空蝉

鳥尾巻

蝉の鳴かない夏

 母方の祖父母の家を訪れるのは去年の夏休み以来だった。

 緑深い木立の間を父の運転する車がしばらく走る。私は後部座席の窓から、密に生い茂る枝を見上げていた。お菓子にも携帯にも飽きて、欠伸が出る。時折差し込む木漏れ日が閉じた瞼の裏で弾け、眠りに落ちたい私の邪魔をする。

 阿多地郡あだちぐん御池守町みいけもりちょう。山あいの集落に在る母の実家を訪れる機会は多くない。けれど今回は母の従兄弟――本家の長男――の結婚式で、親戚が一堂に会するという。分家である私たちにも声がかかり、一家で出向くことになった。私は直前まで粘ったが、高校の友達との約束を半ば無理矢理キャンセルさせられた。いつになく強引な両親のやり方に、内心はかなり面白くなかった。

「まだ着かないの?」

「もう少しよ。……ほら」

 助手席の母が前方を指さす。不意に視界が開け、真夏の陽光が射るように降り注ぐ。飛行機雲が青空を斜めに走り、緑の山々にかかる白い入道雲の中に吸い込まれていく。眼前に鮮やかな田園風景が広がる。なだらかに続く下り坂の右手には、大きな池が見えた。正式名称は知らないが、町の人たちは「御池おいけ」と呼んでいた。碧い水を湛えた水面は底が見えないほど深く、子供の頃聞いた池の伝承は怖かった記憶がある。

「昔はここから見える景色全部が阿多地あだちのご先祖様のものだったの」

「その話何回するの」

 分家とはいえ、お嬢様だった母が、どこか誇らしげに言うのを白けた気持ちで聞き流す。千年以上前に豪族だったご先祖様がこの地を治めていたとか。

「農地改革さえなければねえ……」

「いつの時代の話? お母さんだって生まれてないでしょ。そんなに土地持ってたら税金とか維持費が大変じゃない」

「夢がないわ。由佳ゆかは現実的ね」

 溜息のような母の声に、父の忍び笑いが重なる。普段からあまり喋らない物静かな父だが、母の軽口は楽しそうに聞いている。

 両親の若い頃に比べたら、堅実にならざるを得ない時代だと思う。大人達がいくら「夢は大きく」と言っても、限られた隙間にはそこに収まるものしか入らない。


 一度、分家の祖父母のところに顔を出して、車を置いたその足で隣の本家に向かった。田舎で言う「隣」は果てしなく遠い。白茶けた埃まみれの道を日傘を差して歩いていると、汗が際限なく吹き出てくる。野良仕事をしていた老人が、畦道の端から声をかけてきた。

「嬢ちゃん、御池守みいけもりのご本家に行くんか?」

「もう嬢ちゃんなんて年やないて。まささん、お元気そうやね」

 母の顔見知りらしく、地元の言葉で応じて笑っている。老人は日に焼けた顔をくしゃくしゃにして、枯れ枝のような体を揺すった。

「長生きはするもんや。本家の若さまの婚礼が拝めるなんてありがたいことやで。代替わりして村祭りの神事も仕切るて、先代も肩の荷が下りたやろなあ」

「本当にねえ」

 母が楽しげに相槌を打っている間、私と父は黙ってその場に立っていた。きつく照りつける日差しが目と肌を焼き、いつ終わるともしれない世間話にいらいらする。

 本家の当主は、本名とは別に代々「御池守」の名を継ぎ、この阿多地の水の神を祀る神事を執り行う。それは、昔この地で飢饉が起きた時、生贄として差し出された娘の伝承に端を発していると、子供の頃に母から聞かされたことがあった。

