ご褒美

 選手権大会・神奈川予選決勝。

 相手は、嫌というほど名前を聞かされてきた常連校――藤沢附属高校。


 対戦成績なんて、振り返るまでもない。

 高校に入ってからも、何度も何度も聞かされてきた。


『藤附には勝てねぇ』

『一枚も二枚も格が違う』


 そうやって刷り込まれてきた負け癖みたいな感覚が、チーム全体にこびりついているのを感じていた。


 ――でも、それも今日までだ。


 俺たちは、今年は決勝まで来た。

 選手権の切符が、指先に触れるところまで来てる。


 そして何より。


 ――ここで勝って、葵の胸に顔をうずめる……!


 昨日の電話で聞いた、あの甘い声と約束が、頭のど真ん中に居座って離れない。


 思い出すだけで、胃の底から熱がせり上がってくる。

 集中しろ、と自分に言い聞かせて、芝の感触をスパイク越しに確かめた。


 冷たい十二月の空気。

 白い息。

 ピッチを踏みしめた瞬間、スタンドからの歓声が、不思議と遠くに聞こえた。


 勝つ。絶対に勝つ。選手権のためにも、チームのためにも――そして、俺のパラダイスのためにも。


 胸の奥で、勝手に変なフラグが立つ。

 ダサい。ダサいけど、本気だった。


 レフェリーの笛が鳴る。

 決勝戦が、始まった。



     * * *



 最初のチャンスは、意外な形で転がってきた。


「よっしゃあ!!! 挟んだ!」


 中盤で相手が緩くボールを出した瞬間、寄せてきた味方と、背後から潰しにいった俺で、相手の十番をサンドイッチにする形になる。


 鈍い手応えと一緒に、ボールだけがぽろりとこぼれた。


 そのこぼれ球を回収しながら前を見る。


 空いてるか!?


 視界の先、少し開けたスペースの向こう側に、赤いスパイクが一本、ラインぎりぎりで駆け出していた。


 ――翔吾だ。


「翔吾ぉ!!」


 ディフェンスラインとアンカーのポケットとなっているゾーンめがけてロングパスを送り込んだ。


 ボールが冬の空気を裂いて飛んでいく。


「翔吾ぉ!! 後ろきてるぞ!」


 相手のセンターバックが、翔吾を潰そうと間合いを詰めているのがが見えた。

 

 俺の声が届いたのかどうかはわからない。

 ただ、翔吾は振り返りもせずに、一瞬だけ身体の角度を変えた。


「わかってるよ」


 聞こえたのは、余裕すら感じさせる声。


 伸ばされた相手の腕を、肩でふわりと外す。

 ボールが地面に落ちるタイミングで、翔吾は自分の身体をぐっと差し込んだ。

 相手の前に、ぬるっと入り込むような、いやらしいポジショニング。


 ――うまっ……!


 正面から見ていても惚れ惚れするようなターンだった。


 が――その瞬間、相手の足が伸びる。


 スパイクのポイントが、翔吾の足首のあたりをかすめた。


 翔吾の身体が、前のめりにつんのめる。


「ファウルだろ!!!」


 思わず、審判の方に詰め寄りそうになる。

 プレーを止める笛の音を待つ――が。


 翔吾は、ギリギリのところで、二歩目を無理矢理ひねり出した。


 転びかけた身体を、地面を蹴る力で持ち上げる。

 芝がえぐれる音が聞こえた気がした。


 相手センターバックは、「ファウル取られた」と思ったのか、半歩、足を止めていた。


 その一瞬の隙。


 ボールは、翔吾の前にちゃんと残っていた。


 いっちまえ……!


