うららこひこひ

沢田こあき

うららこひこひ

 日本海の空はがらんどうだ。そう言ったのは横浜の祖母だったか。浜の上いっぱいに広がる雲は底のない灰色で、寄せては引く波音を吸い込んでいく。細かな点のように見える海鳥が、哀愁漂う声で鳴きながら、遠く佐渡ヶ島の影をかすっていった。

 一歩踏み出すごとに、砂が足を絡め取る。鋭利な北風が髪を撫でつける。湿っぽい海景色の中へ、身体が沈んでいく感覚。後に残してきた足跡は、紙上の文字のごとくぽつぽつ並び、落ち着いた口調で語りだす。片割れを失った魚の話。

 波に呑まれた、はまうらら。

 嘘をつくのは、はまうらべ。

 流木を前にして足を止める。乾いた枝に、鱗が幾枚も引っかかっていた。親指の腹ほどあるそれを、一枚、指で摘んで拾い上げる。輪郭の丸い円鱗だ。目の上にかざすと、半透明な鱗の向こう側で、波の動くのがぼんやり見えた。

 はまうらら。流木に散らばった玉虫色の鱗は、曇り空から覗く冬の日光を浴びて、美しく照り輝いている。その輝きは充央みつおの脳裏に入り込み、ある少年の横顔の輪郭を形どった。小さく整った顎、滑らかな曲線を描くひたい。横に引き結ばれた唇は薄く。彼の皮膚を覆う鱗もまた、玉虫色だ。

 

 月明かりに照らされたベランダに、魚の影が浮かび上がる。街路樹の枝をかすめて泳ぐ、アジやサバといった魚たち。切妻屋根の家を囲む石垣のそば、少し傾いた電信柱のすぐ上を、囲むように飛ぶアジの群れ。背中の黄色が宙に螺旋を作る。

 内側のシャッターを閉めるため窓を開けると、家々の向こうの通りから、石焼芋の板についた声が聞こえてきた。海沿いの町に吹く風は、硬く冷たい、潮の匂いがする。

 冴えた空気を勢いよく遮り、畳の上に足を投げ出した。目の前の押入れから、てきぱきと布団を取り出す少年の、鱗に覆われた顔を見る。輝かんばかりのはずの玉虫色は、薄明るい電灯の下ではくすんで見えた。去年のものを履いているのか、伸びた背に比べて丈の短い寝巻きのズボンの裾から、くるぶしが覗いている。

「つんつるてん」

「何か言った?」

 水野まことの、黒い瞳が振り向く。いいやと気のない返事をすると、相手は特に追及するでもなく、枕を二つ床に放った。充央は頰に手をやって、数枚ほどついている鱗を軽く引っ掻く。これはまた、鱗が増えるなと、冷めた頭で考えた。

 嘘をつけば鱗が生える。まだ幼い頃は、体に生えている鱗を毎日数えたものだが、大なり小なり嘘は嘘。おもてに表れる罪の数に変わりはない。そうと気づいてからは、いくつ増えようが大して気にならなくなってしまった。

 ――身籠っているのです。

 両親の、子どもほしさについた嘘から生まれた子。その身が偽りであるゆえに、真は生まれつき、体中が鱗に覆われていたという。三年前に交通事故で両親に先立たれたが、どちらの親戚とも縁遠く、父親の親友であった、充央の叔父のもとで暮らしている。

 真がこの家に住むようになってから、充央を含めた親戚の子どもたちは、長期休みのたびに叔父の誠一に呼ばれるようになった。海遊びが、祭りがどうのと理由をつけているが、おおかた、真に話し相手をあてがってやりたかったのだろう。

 充央は真のことが苦手だった。外遊びやカードゲームのときに表れる、彼の生真面目のためだった。その瞳はことさら苦手だった。二歳下にも関わらず、充央より遥かに大人びた、真っ直ぐな視線に、身体の奥まで見透かされてしまいそうで。

 いつもは他の親戚の子らも泊まりに来ているが、今年の冬休みは自分一人らしい。大勢ならば賑やかな夜も、ずいぶんと静かで落ち着かず、早々に床につくことなった。

 古い照明器具の紐を引き、明かりを消した。自宅とは違い、ここにはぬるりとした静けさがある。庭の木々の呼吸、壁時計の秒針、身動ぎしたときの衣擦れ。そういった音の合間に落ちる、無音の時間。

