遠方人
速水涙子
遠方人
虫がいる、と母は言う。
どこをどう見ても、そんなものいやしないのに。あるいは、小さな羽虫くらいなら飛んでいるかもしれないとも思ったが、そう問いただしたところで、母はあくまでも、そうではない、と言い張ってゆずらない。
あまりにうるさいものだから、仕方なしに、母がしきりと指差す方へも目を向けてみるのだが、やはり何も見えやしなかった。かと言って、見間違いだ、と指摘したとして、母がその事実を納得することなどないだろう。
虫がいる、と母は言う。そう言われるたびに、僕はそれを否定するのだけれど、それでもいる、と母は言う。家の至るところに。床に壁に天井に。無数の虫が蠢いている、と。
母はまた、ありもしないものに怯えているらしい。
木造二階建ての一軒家。物心ついた頃から、僕はこの家で母とのふたり暮らしだった。
どういう経緯でこの家に住むことになったのかは知らないが、いつからか雨もりもひどくなり、やたらと家鳴りもすることだし、おそらくは相当に古いのだろう。そんな住まいだから、多少の虫が湧いたところで、さして驚くことでもない。それでも、何の根拠もなく、無数の虫がいる、などとさわがれるのは、決して気分のいいものではなかった。
とはいえ、母がよくわからないことでさわぎ出すのは、今に始まった話ではない。それこそ、ただの雨もりや家鳴りが呪いや祟りのせいにされるのはよくあることで、無数の虫とやらが何に感化されたものかは知らないが、悪霊だの狐だのと言い出さないだけ、まだマシな方だった。
そんな母と虫がいるいないの問答を何度かくり返した末の、ある日のこと。
仕事から帰ると、玄関の
嫌な予感がしたので、すぐさま母がいるだろう北の角部屋へと向かった。
一階には風呂場炊事場、食堂としての洋間の他に二間続きの和室があって、そこが母の私室だ。歩くだけで軋む廊下を通り抜けて、和室へと続く襖を開け放つと、そこには案の定、母と共に見知らぬ誰かが立っていた。
若い女だ。クラシカルなワンピースの正装はこのみすぼらしい民家には不釣り合いで、その立ち姿は明らかに周囲から浮いている。しかし、当の本人は気にすることもなく、室内をぐるりと見回しながらも、こんなことを話していた。
「確かに、いますわね。この家には、無数の虫が――」
その言葉に、はっとする。母がおかしかったのは、こいつのせいか。そう思うと、ふつふつと怒りが湧いた。
とはいえ、それをぶつけたところで、こういう手合いには、のらりくらりとかわされてしまうだけだろう。そんなことを考えながら相手のことをじっとにらみつけていると、女はふいに僕のいる方へと振り返ってから、たった今気づいたとでもいうように、あら、と呟きながら目を見開いた。
「おじゃましております。わたくし、
女は屈託のない笑みを浮かべながら、そう名乗った。
「うちに何のご用ですか」
冷ややかに問いかけながらも傍らへちらりと視線を向けると、そこにいる母はいたずらが見つかった子どものように縮こまった。そのことに気づいているのか、いないのか、女は澄ました顔でこう答える。
「わたくしが虫にくわしいこともあって、ご相談いただきましたの。こちらに無数の虫がいる、とのことでしたので、何かお力になれるのではないかと思いまして」
白々しい物言いに、僕は思わず顔をしかめていた。
「母の妄想につき合っていただいたようですが、家の中をご覧になられたなら、もうおわかりでしょう。ここには虫なんていません。そのような妄言を吐くためにいらしたのでしたら、今すぐに出て行ってください」
僕は玄関の方を指差しながら、毅然とそう言い放った。しかし、女は怯むこともなく、悠然と小首をかしげている。
「あら、まあ。それでは、お見えにならないのね。あなたには、この家に巣食っている、無数の虫が――」
その言葉に、僕は大きくため息をつく。
やたらと芝居めいた口調といい、場違いな服装といい、この女はどう考えても普通ではない。どうせ、不吉だ何だとさわいで妙な宗教にでも入信させるか、あるいは、不当に金品を得ているような
僕は部屋の隅に立っている母のことをにらみつけた。老いさらばえた母は、この女を家に入れたことに対する負い目があるのか、僕の視線からは必死に目を逸らして、ただひたすらに震えている。
僕は小さく舌打ちすると、あらためて女の方へと詰め寄った。
「そうやって母を丸め込んだのでしょうが、僕はだまされませんよ。虫なんて、一匹だっていやしない。あなたは、この家のどこに無数の虫がいると言うんです。それはいったい何の虫ですか」