 キーパーとの距離が、ほんの数メートル。

 エリアの中、真正面。


 卒のないキーパーが、慌てて前に詰めてくる。

 手を広げて、角度を詰めようとしている。


 翔吾は、いつもの冷たい目つきで、その動きを見切っていた。


 左足の振り。

 キーパーが、そちらに重心を落とした、その逆。


 ふわりと、右足のつま先でボールを押し出す。

 流し込むような、冷静すぎるシュート。


 ボールが、キーパーの脇をすり抜け、ネットの奥で大きく揺れた。


 スタンドが割れんばかりの歓声を上げる。


「翔吾!!! お前ってやつは!! 最高だぜ!」


 叫びながら駆け寄る。

 翔吾も、珍しく拳を高く突き上げていた。

 駆け寄った仲間たちに囲まれ、背中を叩かれまくって、笑いながら息を吐いている。


「はは、ありがと。よし、もう一点取ろう」


 いつもの落ち着いた声に戻って、翔吾が言う。


「おう!!!」


 それに全員で応えるように吠えて、各自のポジションへ散っていく。


 あと一点。いや、まずは、この一点を絶対に守る!


 センターサークルに戻る足取りとは裏腹に、心臓は痛いくらいに脈打っていた。



     * * *



 そこから先は正直、あまり鮮明には覚えていない。


 藤沢附属の猛攻。

 何度も何度も、ゴール前まで運ばれて、そのたびに身体を投げ出して防いだ。


 ヘディングの競り合いで、後頭部をどつかれ。

 スライディングで、膝に火がついたみたいに熱を持ち。

 クリアし損ねたボールが、変な回転でこっちへ戻ってきて、慌ててラインの外へ蹴り出したり。


 気づけば、ユニフォームは泥と芝でまだら模様になっていた。


 俺の役目は、派手なゴールでもアシストでもない。

 ただ、走り続けて、叫び続けて、転び続けて、最後の最後まで足を止めないこと。


 ここで折れたら、またいつもの負けに戻っちまう――。


 それだけは、絶対に嫌だった。

 スタンドのどこかで、葵が見ている。


 図書館の窓から、練習の紅白戦を眺めてくれていたみたいに。

 今日もたぶん、どこかで俺たちを見ている。


 負けて、慰められるより――勝って、褒められたい!


 そして、そのあとに。


 ――約束の、ご褒美だ


 そんな不純な動機と、チームのためっていう真っ当な動機が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、俺の脚を無理矢理前に進めていた。


 そして――。


 アディショナルタイム、最後のコーナーキックをしのいだあと。


 レフェリーの笛が、今度こそ試合の終わりを告げた。


「っしゃああああああああああ!!!!!」


 誰の声が最初だったかはわからない。

 気づけば、みんなが抱き合って、泣いて、笑っていた。


 藤沢附属に、初めて勝った。

 そして、選手権大会の切符を、その手でつかんだ。


 やった……やったぞ、葵――!


 胸の奥で叫ぶ。

 涙と汗と鼻水でぐちゃぐちゃな顔のまま、空を仰いだ。



     * * *



「お、おじゃまします」


 試合が終わり、表彰式を終え、取材まがいのものをちゃちゃっと受け。

 学校に戻ってからシャワーを浴びて解散した俺は、まっすぐ家には――帰らなかった。

 

 ――ご褒美だ。約束、約束!