 寝つけない。右に寝返りをうつと、真は穏やかな顔で瞼を閉じている。廊下のカーテンの隙間から漏れた薄暗い空の色が、引き戸の飾りガラスを通して暗闇に差し込み、彼の掛け布団の上で凪いでいた。見ていると、魚の影が素早く通り過ぎた。

「もう、寝てしまった?」

 声をかけるが返事はない。暗がりに浮かぶ、玉虫色を眺める。仄かな光を受ける鼻頭が、緑に紫に移り変わって、その色の動きはまるで波影のような。

 定まらない鱗の色が気にかかり、本当は何色なのか、聞いてみたことがある。

「見えると信じた色がすべてなんだよ」彼は言った。「君には何色に見えるの?」

 充央は相手の顔の鱗にじっと目をやって、けれど色は動き、変化し、掴めない。苦し紛れに「緑」と返したが、爪の先ほども思っていないことに気がつき、自分の安直な答えが恥ずかしく、わかりにくい質問を投げかけてきた彼に、見当違いの疎ましさを覚えさえした。同時に、「それなら緑色なんだろう」と返された、何も含まず、まっさらな声色が、心底羨ましいと思った。

 鱗に覆われた真は、しかし根っからの正直者、素直で律儀。隠す己がないからか、言ってしまえば、いっそ清々しいくらいに嘘がなかった。

 畳に放り出された彼の左手。相手の寝息を片耳に、玉虫色の鱗をなぞる。人さし指の腹が捉えるのは、思わず目を細めるくらい、澄み切った、ひやり。

 

 大晦日の四日前。大量の鱗が浜に打ち上げられた。 

 真と二人で海岸に散歩に出かけ、これを見つけたのは、次の日の昼頃だった。住宅街の裏の国道を横切り、テニスコートの脇を通る道は、海水浴場へと続いている。この町までくる道中、電車の窓から見た田園風景は白一色だったが、海沿いのこのあたりは雪がなく、乾いたアスファルトが延びている。

 夏には混雑している海も、寒くなると寂しいもので、人っ子一人いなかった。広い水平線の向こうからやって来て、身体にぶつかる波の音。力強い海風は鼻から流れ込み、舌をしょっぱく湿らせた。

 海水浴場の堤防に近い辺りではよく、波の荒れた次の日に、はまうらべが打ち上げられる。地元の住民は短く「うらべ」と呼んでいた。陸で暮らすことのできない、灰色のぱっとしない魚で、砂浜で干からびているのを何度も見たことがある。けれど陸に打ち上げられた鱗はうらべのものではなかった。

「おんなじだ、ほら」

 砂の上から一枚拾った真は、自分の手の甲と並べてみせた。光の加減によって印象の変わるそれは、彼の皮膚を覆う鱗と同じ玉虫色だ。満潮の跡に沿って、きらびやかな一本の波線のように残っている。

「遠くから来た珍しい魚のものかも」

 陸に住む魚は、大晦日の夜一斉に海へと帰る。そうして冬が終わる頃までに、また少しずつ戻ってくるのだ。そのため海沿いにあるこの町には、大晦日に近くなると内陸からも魚が集まるのだった。

「かもしれない。けど、鱗だけこんなに落ちてるなんておかしいよ」

 誠一さんに聞いてみよう、真はそう言って拾い出した。魚の標本作りを趣味にしている充央の叔父ならば、この鱗の持ち主がわかるだろうというのだ。

 鱗を拾おうと、充央も腰をかがめる。途端、目の端に映った紅の色。ほんの刹那、血かと錯覚して肝が冷えるが、どうやらそうではなさそうだ。数メートルほど離れた砂の中にあるそれに近づいてみると、紅色の正体は金魚だった。

 すでに死んでしまっているのだろう。鱗が剥げかけ、ひれが破れた金魚はぐったりしたまま動かない。

 金魚は透明なケースで飼うのが普通だが、蓋をしないと逃げてしまう。幼い頃、ペットを飼うことに反対していた母に内緒で、友人から譲ってもらった金魚は、餌をあげようとした拍子に飛んで行ってしまった。開いた部屋の窓から外に。

 白く濁った金魚の目。薄い膜に覆われた真ん中の黒が、ぎょろりと充央の方を向いた。

「あ、誠一さん」

 背後で真が、声を上げて立ち上がる。充央は瞬きを一つ。眼前の金魚を見つめるが、やはり死んでいるようで、ぴくりともしなかった。それでも恐ろしいものだから、足で砂をかき集めて埋めてしまった。