「妄念です」
話の隙をついて、女はひとこと、そう言った。虚をつかれ口をつぐんでしまった僕に向かって、女はさらにこう続ける。
「妄念ですわ。この家に巣食う、妄念の化生」
この女は、いったい何を言っているのだろう。とっさには意味が理解できなくて、僕は返す言葉を失ってしまう。
戸惑う僕を見つめながら、女は嫣然とほほ笑んだ。
「あら。ご存知ありません? 生きものは化生するものですの。蛇は
女はそこで一旦、言葉を区切ると、見えない何かの姿を追うように、室内をぐるりと見回した。
「人の妄念より化生するのですわ」
要するに、自分は普通の人には見えないものが見える、とでも言いたいのだろう。蛇が蛸になる、だなんて、本当に信じているのだとすれば、どうかしている。
何にせよ、こちらがどれだけ常識的なことを説いたところで、相手の方はそれを受け入れて引き下がるつもりなどないらしい。いかにして追い出すべきか――そう考えているうちにも、女は親切ごかして、こんなことを提案してくる。
「そうですわね。わたくしが虫送りをしても、よろしいのですけれど……原因はこの家にあるようですから、仮に虫がいなくなったとしても、
言っていることはよくわからないが、そうやって妙な理屈をつけて、こちらに金を出させようという魂胆なのだろう。そうはいくものか、と内心では強く反発しつつも、僕は相手のことを軽くせせら笑った。
「馬鹿馬鹿しい。今すぐにお引き取りください。あなたの助けは必要ありません。ここには、あなたの言うような虫なんていないのですから。何をおっしゃろうと、あなたのような詐欺師に払う金は一銭もない」
女はきょとんとした表情を浮かべると、しばしの間、無言で僕のことを見つめていた。しかし、ふいにどこかへちらりと視線を送ると、考え込むような素振りを見せながらも、こう話し出す。
「あなたには、この家に巣食う虫が、見えていないようですけれども……」
女はその先を言い淀みながらも、室内のとある部分を、か細い指先でそっと差し示した。
母が、虫がいる、と言って、よくさわいでいたところ――床や壁や天井の暗がり――ではない。それは、
「あちらなら、あなたにも見えるのではないかしら。お気をつけくださいまし。あそこにも、虫がいますわ」
部屋の東北に位置するその柱は、
女は、その穴を指差している。柱の中心にぽっかりと開けている、黒々とした、その穴を。
「虫のことで、何かお困りでしたら、またお知らせくださいな。こちらの虫でしたら、わたくしが引き取ってもよろしくてよ。もちろん、お金などいただきません」
女はそう言うと、僕のことをじっと見つめながらも、にこやかに笑いながら去って行った。
思いのほか、あっさりと女が引き下がったものだから、僕は拍子抜けしてしまっていた。
この場に残されたのは、僕と母のふたりだけ。とはいえ、今の心境では、母と冷静に話ができるとも思えない。そう考えた僕は忌まわしい母の姿からは目を逸らし、何気なく室内を見回したのだが――かえって、あれこれと見たくもないものが目についてしまった。
部屋の隅に据えられている、妙な像が
これらは皆、母が詐欺まがいの連中から買い求めたものだ。
本当は、こんなものはすべて捨て去ってしまいたいのだが、そうすると、母はまた根拠のない不安に苛まれて、代わりの品を求めてしまう。そうして、大金をだまし盗られるのがオチだった。
だからこそ、二度と同じ過ちをくり返さないために、その手の連中とは一切関わらないよう母と約束した――はずだったのだが。
虫がいる、と言い始めたのは、あの女に感化されたからだろうか。それとも、あの女が母の妄言に乗ったのか。
あそこにも、虫がいる――女はそう言って、その場所をわざわざ指で差し示していった。そのことが気になって、視線は知らず床柱の方へと向かう。
虫なんて、いるはずがない。それでも、しばらくの間、黒々とした柱の穴から目が離せなくなった――そのとき。
ふいに穴の中で何かが動いた、気がした。
ぎょっとして注視しているうちにも、暗がりから這い出るようにして姿を現したのは、毒々しい緑色のしなやかに動く指――のようなもの。それはしばし宙を探るように蠢いていたが、そのうち先端で穴の
今のはいったい、何だったのだろう。穴の中に、何かがいる――いや、そんなことが、あるはずはない。きっと、光の加減か何かで、柱の凹凸を見間違えただけだろう。