 そういうわけで、夕方の住宅街を抜け、俺は今、鷹宮――葵の家の玄関の前に立っていた。


 付き合ってから、葵の家に入るのは、これが初めてだ。


 前に少しだけ聞いた話だと――例のお姉さんに、どうしても俺を会わせたくないらしい。


 「ろくなことにならないから」という、葵らしからぬ言い方で言われて以来、「姉がいない日なら来てもいい」と条件をつけられていた。


 でも、タイミングが合わなくて、ずるずる今日まで来ていた。


 インターホンを押すと、すぐにガチャリとドアが開く。


「お疲れ様でした。それと……優勝、おめでとうございます」


 玄関に立っていた葵は――。


 奈良のコテージで見た、あのもこもこの部屋着姿だった。


 ふわふわした生地のパーカー。

 首元から胸元にかけて一直線に伸びるジッパーは、相変わらず、彼女の豊かな双丘を押し上げるように主張している。


 ……ジッパー、よく耐えてるな。


 失礼なことを考えつつも、視線をそらせない。

 思わず、これから起こるであろう、ご褒美タイムを想像してしまい、喉がひとつ、勝手に鳴った。


「お、おう、ありがとな!」


 変に間があく前に、慌てて返事をする。


「それでは、部屋に行きましょうか」


 葵が小さく微笑んで、先に上がるように促してくる。

 靴を脱ぎながら、「これが彼女の家に彼氏が上がり込むってやつか」と、変に俯瞰してしまう自分がいる。


 案内された葵の部屋は――なんというか、想像通りだった。


 余計なものが何一つ置いていない。

 教科書や参考書は、棚にきっちりと並べられている。

 ベッドの上も、きちんと整えられていて、床には一枚の服も落ちていない。


 白と淡いグレーが基調で、シンプルなのに、どこか柔らかい雰囲気。


「そんなにジロジロ見られると恥ずかしいですね」


「あ、ああ、悪ぃ……」


 完全にお上りさんみたいになっていた俺は、慌てて視線を引き戻した。


 ここまでは、順調すぎるくらい順調だ。

 勝った。

 彼女の家にいる。

 部屋で二人きり。


 ――なのに。


 いざベッドと机しかないこの空間で葵と向かい合うと、急に、身体の置き場所がわからなくなる。


 手は? 膝の上? ベッドの端?

 距離は? どこまで近づいていい?

 声のトーンは? いつもどおり? 低め? 高め?