 走っていった真を追いかけると、二人がやって来たのと反対から、ゆっくり歩いてくる叔父がいた。眼鏡をかけていて、いつも柔らかな笑みを浮かべている顔は、四十という実年齢より若く見える。背は十五歳の平均身長である充央より高いが、ひどい猫背だ。

「もうお昼だから、呼びに来たよ」

 寒いね、とダウンの襟もとを直しながらそばにやって来た叔父に、真は嬉しげに手の中の鱗を見せ、砂浜の波線を指差した。

「いいところに。この鱗、なんの魚のものだろうって話していたんですよ」

 真の手の中から一枚摘み取り、じっくりと眺める。浜の上の、鱗にやる目に影が差す。

「きっと、はまうららの鱗だね」

「はまうらら、ですか」

 昔話だよ、そう言って叔父が話してくれたのは、越後の地に住んでいた、仲睦まじい魚の話だ。寒空の下、淡々と響く叔父の声。砂をさらっていこうと、絶え間なく浜に寄せる波のうめきが、腹に溜まって淀み、緩慢な動きで引いていった。


* * * 

 

 はまうらべとはまうららは、一つの魂を分け合った、二匹の美しい魚だった。玉虫色の彼らの鱗はどんな宝玉より麗しく、地を統べる太陽の輝きさえも、畏敬してかすむほどだった。二匹はそれを大層鼻にかけていた。陸に住む魚の中で、自分たちが一等素晴らしいのだと言い触らした。

 あるとき、浜に出ていたうららが、高波に呑まれてしまう。うらべが魂の片割れを返すよう波に頼むと、彼らの高慢を長いこと憂いていた波は言った。お前の本当の鱗の色を明かすならば、返してやろう。うらべは困った。その愚かな魚の鱗は、醜い灰色だったのだ。


* * *


 台所の曇りガラスから透ける夜に、火がちらついている。喉が渇いて目を覚ました充央は、不審に思い、サンダルを引っかけて勝手口から外に出た。扉を出た先の裏庭では、叔父がライターを片手に、バケツの中で何か燃やしていた。

 足もとで、細かな砂がじゃりと擦れる。充央を見た叔父は驚く顔もせず、「昼間ね」と声を出した。

「君たちと会う前に、浜で見つけたんだよ」

 出てくるときに椅子から掴んだコートに袖を通し、叔父の隣にしゃがみこんだ。夜中の北風が頬を突き刺し、冷たい空気に喉がひりりと痛む。海岸沿いの町の空は曇っていて、真っ暗な中、ライターの眩しい光が網膜に、髪先ほどの傷をつけた。

 照らし出されたのは、半分焼け焦げた女性の写真。首にまだらについている鱗は玉虫色だ。叔父を見ると、鈍色の鱗が散る肌は、一気に何年も老けたようだった。

「ずいぶん前に、破いたつもりだったのだけど」

「この人が、真のお母さん?」

 尋ねるが、叔父はそれには答えず。

「嘘をつくならばれないことだな」紙の焦げがきつく鼻をさす。「わたしは隠し通したよ。親友の妻に横恋慕していたこと、彼らは知らないままだった。君もあの砂浜で、見つけたものがあるだろう」

 脳裏に浮かぶ、冷え切った赤い塊。叔父は返事を求めていたわけではないようで、しばし漂った沈黙を無視して続けた。

「不安になったら、自分自身も騙してしまうといい。そうすれば、嘘は嘘でなくなるからね」

 昼間、浜辺に打ち上げられたうららの鱗は、昔ばなしの波のごとく、真実でも突きつけようというのだろうか。叔父が魚になったのは、ちょうど大晦日の晩のこと、焼けた写真の臭いもまだ消えぬうちだった。

 

 暮れたばかりの空を飛ぶ、祭り囃子と人のざわめき。港近くの道路に出ている出店は、黄色く赤く、夏祭りより盛大だ。この地では、帰る魚の大行列が全国でも一際美しいと評判で、毎年この時期になると大変な賑わいを見せていた。

 町の駅から海水浴場の横の港まで、通行止めとなった大通りは提灯で飾られて、海へと戻る魚たちを照らし出す。先頭を行くは巨大なマグロの群れ。カツオにアンコウ、メダイにノドグロ、タイやヒラメの舞い踊り。ホタルイカの輝きは夢のよう、足もとをカニが横歩き、果てはホオジロザメが宙を泳ぐ。

