本能
自室の机の上には、教科書と参考書、問題集がタワーみたいに積み上がっている。
その手前には、集中しようと意気込んで淹れたばかりのミルクティー。
――なのに、その表面には、きれいな膜一枚。湯気はとうに消えてしまっていた。
ページだけは小刻みにめくられていくけれど、頭には一文字も入ってこない。数式も古文も、全部「太一くん」という単語に上書きされていく。
理由はわかっている。
太一くんが、
部活でへとへとになっているはずなのに、時間が合う日は必ず「一緒に帰ろうぜ」と笑ってくれる。
水族館が趣味ってタイプでもないだろうに、「年パス買ったほうが安くね?」なんて言いながら、当然のように年間パスポートまで買ってしまう。
優しい。
おもしろい。
時々、ちゃんとかっこいい。
その三拍子が、妙に自然に揃っている人。
――そんな人の彼女になれている私は、どう考えても幸せ者だ。
その証拠みたいに、グラウンドの端や廊下で、ときどき突き刺さる視線がある。
サッカー部の後輩の女子たち。
たぶん、太一くんをそれなりに『いいな』と思っていた子たち。
目が合えば、すぐにそらされるけど、あの温度はよく知っている。
妬みと羨望が混ざった、あの色。
その全部が――『私が太一くんの彼女だ』という事実を、いやでも突きつけてくる。
……それでも。
私みたいな、欲張りで、めんどくさい女には、それだけじゃ足りない。
――あの修学旅行の夜。
あのとき、私に向けてぶつけてくれた、剥き出しの本能。
あの熱を、今の私も欲している。
タオル一枚で、目の前まで来てくれた熱。
パジャマのジッパーを睨みながら、それでも踏みとどまっていた熱。
水着姿の私を見て、喉仏を小さく揺らした熱。
あの、ぎりぎりで抑え込んでいた欲望を、もう一度――今度は、彼氏と彼女として、全部ぶつけてほしい。
……でも、その願いを口にするには、少しばかり勇気がいる。
修学旅行中は、いい意味で他人だった。
同じクラスでも、ただの同級生。
だから、あそこまで挑発できた。押せた。境界線を足でつつけた。
でも今は違う。
もう
嫌われるのも、軽蔑されるのも、怖い。
変な女だと思われたくなくて、私の本心は行き場をなくして、胸の奥でぐるぐる回りつづけている。
そんなことを考えている時に限って――。
壁一枚向こう、隣の部屋から、姉の声が聞こえてくる。
男と女の艶っぽい笑い声と、ベッドの軋む音。
彼氏でもない男たちと平気で関係を持つ、あの人らしい、奔放で浅はかな音。
いつもなら、ただただ苛立つだけだ。
眉間に皺を寄せて、イヤホンを押し込んで、それで終わる。
……でも、最近の私は、それだけじゃ済まなくなっていた。
苛立ちと一緒に、じわりと滲む、別の感情。
――いいな、と思ってしまう自分がいる。
あんなふうに、生々しい欲望をぶつけられて、受け止めて。
身体ごと、互いを確かめ合って。
もちろん、姉みたいにはなりたくない。
でも、太一くんなら。太一くん相手なら。
……私も、太一くんに――ああいう、ありのままの欲望をぶつけてほしい。
そして、それをちゃんと、受け止めたい。
想像するのは、二人きりの部屋。
修学旅行の夜みたいに、息を荒くした太一くんが、堤防を決壊させたみたいに、私の名前を呼びながら、逃がさないように抱きしめて――。
背中に落ちる重さ。
耳元で熱を帯びた呼吸。
首筋に近づく吐息を想像するだけで、そこがじんわり熱を帯びる。
胸の内側が、きゅうっと締めつけられたかと思えば、そのすぐ下が、ぽうっと灯りを点される。
気づけば、太ももをぎゅっと寄せていた。
膝と膝を擦り合わせるたび、スカートの裏側で、熱が溜まっていく。
ペンを握っていた指先が、じりじりと落ち着かない。
ダメ……こんなの――
そう思って目を閉じる。
でも、瞼の裏に浮かぶのは、太一くんの、汗に濡れた首筋や、試合終わりの少し掠れた声ばかり。
胸の中心からせり上がる熱が、喉のあたりで渋滞して行き場を失い、そこから一気に下腹へと落ちていく。
身体の芯がじんわりと火照って、机に触れていない腰まで、妙に敏感になる。
ふと、右手がペンを離れ、膝の上に落ちる。
指先が、生地越しに自分の太ももの線をなぞり――スカートの裾を、きゅっと握りしめた。
そこで、意識がはっと冷える。
……ダメ。それは、違う。
太一くんのことを想っているのに、自分だけで完結させてしまうのは、なんだか彼に対して失礼な気がした。
ちゃんと、彼にぶつけたい想いなのに。
ぎゅう、と自分の膝を抱き寄せて、額を乗せる。
身体の奥で、まだ小さくチリチリ燃えている熱が、細く長く息を吐くたびに、少しだけ和らいでいく。
……そのときだった。
机の上でスマートフォンが震えた。
「っ!」
心臓が飛び跳ねる。
まるで、さっきまでの妄想を見透かされたみたいで、背筋がぞくりとした。
画面に目をやる。
表示された名前――「太一くん」。
……っ、太一くん
喉の奥が、きゅっと鳴る。
明日は大事な試合。今日は体力温存も兼ねて「電話はやめておこうか」と、あえて約束もしなかったはずだ。
こんな時間に、彼からの電話。
嫌な予感はない。むしろ逆だ。
だからこそ、余計に、胸が騒がしい。
乱れた呼吸を、なんとか整える。
火照った顔を両手で包んで一度冷まし、ふぅ、と息を吐いてから、通話ボタンを押した。
「もしもし、太一くん? どうかしましたか?」
耳に当てたスマホから、少し硬い、けれど聞き慣れた声が届く。
『……今、大丈夫か?』
いつもより低くて、少しだけ緊張の混じった音色。
