第60話:街角の錬金術師
穏やかな春の朝、クローバー工房の扉が軽やかな音を立てて開かれた。
現れたのは、壊れたおもちゃのゴーレムを大切そうに抱えた小さな男の子だった。その子は不安そうな表情で工房の中を見回している。
「あの…」
か細い声で男の子が呟いた。
「これ、壊れちゃったんだ…」
作業台で魔道具の調整をしていたリリアナは、顔を上げると優しく微笑んだ。
「そう、大変だったね」
彼女は作業の手を止め、男の子の目線まで屈んだ。
「見せてごらん」
かつて、初めて工房を訪れた依頼者に震え声で応対していた人見知りの少女は、もうそこにはいない。代わりにいるのは、温かく、自信に満ち、誰に対しても分け隔てなく接することのできる、真の錬金術師だった。
***
「うん、これなら簡単に直せるわ」
リリアナはゴーレムを丁寧に調べながら言った。
おもちゃの心臓部にある小さなマナストーンが、わずかに損傷している。子供が大切にしすぎて、少し擦り減ってしまったのだろう。
「本当に?」
男の子の瞳が希望で輝いた。
「ええ、お約束するわ」
リリアナは工具を手に取り、慣れた手つきで修理を始めた。
その作業は、極めて繊細で高度な技術を要求するものだった。しかし、彼女の手に迷いはない。一つ一つの動作が、まるで芸術のように美しく、確実だった。
「わあ…」
男の子が感嘆の声を上げる。
リリアナの指先から淡い光が放たれ、損傷したマナストーンが元の輝きを取り戻していく。それは魔法というより、愛情の具現化のようだった。
やがて、小さなゴーレムが再び動き出した。
ぎこちない動作で立ち上がり、男の子の方に向かって小さく手を振る。
「動いた! 動いたよ!」
男の子が飛び跳ねて喜んだ。
「よかったね」
リリアナは男の子の頭を優しく撫でた。
「今度は、もう少し優しく扱ってあげてね。この子も、君と一緒にいるのが嬉しいと思うから」
男の子は何度も頷き、ゴーレムを大切に抱きしめて工房を出て行った。
***
その光景を、工房の奥で三人の仲間が微笑ましげに見守っていた。
「相変わらずね」
エルミナが帳簿から顔を上げて言った。
「どんなに忙しくても、小さな依頼を大切にするのよね」
「それがリリアナらしさだからな」
ヴォルフが部品の加工を続けながら答えた。
「俺たちが最初にあいつと出会った時も、パン屋の小さな温度調整器だった」
「そうですね」
フェリクスも古代文献から目を上げた。
「小さなことを大切にするからこそ、大きなことも成し遂げられるんでしょうね」
四人は顔を見合わせて笑った。
一年前、それぞれ別々の道を歩んでいた彼らが、今では家族のような絆で結ばれている。
クローバー工房は、もはや単なる職場ではない。それは彼らにとって、最も大切な居場所だった。
**
昼過ぎ、工房の扉が再び開かれた。
今度は、街の市長ハインリッヒ・モーゼが現れた。
「リリアナさん、お忙しいところ恐縮です」
「市長! いらっしゃいませ」
リリアナが立ち上がって迎える。
「実は、お伝えしたいことがありまして」
市長は嬉しそうな表情を浮かべている。
「王都から正式な通達が届きました」
彼は公文書を取り出した。
「リリアナさんの功績が王都でも高く評価され、『王国功労賞』を授与されることになりました」
工房の全員が驚いた。
王国功労賞は、国家に多大な貢献をした者に与えられる最高の名誉だった。
「また、セレナ川浄化システムを他の街にも普及させたいという要請も来ています」
市長の報告に、皆の胸が高鳴った。
「リリアナさんの技術が、王国全体を変えていくかもしれませんね」
***
市長が帰った後、工房は興奮に包まれていた。
「すごいじゃない! 王国功労賞よ!」
エルミナが飛び跳ねている。
「他の街にも技術を広めるなんて、夢みたいだな」
ヴォルフも目を輝かせている。
「リリアナさんの『情の錬金術』が、世界中に広がるんですね」
フェリクスも感激している。
しかし、当のリリアナは少し困ったような表情を見せていた。
「どうしたの? 嬉しくないの?」
エルミナが尋ねる。
「嬉しいです。でも…」
リリアナは窓の外を見つめた。