 夕方から表の様子を見に出ていた充央は、叔父と真を呼びに引き返した。行列は明け方まで続くそうで、初日の出が昇る頃に、ようやっと静かになるという。

 ほとんどの人が港の方に出てしまい、しんと静かになった住宅街を歩く。家々の玄関に下がる正月飾り。トラ柄シートを巻いた電信柱が等間隔に道路を縁取り、消えかかった街路灯が、ちかちかと不穏に瞬く。

 叔父の家にたどり着くと、白い斑点のついたクロダイが一匹、石垣の上で尾びれを揺らしていた。真は部屋の光が漏れる縁側に突っ立ったまま、虚ろな目で魚を見ている。名前を呼ぶと、ゆっくり顔を上げた。

「叔父さんはどこ」

「誠一さんの体にあった鱗を、数えたことあるか」

 食い気味に尋ねる真の声。充央はクロダイを横目に、いいやと呟いた。クロダイの鱗は、叔父の皮膚に生えていたそれとそっくりだ。三日前の夜が脳裏をよぎる。波が打ち上げたものは、金魚やあの写真だけではなかったのかもしれない、もしかしたら。

「おれもない。鱗が増えていることに気づいても、見ないようにしてたんだ。誠一さんがおれに隠していることがあるなんて、思いたくなかったんだ」

 彼はすがるような目を向けた。充央の苦手な瞳は、今や生き物のいない深淵、空気のない水底。痛いくらいの、黒だ。


 潮溜まりが映す、赤いゆらりを覚えている。

 その日海の岩場には、叔父の家に遊びに来ていた、まだ十にもならない充央と、七歳の弟の二人だけだった。近くだからと、弟を置いて買ってきたアイス二つ、夏の熱気ですでに溶け、ビニールの中で甘い香りを放っていた。眼前に浮かぶのは一匹の金魚。友人から貰って、逃がしてしまった金魚。ケースの中で揺れるそれを、弟がふとしたときよく、目で追っていた金魚。金魚の姿のはまうらら、波の中へと消えてった。

 叔父の家に帰ってしばらくすると、両親や親戚の大人たちが、弟のいないことに気がついた。みなで探しても、見つかることはついになかった。

 弟を連れ出したのは自分、目を離したのも自分。金魚になってしまった、そう口に出せば、ばれてしまう。聞かれて答えた。知らないと答えた。体の奥に残る、金魚の目が、小学校に上がったばかりの子どもらしく舌っ足らずにしゃべっていた。青白い声色で。


 今、クロダイは尾びれを揺らし、石垣を越えて港の方へ。真は追いかけるでもなく、縁側に腰を下ろし、右足のつま先で地面に円を描き始めた。充央はクロダイの去っていった方を振り返りつつ、隣に座り込む。

 開いたままの掃き出し窓から、壁に染みた線香の煙が香る。どこか遠くから聞こえるカラスの鳴き声と共に、屋根の向こうから顔を出した大きなカジキが、威風堂々たる様子で少年たちの真上を泳いでいった。雲から覗く僅かな月光が遮られ、数瞬落ちる影の重み。

「おれが二階から下りてきたときには、誠一さんはもう魚になってた。急に発作を起こしたんだと思う、たぶん。心臓の病気だって、前に言ってたから」

 自信のなさそうな声で言う、真の横顔。充央はそこで初めて、彼が抱えている本に気がついた。手を伸ばして促すと、手渡すときの傾きで、ページに挟まっていた砂粒がパラパラ落ちた。緑色のそれはアルバムで、表紙に写真が貼ってある。若い頃の叔父と、夫婦らしき男女の、三人。女性の方は、叔父があの夜手にしていた写真の人物だった。

「これは?」

「夕方、一人で散歩に出たときに拾ったんだよ。砂浜で。誠一さんが写ってたから、どうして浜にあるのか不思議だったけど、拾って居間に置いておいたんだ」

 一番古い写真は、表紙の男女の結婚式で、日付は十三年前のものだ。下に彼らの名前が書いてある。名字の「水野」は真と同じ。二人の写真が何枚も続き、最後のページに貼られている、一番新しい写真は三年前のものとなっている。

