第9話
〈ニノイ・アキノ国際空港〉に近づくほど、やはり渋滞は酷くなっていた。
俺を乗せたバイクは、ほとんど動いてはいない状態の車両を縫うように走り抜け、漸くターミナルワンの文字が見えたところで路肩に停まった。すぐにマリアの携帯へ電話した。
「どこや?」
「いま、到着ロビーのフロアよ。ポリスが一人ずつチェックしてるからまだ外には出れそうにないヨ」
マリアも初めての経験だったに違いない。まだ随分と声がうわずっていた。
「ノリはどうや?」
「大丈夫、みたい。さっき気が付いたから……」
「わかった五分くらいでそっちに行くから、出口近くの見えるとこにおってくれ」
バイクを降りるとすぐに空港駐車場の中を駆けた。
到着出口には、すでに軍のものと思われる装甲車が二台停車しており、その周りは多数の警官と野次馬たちとで騒然となっていた。
慌てて不用意に駆け寄ろうものなら射殺されそうな雰囲気で、思わず立ち止まった。
「アキ!」
すぐに雑音によって掻き消されそうな弱い声だったが、なんとか拾った。
声のほうに向かって人混みを掻き分けて進むと、マリアのなんとも情けない表情を読み取れるまでに近づくことができた。
「入るな!」
すぐに警官が制してきた。ガムを噛み、相変わらずの態度だった。
「こんな大事でも変わらん奴らやのう」
日本語でぼやいたのだが、勘がいいのか警官は一歩近寄ってその浅黒い顔を近づけてきた。
「おっと」
いつもなら、腐敗しきった警官が横行しているこの国においては、小銭でどうとでもなるのだが、さすがにこの状態ではむずかしいかもしれない。
きっとノリは怒るだろうが、切り札を出すことにした。
「おい、あそこに男と女がいるだろ?」
タガログ語で、警官にマリアたちを見るよう促した。
「アイツらがどうした? ハポン」
警官は完全になめきった態度に変わった。
「女は問題ないが、あの男のほうはちょっと問題だぜ。なんせおまえんとこのカーネル(大佐)のファミリーなんだからな」
煙草を口にやりながら、さらりと言い放った。
警官は一瞬にしてその動きが止まり、すぐさま手で噛んでいたガムを取り出して、ノリたちのほうに駆け寄った。
俺はゆっくりと煙草をふかしながら、その成り行きを見つめた。
遠目にでもわかるほどノリの表情は迷惑そうに見えたが、この状態では仕方がないと観念したのか、自分のIDカードをかざしていた。
するとすぐに二、三人の警官がノリたちのまわりに集まった。いかにも悪徳警官といった風貌の連中は、しばしやり取りしたのち、姿勢を正して敬礼のポーズをとった。
警官たちに見送られ、野次馬の視線が集まる中を、ノリがマリアに支えながらゆっくりと出てきた。
「アキさん、やめてよ。奥さんに怒られるヨ、ワタシ」
ノリは小太りな身体を縮め、野次馬たちの視線を気にしながら顔を顰めた。
「しゃあないやろ、この場合。それより具合はどうやねん?」
「うん、ボンバーの音にびっくりして転んだのヨ。その時頭打っちゃったけど、もう大丈夫ネ」
ノリは流暢な日本語で恥ずかしそうに言った。
「なんや、直接ケガした訳やないんやな」
「わたし、ノリさん起きないから死んだと思ったヨ」
マリアがやっと安堵の表情を見せた。
「一応今日は家まで送るわ。さっき奥さんにも電話しといたから、心配して待ってるやろ」
「えっ、ほんと? アキさん」
ノリは悪戯が見つかった子供のような顔をした。
俺たちは空港駐車場に停めてあったノリの車まで、人波を押し分けるようにして移動した。
俺は自分で運転すると言い張るノリを半ば強引に助手席へと座らせて、自ら車のエンジン・キーを回した。
俺がノリと知り合って、もう五年ほどになる。
マリアよりも付き合いは長い。マリアたちジャパユキのオーディションと称した品定めと、もう一つの理由のため、年に数回フィリピンを訪れている時に知り合った。
当時からノリは〈ヘリテージホテル〉の専属タクシーとして営業していた。
俺は特に指名していたわけではないが、まだタガログ語も英語もほとんどできない状態だったので、自然といつもノリがついていた。
ノリはフィリピン人にしては珍しく口数の少ないタイプだった。
