剣に誓う

処刑人の剣は重い。それは、刃渡りや厚みだけが為す重量ではない。斬りし罪人の数、断ちし人生の涯、そして其れを執り行う者の魂が滲みし、重さであった。

レイモンは其の重き剣を、黴臭き地下の暗闇に於いて、久方ぶりに手に執った。古ぼけた其の刃は、赤錆に侵され、かつての鋭き光沢を失っている。柄は麻布の如く解れ、彼の掌にぞわりと不気味な感触を伝えた。彼は其れが、単なる物質的な劣化ではないことを知悉していた。其れは、彼の心奥に棲まう、拭い得ぬ罪の記憶。

「其のような物を、何故・・・」

アデルの声が背後から響いた。彼女は、其の場所がかつて王族の避難所であったことを知っていたが故に、そこに処刑人の剣が在ることに驚愕を隠せない。彼女の視線は、レイモンの手に在る剣と、其の男の背中に交互に注がれた。

レイモンは答えない。其の沈黙に、彼女の好奇心は否応なく煽られる。彼女は静かに一歩、レイモンに近づき、その剣を覗き込む。

そして、その刀身に遺されし、僅かな凹みを見つけた。

それは、剣先から僅かに上、刃が最も肉を断つべき場所に刻まれた、小指の爪ほどの「歯型」。鋭き刃が、硬き何者かの骨を断ち切れず、逆に欠けた疵。其の疵は、処刑人たる彼の名誉に付いた、決して癒えぬ汚点であった。

アデルは其の疵を視認した瞬間、全てを悟った。

其れは、二年前に執行された、一人の将軍の処刑の際に生じし疵。将軍は民衆に絶大な支持を得ていたが故に、革命政府に反逆者として処刑されし。其の際、彼は断頭台の上で最後の抵抗として、剣に噛みついた。其の為、剣は将軍の首を完全に断ち切るに至らず、刃に疵が残された。

其の将軍を処刑せし者。処刑人レイモン。

彼は、其の疵を一生、忘れえぬだろう。何故なら、其の将軍は、首を半分に断ち切られながらも、レイモンに呪詛の言葉を吐いた。そして、其の言葉は、彼の心奥に深く突き刺さり、今もなお彼を苦しめている。

アデルの視線は、レイモンの震える指先へと移った。彼女は、彼の内に秘められし、深き苦痛と、そして強き覚悟を感じ取った。

其の瞬間、レイモンの脳は、再び超高速回転を始めた。視界に映るものが、全てスローモーションに分解される。アデルの呼吸音、彼女の纏う香水の微かな香り、そして自身の掌に伝わる剣の冷たさ。全てが、異常なほど鮮明に認識される。

彼の脳裡には、二年前、処刑を執行せし時の、将軍の顔が蘇る。憎悪に歪みし表情、だが、其の瞳の奥には、確固たる信念が宿っていた。

「貴様のような、卑しき者が・・・」

将軍の言葉は、今もレイモンの耳から離れなかった。彼は、処刑人として、ただ職務を全うしたかっただけ。しかし、其れは、将軍にとっては、許されざる屈辱であった。

レイモンの思考回路は、極限まで研ぎ澄まされ、将軍の言葉の真意を探り始める。

(貴様、のような、卑しき者・・・将軍の言葉は、身分の差を糾弾したのではない。彼は、処刑人という、死と隣り合わせの職業を、卑しきものと見做したのだ。故に、彼は、自らの死を、レイモンの手によってではなく、自らの意志で、自ら終わらせることを望んだのだ。)

レイモンは、其の時、初めて、将軍の真の意図を理解した。そして、その理解が、彼の心に、新たな苦痛と、そして、不可解な共感をもたらした。

彼は、将軍と同じく、革命の歯車として、ただ使われる存在。そして、彼もまた、将軍と同じく、自らの死を、自らの意志で選びたかった。

レイモンは、剣を強く握りしめた。彼の心には、家族を救いし、そして、自らの運命を変えるという、強き覚悟が宿っていた。

其の覚悟を視認したアデルの唇に、冷たき微笑が浮かび上がる。

「さあ、行きましょう。貴方の苦難は、まだ始まったばかりですから」

アデルの声は、まるで囁くように、レイモンの耳元で響いた。彼の脳内を高速で駆け巡っていた思考は、その一言で、まるで急ブレーキをかけたかのように停止する。彼は、現実へと引き戻されるかのように、ゆっくりと振り向いた。