しばらくの間、息を詰めて柱の穴を見つめていたが、それからは、また中から何かが這い出てくるようなことはなかった。やはり、気のせいだったらしい。そう確信できるようになってから、僕はようやく、ほっとして息をついた。
それでも、心の内には、何かざらりとしたような不安が、
いつの間にか母は祭壇の前に跪いていて、安物の念珠を手にぶつぶつと何やら熱心に唱えていた。その姿が、ひどく癪に障る。
どうして、こんな風になってしまったのだろう。
僕が幼い頃、母は何かにつけて手を上げるような人だった。とにかく、話しかけるだけで癇癪を起こすものだから、父のこと、家のこと――いろんなことをたずねることもできずに、僕は今でも多くのことを知らないままだ。
わかっていたのは、母も僕も、お互いの他には身寄りはないということで――そうなると、幼かった頃の僕には当然、他に頼るべき人もいない。そうして、僕は息を潜めるような子ども時代をやり過ごし――もはや、子どもとは呼べなくなった頃には、いつの間にか、母は意味もなく何かに怯えるようになっていた。
押し入れの中に見知らぬ老人がいる。道を歩いていると、時折喪服の女に笑われる。排水溝に泣き叫ぶ赤子が詰まっている。挙げ句には、家の至るところに無数の虫が湧いている、と言う。
しかし、そんなものは全て幻だ。少なくとも、僕は一度もそれらを見たことがない。
あるいは、そうさわぐだけならまだいいが、母はそのうち、その――ありもしないものを消し去るために、うさんくさい連中に助力を求めるようになった。
高い金を払って祈祷を依頼し、高額な商品を買わされる。借金を作るのはもちろん、それができなくなると、近所の知らない人にまで無心し始めるのだから、たまらない。
子どもの頃の僕は、口を開くたびに母に叱られていた。今ではその立場も逆転し、母がおかしなことを言うたびに、僕はそのことを罵るようになっている。
情けない声で何かよくわからないものを拝んでいる母の姿を、僕は冷たく見下ろした。
「変な奴を家に入れるなって、あれほど言っただろう」
そう言って詰め寄ると、母はびくりと肩を震わせた。そうして、母はか細い声で、くり返し許しを乞い始める。
その姿に、僕は哀れみよりも、苛立ちをつのらせていった。
何度言っても聞き入れないなら、仕方がない。
母を言葉で説得することについては、とうの昔に諦めている。
あの忌まわしい家を一歩出れば、僕は至って普通の勤め人だ。勤めているのは小さな出版社で、今はまだ、入社してようやく一年過ぎただけの新人だった。
とある平日の昼休み。先輩に当たる社員から、ランチに誘われた。その人とは偶然、出身大学が同じで――在学中は全く交流がなかったのだが――そのおかげで、何となく目をかけてもらっているくらいの関係だ。
真面目で仕事熱心な人で、その日の会話も、社会問題だの何だのと、ずいぶんと固い話題ばかりだった。しかし、彼女の場合は、それが自然体なのだろうと思う。
彼女もまた、物心つく頃には片親だったらしい。しかし、母親との関係は良好なようだ。会話の中でふいに家族の話題を耳にするたびに、僕は彼女との境遇の違いに、何となく後ろめたさのようなものを感じてしまう。
僕の母のことを、彼女は知らない。
もしも、そのことを話したなら、彼女はどんな反応をするだろう。彼女と話をしていると、たまにそんなことを考えてしまう。
今まで交流があった人たちは、母の奇行を知ると、誰もが僕の元から離れていった。しかし、それも仕方がないことだとは思う。僕自身、母のことを投げ出せるなら、そうしたいくらいだからだ。
それでも、僕には母を見捨てることはできないだろう。
情があるから――ではない。唯一の身寄りとして、それを投げ出してしまうことは、真っ当なことだとは思えないからだ。
真っ当でありたい。それは今の僕が、何より切に願っていることだった。
それは何より、僕が真っ当ではない母のことを嫌っているからだろう。僕が母のことを監視し、その奇行を秘匿し続けているのも、そのためだ。
そんな日々がいつまで続けられるのか、という不安はある。母のことは、せめて他人に迷惑をかけないうちに死んでくれ、と願うばかりだ。と同時に、そんなことを考えてしまうのは、やはり真っ当ではないのだろう、とも思う。
母と共にいる限りは、真っ当にはなれない。かといって、母を見捨てることは、そもそも真っ当ではない。そうなるともう、もはやどうしようもなかった。
真っ当でありたい――たったそれだけの願いが、こんなにも遠い。