もともとの性格もあるだろうが、余計な事をしゃべらなかったり、でしゃばった真似はせず、一歩下がったその姿勢は、日本に出稼ぎに行ってから、身に付けたと謙遜した。
「日本人、嫌いでしょ? そういうの」
通算で四年ほど日本に滞在したらしいが、その間に日本人の好みも解るようになったと笑った。
「わるかったな、ノリ。義弟のこと」
ノリの車を運転しながら、助手席に座る彼に謝った。
「いいよ、いいよ。アキさん、もう気にしないで」
運転までしてもらって、これ以上謝られたら困るといったとこなのか、体全体を竦めるように小さくなった。
ノリの奥さんが高級役人の姉だと知ったのは、知り合って二年ほどした頃だった。
俺と同じ同業者と連れ立って、フィリピンに来た時にちょっとした事件が起きた。
その連れは、フィリピンが初めてで、着く前の機内で十分にこの国の治安の悪さには気を付けろ、と念押ししたにも関わらず、単独でホテル外に出てしまった。
大通りに面している上、ひっきりなしに車が行き交うロケーションから、勝手に安全だと判断したようだが、大間違いであった。
運が悪かったと言えばそれまでだが、彼はすぐさま二人組の強盗に遭遇した。
なんとか命は取られずに済んだものの、ご丁寧にパスポートと所持金全額を持ち歩いてたらしく、勿論それら全部を取り上げられ、俺の部屋にパニック状態で泣きついてきた。
「そうだったネ、ほんと危なかったネ」
ノリは俺の昔話に、懐かしそうな声を出して相槌を打った。
「あげくに犯人が現役の制服警官ときよった。まいったで、ほんまにあの時は……」
その当時からこの国の警察は腐敗しきっていると、タレントたちから聞かされていたが、実際にいざそうなってみると、これほど厄介な相手はいない。
困り果てた俺とその連れは、とりあえず日本大使館に向かおうとノリのタクシーを呼んだ。
よほどその時の俺たちの表情が、いつもと違っていたのか、普段は余計な詮索をしてこないノリが、「何か問題でも?」と訊いてきた。
藁にも――の思いで打ち明けると「それだとたぶん時間かかるか、ででこないネ。ちょっとまって」ノリはそう言うと、クルマを路肩に停めた。
しばし考えたあと、自分の携帯を取り出し、どこかに電話を一本かけた。
「アキさん、たぶん大丈夫ヨ。ホテルで待ってて、あとでワタシが盗られたもの持っていくから」
電話を切って、ノリはにこやかにそう言った。
俺たちは、まさしく狐につままれたような気分のまま、言われた通りにホテルの部屋へと引き返した。
二人きりになり、連れの男が、やはり不安になったのか、しばらくの間、あれこれと五月蠅く騒いだが、所詮日本とは事情や勝手が違う。
俺はノリを信じて待つことにした。
「そうなの? アキさん。ワタシ信じてくれてたのネ」
ノリの顔が綻んだ。
俺たちの心配はすぐ杞憂に終わった。
ノリは一時間もしないうちに部屋に現れた。その手には奪われた財布とパスポートとがしっかりと握られていた。
ノリの奥さんの事情はその時に初めて聞かされた。
彼の義理の弟は、PNP(フィリピン国家警察)のエリートで、もうすぐカーネルと呼ばれる署長クラスにもなる人間だという。
日本でいうところのキャリアと呼ばれる部類だそうだ。
後から知ったことだが、日本と同じく腐敗しきったこの国においても、警察組織内の縦社会は十分に機能していて、やもすればそれは日本以上のものだという事実だった。
ただ大きな違いは、日本において上に逆らっても最悪でも失職くらいのものだが、こちらの場合は事情が全く違うということだった。
この国は、それがたとえ警官といえども犯罪者に対しては容赦がない。
フィリピン第二の都市と呼ばれる〈ダバオ市〉においては、市長自らが私設警察を保有しており、麻薬がらみの犯罪者を中心に独自に裁いていると、まことしやかに囁かれていた。
もちろん裁くとは、殺し――即ち暗殺のことだ。
この噂は、ダバオ出身のタレントからもよく聞かされた。
知り合いのジャンキーの家に、突然、覆面をした男たちが現れ、無言のまま引き金を引いた――という類の話であったが、日本にいるころは全くの与太話と信じていなかった。