 時の帝の命でこの地を治めることになった阿多地家の主が日照り続きに悩まされ、足元にいた蛇に「お前に雨が降らせられたなら、娘を嫁にやってもいい」と零した。するとにわかに空はかき曇り、大量の雨が降り注いだ。村人たちは喜んだが、数日後、一人の若者が屋敷を訪ねてきた。約束通り、娘を差し出せという。当主の娘たちが拒む中、優しい次女が「わたくしが参ります」と名乗り出て、二人は御池の底に姿を消した。その後、当主が池のほとりに娘を訪ねると、龍と化した娘に一人の赤子を託される。「この子の直系の血筋を絶やさねば、一族の繁栄を約束します」と言い残して――。

 気が遠くなるほど昔の話だが、いまだにそれを守り続けていることにも驚く。

 遠くに練塀を張り巡らせた立派な屋敷が見える。あれが本家だ。堅苦しくしきたりの多い本家が苦手だったが、今は一刻も早くそこにたどり着きたい。その黒々とした瓦屋根が、じりじりと照りつける太陽に焼かれている。それは地面に這いつくばる巨大な虫に似ていた。私はふと、仰向けになった蝉を連想した。動かないように見えて、近づくと激しく身体を震わせる。ただ、夏の底に横たわり、何かをじっと待っているようだ。


 屋敷の周囲をぐるりと囲む練塀を辿り、屋根のついた門をくぐる。主と使用人、勝手口に通じる門などがいくつかあるが、私たちは正面の門から入った。手入れされた前庭を通り抜け、ようやく母屋に到着した。

「由佳、よく来たね。外暑かったやろ」

 玄関で、ちょうど来客の応対をしていた母の従兄、庸亮ようすけさんがにこやかに迎えてくれた。母の従兄だから、私にとっては再従兄弟はとこということになるけど、年上とはいえそれほど離れてもいないので、子供の頃は彼のことを「お兄さん」と呼んでいた。

 墨色に細かい地紋の入った単衣仕立ての着物に、同系色の帯。背筋が伸びたその姿は、いかにも旧家の主といった風情だ。もともと背が高く、顔もきりりとしているから、そういう恰好もよく似合う。私は少し緊張しながら頭を下げた。

「このたびはおめでとうございます」

「ありがとう。由佳も大人びたこと言えるようになったんやな」

「もう、いくつだと思ってるの。選挙だって行けるんだからね」

 当主となる庸亮さんに失礼かと思ったけど、子供の頃と変わらず接してくれるのが嬉しくて、すぐに砕けた口調になってしまった。

 その様子を見守っていた父が、控えめに微笑みながら庸亮さんに声をかけた。

「もう立派な四十六代目御池守ですね。おめでとうございます」

「ありがとうございます。まだまだ若輩者ですが、精いっぱい務めてまいります」

「本当にご立派になられて。ところでお嫁さんはどちらに?」

「奥でお茶の用意をしております。立ち話も難ですから、どうぞお上がりください」

 庸亮さんに促され、式台から履物を脱いで上がり、庭に面した外廊下を歩く。あまりに広くて何度来ても迷ってしまいそうな家だ。親戚の子供たちが集まると、いくつもある部屋や納戸でかくれんぼをしたこともある。

 磨きこまれた床がきしきしと音を立てる。いくつもの戸口や部屋の前を通り過ぎるたび、空気が重く足元が覚束ないような気持ちになった。私は重苦しさを振り払うように、前を歩く庸亮さんに尋ねてみた。

「ねえ、お兄さん、お嫁さんはどんな人?」

「分家の遠縁の子だから、由佳も会ったことあるかもしれんな」

「恋愛? お見合い?」

「そういうの気になるお年頃か。見合いだよ。俺がいつまでも身を固めないから親父が痺れを切らしてな。……きれいな人や」

 庸亮さんは、根掘り葉掘り聞く私に苦笑しながら、どこか他人ごとのように答える。私には想像もつかないけれど、本家の長男はいろいろ大変なのだろう。

 

