となりのベンチ

山猫家店主

となりのベンチ

朝の空気には、まだ夜の名残が少しだけ混じっている。

街路樹の葉を揺らす風はすべてを洗い流すように澄んでいて、アスファルトの匂いすら、どこか遠くの景色に感じられた。


公園を横切るのは、通勤経路のひとつに過ぎなかった。

職場へ向かうにはもう一本裏道もあったが、俺はあえてこちらを選んでいた。

その理由は、自分でもはっきりとはわかっていない。


公園の中央に置かれた、ひとつの木製ベンチ。

いつからか、そこに毎朝、ひとりの女性が座っていることに気づいた。

年のころは六十をいくつか過ぎているだろうか。小柄で、淡いベージュのコートを羽織っていることが多い。膝の上には、紺色の手提げカバン。姿勢はよく、背もたれに寄りかかることなく、静かに前を向いている。


初めは気にも留めなかった。

毎朝の風景の一部として、目の端に映るだけの存在だった。


だが、ある朝、ふと彼女の指先が動くのを見た。

手提げカバンから小さな便箋を取り出し、それを膝の上で広げ、なにかを丁寧に書きはじめる。

筆記具は万年筆だろうか。力の入れすぎない、けれど迷いのない手つきだった。

書き終えると、それを封筒に入れ、封をする。そして、ふうっと息を吐いて、目を閉じる。


その一連の動作を、俺は足を止めずに通りすがりながら、横目で見ていた。


手紙……?


誰かに書いているのか、それとも自分宛てなのか。


翌朝も、その翌朝も、女性は同じようにベンチに座り、便箋を広げ、静かに文字を綴っていた。

俺は、気がつけば毎朝の足取りに少し余裕を持つようになっていた。公園に入る角を曲がる頃には、自然と胸の中に「今日も、あの人はいるだろうか」という期待のようなものが浮かんでいた。


