第3話 饗宴

 相田潤は、夕暮れの淡い光がアスファルトに長い影を落とす道を、少し早足で歩いていた。手にした紙袋の中では、パーティー用に買った少し奮発したワインがことことと小さな音を立てている。

 今夜はただのパーティーじゃない。

 『玲を元気づける会』だ。

 僕たちがいると、一人じゃないと、玲に分かってもらう為の、大切な夜なのだ。

 会場はいつも通り、黒川玲の家。

 仲間たちの誰もが愛するあの洋館だ。ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出して画面を見ると、玲からのメッセージだった。


『ごめん。急な仕事で少し遅れる。カギはいつもの場所にあるから、先に入って始めてて』


 メッセージの最後には、おどけた猫のスタンプが添えられている。

 そのいつもと変わらない文面に、潤は安堵と、ほんの少しの寂しさを覚えた。やっぱり、俺たちに心配かけまいと、無理してるんじゃないか。

「よし、最高の準備で迎えてやろう」

 潤は決意を新たに、洋館へと続く坂道を上る。

 やがて、蔦の絡まる美しいシルエットが見えてきた。玲の美意識そのもののようなその建物は、今日も夕闇の中で静かに佇んでいる。

 潤は慣れた手つきで、玄関脇のアイアン製のプランターの裏から合鍵を取り出した。

 カギを差し込み、重厚な木製のドアを開ける。

「おじゃましまーす。玲を驚かせる作戦を始めるぞ!」

 そう言いかけた潤の言葉は、喉の奥で氷の塊になった。

「あ……あ……」

 声にならない呻きが漏れた。

 生存本能が、後悔と絶望を塗り潰す。

 逃げろ。

 彼は絶叫すら忘れ、踵を返した。

 持参したワインは、床に落ちると、やけに大きな音を立てて砕け散った。

 開けたばかりのドアから転がり出て、夢中で石畳を駆ける。

 助けを、誰か。

 警察、消防?

 いや、そもそもこれを――。

 その行く手を遮るように、影が立った。

「どこへ行くの、潤。パーティーは、これからよ」

 鈴を転がすような、しかし感情の温度が一切感じられない声。

 そこに立っていたのは、黒川玲だった。

 パーティーの主役にふさわしい、シンプルな黒のシルクワンピース。その滑らかな生地が、彼女のしなやかな体の線を縁取っている。

 だが、その姿はあまりに場違いで、異様だった。

 冷たいアスファルトの上に、彼女は汚れ一つない素足を晒しているのだ。風に乱れる様子もない完璧にまとめられた黒髪、陶器のように白い肌。

 そして、潤の絶望など何一つ映し込んでいない、湖のように静かな瞳が、ただ真っ直ぐに彼を見つめていた。

 彼女の周りだけ、風が止んでいるかのように空気が凪いでいる。

 仕事で遅れるはずの彼女が、なぜこんな姿で。まるで夜会の主役のように、彼女の表情は、慈愛に満ちた聖母のように穏やかだった。

「玲……」

 潤は、気管が痙攣するように激しく震えた。彼女の名を呼ぼうとする声が、細く震える。

「大変なんだ! 健斗と夏希が……」

 早く伝えなければ。

 家の中の、あの信じがたい光景を。

 事件なのか、それとももっと理解不能な何かなのか。とにかく、玲に知らせて、一緒に逃げなければ。

 しかし、玲は潤の切羽詰まった言葉にも眉一つ動かさなかった。彼女はただ、穏やかな、あまりに穏やかな微笑みを浮かべているだけだ。その表情は、まるで潤が何を言うのか、すべてお見通しだとでも言いたげだった。

「知ってるわ」

 玲の唇からこぼれたのは、潤が予想していたどんな言葉とも違っていた。その声は、春の小川のせせらぎのように、優しく冷たい。

「健斗も夏希も、もう大丈夫よ。やっと、安らかな場所を見つけたんだから」

 玲は、洋館に思いを馳せるように見る。

「……え? 何を……言ってるんだ?」

 潤の思考が、一瞬停止する。

 安らかな場所?

 あの地獄のような光景のどこが。玲はショックで混乱しているのか?