 案内された奥座敷にはすでに何人かの親戚が集まっていた。挨拶に伺う父を置いて、母は私を急かして台所に向かう。

「お嫁さんたちだけじゃ大変だわ。お手伝いしましょう」

「えー、そんなの喉乾いた人が勝手に飲めばいいじゃない」

「そういうわけにはいかないのよ」

 こういうところが本当にめんどくさい。普段は父が台所に立つことにも異を唱えない母だが、ここでの立ち位置はまた違うらしい。私は不貞腐れて母の後に続いた。

 台所の暖簾をかき分けると、芳醇なお茶の香りが中から漂ってきた。数人の女性たちの中に、忙しく立ち働く若い女性が見える。多分あれが庸亮さんの婚約者だろう。

 水色の絽の着物を着た上品な女性だ。外の日差しとは無縁の、透き通るような白い肌と、伏し目がちな黒い瞳。庸亮さんが言っていた通り、本当にきれいな人だった。

「由佳、ひさしぶり」

ゆずる~! 元気だった?」 

 声をかけてきたのは、この近くの分家に住む、私と同い年の従兄弟だった。私たちは手を取り合って再会を喜び合う。弦は線が細く、日に焼けない質なのか、白く繊細な面立ちをしている。昔は肩まであった滑らかな黒髪を短く刈上げ、長めの前髪を軽く後ろに流していた。去年会った時より背が伸びて、白いシャツと黒いスラックスというシンプルな恰好がよく似合っていた。時々見え隠れする彼のいたずらな気質が好きで、私はこの従兄弟に会うのを密かに楽しみにしていた。

「あら、弦くんもお手伝いしてるの?」

 母が驚いたような声を上げた。時代錯誤も甚だしいが、ここでは男子が厨房に入るのはご法度らしい。

「だって、あっちはおじさんばっかでつまんないし。みどりさんも、おば……おねえさんたちに囲まれてるの怖いやろ?」

「いいえ。皆さんいろいろ教えてくださって勉強になります。私も早く慣れなくてはね。弦さんがいてくれて助かるわ」

 翠、と呼ばれた彼女は、花が綻ぶように微笑んだ。鈴を転がすような、という言葉があるけど、声も軽やかで耳に心地よい。どうやら見た目だけではなく、中身も謙虚で落ち着いた人なのかもしれない。弦の子供っぽい冗談も静かに受け流している。

「はじめまして。庸亮さんの婚約者の翠と申します」

 華奢な指先を揃え、新たに加わった私たちにも丁寧に頭を下げた。そこへ、暖簾をかき分けて、庸亮さんが顔を覗かせた。

「弦、ここにおったんか。伯父さんたちの相手するの手伝ってくれ」

「いやや、つまらん」

「お祖母様に見られたらまた大目玉やぞ」

 皆「お祖母様」と呼んではいるが、この家を仕切っている曾祖母のことだ。私が知る限り、かくしゃくとして元気な方だったが、最近は年のせいか、あまり表に出てくることはない。

 ふざけて翠さんの後ろに隠れる弦の腕を庸亮さんが強引に捕まえようとする。この二人は子供の頃から仲が良い。たいていは弦の無作法を庸亮さんが窘める感じだが、本当の兄弟のようで見ていて微笑ましい。周りの女性陣もくすくす笑っている。

 間に挟まれた翠さんは困った表情で立ち尽くしていた。その時、浅黄色の着物を着た品のある初老の女性が、苦笑しながら割って入る。庸亮さんのお母さんだ。

「騒いでいると、二人ともお祖母様に叱られますよ。あちらでお待ちなさい」

「そうですね。すみません、お母さん。ほら、ゆず、おいで」

「はーい。お騒がせしましたー」

 庸亮さんは照れくさそうに頬を掻き、今度こそがっちりと弦の腕を掴んで引いた。とはいえ、二の腕に絡む指先は優しく、弦の繊細さを壊すようなことはない。弦は不満そうにしながらも、大人しく従う。その目には甘えと信頼が浮かび、庸亮さんの方もそれを受け止めるような慈愛のこもった眼差しを向けている。