ふいに彼女から声をかけられて、僕はようやく物思いから覚めた。どうやら、ぼうっとしていたらしい。目の前には、心配そうな彼女の顔がある。
いつも彼女に対してそうするように、陰りのない表情を取り繕えば、僕の中にある真っ黒いものなど、彼女は気づきもしないだろう。人というものは、どんなことでも、目の当たりにしなければ、本当に理解することなどできはしないのだから。
それでも、彼女なら、このどうしようもない状況から、救ってくれるのではないか――そう考えてしまうのは、都合の良い話だろうか。けれども、そう思うからこそ、僕は決して、彼女に母のことを話しはしないだろう。
心穏やかな時も過ぎ、その日の仕事を終えた僕は、帰宅して早々、母の私室へと向かった。
僕がいない間に、何かしでかしてやしないかと気が気でなかったが、少なくとも、この日の母は部屋でおとなしくしていたようだ。つい先日、さわぎを起こしたばかりだし、今までのことを考えれば、しばらくは家で静かにしているだろう。
ふと気になって、床の間の柱へと目を向けた。そこにある、黒々とした穴に視線が吸い寄せられていく。
女の言葉を信じたわけではないが、かと言って、すぐに忘れられるようなことでもない。僕は知らず、何かに招かれるように、柱の穴へと近づいて行った。
のぞき込んだ穴の中には、動くものは何もない。しかし――
暗い暗い穴の底には、丸い形の何かがあった。陰になっていてよく見えないが、その球体は白と黒の二色に分かれているようだ。
僕にはそれが、目玉がひとつ落ちている――ように見えた。
穴の中に妙なものを見つけて以来、僕はふとしたときに、どこからか視線を感じるようになっていた。
柱の穴に見つけた目玉――のように見えたものについては、よくわかっていない。穴の口は狭く、取り出すことはできなかったし、角度が悪くて、光で照らすことも難しかったからだ。
ただ、そこに何かがあることは確かで、おそらくは、母が何か球体のもの――たとえば水晶玉か何か――を落としたのではないか、と僕は考えていた。
だとしたら、やはり奇妙なことは何もない。視線を感じるのも、ただの思い過ごしだろう。
あるいは――
もしかしたら、あの女が何かしたのではないだろうか。僕はそうも考えていた。
あの女に特別な何かがあると思っているわけではないが、あのとき、あれほどあっさりと引き下がったのは、違和感があったからだ。とはいえ、あれ以来、あの女が現れたこともないのだから、それもただの邪推に過ぎないが。
そんなことを考えながら日々を過ごしていた、ある日のこと。
家に帰る途中、ふいに誰かが見ているような気がして、僕は周囲を見回した。
もしかして、あの女がどこかにいるのではないか。とっさに、そう思ったのだが――
近くの物陰には、確かに女の姿があった。しかし、それはあのとき家に虫がいると
その人は、僕が見ていることに気づくと、嘲るような笑みを浮かべてから、何を言うわけでもなく、踵を返し去って行く。何だか嫌な感じがして、考える間もなく、僕はその人のことを追っていた。しかし――
いくらもしないうちに、僕はその姿を見失ってしまう。
僕は本当に、その人の姿を見たのだろうか。そんなことすら自信が持てなくなって、僕はその場で呆然と立ち尽くした。
どこからから、話し声が聞こえてくる。近所の人が立ち話をしているようだ。話している人たちは、僕のことには気づいていないのだろう。聞くつもりはなかったのに、その会話が聞こえてしまっていた。
話しているうちのひとりは、どうやら近くに引っ越してきたばかりらしい。もしかして、自宅の裏手にある、長く空き家だったところだろうか。そう考えていると、誰かがこんなことを言い出した。
「お宅の裏に住んでる人、ねえ……こんなこと、あまり言いふらすのも何だけど。ほら、山の手の方に立派な邸宅があるでしょう。そこの富豪が建てたらしいんだけど――こういうの、今では何て言うのかしら――いわゆる、お妾さんの家なのよ。あそこ……」
僕は気づかれないうちに、すぐにその場を立ち去った。
家に帰った僕は、真っ直ぐに母の部屋へと向かう。
柱に目を向けると、ちらちらと何かが動いているのが見えた。茶色く小さな赤子のような手。それはひらひらと、まるで手招くように忙しなく動いている。
いや――違う。
手のひらだと思ったものが、ふいに穴の縁から飛び立った。
不安定に飛ぶそれは、決して得体が知れないものではない。この姿は――おそらく、蛾だ。
小さな蛾は、何かに誘われるようにして、部屋を出て行ってしまう。はっとして、僕はその虫を追いかけた。
