第10話
ボクはいつものように、ホテルの前に座り込んでいた。
すぐ隣にはシェリー姉さんが、しゃがんで優しく微笑んでくれている。でも何かがいつもと違う。
通りを走るクルマの音が聞こえない。クラクションの音すら響いてはいなかった。だがその代り、どこからか静かに、『ホテル・カリフォルニア』のメロディーが漂っていた。
しばらくそのメロディーに身を委ねていると、突然それが消えた。
目の間のホテルの玄関ドアがゆっくりと静かに開く――。
ドアの足元から流れ出た黒い霧のようなものは、ホテルの中まで充満し、中を窺うことが全くできない。徐々にボクの心臓の音が聞こえてきた。
黒い霧がゆっくりとボクの脚元まで伸びたとき、突然化け物の群れがホテルの中から飛び出してきた。
その化け物たちは、口元から牙を覗かせ、涎を垂れ流しながらゆっくりとボクのほうに近付いてきた。
咄嗟に助けを求めようと、シェリー姉さんに顔を向けた。だが姉さんは哀しそうな瞳で、何も言わずにボクをじっと見つめているだけだった。
やがて化け物たちは、笑いながらシェリー姉さんを抱え上げると、また黒い霧が充満したホテルのほうへと向きを変え、ゆっくりとした足取りで戻ろうとしていた。
反射的にしがみつこうとしたボクの鼻先に、別の化け物が振りおろした斧が地面に突き刺さった。ボクはゆっくりと顔をあげた。
「え? マー?」
醜い化け物の顔がなぜだか、ボクのマーに変わっていた。
(え? なぜ? なんでマーが?)
ボクはもうなにがなんだかわからなくなり、混乱した。
頭が割れるように痛かった。訳が分からなくなり、大声で叫んだ――。
ありったけの声を絞り出した途端に視界がまばゆい光に包まれた。
ゆっくりと、目を開けると見た覚えのない女の人の顔が目の前にクローズアップされた。
女の人の後ろには、シャンデリアが柔らかな光を放っていた。
しばらく考えて、どうやら気を失っていたことを認識した。だんだんと意識がはっきりとしてくる。
今までに感じた覚えのない柔らかな感触を背中に感じた。黒いベッドのようなソファーに身体が沈み込んでいるのが解った。
「やっと、気付いたね」
見知らぬ女の人は優しく微笑んだ。
「あの、こ、ここは……?」
ボクはようやく思い出して声を絞り出した。
「ここは、〈マカティ・シティ〉よ。私はマリア」
彼女はウインクして、その手をボクの前に差し出した。
「あの、ボク……」
まだ、状況がよく呑み込めず戸惑った。
「あなた、ロハス・ブルーバードで飛び出してきたのよ。名前は?」
マリアと名乗る女性は、手を差し伸べたままの姿勢でボクの顔を覗き込んだ。
茶色がかった長い髪と白い肌に一瞬目を奪われた。
(そうだ、ボクは死のうとしてクルマに飛び込んだんだ。それから……)
ボクの頭に鮮明に記憶が蘇った。迫りくるクルマ、ヤシの木、男の声……、そしてシェリー姉さんの哀しげな瞳……。
「リュウ……」
自分の名前を告げながら、マリアの手に触れた。
彼女はボクの名前を聞いて少し驚いた表情を見せた。
「リュウ……だけ? ハポンの名前ね。」
おそらく彼女もかなり日本人慣れしているんだろう。ボクは黙って頷いた。
「おーい、どないや、気ィ付いたか?」
壁の向こう側から、男の野太い声が聴こえてきた。
何語なのか、よく聞き取れない。
「うん、大丈夫、たぶん」
マリアが日本語らしい言葉でそれに応えた。
声のした方向に目を向けると、男が上半身裸で頭を拭きながら部屋から出てきた。
「あっ」
ボクは思わず声をあげた。
あの男だ。眼鏡は外しているが、切れ長の目に、短く刈り上げた頭、なにより大柄な体格、間違いない。
「おい、ボウズ。むちゃしよんな! たしかに見捨てたんは悪かったけど、や。借りモンのクルマに傷ついたらどないするねん!」
ボクは次から次にに早口で捲し立てる男の言葉を全く理解できずに俯いた。
「お? なんや? コイツ、日本語が全然わからんのんか?」
男は尚も意味不明の言葉を並び立てた。堪らずマリアに目を向けると彼女は苦笑いして、首を横に振っていた。
「OK、特別にタガログ語で話してやるよ」
男は急に丁寧なタガログ語で話しかけてきた。
ボクは驚いて男の顔を見返した。
日本人らしいその男は、流暢なタガログ語で「アキ」と名乗った。
マリアのように握手しようとはしない。でもその代わりに大きな冷蔵庫から取り出したコークを手渡してくれた。
「あ、ありがとう」
ボクは緊張しながらもアキの顔を見上げて礼を言った。
アキはゴクゴクとコークを一気に呷り、またボクをじっと見てきた。
「お前、日本人とのハーフか?」
ボクはコークを口にしながら、黙って頷いた。
アキはボクの顔をあたかも品定めでもするような表情で見つめていた。
「へえ、顔はほんまに日本人やのに喋れんのやなあ」