 いや、違う。

 彼女の瞳は、恐ろしいほどに澄み切っている。

「潤も、見てきたんでしょう?」

 玲はゆっくりと歩き潤の脇をする抜ける。

 潤は、玲の姿を追って背後にある洋館へと視線を移した。玲は、まるで愛しい我が子を見つめるような、慈愛に満ちた眼差しを家に向ける。

「あの子たち、とても幸せそうだったでしょう? もう、仕事のことで悩むことも、人間関係で苦しむこともない。ただ、この家と一つになって、永遠に満たされていられるの。私が、そうしてあげたのよ」

 ぞわり、と潤の背筋を悪寒が駆け上った。玲の言葉の一つ一つが、理解不能なパズルのピースのように、彼の頭の中で組み合わさっていく。

 そして、一つの、信じがたい結論を形作り始めた。

(まさか。まさか、玲が?)

 潤の思考が疑いを持つ。 

「さあ、潤も入りましょう。あなたのために、一番素敵な場所を用意してあるわ」

 玲が一歩、踏み出す。潤との距離を詰める。その穏やかな微笑みが、今は死神の鎌の煌めきよりもおぞましかった。

「僕たちは……。『玲を元気づける会』をしようと……」

 潤は、最後の理性を振り絞って、かろうじて言葉を紡いだ。彼らの善意、友情、その全てが、目の前の彼女には届いていないのか。

 玲は、その言葉に心から不思議そうに、小さく首を傾げた。

「元気づける? 私を? ふふ、ありがとう。嬉しいわ。でもね、もうその必要はないの。私は、この家が、この土地が、私を愛してくれるから。そして今、あなたたちも、その愛の一部になるのよ」

 その瞬間、潤は見てしまった。

 玲の背後、洋館の開け放たれた玄関の暗闇から、ぬるり、と何かが這い出てくるのを。

 それは、健斗と夏希に絡みついていたのと同じ、肉色の、脈打つ触手だった。

 玄関を開けた時、潤の見たもの。

 それは、家に喰われる二人の友人の姿だった。


 目の前に広がっていたのは、いつもの暖かく洒落た玄関ホールではなかった。

 それは、巨大な生物の体内としか思えない、冒涜的な空間だった。

 甘ったるい腐臭と、生暖かい湿気が鼻腔を犯す。

 壁紙は粘液でふやけて引き裂かれ、その下から現れた生々しい肉壁が、巨大な心臓のようにゆっくりと、絶え間なく脈打っている。その表面には血管のような筋が走り、時折けいれんするように蠢いていた。

 天井のシャンデリアは、輝くガラスの代わりに、先端から透明な粘液を滴らせる無数の肉質の蔓と化している。床のペルシャ絨毯は、ぬらぬらとした羊水のような液体に沈み、踏み入ることすら躊躇われた。

 そして、部屋の中央には。

 数日前、玲を心配して声を荒げていた健斗が、その脈打つ壁に肩まで埋められていた。まるで無理やり受胎させられたかのように、彼の腹部は不自然に膨れ上がり、その皮膚の下で何かが蠢いているのが見て取れる。

 口はだらしなく開かれ、そこから壁へと繋がる細い管が何本も突き刺さり、何かを絶えず送り込んでいるようだった。

 そして、彼の左腕は、肘から先がなかった。

 代わりに、壁に開いた裂け目のような器官が、まるで咀嚼するようにゆっくりと開閉を繰り返し、その内側の歯のような突起が、彼の骨を砕く鈍い音を立てていた。

 そして、その傍らで。

「な、つき……」

 健斗が密かに想いを寄せる夏希は、まるで悪趣味なオブジェのように、床から花弁のように開いた肉の台座に拘束されていた。

 ジムで鍛えられたしなやかな四肢は、粘着質な無数の細い触手によっていやらしく絡め取られ、大きく開かれている。彼女の衣服は溶解したかのようにところどころが肌に張り付き、その肌の上を、先端が吸盤状になった小さな触手たちが、何かを探るように執拗に這い回っていた。

 そして、彼女の太腿の付け根に、まるで巨大な蛭のように、赤黒く脈打つ肉塊が吸い付いていた。

 それは紛れもなく「口」だった。

 その肉塊は、ゆっくりとした蠕動運動を繰り返しながら、彼女の肉を少しずつ、確実に溶解させ、吸収している。

 その証拠に、彼女の脚は、肉塊に覆われた部分から先が、蝋のように白く、細く変色し始めていた。

 彼女の活発だった瞳からは光が消え、ただ虚ろに宙を見つめている。

 潤は夏希と目が合ったような気がしたが、その瞳にはもう何の感情も映らない。半開きの唇から、涎と共に意味をなさない喘ぎのような音が漏れ、その度におぞましい肉の台座が恍惚としたように震えるのが見えた。