その瞬間、アデルはレイモンの背後から、彼の体を優しく抱き締めた。彼女の細い腕が、彼の胸を包み込む。温かく、そして柔らかい感触に、レイモンは一瞬、放心した。

「今は、妻もいないのでしょう?」

彼女の声には、どこか蠱惑的な響きがあった。レイモンは、彼女の言葉の意味を理解しようと、頭を巡らせる。彼の妻、エリーズは、今、彼と共にいる。にもかかわらず、アデルは、まるで彼の妻が存在しないかのように振る舞った。

その言葉に、レイモンの思考は、いつもの冷静さを取り戻していく。彼を蝕む、過去の罪の記憶も、マリアンヌの幻影も、一瞬にして消え去った。

彼は、アデルの腕を静かに外し、彼女と向き合った。その瞳には、すでに、いつもの冷徹な光が宿っている。

「どういう、つもりだ?」

アデルは、レイモンの問いに、艶やかに微笑んだ。

「貴方を、悪にしないためですわ。そして、貴方を、生き延びさせるため。それだけよ」

彼女の言葉は、レイモンの心を揺さぶった。彼女は、彼の正義感と、そして、家族を守るという使命に訴えかけていた。

彼女は、レイモンの処刑人としての過去を知っていた。そして、彼がどれほど苦悩し、葛藤してきたのかを、理解していた。だからこそ、彼女は、彼を悪にしないために、あえて彼を欺き、彼に愛着を抱かせようとした。

(ああ、どう考えてもやり過ぎだ。)

アデルは、内心でそう思った。しかし、彼女には、そうするしかなかった。レイモンを救うには、彼の心の奥底に眠る、人間らしい感情を呼び覚ます必要があった。彼に、生きることへの執着を持たせる必要があったのだ。

彼女は、レイモンの顔を、まっすぐに見つめた。彼の瞳に映る、自分の姿。それは、かつて王の愛人であった、華やかな自分ではなかった。それは、一人の人間として、彼に寄り添う自分だった。

アデルは、ゆっくりと、しかし確実に、自分の髪を解き始めた。漆黒の髪が、彼女の肩に、なめらかに流れていく。それは、彼女が、彼に、全てを晒すという、静かなる意思表示だった。

この行為は、彼女自身の罪悪感と、そして、彼への深い愛情の表れだった。彼女は、彼を救うために、自らの誇りも、罪も、全てを賭けていた。


レイモンを救い、家族を守るために、彼女は自らの誇りさえも捨てた。二人は地下道を抜け、革命の嵐が吹き荒れる都市を後にした。そして、煙が立ち込める国境付近まで辿り着いた。

そこは、戦争寸前の様相を呈していた。都市全体が灰色の煙に覆われ、建物の陰には、銃を構えた兵士たちの姿がうごめいている。時折、遠くで爆発音が響き、大地を揺るがす。しかし、まだ、全面的な戦争には至っていない。人々は、恐怖に怯えながらも、どうにか日常を保とうとしていた。彼らに残された時間は、もう、都市が陥落するまでの僅かな時間しかなかった。

レイモンとアデルは、この混乱に乗じて、国境を越えようと試みる。彼らは、医者として倒れた人間を助け、情報を聞き出し、逃亡者たちの中に紛れ込む。その過程で、彼らは、アデルの元使用人だったメイドが、処刑されるという情報を耳にする。

その報に、アデルの表情は硬直した。彼女は、すぐにでもメイドを助けに行こうと、レイモンに懇願する。だが、レイモンは、冷静だった。彼は、メイドが処刑される場所が、幸いにも国境付近の都市で行われると知り、船での逃走を画策する。

彼らは、逃走のための船を確保すべく、この地を実質的に支配する司教に接触した。彼は、皇帝にすら関与する侯爵であり、この地域の権力者だった。アデルは、メイドを救うという名分で、司教に協力を求める。だが、司教は、その申し出を静かに退けた。

「申し訳ないが、お引き取り願おう。船は壊され、港も使えぬ状態だ。協力したくとも、最早、物理的に不可能だ」

司教は、アデルの言葉に耳を傾けるが、その瞳は、決して揺るがない。彼は、冷静に現実を告げる。

「何より、メイド一人を救うために、貴方方の命を危険に晒すのは、あまりにも犠牲が大きすぎる。それとも、これが罠だと、お思いにならないのかね?」

司教の言葉は、レイモンの胸に深く突き刺さった。それは、説得であり、同時に、彼の心を最も的確に抉る言葉だった。司教は、アデルが感情に流されていること、そして、この処刑が、レイモンたちを誘い出すための罠である可能性を、論理的に、そして静かに説いた。