 古くからの親類や私にとっては見慣れた光景ではある。でも二人を見送る翠さんの姿が少し寂しそうに映った。その瞳の奥には、憧憬とも焦りとも言えない、微かに揺れる影のようなものが見えた気がする。きっと馴染めるかどうか不安なのだろう。

 これから新しい関係を築いていくには時間がかかるけれど、彼女も少しずつこの家に慣れていけるといいなと思う。


 それから数日は、祭りと婚礼の手伝いに追われた。今回、村の祭りは婚礼の前夜祭のようなものだ。父はともかく、母は分家と本家を楽しそうに行き来している。主役の二人はきっと目が回るほど忙しいだろう。

 最初、ここに来るのはあまり乗り気ではなかったけれど、弦と遊ぶのは楽しいし、庸亮さんや翠さんの役に立てるのも嬉しい。

「しかし、こまった」

 私は長い廊下を歩きながら、一人呟いた。大人に「客用の座布団が足りないから探してきて」と言われたのだが、広すぎる家の中で迷ってしまった。ここには母屋の他にいくつかの離れや内蔵、土蔵まであるのだ。迷路のように連なる廊下を歩きながら、知らず知らずのうちに奥まで入り込んでいた。

 誰かに聞こうにも、大人はみな忙しそうで声をかけにくい。かといって、片っ端から障子や戸を開けて、中に人がいたら気まずい……。本家によく出入りしている弦に聞けば分かるかもしれないけど、サボリ癖のある彼の姿は見当たらない。

 納戸の傍を通り過ぎた時、ふと物音がした気がして立ち止まった。辺りに人影はなく、その微かな音はやはり引き戸の向こう側から聞こえてくるようだ。勘違いだと恥ずかしいので、私はこっそり戸を開けた。じっとりと蒸れた生臭い空気と黴のにおいが鼻をつく。細く開いた隙間から覗き込むが、明るいところに慣れた目には、薄暗い中の様子はわからない。それでも人の気配はする。

 不意に心臓がどきりと音を立てた。暗さの中に、ゆらゆらと揺れる白いもの。それが人の足だと脳が認識する前に、どこかで気づいていた。

 前をはだけた逞しい男の腰に艶めかしく絡み、太い首に白い腕が蛇のように蠢いて絡みつく。衣擦れと、短く荒い呼吸の合間に漏れる微かな嗚咽。私は不穏に高鳴る胸を押さえ、息をするのも忘れて見入っていた。黒い瞳を潤ませ、汗に濡れた黒髪を振り乱している美しい少年。あれは……。

 口づけをせがむように細い首を傾けた弦は、涙の滲む目を上げて、自分を組み敷く男の名前を呼んだ。

「……庸亮」


 そこからどこをどう辿って戻ったのか、よく覚えていない。なんとか人のいるところまで歩いて母を見つけ、体調不良を理由に祖父母の家に帰らせて貰った。

 私はその時ひどい顔色をしていたのだろう。口々に心配する大人達の肩越しに、ちらりと弦の姿が見えた。ほんのり上気した肌の意味を考える間でもない。なぜか罪悪感に襲われて、翠さんの顔を見つめたが、彼女は私を案じる眼差しをくれただけだった。

 その晩、祖父母の家に弦が訪ねてきた。表向きは体調不良の私を気遣って、見舞いに来たということだが、今はあまり会いたくない。

 私は膝を抱えて縁側の柱に身を預け、弦が差し出した桃をのろのろと受け取った。彼は柱の反対側に座り、踏石の上にサンダル履きの足を投げ出した。その白い足が昼間の行為を思い起こさせて、私はそっと目を逸らした。

