熱い夏の、冷たい悪意

知縒

熱い夏の、冷たい悪意

 夏の昼下がり。

 街路樹が落とす影も、そよぐ木の葉も、焼けつく太陽の光にすっかり負けている。

 あまりにも暑い。人々はうつむいて歩くため、ひき逃げ事故の目撃者を求める、古い看板に気付きもしない。

 それでも、一歩ビルの中に入れば涼しい。

 ここ、交差点の角地にある、前面ガラス張りのカフェの中も、クーラーで涼しいを通り越してひんやりしている。店内にいる客は、行き交う人たちをのんびり眺めながら、お手軽な優越感にご満悦だ。

 しかし、そんなカフェの隅に、密かに注目を浴びている若い男がいた。カフェの最奥の席に独りぼっちで座っている。

 男は、大声を出したり、大食いしたり、騒いだりもしていない。それでも男が注目を浴びている理由は、男がずっと俯いて泣いているからだ。

 男は泣きながら、1枚の写真を愛おしそうに見つめている。そして時折、写真を撫でたり、抱きしめたりする。

 その悲しみようは、夜の海の底のように、果てしなく暗い。

 周りの客は、男に気付かれないようヒソヒソ話す。

 ――すごいわね。カフェで泣いてる人、初めて見たわ。

 ――きっと恋人が死んだのよ。写真をこう、じとーっと撫でてたもの。

 ――そんな言い方しなくても。私も母が亡くなった時辛かったわ。

 ――可哀そうとは思うけど、泣くなら家の中にすればいいと思わない?

 男はずっと泣いている。

 噂話をする客たちに、男は気付いていないのだろうか?

 それとも、気付かぬふりをしているのだろうか?

 

 周囲の客がすっかり入れ替わった頃、男は静かに席を立ち、カウンターへ向かった。泣きはらした目は真っ赤だ。

「すみません。スコーンをふたつください。持ち帰りで」

 男性スタッフは、男に言われた通りスコーンをふたつ。それと、ショーケースとは別の場所から大判クッキーを1枚取り出した。

「あの。これ、サービスです。良かったら召し上がってください」と、遠慮がちにニッコリ笑った。右頬にエクボが浮かぶ。

 かすかに男は顔をほころばせた。

「あの……何があったか分からないけど、その、元気出してください」

「……すみません。ありがとうございます」

「またどうぞ!」



 自動ドアが、ウィーンと機械音を立てて閉まった。

 男を見送ったスタッフが片付けを始めると、すぐさま女性店長が声をかけてきた。

「ねぇねぇ。さっきのお客さんと何話してたの?」

「話し? 別に話はしてませんけど。あ! クッキーは僕が買ってとっておいた分です。店のものを勝手にサービスしたりしてないですから」

「キミ、あのお客さんにクッキーあげたの?!」

「はい。だって、カフェで泣くってよっぽどですよ。……え? 店長どうしたんですか。顔色悪いですよ」

「大丈夫。違うの。違う……。ごめんなさい。あの男に気付いた時、すぐに教えておくべきだった。あのお客さん……前、うちのスタッフにストーカーしてたの」

「ストーカー!?」

「そうよ。ストーカー。その子は……あのお客さんがきっかけで、辞めてしまったの。だから変に優しくするのはやめて。マニュアル以外の話もしないで」

「そんな人には見えませんでしたけど。何かの間違いじゃないんですか?」

「間違いだなんてありえない。だからお願い。今後は気をつけて」

 スタッフは店長の話が信じられない様子だ。

「……人は見かけによらないな。はい。分かりました。そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。僕、男ですから」

 店長は白いシャツの胸のあたりを握り締めた。

「……そうね、ごめんね。変なこと言って。私、外を掃除してくる」

「はい。いってらっしゃい」

 右頬にえくぼを浮かべるスタッフに向かって、店長は無理やり口角を上げた。

 

 

 店長の後ろで、自動ドアが、ウィーンと機械音を立てて閉じた。

「うわっ、あっつ……」

 蒸すような熱気にうんざりする。

 自然と空を見上げ、店長は眩しそうに目を眇めた。真っ青な空。綿菓子のような白い雲。

「……さっさと終わらせましょう」

 店長は小声で呟いた。

 タイルで舗装された道の上には、葉っぱやゴミくずが落ちている。暑さにぼぅっとしながら、箒でゴミを集めていると、不意に電信柱に立てかけられた看板に気付いた。

 

【目撃者を探しています】

 〇年〇月〇日。この場所で、車と歩行者のひき逃げ事故がありました。目撃された方は、□□警察署までご連絡ください。


 経年劣化で看板は色褪せて、過日の雨に濡れた文字は、ひどく滲んでいる。この看板のことを気に留めてくれる人は、もうほとんどいないだろう。

 否応なしに、店長の脳裏に亡くなったスタッフの顔がよみがえってきた。


 初めて、あの客が来た日。 

 ――俺、お客さんから友達になってくれって言われたんですよ。キモくないですか? もちろん断りましたよ。


 2週間後。

 ――あのお客さん、毎日いるんです。店に来てないと思って安心したら、この前は店の外にいました。


 1か月後。 

 ――店長……実は、アイツが家の近くにいたんです。アイツ、ガチもんかも……。


 2ヶ月後。

 ――突然アイツが話しかけてきて、なんか……俺のこと何でも知ってるって言うんです。


 4ヶ月後。 

 ――今月末で辞めさせてください。俺……実家に戻ることにしました。

 

 その日。彼がひき逃げ事故で亡くなった。

 ちょうど1年前の夜のことだ。



 店長の目は怯え、まっすぐに看板だけを捕らえた。

 この事故の犯人は誰?

 この事故の犯人は誰?

 あの子を殺したのは誰?

 生ぬるい夏の風に乗って、看板の上にいちまいの葉が止まった。そして、突風に飛ばされ、道路の真ん中に――。

 ピュン!


 店長の手から、箒がすべり落ちた。通りすがりのサラリーマンが睨んだが、店長はまったく気付かない。

「うっ……」

 ガラス張りの店内。

 新人スタッフの前に、あの男が立っている――。



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