1997年の線香花火

ひなもんじゃ

線香花火にはもってこいの日々

 

 

 虹が良く見えないなと思った。久しぶりに家に帰ろうと思って、車を飛ばす。



 この近辺は夏になると突発的な雨が多く、そして急峻きゅうしゅんな地形から良く虹が見える。しかし、最近になるとその雨も単なる災害と化し、大雨で小さな土砂崩れが起きたり、川が氾濫してしばしば道が水溜りと化すのだった。

 虹が出るというよりも、決まって息の詰まるような熱気が籠もるのだ。


 だから、虹が出てほしいと、率直に願った。


 そして、あの店も、あの商店街も、私たちのせいで虹のように消し去ってしまうのかな、と思うと胃薬の量と精神薬の量が増えるのみだった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 1997年の夏は、やけに蒸し暑かった気がする。


 横浜線のしょぼくれたホームから下車し、橋本駅前のロータリーを歩きながら、私は額に滲む汗をハンカチで拭った。


 神奈川県相模原市といっても、東京のような華やかさはなかった。思っていたよりもずっと小さな町で、北海道第一興商銀行ほっかいどうだいいちこうしょうぎんこう――みんな「こうぎん」と呼んでいた――橋本支店の営業成績は、ずっと低迷していた。


 「また本部から電話が来てるぞ」

 課長の声が、今も耳に残っている。

 他の支店はガンガン融資先を見つけているのに、私の部署――お客様一課は数字が伸びず、叩かれる毎日だった。電話のベルの音が、金槌のように神経を打ち続けた。


 ストレスで眠れなくなり、胃薬と向精神薬を手放せなくなったのは、この頃だった。

 町田街道を八王子方面に向かっているとき、急激な胃の鈍痛に見舞われ、対向のダンプカーにひかれそうになった時、自然に涙が出てきて、決心した。


 八月のある日、私は限界を感じて、苫小牧の実家に帰ることにした。


 新千歳空港に降り立った。むっとする熱気と、東京のあの陰湿な、すべてを照り付けるような反射のない夏を感じた。


 苫小牧の夏は、都会の喧噪を忘れさせてくれる。

 夜、同じ高校の同級生だった美緒に誘われて、海辺の公園で小さな花火をした。

 彼女がセイコーマートの袋から取り出したのは、束になった線香花火だった。


 「昔、よくやったよね」

 美緒は笑いながら、マッチで火をつけた。

 オレンジの火花が、じわりと広がって、夜風にゆらめく。


 その小さな光を見ているうちに、東京で擦り減った心が、少しだけほどけていくのを感じた。

 けれど私は知っていた。この時間は長くは続かない。

 こうぎんが持ちこたえるのも、あとわずか。

 そして、私自身も――。


 「東京、大変なんでしょ」

 美緒がぽつりと聞いた。

 私は苦笑して、花火の火を見つめた。

 「うん。毎日、数字、数字でさ。もう、誰が笑ってるのかもわからない」

 火花が小さくはぜ、か細い光の糸が落ちる。


 「戻ってきたらいいのに」

 その言葉は、花火よりも儚く胸に残った。

 私は答えられなかった。戻ってくる場所があるのか、そもそも店舗があるのかも、自分が干されない位置にいるのかも、自分でもわからなかったからだ。


 やがて線香花火は落ち、地面に小さな黒い塊を残した。

 私たちはもう一本に火をつけた。けれど、あの最初の火ほど強くはならなかった。


 翌朝、苫小牧の空は青かった。美緒とはそれっきり、連絡を取らなかった。


 虹が出るような気配は全くなく、ただただ空が真っ青に突き抜けていた。




 夏が終わるころ、こうぎんはついに経営破綻した。新聞には「北海道都市銀行の象徴、ついに崩れる」の見出しが並んだ。


 私は銀行を去り、融資先の目から逃げるように営業範囲の橋本とは本当に全然関係ない松戸に本社を持つドラッグストアに転職した。全国転勤があると聞いたとき、苫小牧に戻ることはないと悟った。


 それからの店舗職の日々は、肉体労働の連続だった。段ボールを運び、品出しをし、時に深夜までレジに立った。

 美緒の消息は知らない。誰と結婚したのか、どこに住んでいるのか、今もわからない。


 だけど、あの夜の線香花火だけは、いまだに鮮やかに覚えている。

 暗い空の下で、小さな光がしばし揺れて、やがて落ちて消えた。

 消える瞬間まで、必死に燃え続けた、あの夏の記憶。


 1997年の線香花火。

 あれは、きっと私の人生で一番短く、そして一番美しい灯りだった。

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1997年の線香花火 ひなもんじゃ @hinamonzya

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