「なあ、由佳。見とったやろ」

「……なんのこと」

 いきなり核心に迫る弦に動揺し、熟れた桃を握りつぶしそうになった。弦はくすくす笑って私の顔を覗き込んでくる。まったく悪びれた様子のない態度に胸がむかむかする。

「黙っててくれるん?」

「い、言えるわけないでしょ! あんな、あんな……」

「そうやなあ。ごめんな」

「翠さんに悪いと思わないの?」

 弦は一瞬言葉に詰まり、一呼吸置いてからぽつりと呟いた。

「……翠さんは俺たちの味方や」

「どういうこと!?」

 思わず弦の方へ体ごと向き直る。弦は繊細な見た目に似合わず、大きな一口で瑞々しい桃を頬張り、お行儀悪く地面に皮を吐き出している。私は食べるどころではなくて、手に粘ついた果汁が垂れるまま、彼の顔を凝視した。

 弦は食べ終わると、持ってきた袋の中に種を放り込んだ。そして、庭石の上に置かれた蚊やり豚を眺めながら、小さな声で語り始めた。

「庸亮なあ……子供作れない体なんやて」

「うそ」

「嘘ついてどうする。昔調べて分かったんやと。それで本家の奴ら、秘密守るのに必死や」

「じゃあ、なんで結婚するの? 後継ぎどうするの」

「それなあ。そこで俺の出番」

「ほんと、どういうこと?」

「俺に種馬になれってよ。つまり俺が生贄よ」

「はあ? 体外受精とか、養子じゃダメなの?」

「アホか。どっちにしろ直系の子孫絶えたらアカンやろ? どうせ誰も伝承なんか信じとらんのに、体裁だけ整えてご苦労なこった。体外受精は許さないとか言って、神様も騙せると思っとるところが矛盾してるわな」

 弦は皮肉気な口調で唇の端を引き上げる。果汁に濡れた赤い唇が、夜目にもわかるほどつやつやと輝いている。昼間の衝撃も去っていないのに、さらなる混乱が私の頭をくらくらさせた。

「どうするの」

「どうもしない。なるようにしかならん。俺は庸亮しか好きやないし、悪いけど翠さんには起たん」

「た……、私が誰かに喋ると思わないの?」

「言いたきゃ言えば。どうせ何も変わらんし、大人は知らんぷりするだけやろ」

 どこか投げやりな言葉なのに、弦の目はあの時のように潤んで濡れている。弦は「翠さんには気の毒やけどなぁ」と呟き、果汁に濡れた手を拭いもせずに立ち上がった。

 そのまま歩き始めた細い背中を見送るしかできないことが、少しだけもどかしく思えた。


 悶々としながらも時間は過ぎる。私にできることなんて本当に何もない。皆が楽しそうに祭りの話題を出すたび、婚礼を楽しみにしている親戚の人たちを見るたび、もやもやが胸に溜まっていく。

 忙しくしていれば何も考えないで済むと、雑用をこなしていたある日。人気ひとけのない勝手口の前で、戸にもたれてぼんやりと立つ翠さんを見かけた。遠くを見つめる目の焦点が合っていない気がして、心配で思わず声をかけた。

「どうしましたか? 気分悪い?」

「……ああ、由佳さん。少し疲れてしまって」

「本家のお嫁さんは大変ですよね。私で良かったら愚痴でも何でも言ってください。どうせ帰っちゃうから誰にもバレませんよ」

「皆優しいわ。もちろんあなたもね」

 私の冗談めかした言葉に、翠さんは柔らかく目を細めた。そこには諦念ではなく静かな覚悟のようなものが見える。私はそれ以上何も言うことができず、彼女の傍で黙って空を見上げていた。

 そうして迎えた祭りの当日。賑やかな祭囃子、町の真ん中を流れる川の浅瀬を、華やかに飾り立てた神輿を担いだ子供たちや、威勢のいい男衆が通る。その川は御池から流れ出た支流で、龍神に嫁入りする娘を運ぶ輿の再現らしい。だが事情を知ってしまった今では、見れば見るほど皮肉しか感じない。母に綺麗な赤い浴衣を着せてもらったが、心は沈んだままだ。

「由佳!」

 縁日の屋台が並ぶ参道を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこには神主の装束を着けた庸亮さんと、紺の浴衣姿の弦が手を振っていた。

「お疲れ様です」

 私は庸亮さんにどんな顔をしていいか分からず、それだけ言うのが精いっぱいだった。彼は自分の立場をどう思っているの?