一匹の蛾が、迷うことなく廊下を過ぎ、玄関を通り、家の外へと飛んで行く。
その行く手には、女がひとり立っていた。虫がいる、と言った、あの女だ。
飛び去った蛾は、差し伸べられた女の手に、吸い込まれるようにその脚を止めた。女はそれを、手にした虫籠の中に、そっと招き入れる。そして、僕のことに気づくと、嬉しそうに笑みを浮かべた。
女は、ただそれだけで去って行く。僕はその姿を見送りながらも、今までのことを思い返していた。
柱の穴から這い出た指。中に落ちていた目玉。そこから飛び立った一匹の蛾。
――なんだ、そういうことか。
虫は、いた。あの女の言うとおりに。
僕はずっと、母はありもしないものに怯えているのだと思っていた。しかし、それも違うのかもしれない。
あの家は、歪んでいる。始めから、僕たちが心穏やかに過ごせるような――そんな場所は、どこにもなかった。そのことに、母は早くから気づいていたのだろう。
気づいていなかったのは、僕だけだったらしい。
僕は今まで、いったい何を見ていたのだろうか。今となってはもう、何もかもが、ひどく虚しく思えていた。
* * *
「片桐さん。片桐さん。見てくださいまし」
久々に里へ帰ったところ、唐突にそう呼び止められた。
その独特な話し方からして、それが誰であるかはわかっていたのだが、振り返れば案の定、背後に立っていたのは顔見知りの若い娘だ。相変わらず、山中の隠れ里には似合わないどこか古風な洋装姿で、そのくせ手にしているのは竹製の虫籠という、よくわからない取り合わせだった。
「鵜月のとこの嬢ちゃんじゃねえか。何だ。また、変な虫でも捕まえたのか?」
「ええ。人の妄念より化生した虫――アマノジャクですわ」
娘は心底嬉しそうに、そう言った。その表情からして、よもや本当にひねくれ者の悪鬼でも捕まえたのか、と虫籠をのぞき込んだのだが――そこに入っていたのは、どう見てもただの虫。枯れ葉のような翅を持つ一匹の蛾だった。
「アマノジャクってか――こいつはイラガだろう。一部の地域では、確かにそう呼ばれているらしいが。そんな珍しいもんでもないだろうに」
娘はたいそうな虫好きで知られている。何でも、自室にはびっしりと虫籠が並んでいるらしい。しかし、隙あらば虫を愛でている他は、特に害のない娘だ。
「そんなことおっしゃらずに、見てくださいな。このアマノジャクは、こちらの柱の穴に生じていたのを、わたくしが見つけましたの」
娘はそう言いながら、どこからか自身の
画面には、どこの家かは知らないが、床の間の柱が映し出されている。
「おそらく、人の妄念から化生した虫ですわ。昔から、そういうことは、よくありましたもの。けれども、家主の方が協力してはくださらなくて……折を見て待ちかまえていたのですけれど、捕まえられてよかったですわ」
無念を残した人の思いが虫となって湧いて出る――そういうことが、たまにあるらしい。その手の生きものに関しては、専門外なので、くわしいことはよくわからないが。
そんなことより、目の前に差し出された画面の方が気になって、知らずため息をついていた。
「虫一匹のために何やってんだよ。相変わらず、分家にはおかしなやつしかいねえな……そうでなくとも、
そのときふと、見せられた画像に違和感を覚えた。理由はすぐにわかったので、その答えを口にする。
「この、出節丸太の床柱は
逆さ柱は、本来生えていた向きとは上下逆に立てられた柱のことだ。不吉なことを引き起こすとして、忌まれている。
娘はその言葉に目をしばたたかせた後、端末を自分の方へ引き寄せると、その画面にまじまじと目を向けた。
「木を世話されているだけあって、さすがにおくわしいですわね。そのようなことも、おわかりになりますの。確かに、ずいぶん歪んだ家だと思っておりましたけど――」
娘は少しだけ憂う表情を見せながらも、端末をしまい込む頃には、すでに平然とした顔へと戻っていた。
「まさか、逆さ柱だなんて。この家に住んでいる方に、よほどの怨みでもあったのでしょうか。そうでなくとも、古い木のうろには、悪いものが巣食うものですわ。空っぽになったあの木の虚ろが、もっと悪いものを、呼び寄せないといいのですけど」
娘はそんなことを言いながらも、虫籠を大事そうに抱えて、無邪気な笑みを浮かべていた。
遠方人 速水涙子 @hayami_ruiko
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