アデルは、司教の言葉に、何も反論できなかった。彼女は、ただ、メイドを救いたいという一心だった。だが、司教の言葉は、その一心を、現実という名の冷たい水で冷やした。

レイモンは、アデルの肩に手を置いた。

「司教の言う通りだ。ここは、引き返そう」

アデルは、レイモンの言葉に、絶望の表情を浮かべた。しかし、彼女は、レイモンの言葉に逆らうことはできなかった。彼女は、彼を、そして彼と彼と家族を、危険に晒すわけにはいかなかった。

二人は、静かに司教の元を後にした。レイモンとアデルの、そして家族の、命をかけた旅は、まだ続く。


二人は、司教の言葉に納得したふりをして、静かにその場を後にした。無言のまま、彼らは港へと向かう。夕暮れの空は、煙と埃で澱み、沈みゆく太陽の光も、鈍い赤色に染まっていた。

「船は壊され、港も使えない…だそうですね」

レイモンが口を開いた。皮肉な響きがあった。

「ええ、そのようですわ」

アデルもまた、皮肉げに答えた。

二人の心は、しかし、全く別のことを考えていた。

(持ってないって言ってたから、誰のものでもないしな。)

(ええ、ええ。誰のものでもないんですから、少しばかり拝借したところで、誰も困りはしませんわ。)

司教は、この辺りの富裕層、特に火山や海上貿易で財を成した侯爵家に関わっている。彼らが船を持っていないはずがない。いや、持っている。それは、二人の共通認識だった。だが、彼らが言ったのは、「誰のものでもない」ということ。つまり、それは、所有者がいないということ。

二人は、その一点に、目をつけた。

港にたどり着くと、そこには、司教の言葉とは裏腹に、数隻の船が停泊していた。中には、大きく、頑丈そうな船もある。二人は、躊躇なく、その中の最も大きな船に近づいた。

「これにしましょうか」

アデルが、楽しげに言った。

「そうだな」

レイモンは、短く答える。彼の表情には、一切の躊躇がない。もはや、彼らには、善悪の概念など、どうでもよくなっていた。生き延びるためならば、どんなことでもする。それが、彼らの共通認識だった。

アデルは、まるで自分の私物であるかのように、鍵を外し、船に乗り込んだ。レイモンもまた、彼女に続いて船に乗り込む。

二人は、誰に見咎められることもなく、静かに船を動かした。

港から離れていく船の上で、アデルは、背後に迫る都市を振り返った。煙が立ち込め、夕暮れの光に照らされた都市は、まるで地獄の業火に包まれているかのようだった。

「さようなら、私の愛しい祖国」

「そこ祖国じゃねぇけどな」

アデルは、小さく呟いた。その声には、悲しみと、そして、かすかな嘲りが含まれていた。

レイモンは、何も言わなかった。ただ、船を操縦し、煙が立ち込める海を、静かに進んでいく。彼の心には、家族を守るという使命と、そして、アデルの壮大な野望が、深く刻まれていた。


刻まれていた。レイモンの心に、家族を守るという使命と、アデルの壮大な野望が、深く刻まれていた。

「あなた、船の操舵ができるのね」

潮風を楽しみながら、アデルが振り返ってレイモンに尋ねた。彼の横顔には、処刑人としての苦悩も、追われる身としての焦りも、今は見えない。ただ、ただ、静かな海の男がそこにいるようだった。

「…海賊上がりが多くて、金持ちばかりだからな」

レイモンは、ぶっきらぼうに答えた。

「中々、雇えないんだ。だから、自分でやるしかなかった」

彼の言葉には、自嘲の色も、卑屈な響きもなかった。ただ、それが当たり前のことであるかのように、彼は淡々と事実を述べた。アデルは、その言葉から、彼の知られざる過去の一端を垣間見た気がした。

アデルは、レイモンのために何かしてやりたいと思った。この旅で、初めて湧き上がった、純粋な感情だった。彼女は、食料や水を探すふりをして、船内を歩き回る。船底へと続く階段を下り、薄暗い船内を進んでいくと、そこには大量の砲弾や、手入れの行き届いた大砲が所狭しと並んでいた。彼女は、その光景に驚きながらも、その中に、レイモンの役に立つものがないか探した。

その時だった。

彼女の足元に置かれた、一際大きな木の樽の中から、コンコン、と、何かが叩く音が聞こえてきた。

アデルは、その音に、耳を澄ませる。

コンコン。

再び、音がした。それは、まるで、助けを求めるように、規則正しく、しかし必死に、鳴り響いていた。

アデルは、その樽に、そっと手を置いた。

その瞬間、樽の蓋が、内側から勢いよく押し上げられ、そして、一人の少年が、ひょっこりと顔を出した。

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夫人革命逃亡記 伊阪 証 @isakaakasimk14

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