「中を見たのか」

 こくりと頷く。魚になった叔父の下で、開いたまま転がっているのを手に取ったのだという。真は足のつま先からアルバムに視線を移した。

「水野。それはおれの両親のアルバムだろう。結婚してから、三年前、事故に遭うまでの。全部見てくれ。全部。おれはどこにいる?」

 聞いた瞬間充央は、はっとしてページを繰った。どこにもいない。母親の嘘で生まれたはずの、彼の写真など、どこにもない。それはそうだ。冷たい汗が伝うなか、頭の隅の、妙に落ち着いた部分が考える。それはそうだ。水野真など、存在しないのだから。


* * *


 うらべの鱗は灰色だった。

 うららの隣にいたいがために、玉虫色に塗り隠し、素知らぬ振りをしていたのだ。本当の色を口に出すのも恥ずかしく、わたしの鱗は玉虫色ですと、うらべは慌てて嘘をつく。嘘を見抜いた波は怒り、うららをばらばらに引き裂いてしまった。本物の玉虫色が昼と夜の狭間で光り、うららは渦にさらわれた。底へ、底へ。うららの体は塵となり、海の下にあるという、魂の集う都の上へ、雨あられと降り注いだ。

 うらべは長い間嘆き悲しみ、自ら海に飛び込んだが、波の怒りで都にたどり着くことは叶わず。偽りの色は泡と消え、尾びれ背びれは薄くなり。今もうららの魂を求めて、海を彷徨っているそうな。


* * *


「おかしいとは思ってたんだ。おれにはこの家に来る前の記憶がない。アルバムの名前を見なければ、写真の二人が両親であることにも気づかなかった。母親の、腹の中にいたことさえなかったかもしれない。おれは誰だ? この体の鱗は誰のものだ?」

 自分と彼の呼吸がやけにうるさく耳に響く。雪のなりかけが、一つ、二つ、北風に混じって散り始めた。

 叔父が彼のことを話し始めたのは三年前。親友の子を引き取ったんだ。あれほど子どもをほしがっていたのに。可哀想に、成長する姿も見られず。そう言いながら、新しい住居人が来た様子もなく。しかし何度も会話に出てくるうち、叔父の引き取ったという子は、親戚の間ではいることが当たり前になっていった。

 自分の子だと言わなかったのは、そこまで、己を騙せる自信がなかったからか。叔父はいつも、「親友の息子」と呼んでいた。

 ――その子、真という名じゃない?

 いもしない彼に、名前を与えたのは充央だった。「真」は弟の名前だ。金魚になった、弟の名前だ。水野真は、叔父と充央の二人で作り上げた幻想だった。

「自分が、失くなってしまいそうで怖いんだ。何を信じたらいいかわからないんだ。助けてよ。お前は目の前にいるんだと、言ってくれ」

 彼の声から逃れるように下を向く。アルバム。叔父の心臓に、ショックを与えたアルバム。彼にばれるのが、それほど恐ろしかったのか。いやきっとそうではなくて、彼はいないのだと、亡き二人の、子どもがほしいという望みは叶わなかったのだと、思い出してしまうことが耐えられなかったのだろう。

 アルバムの上の、手の甲を見る。まだらに覆う鱗は灰色だ。爪をたてる。鱗を引っ張る。鈍い痛み、頭が白くなり、鱗の根もとに血が膨れた。

 自分は彼に、弟の面影を重ねていたのかもしれない。二歳下なのも、真面目なのも、嫌になるくらい素直なのも、みな弟のことだったかもしれない。彼の瞳が弟のそれと重なって、金魚が泳いで、手の甲がずきずき痛んで、充央は、誰を前にしているのかわからなくなる。

「うららを」口を開いた。「うららを探しに行こう」

 真は掴むような視線で充央を見る。

「本物を見つけるんだよ。ぼくは、灰色の鱗が嫌いなんだ。君も本物の自分がほしいだろう。だから、うららを探しに行こう」

「それは、君のついた嘘のため?」

 言われてどきりとした。けれど真は、充央が知っていることに、気づいたわけではなさそうだ。疑おうともしなかった。彼はどこまでも純粋だった。

 嘘のため、と言われればそうかもしれない。真の鱗を「緑」と言って、けれど充央はそれが嘘であることを知っている。紫でもなく、黄色でも白でもなく。本当は何色であるのか、見ようとすればするほど、自分の中身が見えなくなる。何もない空間で、溺れていくみたいだ。どんな方法でも構わない。この状況に終わりがほしかった。

