第4話(終) 満ち足りた家

 二ヶ月後。

 黒川玲の洋館は、かつてない程に、その美しさを増していた。

 蔦は以前より深く、鮮やかな緑を湛え、薔薇の花は季節外れにもかかわらず、その深紅の色彩を惜しみなく咲き誇らせている。

 まるで、洋館そのものが生命の歓びを謳歌しているかのようだ。

 近所の住民たちは、玲の洋館を遠巻きに見つめながら、不思議な噂話を囁き合っていた。

「黒川さんのところ、最近、夜の間もずっと明かりが灯ってるらしいね」

「ええ、それに、どこからか楽しそうな話し声が聞こえるって……」

「奥様が亡くなってから、孫娘の玲さん一人きりだと聞いていたのに」

 噂は尾ひれをつけて広がり、やがて「洋館に不思議な現象が起きている」という都市伝説めいたものに変わっていった。

 しかし、誰もがその洋館の美しさに魅せられ、同時に、そこに漂う近づきがたい神秘性に、安易に足を踏み入れることはなかった。

 ある日の午後、玲は洋館の庭で、満開の薔薇の世話をしていた。

 彼女の指先は花弁に優しく触れ、その瞳はどこまでも穏やかだ。

「ありがとう、みんな。今日も、ありがとう」

 玲は、誰に向かって言うのでもなく囁いた。

 その声は、かつての孤独を微塵も感じさせない、満ち足りた響きを帯びていた。

 洋館の窓から、声が聞こえた。

「玲、そろそろお茶にしないか?」

 それは、潤の声。

「あ! 私、ケーキ出すの手伝う!」

 続いて夏希の元気な声。

「おい、夏希。大きいケーキは俺のだぞ」

 健斗の抗議する声が、笑い声に変わる。

 彼らの声は、生前の彼らそのものだった。

 玲は顔を上げ、窓越しに洋館を見つめた。

 ステンドグラスの奥、カーテンの隙間から、潤、夏希、健斗の姿が確かに見えた。彼らはテーブルを囲み、楽しげに笑い合っている。

 彼らの存在は、もはや玲の心の中にだけ存在する幻想ではない。彼らは、この洋館の一部となり、玲と共に永遠を生きているのだ。

「みんな、せっかちね。今、行くわ」

 玲は、友人たちに向かって優しく応えた。

 そして、彼女の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。

 庭の薔薇の根元から、細い、肉色の蔓がゆっくりと伸び、蛇のように鎌首を持ち上げ玲の頬にそっと触れた。それは優しく、彼女の生命力を吸い取るように、ほんのわずか、脈打っている。

 しかし、玲はそれに気づかない。

 いや、気づいているが、それは彼女にとって心地よい触れ合いなのだ。

 一人ではない。

 もう、決して一人ではない。

 この洋館は、彼女の望む全てのものを与え、その中で、愛する者たちは、永遠に彼女の傍にいる。

 満たされた洋館は、静かに。

 そして、ゆっくりと、さらなる深みへと沈んでいくのだった。


(終)

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満ち足りた家 kou @ms06fz0080

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