声をかけるには、まだ少し距離があった。

けれど、何度か目が合った朝には、小さく会釈を交わすようになった。


その朝の空気の中で、言葉のないやりとりは、じゅうぶんに温かかった。


──俺はまだ、彼女の名前も知らない。


けれどそれが、何かの始まりであることを、うっすらと予感していた。


それは梅雨の入り際で、雲が重たく垂れこめた朝だった。

普段より少し早く目が覚めたせいで、出発の支度にも余裕があり、俺は傘を持って少しだけゆっくりと公園に向かった。


雨がまだ降り出していないのが不思議なくらいで、空の底にはもう水の気配が満ちていた。

公園のベンチには、いつもどおりの彼女がいた。


それだけで、なんとなく、ほっとした。


だが、その日、彼女の膝の上には便箋ではなく、封筒だけが置かれていた。

白くて、やや厚手の封筒。雨を気にしてか、ビニールのような素材の小袋に入れられていた。

いつもと同じように、それをじっと見つめている。


俺は、その朝も通りすがりに軽く会釈をした。

すると彼女は、ふっとやさしい笑みを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。


「……おはようございます」


はじめて声を交わしたのは、その朝だった。

その声は、小さな音だったけれど、風に紛れることなく真っ直ぐ耳に届いた。


「おはようございます」


俺は傘を肩に担いだまま、ぎこちなく返した。

立ち去ろうとしたとき、彼女が封筒を少し掲げて、ぽつりと呟いた。


「これ、出してきてもらえますか?」


差し出された封筒は、切手も貼られていなければ、宛名も書かれていない。

裏面も、白紙のままだった。


「……宛先、ないですよ?」


「ええ、大丈夫です。ポストに入れてくだされば」


雨のにおいがいよいよ濃くなってきて、俺は思わずその封筒を受け取った。

「わかりました」とだけ言って、そっと胸ポケットにしまう。


その日から、彼女と俺のあいだに、ちいさな“交換”がはじまった。


毎朝、彼女は封筒をひとつ手渡してきた。

中身については何も言わず、俺も訊くことはなかった。

切手も宛名もない封筒を、俺は会社の近くのポストに、まるでおまじないのように投函した。


彼女の表情は、いつもどこか遠い場所を見ていた。

笑ってはいるが、その奥に沈んでいる何かが、雨に濡れたベンチの木目と重なって見えた。


俺は、次第に彼女の手紙の“宛先”が、もうこの世にはいない誰かではないか、と思うようになった。

翌朝も、空は曇っていた。

ポストに投函したあの白い封筒が、どこへ届いたのか、あるいは誰にも届かず消えていったのか、考えても答えは出ない。

ただ、あの手紙が彼女の心を少しでも軽くしたのなら、それでいいような気もした。


ベンチには、いつものように彼女がいた。

けれど、今日は封筒を手にしていなかった。


「雨、降らなければいいんですけどね」


俺がそう言うと、彼女は少し笑って、隣のスペースをぽんと軽く叩いた。

座っていってもいいという合図だった。


「少しだけ」


そう言って腰を下ろすと、ベンチがかすかに軋んだ。


「息子がいたんです」


彼女はぽつりと言った。


「もう、いなくなってしまいましたけどね。十年前に」


「……そう、でしたか」


「事故でした。急でした。最後の言葉も、顔も、ちゃんと覚えていません。ただ……あの子に、何か伝えたくて」


それきり彼女は、黙った。

俺も、言葉を返すことができなかった。


手紙は、やはり“届かない誰か”に向けたものだった。

けれど、あの白い封筒を差し出す彼女の手は、いつも迷いがなかった。

言葉は、たしかにどこかへ向かっていたのだ。


俺はしばらく黙って、濡れた木の香りに満ちた空気の中で、ふと思い出していた。


この街に越してきたのは、去年の秋だった。

理由はいくつかある。仕事の異動。住んでいた部屋の契約更新。そして──もうひとつ。

五年前に別れた婚約者が、こことは反対側の街に住んでいたこと。


駅までの道を変えたのも、そのせいだった。

偶然、彼女の姿を見かけた日があって、そのあとから、なるべく反対方向を歩くようになった。


気がつけば、このベンチのある道が“心地いい避け道”になっていた。


ふと、彼女が声を落として言った。


「ねえ、あなたは……誰かに、伝えられなかったことって、ありますか?」


その問いかけは、俺の胸の奥に、静かに沈んだままの“言葉”をゆっくり揺らした。


「……あります。たくさん」


「じゃあ、いつか。よかったら、あなたも、書いてみたら?」


そう言って、彼女は小さな便箋の束をカバンから取り出した。

それをそっと、俺の膝の上に置く。


雨が降り出したのは、その直後だった。

彼女の傘と、俺の傘が並んで広がり、ちいさな屋根の下にふたり分の音が溶けていった。


便箋の束は、薄い水色の罫線が入った、どこにでもあるような紙だった。

角が少し丸くなっていて、古い文房具店にでも置いてありそうな質感だった。

受け取ったときには礼も言えず、ただポケットに入れたまま、家まで持ち帰った。


夜、机に向かってそれを広げてみた。

だが、書くべき言葉が見つからなかった。


──伝えられなかったこと。

何を? 誰に? なぜ?