「祭りの準備ありがとな」

「ううん。翠さんも頑張ってたよね」

 言ってから、皮肉だったかとひやりとした。だが、庸亮さんも弦も気にした素振りもなく笑っている。

「そうや、由佳、ええもん見せたる」

 急に思い立ったように、弦が私の袖を引いた。いたずらを企むその目に、私は嫌な予感を覚えて身構えた。庸亮さんも苦笑いしている。

「明日は結婚式だからあまり遅くなるなよ」

「結婚するのは庸亮だけやろ」

「生意気言うお子さんは後でお仕置きや」

 軽口で返す弦に、庸亮さんは少しむっとしたように眉を顰めた。私の袖を掴む弦の反対の袖、手首の内側にするりと長い指が忍び込むのが見えた。爪の先で腱をなぞるような微かな動きに弦が僅かに頬を赤らめる。

「素行の悪い神主様やな」

 そっぽを向いた弦は、せめてもの反抗のように言い捨てて歩き始めた。私は何を見せられているのだろう。いろいろ心配していた自分が一瞬で馬鹿らしくなる。

「ねえ」

「何も言うな」

「分かった」

 見上げた耳は真っ赤だった。そのまま、弦の後をついて歩いて行くと、いつの間にか祭りの喧騒は遠くなっていた。神社にほど近い場所にある本家に向かうようだ。

 祭りの待合にもなっている門の前を通り過ぎ、玄関で履物を脱ぎ捨てた弦は、迷うことなく奥に進んでいく。手伝いの大人たちは、浴衣姿の私たちを微笑ましく見送る。村祭りの隠れた意味は若い男女の出会いと和合と聞く。でもそんなんじゃないことは私がよく分かっている。

「どこ行くの?」

「着いたら分かる」

 長い廊下が軋む音を聞きながら、一人では戻れそうにないと不安な気持ちに襲われる。

「着いた」

 弦が指さしたのは、母屋の内側にある大きな蔵だった。昔は収穫された米や農機具をしまっていたらしいが、今は使われていないようだ。弦は軋む閂を開け、ためらわず中に入っていく。

「ねえ、なんか誤解されない?」

「何が?」

「若い男女が密室で二人きり」

 わざと深刻めかして言うと、一瞬きょとんとした弦が盛大に吹き出した。ありえないことは分かっているが、言葉にすると面白い。私も肩を震わせながら彼の後に続く。

「これ」

 明かりをつけながら、奥に進んだ弦が取り出してきたのは、古い紙の巻物だった。丁寧に巻かれた表紙についた題の文字は私には読めない。弦は慎重な手つきでぼろぼろの紐を解いて紙を広げた。中の文字も漢文で書かれていて全く分からない。

「何が書いてあるの?」

「阿多地家の歴史」

「読めるの?」

「うん。まあ、庸亮に手伝ってもらったんだけど」

 私には隠す気がないのか、いちいち恥じらう素振りがなんとなく鬱陶しい。だが、そこに何が書かれているのかは気になる。

 弦の説明によると、阿多地家に伝わる伝承の真実が書かれているということだった。

 さる高貴な御方の手つきになった阿多地家の娘が孕み、子供を産み落とした。その後、意に染まぬ関係に絶望した娘は御池に入水。外聞を気にした当主と相手が、龍神池の伝承を利用したのが始まり。落胤の血と都合の悪い秘密を守りきること。最後に、それが一族に課された宿命と記してあった。