 脳内会議が開店休業状態になっていると。


「ふふ、こちらに座ってください」


 葵が、ベッドの縁に腰掛けて、隣のスペースを軽く叩いた。


「あ、ああ!」


 言われるがままに、そこへ腰を下ろす。

 マットレスが沈む。

 その揺れが、隣の葵にも伝わって、肩がほんの少し触れた。


 柔軟剤と、葵自身のほのかな香りが、鼻先をくすぐる。

 心臓が、ドクン、と一段階ギアを上げた。


「……今日は、太一くん、大活躍でしたね」


 斜め横から、穏やかな声が降ってくる。


「……んなこたぁ、ねぇよ。結局翔吾頼みっていう試合だったしよ」


 ゴールを決めたのは翔吾だ。

 その後も、相手を押し返す起点になっていたのは、ほとんどあいつ。


 俺たちは、泥臭く守っていただけだ。


「そんなことないです」


 ぴしゃりと否定されて、思わず顔を向ける。


「サッカーのことは詳しくありませんが、間違いなく、太一くんも勝利に貢献していました」


「……俺は……」


 自分で言っておきながら、反論の言葉を探す。

 でも、その前に葵が続けた。


「チームで一番声を出して、一番走って、一番転んで――その姿こそが、チームを牽引しているように見えました」


 まるで、俺の心のど真ん中をそっと撫でるような言葉。


 誰も見てくれていないと思っていた。

 地味で、派手さもなくて、数字にも残らない仕事ばかりだから。


 でも、葵は見ていてくれた。

 泥だらけで、息が上がって、それでも走り続けていた俺を。


 ……ホント、タイミングよく欲しい言葉くれるよな、お前。


 胸の奥が、じんと熱くなる。

 目頭までじわりと熱を帯びてきて、慌てて俯いたそのとき――。


 ふわり、と頭の上に柔らかい感触が落ちた。


「え……?」


 わけがわからないうちに、葵の手が、俺の後頭部をやさしく包み込んでいた。


 軽く力がこめられる。


 次の瞬間、視界がふっと暗くなった。


 鼻先に、とろけるような温もり。

 頬に、柔らかい何かが押し当てられる。

 耳のすぐそばで、さっきまでよりも早い、心臓の鼓動。


 俺の顔は――葵の胸元へと、誘い込まれていた。


「っ――!?!?」


 息が詰まりそうになる。

 でも、それは苦しいからじゃない。

 ただただ、情報量が多すぎて、脳が処理しきれていないだけだ。


 部屋着越しとは思えないほどの、あり得ない柔らかさ。

 ゆるやかに押し返す弾力と、その奥に感じる、確かな体温。


 何より、さっきまで部屋の空気にふんわり漂っていた葵の匂いが、今は直接、肌に触れるような近さで押し寄せてくる。


 甘いシャンプーの残り香と、洗剤の清潔な匂い。

 その奥に、言葉にできないの匂いが混ざり合って、鼻の奥にやさしく張りついた。


 そこに、葵の声が、とても近くで落ちてくる。


「約束のご褒美です」


 耳元に、吐息混じりの囁き。


「――ちなみに、太一くんが喜ぶかなと思いまして…………下着はつけていませんよ」


 時間が、一瞬止まった気がした。


 ……は? 今、なんて?


 意味を理解した瞬間、背筋に電流が走る。

 顔を跳ね上げなきゃ、と思うのに、首の筋肉が言うことを聞かない。


 むしろ逆だ。

 さっきまで以上に、顔をうずめたくなってしまう。


 やばい。これ、やばすぎる――。


 それでも、本能には逆らえない。


 頬の角度を、ほんのわずか変える。

 鼻の先が、別の柔らかさに触れる。

 そのたびに、葵の心音が、さっきよりも少しだけ速くなる。


 息を吸えば、葵の匂いしかなかった。


「んっ――くすぐったいので、あまり動かないでください」


 耳元で、小さく甘い声が弾む。


 無理言うなよ……。


 心の中で毒づきながらも、言葉にはできない。

 こんな幸せを、一度知ってしまったら――もっと先まで欲しくなってしまうのは、当たり前じゃないか。


 頬を預ける角度を少し変える。

 額を軽く押し当てる。

 葵の胸のゆるやかな上下と、自分の呼吸のリズムが、少しずつ重なっていく。


 そのとき、また耳元に温かい息がかかった。


「……次は、選手権大会ですよね」


 葵の声は、少しだけ震えていた。

 さっきまで俺の頭を包んでいた手が、指先だけ、ぎゅっと力をこめる。


「そこで勝てたら…………もっと、したいこと、してもいいですよ」


 鼓動が跳ねたのは、どちらが先だったのか、もうわからない。


 ……っ!?


 反射的に、ばっと顔を上げてしまう。

 視界に飛び込んできたのは、いつもの、猫みたいに口の端を上げたニンマリ顔。


 目だけが、少し赤い。

 さっきまで俺の頭に触れていた手のひらが、恥ずかしそうに自分の胸元をぎゅっと押さえていた。


「……小悪魔め」


 思わず、口からこぼれる。


 葵はクスクスと笑って、視線をそらした。


 でも、その一言で十分だった。


 ご褒美は、ちゃんともらった。

 次の約束も、もらった。


 選手権大会まで、そう遠くない。


 また、負けられない理由が増えたな。


 藤沢附属に勝つ理由も。

 選手権で一つでも先に進みたい理由も。

 チームのための理由も。


 その全部の一番奥に――。


 俺の――いや、俺たちの『もっとしたいこと』を、全部叶える。


 そんな、どうしようもなく個人的で、でも本気の理由が、しっかり根を張っていた。


 俺は、胸の奥に新しい決意を刻みながら、柔らかさの残り香に、もう一度だけ小さく息を吸い込んだのだった。



▼▼▼お知らせ▼▼▼

 昨日より、新作を投稿しております。

 タイトル:【胎内回帰】の伝承について

https://kakuyomu.jp/works/822139840519122280


 ジャンルはホラーですが、タイトルのとおり、やや官能要素も入っております。

 葵編のトーンが好きな方には、刺さると思いますので、是非ご覧いただけますと幸いです。


 こちらの新作は、完結まで毎日投稿させていただく予定です。

 それでは、今後ともよろしくお願いいたします。

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4泊5日の修学旅行で、俺は学年一と呼び声高い美少女の裸を拝むことを決意した いろは杏⛄️ @material2913

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