それが分かっていれば、今こうして一人で便箋を見つめる夜を過ごすこともなかっただろう。


それでも、便箋の一枚を取り出し、万年筆を手にした。

それはずっと引き出しの奥にしまっていたもので、婚約していた頃に、彼女からもらったものだった。


インクを吸わせる。

指に持ったその感触に、思い出したくもなかった記憶が、じわりと滲んできた。


「いまさら、何を書けばいいんだよ……」


小さくつぶやいた声が、部屋に沈む。


それでも、最初の一文字を記したのは、彼女の言葉がずっと心に残っていたからだ。

「あなたも、書いてみたら」──そのやさしい声に背中を押されるようにして。


結局、その夜は二行だけでペンを置いた。

《ごめん、あのとき、俺は逃げた》

それだけを書いて、封筒に入れた。宛名も差出人もない、白い封筒。


次の朝。

いつもより少し遅れて公園に着いた。

彼女はもうベンチに座っていて、いつものように手提げカバンを膝に載せていた。


「……書いてみました」


そう言って俺が封筒を差し出すと、彼女はふわりと笑った。


「じゃあ、あとは投函するだけですね」


「あなたの手紙も?」


「今日は、私のぶんはお休みです。かわりに、あなたの手紙を見送りましょう」


ふたり並んでベンチを離れ、駅に向かう途中にあるポストの前に立った。

こんなふうに誰かとポストの前に立つのは、子どものころ以来かもしれない。


俺はゆっくりとポストの投入口に手をかけた。

封筒を差し入れたそのとき、彼女がぽつりと呟いた。


「きっと、届きますよ」


「宛先もないのに?」


「ええ。だって、そういうふうにできてるんです。手紙って」


封筒が落ちる音はしなかった。

けれど、胸のなかで何かが、たしかに小さく落ちていく音がした。



「今日は、ちょっと……」


いつものようにベンチに座った彼女は、言いかけて少し黙った。

そして手提げの中から、封筒ではなく、古びた小箱を取り出した。


木製の、掌に乗るくらいの大きさの箱。

留め金の部分には細かい傷がいくつも走っていて、長い年月を経てきたものだとすぐに分かった。


「これは……?」


「息子に宛てた、最初で最後の手紙が入ってるんです」


俺は、息を飲んだ。


「事故のあと、どうしても書きたくて。でも、どこにも出せなくて……」


彼女は箱をそっと開け、中から一枚の便箋を取り出した。

端に少し焼け跡がある、色褪せた紙だった。


「この手紙を……投函してもらえませんか?」


差し出されたその便箋は、封筒に入っておらず、文字がうっすらと透けて見えた。

思わず視線を逸らそうとしたとき、彼女が言った。


「読んでくれても、いいんですよ」


そう言って、ふわりと笑った。


少しの沈黙のあと、俺はそっと便箋に目を落とした。

筆跡は、まるでそのときの涙をふくみながら書いたような、震える文字だった。


たいちゃんへ

ごめんなさい

おかあさん、ちゃんとありがとうって言えなかったね

あの朝、いつもより早く出かけたあなたに、ただ「いってらっしゃい」としか言えなかった

もっと、ぎゅっと抱きしめてあげればよかった

あなたが生まれてくれた日から、毎日が宝物でした

あなたに会えて、ほんとうによかった

ありがとう

ずっと、だいすきです


文字を追うにつれて、胸がきゅうっと締めつけられていく。

その中の一行、「もっと、ぎゅっと抱きしめてあげればよかった」が、なぜか自分にまで届いてくるようだった。


俺もまた、誰かを抱きしめることから逃げた人間だった。

大切な人に言葉を残せず、背を向けたまま、別れを選んだ。


「……投函します」


声は思ったよりもかすれていた。

彼女は、そっと便箋を封筒に入れ、白い糊を封じた。


「これで、やっと出せます」


ふたりで歩いたその日の道は、いつもより長く感じた。

けれど、ポストにその封筒を落とした瞬間、何かが静かに終わった気がした。


「ありがとう」と彼女が言ったあと、俺はなぜか、

「……たいちゃんも、きっと喜んでます」と、自然に口にしていた。


それが、彼女を見送るための、俺のささやかな言葉だった。



その朝も、曇っていた。

けれど、風には春のにおいが混じっていて、桜の蕾がわずかに色づいているのが目に入った。


俺は、少しだけ急ぎ足で公園に向かった。

いつもより早く目が覚めたわけでも、特別な理由があったわけでもない。

ただ、彼女に「昨日の手紙のことを、少し話したいな」と思っただけだった。


……けれど。


ベンチは、空っぽだった。


その事実を受け入れるまでに、数秒かかった。

たまたま遅れてるのかもしれない。風が強いから、今日は来ないだけかもしれない。