やはりそれは、どれだけ自分が、安全で平和な守られた場所に生まれ育ってきたのかを認識できていなかったからに違いない。
日本の常識や現実といったものは、この国において全く意味を成さないのだと、だんだんと感じていった。
「で、ノリ? あの時の警官たちってどうなったんや」
「さあ……それは……あ、アキさん、そこを右のほうが近いネ」
ノリはすぐに話を逸らした。
彼の家に到着し、全くタクシーには不釣り合いと思える堅牢なガレージに駐車すると、すぐに奥さんが飛び出してきた。
彼女は何か月ぶりかの俺とマリアとの挨拶もそこそこに、ノリへと駆け寄った。
最初険しかった彼女の表情もノリの身体の無事を確認すると途端にくずれた。
「ごめんな、サリー。ちょっと大げさに騒いでしもうて」
サリーは国営銀行の勤めで、日本語とは全く縁がなかったのだが、ノリと一緒になって、すぐほとんどの日本語を理解するようになった。
文字通りの才色兼備と言いたいが、色のほうはそれなりなのが救われた。
「ううん、いいのアキさん。ワタシ心配だから、でも大丈夫でほんとよかった」
ふつうなら、結婚した相手の家が裕福で、しかも権力者ならなおのこと、それに寄りかかるのが、この国の男たちの特徴と言えるのだが、それを頑なに拒否しプライドを持ってタクシーに乗り続けるノリと、そんなありきたりではない面に惹かれたのであろうサリー、俺にとってはこの夫婦も、マリアと同様に信頼できる数少ないフィリピン人だった。
サリーとノリが、ぜひ夕食を一緒に、と言うのを、もう夜も遅いからと玄関口で断った。
タクシーで帰る旨を告げると、サリーが半ば強引に、自分のクルマのキーを持たせた。
「おいおい、アメ車のSUVやんけ」
「ワオ! すごぉい。さすが、お金持ちネ」
ノリは全く気にしてないようだが、俺の日本人としてのちっぽけなプライドは少しだけ傷ついた。
最近よくケーブルテレビで見かけるアメリカドラマに出てくる大統領が乗るような大型のSUVを、若干緊張しながら発進させた。
ノリたちの住む住宅街を慎重な運転でなんとか切り抜け、大通りへと出ると少し渋滞は収まっており、大きな車体を操るのには丁度よく、助かった気分になった。
「なんやかんやで遅くなったな……あっ!」
「どうした、アキ?」
「客! 忘れとる!」
迎えに行ったはずの客の存在が完全に飛んでいた。
それはマリアも同じだったらしく、彼女の白い顔が途端に蒼ざめた。
「ま、ええか。どうせ関西からの客やなかったし……」
「だめよ! ダメダメ! たぶんホテルよ! はやく!」
家路に向かって気持ちのいいドライブが、急にどんよりとしたものに変わってしまった。
マリアは自分も忘れていたのは軽く棚に上げて、ホテルへと急がせた。
「この爆弾さわぎで日本に帰ったかも、しれんで?」
「かえってない! はやく!」
今から見込みのない客と打ち合わせかと思うとゾッとした。
せめて一人で夜の街にでも繰り出してくれていれば、と思いながらアクセルを踏みこんだ。。
ロハス大通りに出ると流石に交通量は増えたが、もちろん昼間とは比べものにならない。中央分離帯に沿ってストレスなく車を走らせることができた。
やがて見慣れたライトアップされたホテルが視界に入ったあたりでアクセルを緩めた。
「アキ! まえ! まえ!」
「ん? なんや、うわっ!」
突然ヤシの木の陰から何かが倒れたように見えた。
咄嗟にブレーキを踏みハンドルを切る。
すぐに後輪がロックし、車体が流れた。
わずかな衝撃が運転席の横にあったものの、直撃は避けられたように感じた。すぐさまハザードランプを点け、クルマを降りる。
ヤシの木の根元付近に黒い影が動いた。それが人だと気付くのに二、三秒かかった。
「こらあ! 何しとるんじゃあ!」
人だと解ると無性に腹が立ってきて、思わずそいつに向かって駆け寄った。
「あ、お前は……」
朦朧とした表情を向けてきたのは、昼間に俺が見捨てた片脚のストリート・チルドレンだった。
俺は月あかりに照らされたその子の顔をまじまじと見つめた。
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