天国のあなたへ

乃東 かるる

おばあちゃんの手紙

 桜が散り、葉桜になったある午後。

 春海は、祖母・千景ちかげが遺した家で、押し入れの整理をしていた。


 千景が病の末に静かに息を引き取ってから、もう三ヶ月。

 春海はるみは両親とともに、休みになるたび家を訪れ、少しずつ遺品の整理を進めていたが――大好きなおばあちゃんの思い出の品々が多すぎて、なかなか手が進まなかった。


 古びたアルバム、使いかけの毛糸玉、何十年も前のレースのハンカチ。

 そんな懐かしさに満ちた箱の奥に、ひときわ丁寧に和紙に包まれた封筒があった。


 封筒の裏には、うっすらと滲んだ墨でこう書かれていた。


「天国のあなたへ」


 春海は悪いこととは思ったが、ラブレターじゃないか⁈と好奇心が勝ってしまいそっと封を切った。

 中から現れたのは、美しい筆致で綴られた手紙。語りかけるような優しい文面。


「あなた」が誰か、春海にはすぐにわかった。


 それは、春海が直接会ったことのない――

 母・千春が生まれて一年後、不慮の事故でこの世を去った、祖父への手紙だった。


 ---


 清一さん、覚えていますか?


「娘が大きくなったら、三人で海外旅行に行こう」って、あなたは楽しそうに笑っていましたね。


「日曜は朝から映画三本立てだな!」って、まだ赤ちゃんの千春を抱き上げながら、そう言っていたあなたの声が、今も耳に残っています。


 私の誕生日に合わせて、庭に小さな桜の木を植えてくれましたね。三人でその木の下で花見をしようって……。

 あのとき、確かに、幸せだったのに。


 なのに――その願いは叶いませんでした。


 あなたを失ったあの日、霊安室で私は泣き崩れて、何度もあなたに問いかけてしまいました。

 

「三人で幸せに暮らすって、約束したじゃない……!」


 と。あのときの私は、ただただ悲しくて、悔しくて、あなたを責めるような言葉ばかりをぶつけてしまった。


 ……本当は、そんなこと言いたくなかったのに。


 ごめんね。


 あなたの無念は、きっと私以上に、深くて、苦しかったはずなのに。

 ――あなたも、本当は、生きたかったでしょう。千春と私と、未来を歩みたかったでしょう。


 あなたのほうこそ、悔しかったはずなのに。


 それなのに私は、すがるように泣いて、わがままばかり言ってしまった……。


 でもね、どうしても伝えたかったんです。


 あなたと、生きたかった。

 あなたと、老いたかった。

 あなたと、「いつもの毎日」を過ごしたかった。


 だけど、いつまでも泣いてはいられない。

 あなたが逝ってしまったあの日、私は心に決めました。


 若くして未亡人になった私に、再婚の話もありました。

 でも結局、私はあなた以上に愛せる人はいないもの……だから私は、ただひとつ――


 千春を守り、幸せにすると誓ったのです。


 そりゃあ、裕福じゃなかったし、千春には苦労もかけたと思います。

 けれど、あの子は立派に大人になって、温かい家庭を築きました。


 千春のバージンロードは、あなたの写真を胸に抱いて、私が歩きました。


 そしてね――あなたにも、春海という孫娘ができました。


 少し気が強くて、困っている人を見ると放っておけない、正義感の強い子。

 そういうところ、あなたによく似ています。

 実は涙もろくて、とても優しい子なんですよ。

 高校生だから友達と遊びたい盛りなのに、私のお見舞いにもちゃんと顔を出してくれるんです。


 ……そんなふうに、私たちは歩いてきました。

 あなたがいない世界で、あなたと一緒に見るはずだった未来を、一人で、ゆっくり、丁寧に、辿るようにして。


 私は今、72歳になりました。

 あなたが逝った、26歳の時間に、とうに追いついて、追い越してしまいました。


 でもね、心の中のあなたは、ずっと変わらず――優しく笑ってくれています。


 傷ついたり、寂しさに耐えて涙をこらえた日もありました。

 それでも、あなたへの想いを胸に抱きながら、私は歩いてきました。


 その想いがあったからこそ、歩いてこられたのです。


 私は、明日から入院します。

 身体が悪くて、きっともう長くはないでしょう。


 ねぇ、私がそちらに行ったら――


 どうか、私を見つけて、迎えにきてください。


 今度は、約束を守ってね。

 絶対に、絶対に……私を、ひとりにしないで。


 どこまでも歩いて、いろんな国の空を見上げましょう。

 手をつないで、映画を観に行きましょう。


 あのとき出来なかったすべてを、ふたりで、取り戻しましょう。


 その日まで――私は、精一杯、病と闘います。

 どうか見守ってくださいね。


 ……心から、あなたを想っています。


 2024年3月24日 晴れの日

 千景より

 

 ---


 手紙を読み終えた春海の頬には、温かい涙の跡が残っていた。


 祖母がこんなにも長い時間をかけて、たったひとりの人を想い続けていたこと。

 その想いは、もはや「恋」というにはあまりに深く、「愛」と呼ぶべきものだった。


 春海は、静かに空を見上げた。

 空はどこまでも高く、澄み渡っている。


 どこか遠い場所で、祖父と祖母が肩を並べて歩いている気がした。

 映画館の帰り道みたいに、穏やかに笑いながら。


 そして――


 春海はそっと手紙を封筒に戻し、祖父が植え、今年も立派に花を咲かせ、今は青々とした葉桜の古木の根元に埋めた。


「おじいちゃん、おばあちゃんの事よろしくね!」


 気を見上げ春海はにっこり笑って言った。

 風が優しく吹き、桜の葉を静かに揺らした。

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