第29夜 約束の河を渡る
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――。
心の奥で、呪詛のような否定が脈打つ。
この小娘が、ユダの民だと……?
かつて気まぐれ一つで苦い杯を飲まされたワシュテイ妃の姿が脳裏に閃き、愚かだと切り捨てたマスティスの面影がその隣に現れる。
その記憶が、胸の奥を黒い氷で締め付ける。
喉の奥が焼けるように熱く、同時に背筋を氷の刃でなぞられたかのような冷たさが走った。ハマンの顔から血の気が引き、唇が乾く。口を開こうとしても、喉がひゅっと鳴り、声にならない息だけが漏れる。
皇帝は杯を置く音すら立てずに立ち上がった。衣の裾が重く翻り、玉座の間に響く足音は冷たい石を叩く。その一歩ごとに、空気が重く沈み、壁の影までもが深くなる。背を向けた皇帝の輪郭は、怒りという見えない炎をまとい、やがて宮殿の園の暗がりに溶けていった。
残されたハマンは、背筋を伝う冷汗を感じながら、足裏の感覚が消えるほどの恐怖に突き動かされ、王妃エステルにじり寄った。
「……どうか命だけは」
その声には、もはや権勢を誇った往日の響きは一片も残っていない。
ただ必死な哀願だけが、湿った息と共に漏れる。
彼は悟っていた――。
皇帝の瞳に、すでに自らの死が刻まれていたことを。
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エステルは、杯を置く音すら立てずに立ち上がったクセルクセスが園庭へと一度出ていくのを目で追いかけていった。
立ち上がる時に、皇帝の瞳に映っていたのは、感情を制御し、権威を保とうとする者の意志であり、同時に、宰相の処刑がもたらす政治的な波紋を一瞬で見極めようとする、支配者の眼差しでもあった。
見ると、先ほどまでの尊大さが無惨にも消え失せた顔で、ハマンがエステルのもとに寄って来ていた。血の気を失い、かすかに震える唇を噛みしめながら、彼はゆらりとこちらに寄ってくる。
本能的に身体がすくむ――。
ハマンは膝を石床に打ちつけ、ずしりと重い体を寝椅子へ押し寄せる。
肘掛けに身を預け、半身を横たえていたエステルは、そのあまりに急な接近に息を呑むも、身を引く間もなく、必死に縋りつこうとする男の影に囚われた。
吐息は荒く湿り、握りしめた指が肘掛けの縁を白く変え、額がそこに押し付けられる。距離はあまりにも近く、腰元にまで迫る
ハタクとナヴァズが素早く駆け寄り、さらにビクタンとテレシュに代わって皇帝警護の任に就いていたハルボナも足音鋭く踏み込む。
だがハマンは、もはや周囲の視線すら意に介していなかった。
「……どうか命だけは」
その声は掠れ、権勢を誇った頃の響きを完全に失っていた。だが、哀れなこの男が、エステルにそのように命乞いの言葉を出した時に、怒号が叩きつけられた。
「余の前で、王妃をも手をかけようというのか」
次の瞬間、ハタクとナヴァズがほとんど反射のように動く。
片方は肩口を、もう片方は腕をつかみ、膝を床につけたままのハマンを力ずくで引き離した。
寝椅子の縁から剥がされるように、ハマンの指が布地を滑り、かすかな擦過音が静寂の中でやけに大きく響く。
重い身体が床に叩きつけられると、鈍い音が石の間に響き渡り、その余韻さえも冷ややかだった。
「陛下――。陛下に良き知らせをもたらしたモルデカイ。その彼のために、ハマンが用意した高さ五十キュビトの木が、ハマンの家に立っております」
ハルボナの提言に対して、皇帝は一瞬もためらわなかった。
「それに掛けよ」
命令は冷たく、鋼のように揺るぎなかった。直ちにハマンを引き立てられ、宮殿の外へと連れ出された。
処刑台の影は、傾く陽を背にして地面へと細く、長く、果てしなく伸び、まるで運命そのものが形を持って横たわっているかのようだった。
しばらくして、皇帝クセルクセスは書記官たちを集め、二十七州の総督や地方長官に向けて、ユダの民を保護する勅書を発布した。
ハタクはその内容と、ハマンとその十人の息子たちが処刑され、スサで五百人、全土で七万五千人が剣に倒れたことを、エステルに静かに告げた。
一説には、すべてが王妃アメストリスの策略だったとも囁かれている。
やがて養父モルデカイは宰相となり、帝国の事業と皇帝の威光を大きく広げていった。エステルはその姿を、誇らしさと、どこか言葉にできない寂しさを胸に抱えながら、遠くから見つめ続けていた。
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「よかったのですか? ここに残ることにして」
フェリザは、茶器を抱えたまま、ナヴァズに柔らかな微笑みを向けながら、言葉をかける。お茶を淹れる手を止めたナヴァズは、力強く頷いて応えた。
「後悔はありません――」
ハマンの失脚後、宰相に抜擢されたモルデカイの世話係にフェリザとナヴァズは就いたのである。
フェリザはアメストリスの「首輪」として縛られていたため、そこにいるのは必然だったが、ナヴァズは自由の身でありながら、自ら残る道を選んだ。
皇帝クセルクセスは、アルタパノスの手によって暗殺された。女帝アメストリスがついに、権力の頂に登ることができたのである。
前皇帝に仕えていたモルデカイは、もうすでに高齢であり、またアメストリスを支持したために、安全であるとはいえ、何が起こるかわからないのが後宮である。
口にはしないが――。それはきっと、エステルへの恩に報い、養父モルデカイを守るためなのだろうと、フェリザは感じていた。
「今頃は……着いた頃かしらね」
窓辺に差し込むやわらかな陽光に目を細めながら、フェリザは小さく呟く。権力の頂に立ったアメストリスは、あの日の願いを決して忘れず、静かに叶えてくれた。
遠く、約束の地――その境目にある河の浅瀬を、荷馬車がゆっくりと渡っていた。
星姫 スミツボ @sdatoru
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