【第九章③】
夜の同窓会までには、まだ少し時間があった。
机の上には、読みかけの文庫本のように、彼女の書いた小説が置かれている。
最後のページを開くのは、これで二度目だ。
読み進めることが苦しくて、ずっと避けてきた。文字を追うたびに、耳元で彼女の声が蘇り、胸を締めつけられるからだ。
それでも、僕はそっと指先で紙をめくり、最後の章に目を落とした。
高校を卒業した。
思っていたよりもずっとあっけなくて、それでも確かに胸に残る式だった。
両親が涙ぐむのを横目に、私は胸を張って卒業証書を受け取った。
拓海は来られなかったけれど、平気だった。だって、もうすぐ東京で会えるのだから。
私は東京の文学部に進学することを選んだ。
親は心配して反対したけれど、どうしても譲れなかった。
小説を書くために、そしてあの人のそばにいるために。
東京での暮らしは、不安よりも期待で胸がいっぱいだった。
新幹線を降り、東京駅の人波に呑まれたときは、正直足がすくんだ。
改札を抜けても、どこへ向かえばいいのかわからない。
歩く速度さえ違うこの街で、私はきっと置き去りにされてしまう。
でも、柱の近くに立つ拓海の姿を見つけた瞬間、そんな不安はすっと溶けていった。
「久しぶりだね。迷わなかった?」
彼は軽く手を挙げて合図し、笑った。
都会の暮らしが少し彼を変えたのか、背丈も雰囲気も、大人びて見えた。
私は駆け寄り、思わず言った。
「すごい人やね。拓海と会えんかと思った」
彼はふふっと笑い、私のバッグを受け取ってくれた。
その背中を追いながら歩く道は、まるで高校の頃から続いていた延長線のようで、懐かしくもあり、頼もしくもあった。
授業が終わると、どちらからともなく「今日、会える?」とメッセージを送り合う日々。
待ち合わせは新宿や渋谷。人の波に押されながらも、彼を見つけた瞬間、都会のざわめきはすべて消えてしまった。
カフェで並んでノートを広げる。
知らない路地を二人で歩く。
ビルの谷間に沈む夕陽を肩を並べて見つめる。
そのひとつひとつが、すぐに「思い出」へと変わっていった。
時折、田舎の風景が恋しくなることもある。
でも、拓海と過ごすこの生活に勝るものはなかった。
夜、アパートの天井を見上げながら、何度も夢想した。
――もし一緒に暮らせたら、どんな日々が待っているのだろう。
眠そうな顔で「行ってきます」と言う拓海に、「いってらっしゃい」と返す朝。
狭いテーブルを挟んで夕飯を食べ、くだらないテレビに笑い合う夜。
そんな何でもない毎日が、きっと一番の幸せになるのだと信じていた。
未来はまだ見えない。
けれど、あのときの私は疑いなく信じていた。
夜空に浮かぶ月のように――遠くても、いつまでもそこに在り続ける光を。
もし、この日々が実現していたなら――。
そう考えても仕方がない。けれど心は勝手に「もしも」を探してしまう。
ページをめくるたび、恵梨の未来への夢が並んでいた。
一緒に暮らす日常を想像し、くだらないテレビを笑いながら見て、いつか小さな食卓を囲むことを願う文章。
それは、彼女が叶えることのできなかった未来への希望だった。
読み進めるうちに、文字が涙で滲む。
手の甲で拭っても、視界は曇ったままだ。
彼女の紡いだ言葉が、今もなお生きて、ここにある。
――この先、何があっても、彼となら歩いていける。私はそう信じていた。
最後の行を読んだ瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
彼女が信じていた「未来」は、もう手の届かない場所にある。
でも、その信じる力に、今の自分が救われているのも事実だった。
窓の外は群青色に沈み、街灯が灯り始めている。
ふと視線を移すと、机の隅に置かれた古い白い携帯電話が目に入った。
藤の花のストラップは色褪せてはいるけれど、まだ揺れている気がした。
それは恵梨の携帯電話だった。
