいらない。拳と銃で全部ぶっ放す! 追放クズの異世界反逆録 あらた かなた @aratakanata1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