泥むわたしの家

比之 燈詩

第1話

 「おばあちゃん、またでたよ」

 「またかい、懲りないねえ」

 夕暮れ時の鐘が鳴って、橙の光が畳に落ちる。その中で、黒い影がざあざあと動いていた。

 部屋の端でうずくまってうめいているお兄ちゃんは使い物にならない。きっと鱗が痛むのだろう。あれだけ他人からもらったご飯は食べてはいけないと言われていたのに。

 「おりちゃん、いけるかい?」

 「うん、大丈夫」

 そう答えれば、仏壇の遺影が笑いかけてくれる。わたしにとってのおばあちゃんは、この遺影の中でころころと笑うおばあちゃんだ。小さい頃からそうだったから、この額縁に収まっていないおばあちゃんをおばあちゃんと言われてもきっとぴんとは来ないだろう。

 「気を付けていくんだよ」

 「うん、わかった」

 そうして、茶の間から台所に向かって、やかんでお湯を沸かす。あれくらいならお湯でもかければ一発だろう。水は好きだけどお湯は嫌がる。理屈は分からない。

 ほどよく沸いた湯を持って、ざわざわとしていた庭の、影の方へ向かう。

 すると異臭が漂ってきた。ぶちぶちと嫌な音がする。ああ、だから庭でやらかさないで欲しいのに。またご近所さんから苦情が来たらどうしよう。

 音のそばで立ち止まれば、黒いそれは顔をあげた。女の人のように見えるけれど、目も鼻も口も黒く窪んでいてよく分からない。

 女の人のような何かは、ぼそぼそと言葉にならない声をつぶやいている。手元を見れば、家の鼠でも捕まえたんだろう。手足をちぎって腸を裂いて、見るも無残な姿にしている。子供の癇癪の方がよっぽどかわいいものだった。

 「あなたのご主人に伝えて。お兄ちゃんは貴方のお婿さんにはなれませんって」

 そう告げて、何かを言われる前にやかんのお湯をどぼどぼと黒い影にかけていく。

 お湯が影に触れた瞬間、じゅわりと音がして、そうして影をじわじわと溶かしていく。不思議だ。ただ沸かしただけのお湯なのに。

 おばあちゃんはおりちゃんが作れば何でも効くのよと言っていたけれど、そうなんだろうか。水は効かなかったけど。作るという過程が重要なんだろうか。

 そうこうしているうちに、女の人を形作っていた影は木の陰に溶けていってしまった。そこに残ったのはお湯の水たまりと、見るも無残な鼠の残骸。

 「いい加減地味な嫌がらせやめて欲しいなあ」

 ぼやきながら、物置へシャベルを取りに行く。これをこの暑さの中放置してしまっては、ご近所さんからの非難は免れない。折角町内会に入れたのに、ご近所に溶け込もうという両親の苦労がパアである。

 シャベルを取って、木の根元にざくざくと穴を掘っていく。鼠だったその亡骸を土に埋めて、両手を合わせて拝む。可哀そうに。鼠と言えどこんなふうに殺されるとは思ってなかっただろう。

 全てを終えて、シャベルを元に戻し、やかんを手に取り、仏壇のある茶の間に戻った。いつのまにか部屋の隅に居るお兄ちゃん気絶していた。可哀そうに、痛みに耐えられなかったんだろう。

 「おばあちゃん、終わったよ」

 「あいご苦労様」

 遺影のおばあちゃんはにこにこと笑う。おばあちゃんがこう声を掛けてきてくれるということは、終わったということでいいのだろう。

 「執念深いお嫁さんだね」

 「マア新婚だったからしかたないさね。おりちゃんがいてくれてなきゃこの家はぺしゃんこよ」

 「ぺしゃんこは困るなあ」

 お兄ちゃんのお嫁さんは、お兄ちゃんをあの手この手であの世に連れて行こうとしているらしい。その過程で、この一家は丸ごと呪われているらしいとはおばあちゃん談だ。

 「ばあちゃんが現役だったらよかったんだけどねえ。そしたら一発よ」

 「どんなふうに一発?」

 「そら顔に平手打ちよ。目を覚ませってね」

 それはちょっと見たかったかもしれない。

 「おりちゃん。そろそろお母さんたち帰ってくるから、手を洗っておきなさい」

 「うん、わかった」

 台所に戻って手を洗い、やかんも洗って元に戻す。今日も今日とてお嫁さんの嫌がらせがあったことなどお母さんたちには知る由もないのだろう。

 押し入れにあった布団をはぎ取って、お兄ちゃんにかけておく。案の定腕の鱗が腕の肉に食い込んでいた。可哀そう。でもこれをはぎ取ろうとするとなると腕を落とさないといけないから、耐えてもらわないといけない。

 「お兄ちゃんが連れてかれたらみんな死んじゃうんだっけ」

 「そうさねえ、あの様子のオンナならするだろうよ」

 「怖いね」

 「おりちゃんがいるから大丈夫よ。あいつらはおりちゃんが怖いからね」

 それもよくわからないけど、おばあちゃんが言うならきっとそうなんだろう。今日も今日とてお兄ちゃんと我が家の命運を守れたことを誇ってよし、ということで。

 「おりー!いるーー?買い物いっぱいあるの!玄関まで来てーー」

 「ほらお母さんだ、言っておやり」

 「分かった。はーーい」

 朗らかなお母さんの声が響いて、弾かれたように玄関に駆けだす。またお兄ちゃん具合悪かったのから始まって、いつも通りの話になるんだろう。

 そういつも通り、今日もこの家は泥んでいるのだから。

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