「はい。ちょうど勉強の休憩に、ミルクティーを飲んでいたところです」
本当は、さっきまで全然別の意味で休憩どころじゃなかったけれど。
そんなこと、口が裂けても言えない。
机の上で冷めきったカップをちらりと見ながら、さも当然のように嘘をつく。
電話越しに、彼が一つ、大きく息を呑んだのがわかった。
『その、さ。明日の決勝なんだけどさ……、勝ったら――』
「はい」
胸の奥で、何かが小さく跳ねる。
『勝ったら』という言葉が、自然とあの夜の記憶と結びつく。
『勝ったら、ご褒美をお願いしてもいいかなって』
――ご褒美。
修学旅行の夜、私が太一くんに仕掛けた、あの悪戯めいた提案。
「勝利のご褒美を――」と囁いた浴室の湿度と、彼の揺れた瞳が、一気に蘇る。
胸の奥で、さっき抑え込んだはずの熱が、再び勢いを増して燃え上がった。
「ご褒美、ですか。ふふ。内容にもよりますが……一応、何を?」
なるべく平静を装った声で言う。
でも、自分の耳には、ほんの少しだけ甘さが混じって聞こえた。
太一くんが、言いよどむ気配がする。
その沈黙が、妙に愛おしい。
『……その……ええと……』
言いたいけど、恥ずかしい。
でも、ちゃんと伝えたい――そんな葛藤が、声の端々から滲んでいた。
『顔を、うずめたい。鷹宮に、うずめさせてほしい』
――ああ。
久しぶりに聞いた、彼の
言った瞬間、私の中で何かが、ひどく柔らかく弾ける。
胸の真ん中あたりがじん、と熱くなって、そこからゆっくり、全身に温かさが広がった。
だってそれは、とても太一くんらしいお願いだから。
乱暴でもない。
下品でもない。
けれど、きちんと
私の身体に。
私という存在に。
欲望をぶつけてくれたことが、堪らなく嬉しかった。
「……太一くん」
自然と名前を呼ぶ声が、少しだけ震える。
『はい』
「とても太一くんらしいお願いだなと思いました」
口にしてから、自分でも少し笑ってしまう。
でも、本当にそうなのだ。
『お、俺らしい……?』
照れたような、その反応さえ、愛しくてたまらない。
だから――返事は、もう決まっている。
「ええ。お願いに対する答えですが、いいですよ」
短く、はっきりと。
『ホントか!?』
電話越しなのに、ぱっと彼の顔が明るくなるのが、目に浮かぶ。
目尻を下げて、子どもみたいに喜ぶ太一くんの姿。
嬉しい。
私の胸の奥も、同じようにふわっと軽くなる。
――けれど、そこで終わらせてしまうのは、少し物足りない。
私の中の、小悪魔な部分がそっと顔を出した。
「はい。ただし、いくつかの条件を守ってほしいです」
『じ、条件?』
少し緊張を孕んだ声。
その響きが、耳の中でくすぐったい。
「まず、明日勝つこと」
これは、きっと彼自身もわかっているはずの条件。
それでも、あえて言葉にする。
「それから――乱暴にしないこと。私の香りが移るくらい、ゆっくりでお願いします」
本当は、ゆっくりだけじゃなくて、途中で少し乱れてくれてもいい。
息が詰まるくらい、抱きしめてくれても。
名前を呼びながら、どうしようもなく求めてくれても。
そんなことまで望むのは、あまりにも欲張りだろうか。
でも今は、とりあえずここまで。
この一歩を踏み出すだけでも、私の中では精一杯の勇気だ。
『……約束する。勝つ。ゆっくり、やさしくする』
短く、でも力強い言葉。
耳に届いたその瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、そしてふわっと解けた。
「はい。楽しみにしています。……太一くん」
『ん?』
「今のお願い、太一くんの本音を聞けたようで、すごく嬉しかったですよ」
『私に顔を埋めたい』という、どうしようもなく個人的で、どうしようもなく私宛ての願望。
それは、何よりも甘くて、特別な告白に聞こえた。
少しだけ他愛もない言葉を交わしてから、通話を切る。
画面が暗くなると同時に、部屋の静けさが押し寄せてくる。
さっきまで、胸の中で行き場を失って暴れていた熱は――今は、形を変えて、穏やかな灯りみたいに落ち着いていた。
「……ふふ」
机の上のミルクティーを手に取る。
一口飲むと、もうすっかり熱はなくなっているのに、妙に美味しく感じた。
……太一くんが、私のことを欲してくれている。
その事実だけで、こんなにも安心できるなんて思わなかった。
今まで、彼氏として十分すぎるくらい優しいと思っていたけれど、私が本当に欲しかったのは、こういうむき出しの部分なんだ。
ちゃんと言ってくれた。
ちゃんとぶつけてくれた。
――だったら、私も。
彼がくれた本音を、ちゃんと受け止める。
そして、私からもぶつける。
修学旅行のときみたいに、いや、それ以上に。
「……太一くん、絶対勝ってくださいね」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
胸の奥に灯った期待と、少しの緊張が、心地よく混ざり合っていた。
明日、太一くんが約束を果たしたら――。
そのときは、私も彼女としての本音を、ぜんぶ渡そう。
机の上の教科書を開き直す。
さっきまでちっとも頭に入らなかった文字列が、少しずつ意味を持ち始める。
ご褒美をもらうためじゃない。
太一くんの隣に、胸を張って立てるようになるために。
シャープペンを握り直して、私はようやく、本当の意味で勉強モードにスイッチを入れたのだった。
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