アキは悪戯っぽく笑いながら、また聞き取れない言葉を使った。
やはり全く理解できずに首を捻った。
「ああ、悪いな。つい、日本語が出てしまった」
苦笑いしながらボクの横に腰掛けた。案の定、次はボクのない右脚に視線を落としていた。
「これ、誰かにやられたのか?」
アキは少し鋭い眼つきに変わった。
ボクは強がって、笑って見せた。
「義父、もう死んだけど。でもよく覚えてないんだ」
一瞬アキの顔が強張ったが、すぐにマリアのほうを向き直し、首に掛けていたタオルを手渡した。
そして煙草を咥えると、またボクに視線を向けた。
「で、どうして死のうとしたんだ?」
コークを口元から離し俯いた。彼の言葉で、急にシェリー姉さんが、ギャングのような連中に連れて行かれた現実が、ボクの頭を打ちつけた。
(そうだ。ボクが情けないばっかりりに、ボクの身体がこんなのだから、一番大切な人を連れて行かれた)
ボクは、自分のあまりに情けない現実をありのまま、アキとマリアにぶちまけた。
義父によって脚をなくされ、物乞いをしている日々のこと、ソイツが殺されて間もないのに、またもマーが新しい恋人を作った事実、なによりもぼくにとって唯一の理解者で、一番大切なシェリー姉さんが連れ去られた状況を……。
アキは、終始険しい表情のまま、ボクを見つめていた。やがて話が終わると、煙草に火を翳しながら尋ねてきた。
「お前、今いくつだ?」
「もうすぐ、十四歳」
「そうか、じゃあ、もうすぐ大人だ。死ぬ覚悟があるんなら、自分の力で生きて行け。生きて、生き抜いて、力を蓄えてから、その女の子を助けてやるんだな」
アキは煙草の煙を勢いよく吐き出した。
ボクは俯き、なくなった右脚に視線を向けた。するとアキは冷めた瞳で言い放った。
「おい、甘えるなよ。この国でも、どこの世界にもお前のような境遇の子供などたくさんいる。そのハンディを言い訳にして逃げるな。自分だけがアンラッキーなどとは思うな。生きたくても生きれないヤツだっているんだ。自殺なんて卑怯者がする行為だ」
「ちょっと! アキ」
マリアが、捲し立てるアキを制してくれた。
途端にアキは我に返ったように、表情を崩した。
「おっ? ああすまん。ちょうキツすぎたか? 日本語やないとニュアンスが難しゅうてな。勘弁せぇよ」
彼は首を竦めながら苦笑いした。
「あの……それって日本語?」
アキとマリアを交互に見た。
「ああ、日本語だ。まあ俺のは〈オオサカベン〉だけどな」
「……オオサカ、ベン?」
ボクは聞いた覚えのない単語に、咄嗟に聞き返した。
「まあ、簡単に言えば田舎の言葉だ。こっちでも色んな言葉があるだろ?」
アキは説明が難しいのか、少し困ったような表情をした。
それを見てなんだか緊張が少しずつほどけてゆくのを感じた。
「あなたは〈ビサヤ〉訛りね。出身はビサヤ? それともミンダナオのあたり?」
マリアがニコニコしながらそう訊いてきた。
「えっ? ボクはずっとこっち、マニラだよ。どうして?」
「そうなの? わたしダバオ出身なんだけど、同じアクセントだったから……変ね、わたしが変わっちゃったのかな」
マリアが苦笑いして首を傾げた。
一瞬、マーの顔が頭に浮かんだが、アキの言葉ですぐに消えた。
「そんなんどっちでもええがな。それより腹へったわ! マリア、なんぞ、デリバリーしてくれや」
「そうね。何が食べたい?」
アキの〈オオサカベン〉をマリアはタガログ語で返しながらボクに向かって微笑んだ。
その表情が、一瞬いつもボクがお祈りをしていたマリア様の像と重なって見えた。
しばらくして、玄関ドアをノックする音が聞こえた。
マリアが応対に出て、リビングに戻ってきた時には、両手いっぱいに紙袋を抱えていた。
よく見かける汚い紙袋ではなく、わざわざ取っ手までついたそれには、見慣れた高級レストランのロゴと店名が記されていた。
「それって〈マックス〉なの?」
「そうよ、嫌いだった?」
ボクは咄嗟に首を振った。もちろん嫌いなわけなど、ない。
というよりも、食べたこともなければ、店に入ったことすらなかった。
〈マックス〉はチキン料理中心の高級レストランで、フィリピンのあちこちにあるらしいが、ちょうどボクたちが稼ぎ場としているホテルのすぐ並びにもあった。
店内にあたりまえのように入っていく金持ちそうな連中をずっと羨ましく見つめていたのを思い出した。
「さあ、どんどん食え。ガキは遠慮すんなよ」
アキに力強く背中を叩かれ、ついさっきまで死のうとしていたボクの喉がなった。
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ハポンたちの夕焼け 山猫家店主 @YAMANEKOYA
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