そう思いながら、俺はその前をゆっくり歩いた。


でも、何かが違った。

そこには、誰かが“いなくなった”という空気が、はっきりと漂っていた。


次の日も、またその次の日も、彼女の姿はなかった。

俺は、それでも毎朝同じ時間にベンチの前を通った。


そして一週間が過ぎた朝。

ベンチの背もたれに、小さな紙袋がかけてあるのを見つけた。


中には、便箋が一束と、一通の封筒が入っていた。

その封筒には、俺の名前が、柔らかな筆致で書かれていた。


驚きと戸惑いが入り混じったまま、その場で封を開けた。


中には、短い手紙。


あなたに出会えて、ほんとうによかったです

手紙を書いて、出すことができて、すこしだけ心がほどけました

あの子に届いたかどうかはわかりません

けれど、私の声が誰かに届いたことが、なによりの救いでした

あなたがこの先、誰かに言えなかった言葉を伝えるとき

この便箋を使ってくれたら嬉しいです

ベンチの朝が、どうか、これからも誰かの居場所になりますように


感謝をこめて        ——加奈子


最後の名前を見たとき、ようやく彼女の“名前”を知った。

こんなにも長いあいだ言葉を交わしていたのに、それを訊くことすらしなかった自分に、少し苦笑した。



俺はその朝、ひとりでベンチに座った。

そして、便箋の束を撫でるようにして膝の上に載せた。


次は、俺の番だった。


あれから、俺は何通かの手紙を書いた。

便箋の束をめくるたび、彼女の声がどこかにいるような気がした。


あのベンチに座ることが、日課になった。

今では、通りすがりの子どもや犬の散歩をする老人たちに軽く挨拶されるほど、そこは“自分の居場所”になりつつあった。


ある日、投函の帰りに、駅前の交番の前を通った。

ふと目に入った掲示板に、小さく張り出された訃報があった。


『○月○日、市内在住の女性・杉山加奈子さんが逝去されました。享年七十二歳』


胸の奥がきゅうっと縮む。

思っていたよりもずっと静かに、彼女はいなくなっていた。


帰り道、公園のベンチに向かう途中、ひとりの男性とすれ違った。

黒縁の眼鏡に地味なスーツ。

その人もまた、ベンチの前で立ち止まり、ふと俺のほうを見た。


「……すみません。このあたりに、杉山加奈子という方が……」


声をかけられて、俺は驚いた。

「知ってます」と返すと、彼はほっとしたように微笑んだ。


「私、彼女の甥にあたります。……ご存知だったかもしれませんが、彼女には……実の息子さんはいませんでした」


「え……?」


「若いころに婚約者を事故で亡くされたと、ずっと話していました。以来、ずっとひとりで。ただ、“たいちゃん”という名前の男の子を、昔、施設で何度か見舞っていたそうです」


その言葉に、背筋をなにかが這うような感覚が走った。

たいちゃん──


「……もしかして、その“たいちゃん”の名前、わかりますか?」


「ええ。私も最近知ったばかりなんですが、戸籍に残っていまして。

“田中大志”……だったと思います」


その名前は──俺の、本名だった。


呆然と立ち尽くす俺を見て、男性はゆっくりと頭を下げた。


「彼女は、ずっと何も言わなかった。けれど、たぶん……あなたのことを、覚えていたんでしょう。きっと、どこかで、偶然に出会えると信じていたんじゃないでしょうか」


その日、俺はベンチに戻り、そっと便箋の束の最初のページをめくった。


一枚だけ、少し厚みの違う紙が挟まれていた。

そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。


たいちゃんへ

あなたに気づいてもらえなくてもいいと思っていました

それでも、こうして声をかけられたとき、世界が光ったように感じました

名前も、過去も、忘れてくれていていいんです

ただ、あのベンチで過ごした朝の空気が

あなたの未来を少しでもやさしく包みますように

わたしのことは風にしてください

どこかで、またね


──杉山加奈子


その瞬間、ようやく気づいた。

俺がこの公園を通るようになったのは、偶然なんかじゃなかった。

あの朝の「おはようございます」が、すべてのはじまりだった。


風が吹いた。

桜の花が、ひとひら、ベンチに舞い落ちた。


俺はその便箋を抱えて、もう一通、自分の手紙を書き始めた。


                           了

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となりのベンチ 山猫家店主 @YAMANEKOYA

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