 彼の真っすぐを追いかける。屈折し、平らかになり、また曲がる。三度目の直線で、彼の目を正面から見ている自分に気がついた。

「がらんどうだからだよ」

 真は眉を上げた。意外な答えを聞いたように。目を細めて、歪んだ口で、

「いいよ。何だっていい。君のこと、信じさせてくれるんなら」

 

 荒れた波音は内に籠もって、皮膚の裏側を引っ掻いていく。黒く煤けた雲は月の端に被さり、相変わらずちらほらと降る雪に混じって、時おりクラゲが目の前を横切っていく。

 ほとんどの魚は、明かりが多く、海に向かって開けた港から戻っているようで、海岸線が三日月型に土地を抉り、周りを小高い丘に囲まれたこの場所には、小さなものが僅かに泳ぐばかり。背後の松林から姿を現した深海魚たちが、焦げ茶色のごつごつした岩石にぶつかり砕ける波の中へ、沈黙したまま潜っていく。

 斜面に引かれた高速道路から、車の走る音が近づき、すぐに去っていった。波打ち際に裸足を浸す。針山に足を突っ込んだように冷たく痛い。容赦なくやって来る波は、腰のあたりまでずぶり濡らしていく。

「うららは海の底にいるんだよ。二人で一つの魚になろう。帰る魚の群れに、紛れてしまおう」

 引いた手は一回り小さく。手のひらに押しつけられた彼の指の関節の、覆う鱗のすべらか。

「泳げないんだ。おれの分も泳いでくれないと」

 夏休みに親戚の子と海に遊びに出かけ、一人だけ、砂浜に残っていた真の姿を思い出す。その「真」は目の前の彼だったか、自分の弟だったか。

「ぼくも、泳げないんだ」

「君のは嘘だね」

「どっちでもいいだろ。どうせ、沈むだけだから」

 手のひらを合わせた。みぎひだり。一時間後に横びれになった。互いの両足は、二時間かけて尾びれになった。膝をついて、さらに三時間、血管と神経が繋がった。体の中身がくっついていき、新しく魚の臓器が出来上がる。玉虫色と灰色の鱗が混じり、表側に残っていた皮膚を覆い尽くす。

 膝の下で、砂粒が蠢く。黒い海の中、波底の深くなる方へ目を凝らす。ぼんやりと、今いる岸辺が見えた。囲む丘と、松林、高速道路を走る車のヘッドライトの光が見えた。もう少し奥には、まだ明るい港が泡と浮かんでいる。それから、叔父の家。馴染み深い、玄関の引き戸と、錆びたベランダ。

 同じ町。同じ砂浜。二つの景色の間で思う。海の底にある方が、本物だとしたら。魚たちが向こうへ帰るのは、そのことを知っているからなのだろう。

 向き合う真と、長い時間、とりとめのないことを話していた。彼の言葉の端々に、充央へ寄せる信頼が濃く表れている。信じきっている。得も言われぬ誇らしさ。信じられるものがいれば、誰でもいいのかもしれないけれど。

「君となら、溺れてしまってもいいかもしれない」

 彼は言った。ああ、これは嘘だ。すっきりしたような、柔らかく落ちていくような、高揚にも似た気持ちの中に、ふと湧き上がるそんな言葉。真が初めて充央に、そして彼が最初で最後についた、嘘だった。

 

 四つの目が二つになり、耳がエラになり。心臓が一つに合わさって、何時間もかけて、二人の体は魚になっていった。十二時に除夜の鐘を聞いて後、時間の感覚がなくなった。個人の思考も言葉もなくなった。最後に考えていたことが、二人のうちどちらのものか、曖昧に揺れて消える。

 空との境を染める朝の色が、佐渡ヶ島の形をなぞり、波間に白い光を散らす。雪は止み、雲はまばらに潮風に吹かれ。やがて高波が来て、一匹のはまうらべを呑み込んだ。玉虫色が美しく煌めき、灰色が鈍く朝日を返す。それは沈んでいった。底へ、底へ。

 鬱々とした闇は薄れ、生きるもののいなくなった砂浜は、さめざめと静けさを嘆いている。のどやかなる春はまだ先に、青空の裾は夢のうち。新しい年の寒々が、丘の影の落ちた波打ち際に延びている。

 溺れたうらべはうららを求む。うらら乞い乞い、はまうらべ。あとにはもう、うらぶれた海の灰色が、遠く、わびしく、鳴るばかり。


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うららこひこひ 沢田こあき @SAWATAKOAKI

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