 ぐちゅり、ねちゃり、という粘性の高い水音と、ごり、ごり、という骨の軋む音が、部屋の隅々から響き渡る。

 家が、生きている。

 家が、仲間を凌辱し、同時にゆっくりと喰らっている光景だった。


 玲は黒曜石の様に滑らかな石を取り出す。

 夕闇の中でも、それは自ら淡い光を放っている様に、ぬらりとした存在感を放っている。

「これ、なんだか分かる?」

 玲は、まるで宝物を見せるかのように、その石を潤に向けた。

「お祖母様が言っていたわ。これは、この土地そのもの。ゲニウス・ロキ……。土地の魂が眠る心臓なんですって。昔の黒川家は、これを鎮めるために人柱を捧げたりもしたそうよ。

 でも、私は知ってる。この子は、ただ寂しかっただけ。愛されたかっただけなの。私と同じ様にね」

 玲の呼びかけ応じて、玄関から触手が這い出す。

 それはまるで、主人の言葉に応える忠実な番犬のように、ゆっくりと、確実に、潤へと向かって伸びて来た。

 潤は仕事柄、図書館の古書で読んだ断片的な知識が、玲の言葉によって恐ろしい形で繋がっていく。


【ゲニウス・ロキ(genius loci)】

 古代ローマで信じられていた「土地の精霊」「場所の守護霊」。

 地霊と訳される。

 蛇の姿で描かれることが多く、欧米での現代的用法では、「土地の雰囲気」や「土地柄」を意味し、場所に現れている際立った雰囲気・土地特性であって、歴史・文化の蓄積によって生み出される類型化できない固有の価値、あるいはそれを体現している特別な場所をいう。

 本来は中立か善良な存在だが、オカルトの世界では、その土地に宿る強力な意志や意識として解釈され、時には人間に対して敵対的な、邪悪な存在として描かれる。


 玲は喜ぶ。

「素敵でしょう? この家が、私に応えてくれたの。もう誰も、どこにも行かない。健斗も、夏希も、私も、そして潤も、ずうっと、永遠にここで一緒にいられるのよ」

 玲はうっとりと両腕を広げた。

 その言葉は、潤の最後の希望を粉々に打ち砕いた。

 ゲニウス・ロキは迷信ではなかった。

 この土地に眠る古代の地霊は、玲の孤独に共鳴し、彼女を新たな巫女として、そして仲間たちを新たな人柱として求めたのだ。

「何を……言ってるんだ……? 僕たちは、玲を助けたくて……」

 潤の声は、恐怖と裏切りへの怒りでかすれていた。玲の背後からは、家が喜ぶかのように、ぐちゅり、と粘性の高い音が聞こえてくる。

「助ける? 私を? 違うわ、潤。私が、あなたたちを助けるの。孤独や、不安や、悲しみから。この家と一つになれば、もう何も怖くない。だから、潤も一緒に……」

 玲が一歩、踏み出す。

 その穏やかな微笑みが、今は何よりもおぞましかった。

 潤は後ずさるが、足が鉛のように重い。

 アスファルトに染みた夕闇が、まるで沼地のように彼の足首に絡みついてくる気がした。

 いや、気などではない。

 視線を落とすと、自分の影から、黒い触手のようなものが何本も伸びていた。それは玲の影と繋がり、さらにその先、脈打つ洋館の基礎部分から伸びてきているものだと直感した。

「さあ、おいで。もう離れ離れになることはないのよ」

 玲が手を差し伸べた瞬間、背後の家から凄まじい勢いで肉色の触手が飛び出した。それは鞭のようにしなり、逃げる間もなく潤の身体に巻き付く。

「やめろ……! 玲ッ!」

 悲痛な叫びも虚しく、触手は潤の身体をいとも容易く宙へと持ち上げた。視界が逆さまになり、ゆっくりとあの地獄の入り口へと引きずり込まれていく。

 壁に吸収されゆく健斗の虚ろな目と、助けを求めていた夏希の、今はもう何も映さない瞳が見えた。

 ああ、これが結末か。

 僕たちの善意は、友情は、この狂気の餌になっただけなのか。

 玲の歪んだ愛情の中で、永遠に。

 玄関の暗闇に身体が引き込まれる寸前、潤は最後に玲の顔を見た。

 玲は愛おしそうに、石を胸に抱きしめ、心の底から幸せそうに微笑んでいた。

 愛する者たちを全て手に入れ、二度と孤独になることない世界を完成させた、満ち足りた笑顔だった。

 それが、潤の見た最後の光景だった。

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