「な? 真実なんて馬鹿馬鹿しいやろ。呪いも血の縛りも無い。直系の血を絶やさぬように、なんて嘘っぱちや。大昔ならいざ知らず、今それが何の役に立つんやて」

弦の手から、巻物が床に落ちる。薄い埃の被った木目の上に、古ぼけた紙が身をくねらせる龍のように流れていく。

「どうするの?」

 私はそればかり聞いている気がする。弦は何も答えない。私は、埃がつくのも構わず、床に膝をついて紙を拾い上げた。見上げた彼の表情は、逆光でよく見えない。ただまっすぐに、天井の高い蔵の明り取りの窓に向けて顔を上げ、その細い顎に力が籠もるのが分かった。


 婚礼の儀は、午後の陽が落ちきらぬうちに行われた。龍神を模した白い義髪をつけた庸亮さんが、本家の入り口に立っている。黒地の羽二重に羽織、背中と両袖、胸元には阿多地の家紋が白抜きで染め抜かれ、白の羽織紐に仙台平の袴を着けた堂々たる花婿姿だ。

 花嫁よりも一足先に御池の祠に向かい、そこで一同を待つ。庸亮さんの父親である先代が、神主を務め式を執り行う流れらしい。

 格式高い白無垢に身を包んだ翠さんも、溜息が出るほど美しい。彼女は楚々とした風情で庸亮さんに頭を下げた。赤く染められた唇が独特な祝詞を紡いだ。

「水の緒に結びしえにし深き夢」

「御世に継ぐ道共に往かん」

 庸亮さんが厳かに返す言葉も古めかしい言葉だ。儀式は既に始まっている。二人はほんの数秒黙って見つめ合い、僅かに頷き合う。

 私は他の親類たちと、静かに歩き去る庸亮さんの背中を見送った。普段は滅多に表に出ないお祖母様も、紋付の黒い留袖姿で背筋を伸ばして立っていた。町の人たちも交えた人垣の中に、正装した弦の姿も見える。期待に満ちた眼差しを向ける人々とは対照的に、少し強張った面持ちで前を見つめていた。これから時間を少し置いて、翠さんも池に向かう。

 宵の口とはいえ、夏の空気はじっとりと重い。花嫁行列は粛々と進む。龍神様に嫁ぐ娘は輿に乗せられ、捧げものを担いだ人々が続く。独自の節回しの長持ち唄。角隠しに隠れた翠さんの表情は伺い知れないが、傍目には落ち着いているように見える。結婚式に参加すること自体初めての私は、昔ながらの儀式を、どこか夢の中にいるような心地で眺めていた。

 厳かに打ち鳴らされる太鼓の音が夜気を揺らす。歩みながら舞を奉じる巫女たち、列を為す人々、皆が一様に高揚し、神秘の儀と熱気に浮かされていた。

 しかし、その熱も冷めやらぬうち、列の前方からざわめきが広がる。切れ切れに聞こえてくる声に耳を澄ます。私は不安に駆られながら、小走りに走り出した。

「……花婿が!」

 誰かが叫ぶ声が聞こえる。息を切らせながら、前方に目を凝らす。そこには呆然と立ち尽くす神主と、泣き崩れる庸亮さんの母親、水際に倒れるように膝をつくお祖母様の姿が見えた。

 池のほとりの小さな祠には松明が灯され、静かに揺れる水面を照らしていた。翠さんの横顔には、奇妙に凪いだ表情が浮かんでいた。あるいは全て分かっていたと言いたげな。私は辺りを見回し、近くにいたはずの弦を探した。だが、混乱した人ごみの中に、彼の姿を見つけることはできなかった。

 池の縁には、脱ぎ捨てられた花婿の衣装と白い義髪が生き物のように散らばっている。碧い水面はどこまでも深く、底が見えない。

 翠さんはさざなみを見つめ、ゆっくりと微笑んだ。それはまるで古の言い伝えの中に息づく姫君。嫁ぐべき龍神は消え、神の名を借りて人々を欺こうとした一族は衰退の道を辿るのだろう。

 その瞬間、私も全てを悟った。夏の底に圧し潰された、あの黒い蝉のような家は、静かに終焉の時を待ち望んでいたのだ。

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