そこには、いつものリーフェンブルクの街並みが広がっている。セレナ川の清らかな流れ、活気ある商業地区、平和な居住地区。
「私、この街が大好きなんです」
リリアナの声に、深い愛情が込められていた。
「ここの人たちと一緒に過ごす日々が、とても幸せなんです」
彼女は振り返った。
「王都に行ったり、他の街を回ったりするのも素敵ですが…」
「でも、私の居場所は、ここなんです」
***
その時、工房の奥からテオが現れた。
「それでいいのだよ」
師匠は穏やかに微笑んでいる。
「君の錬金術の原点は、『街角で人々を幸せにすること』だったからな」
テオは窓辺に立ち、セレナ川を眺めた。
「技術は人が運ぶものだ。君がここにいれば、君を慕って学びに来る者たちが、その技術を世界に広めてくれるだろう」
実際、最近は他の街から技術を学びに来る錬金術師たちが増えていた。
「君はここで、これからも人々を幸せにし続ければいい」
「師匠…」
リリアナの瞳に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、ワシの方だ」
テオが振り返った。
「君のおかげで、ワシの長い贖罪の旅が終わった。そして、真の錬金術がこの世に蘇った」
師弟は静かに見つめ合った。
そこには、深い信頼と愛情があった。
***
夕方、一日の仕事を終えた四人は、工房の前でセレナ川を眺めていた。
夕日に照らされた川面は、宝石のように美しく輝いている。
川辺では子供たちが水遊びをし、釣りを楽しむ人々の姿が見える。
すべてが平和で、穏やかで、幸せに満ちていた。
「私たち、すごいことを成し遂げたのね」
エルミナがしみじみと言った。
「ああ」
ヴォルフが頷く。
「でも、これで終わりじゃない。これからも続いていく」
「そうですね」
フェリクスも同意した。
「毎日、新しい依頼が来て、新しい人たちと出会える」
「小さな幸せを、一つずつ積み重ねていくんです」
リリアナが静かに語った。
「それが、私の錬金術。私たちの錬金術」
四人は夕日を背に、静かに微笑み合った。
***
その夜、一人になったリリアナは、再び窓辺に立ってセレナ川を眺めていた。
星明かりに照らされた川は、静かに美しく流れている。
故郷の村を出て、この街にやってきた日のことを思い出す。
人見知りで、自信がなく、夢だけを抱いて震えていた自分。
そんな自分が、今では多くの人に愛され、信頼され、頼りにされる存在になっている。
「師匠の七つの指針」は、もはや彼女の生き方そのものになっていた。
自らの意志で選択し、完成図を心に描き、本当に大切なことを見極める。
共に豊かになる道を探し、まず相手の心を聞き、力を合わせて新たな価値を生む。
そして、心と技を磨き続ける。
これらすべてが、自然に、当たり前のこととして、彼女の中に根づいている。
「私、幸せです」
リリアナが小さく呟いた。
仲間がいて、師匠がいて、街の人々がいて、そして愛する家族がいる。
自分の技術で多くの人が笑顔になり、街が美しくなり、世界が少しずつ良くなっていく。
これ以上の幸せが、あるだろうか。
「明日も頑張ろう」
リリアナは自分自身に約束した。
「一人でも多くの人を、幸せにしよう」
***
セレナ川のせせらぎが、優しい子守唄のように響いている。
それは、平和で幸せな街の調べであり、希望に満ちた未来への讃美歌でもあった。
街角の小さな工房で、一人の錬金術師が静かに微笑んでいる。
彼女の名は、リリアナ・エルンフェルト。
人々を幸せにする技術、愛をもたらす錬金術を駆使する、真の錬金術師。
明日もまた、工房の扉が開かれるだろう。
新しい依頼者が、新しい悩みを抱えてやってくるだろう。
そして、彼女は今日と同じように、優しく微笑みかけるだろう。
「いらっしゃいませ。どうされましたか?」
小さな魔法が、また一つ、この街に生まれるのだ。
街角の錬金術師の物語は、これからも続いていく。
人々の笑顔と共に、永遠に。
引きこもり錬金術師と世話焼き商人が、うっかり街を改革しちゃった件 梓川奏 @n7214
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