充電器に差し込むと、暗い画面に淡い光が灯る。
待ち受け画面が浮かび上がり、その中に笑う彼女がいた。
指先が震える。タッチパネルの感触が、途端に遠い記憶を呼び覚ます。
アルバムを開くと、無数の写真が並んでいた。
――夏祭り。
浴衣姿の恵梨が、かき氷を頬張りながらこちらを睨んでいる。青い朝顔の柄が、夜の光に映えていた。写真の奥から、遠く太鼓の音まで蘇ってくるようだった。
――駅のホーム。
発車のベルが鳴る直前、ふざけて僕の腕を引っ張った彼女。あのときの笑顔が、今もフレームの奥で凍結されている。僕は思わず画面に触れてしまう。けれど、そこに温もりは返ってこない。
――遊園地。
観覧車の中で撮った一枚。夜景に照らされて微笑む彼女の横顔。小さな箱の中で「高いね」と言いながら肩を寄せてきた感触まで思い出す。写真を見るだけで、鼓動が速くなる。
――クリスマス。
イルミネーションの前で撮った一枚。首元のマフラーを気にしながら、照れくさそうに笑っていた。写真越しに、吐く息が白く映っている。あの冬の冷たい空気が、いま胸に押し寄せる。
一枚一枚が、刃物のように胸を切り裂いてくる。
忘れかけていた時間を、無理やり突きつけてくる。
胸が焼けるように痛み、視界が滲む。
そして、メールフォルダを開いたとき。
「下書き」という欄に、一通の未送信メールが残されていた。
携帯は辛くて一度も開かず、今まで気付かなかった。
震える手で開く。そこにはデジタルの文字が並んでいた。
――『もし私がいなくなっても、拓海は次に進んでください。どうか私のことは忘れてください。拓海が幸せになることが、私の願いです』
タイトルには、「ありがとう」とだけ綴られていた。
その言葉の前で、僕は呼吸を止めた。
胸が一気に詰まり、視界が白く霞んでいく。
彼女は知っていたのだ。
自分がもう長くないことを。
それでも、最後まで僕の未来を案じていた。
読み終えた瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
声を殺そうとしても、嗚咽は勝手に漏れ出した。
日記で“もしも”を夢見て、それでも最後には僕の未来を思ってくれていた。
「……恵梨……」
震える声で名を呼んでも、返事はない。
でも確かに、恵梨の声が今も耳の奥で囁いている気がした。
涙を拭えずに携帯を閉じ、しばらく泣いた。
やがて僕は立ち上がった。
日記と携帯電話を自室のクローゼットの奥にそっとしまいこんだ。
これ以上、ここに留まっていては、前に進めないと思った。
玄関を出て、車を走らせる。
冷たい空気の中を歩き、「高坂」と刻まれた墓地の前へ行く。
夜風にさらされながら、僕はその墓前に立ち、両手を合わせた。
「……恵梨、ありがとう。俺はもう大丈夫。先に進むよ」
声に出すと同時に、胸に滲んでいた痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
――ただ、私の分まで生きて。
恵梨の声が耳の奥で響いた気がした。
顔を上げると、眼下には街の灯りが広がっていた。
その上には、ひときわ澄んだ月が浮かんでいる。
遠く、手が届かないのに、確かにそこにあって、街全体を照らしていた。
帰り道、ポケットのスマホが震えた。
画面に表示されたのは、綾乃からのメッセージだった。
――『この前の美術館デート、楽しかったね。また行こうよ』
胸の奥に新しい風が吹き抜ける。
恵梨の言葉と、今ここにある現実が交差する。
僕は深く息を吸い込み、夜空を見上げた。
高台から見下ろす街の光は、まるで月の下で寄せ合う浪のように瞬いている。
あの日の輝きは、もう戻らない。
けれど、空の月のように、遠く清らかな光が――これからの道を静かに照らしていた。
記憶の中で、君と 久世千景 @nobu8811
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