【第九章②】

 恵梨の通夜と葬儀は、驚くほど静かに進んでいった。

 親族と、ごく近しい友人たちだけが集まり、すすり泣く声もほとんどない。

 山口の空は灰色に曇り、時折吹き込む風が線香の煙を揺らしては、すぐに消してしまう。


 誰もが言葉を呑み込み、ただ儀式の流れに身を任せていた。

 けれど、僕だけがその場に取り残されている気がした。

 頭では理解していても、心は何ひとつ納得できていなかった。


 棺の中の恵梨は、白い布に包まれて、静かに眠っていた。

 昨日まで確かに僕の手を握っていたのに、今はもう触れることのできない場所にいる。

 たった一日で、どうしてこんなにも遠くなってしまうのだろう。


 焼香を終え、参列者が次々に去っていく。

 最後に残った僕に、恵梨の母が小さな包みを差し出した。


「……これ、恵梨が中原さんに渡してほしいって言っとった」


 受け取った包みは、掌に収まるほどの大きさだった。

 けれど、それが何よりも重かった。


 僕は、どうしても聞かずにはいられなかった。

「……恵梨は、最後……どんな様子だったんですか」


 母はしばし沈黙し、やがて静かに口を開いた。


――恵梨は高校一年の頃から、すでに体調に異変を抱えていた。

当時は深刻ではなく、誰も気づけなかった。けれど、少しずつ悪化し、秋に病院を受診して病が判明したのだという。


僕が東京に行ってからは病状はさらに進み、学校へ通うことも難しくなった。

やがて入院し、病室での日々を余儀なくされた。


治療の効果が出て、一時は小康状態を保ち、退院できるまでに回復した時期もあった。

友達と短い時間だけでも笑い合えたり、外の空気を吸えたり――そんな日常が戻ってきた。

けれど、それは長くは続かなかった。免疫力の低下から感染症を併発し、再び入院を余儀なくされたのだ。


そして症状は急変し、誰もその変化を止めることはできなかった。


「……あの子はね、中原さんと会うのを、ずっと拒んでたんよ」

母は視線を落とし、震える声で続けた。

「きれいなままの自分を、心に残してほしいって……そう言って」


それでも、病状が悪化するにつれて、その思いも叶わなくなった。

見かねた母が、最後に僕へ連絡をくれたのだという。


 ――娘が少しでも幸せでいられるように。


 その言葉を聞いたとき、胸の奥に鋭い痛みが走った。

 僕はなんて愚かだったのだろう。

 ただ自分の暮らしに追われ、恵梨の苦しみに目を向けようともしなかった。

 東京で何気なく過ごしていた日々の裏で、彼女は身を引き、静かに消えていこうとしていたのに。


 喪失の痛みと同時に、自分への苛立ちが込み上げてきた。

 救えなかった無力さが、全身を締めつける。


 包みを開くと、中には古びた携帯電話と、一冊の日記帳が入っていた。

 携帯には藤の花のストラップ。

 ――それは、かつて僕が贈ったものだった。


 薄紫の表紙を開くと、最初の頁いっぱいに、ただ一行――題が記されていた。


 ――『空の月』


 その文字を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。


 葬儀からの帰り道、揺れる電車の座席に身を沈めながら、僕は震える手で日記を開いた。

 そこには、彼女が紡いだ小さな小説の断片が記されていた。


 僕と恵梨が出会った日のこと。

 夏祭りで並んだ屋台。

 何気ない放課後の帰り道。

 ツリー祭りのイルミネーション。

 その一つひとつが丁寧に描かれていた。


 けれど、そこに綴られていたのは思い出だけではなかった。

 眠れぬ夜、吐き気に耐えながら書き残した言葉。

 味のしない食事に箸を置いたこと。

 そして、震える文字で何度も繰り返された「会いたい」「拓海に会いたい」の行。

 日記の隅に滲むインクの跡が、その切実さを物語っていた。


 それは、これまで僕が生きてきた時間と並行して存在していた、もう一つの物語のようだった。


 そして、最後のページ。

 そこには、恵梨が描いた「もしもの未来」が息づいていた。

 叶わなかったはずの時間を、紙の上でだけは確かに生きようとしていた。


 実家に戻り、夜の静けさのなかで再び日記を開く。

 薄紫の紙に刻まれた文字は、まだ温度を宿しているようだった。

 彼女の夢見た「別の未来」。

 言葉の形を借りて、今もそこに息づいている。


 ――けれどそれは、決して叶うことのない未来だ。


 行間から滲む温もりが、逆に僕を突き放す。

 読み進めるほどに、胸の奥が締めつけられていく。


 気づけば視界は涙でにじみ、文字が読めなくなっていた。

 窓ガラスに映った自分の顔は、ひどくみすぼらしく歪んでいた。


 「……恵梨」

 名を呼んでも、もう返事はない。

 掠れた声だけが、自分の耳に虚しく響くだけだった。


 ただ、日記の最後の一行だけが、鮮やかに目に焼きついていた。


 ――この先、何があっても、彼となら歩いていける。私はそう信じていた。


 その言葉は、いまも耳の奥で鳴り響き続けている。

 祈りのように。呪いのように。

 そして、何よりも愛そのもののように。

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