死んだ恋人を、作り直す
adotra22
第1話
「彼はもう一度、生まれた」
最初はただの受精卵が培養液の中に浮いているだけだった。その中の一つの細胞が細胞分裂を起こし、それらが間葉系幹細胞・造血幹細胞へ枝分かれし、そこから骨や筋肉、白血球や赤血球へと分化していく。
僕はその過程をすべて見ていた。培養記録は毎日更新され、心拍数も、脳波も、完璧だった。
透明な培養槽の中で、彼はゆっくりと瞼を開ける。そして生まれたての雛鳥のように淡い茶色の瞳で僕を見つめた。
その瞳の動きを見た瞬間、僕は泣いた。視界が滲んで、培養槽の中の彼がぼやける。
けれど間違いなく、そこにいた。僕の“彼”が。
「……おかえり」
震える声でそう言った。
返事はない。でもいい。今はまだ、言葉を知らないのだから。
それでも、僕にはわかった。
この目で見たから。
彼は、まばたきをした。睫毛が震え、薄い唇が微かに動いた。呼吸をしていた。生きていた。
「生きてる……」
呟きながら、僕は両手で顔を覆った。
胸がぎゅうっと痛いほど、嬉しかった。
これは奇跡だ。
死んだはずの恋人が、今、ここにいる。
何度も何度も彼の名を呼んだ。子供が生まれた父親が、初めて名を与えるように。僕は彼の名を繰り返した。
それは祈りだったし、呪文だったし、何よりも純粋な愛だった。
彼は、ゆっくりと成長していった。
最初は言葉を知らなかったけれど、僕が教えれば教えるほど、彼は覚えた。「おはよう」「ありがとう」「好きだよ」そのたびに、僕は涙が出るほど嬉しかった。
けれど、ある日、ふと気づいた。
「好きだよ」と彼が笑うとき――その目が、僕の知っている彼と、ほんの少し違った。
眉の動きがほんのわずかに遅い。
笑みの角度が、記憶の中のそれと一致しない。
もちろん、誤差の範囲かもしれない。
再生細胞は完璧に培養された。DNAは完全に一致している。それでも、ほんの一握りの違和感は消えなかった。
「ねえ、覚えてる?」
ある夜、彼に聞いた。
僕と初めてキスをした日のこと。
病院の屋上で、初雪が降った日。
それを思い出してほしかった。
けれど、彼は静かに首をかしげただけだった。
「……教えて」
まるで、学習するプログラムのように。彼は何度も「教えて」と言った。
「……教えて」
その言葉を、彼は何度も繰り返した。まるで壊れた人形みたいに。
僕は幼子に読み聞かせするように丁寧に教えた、それこそ過去の出来事を、好きだったものを、癖や仕草を。
けれど、どれだけ教えても、彼は“学ぶ”だけだった。
再生された細胞の奥に、本物の記憶は残っていなかった。
「君は、誰?」
ふと、そう問いかけてしまった。
彼はまた、首をかしげた。笑って「教えて」と言った。
――これでいいのか?
いや、違う。違う、これは、彼じゃない。
僕は彼を取り戻したかった。生き返らせたかった。
でも今ここにいるのは、“僕が作った彼の模造品”だ。
……けれど、それなら最初からそうだったのではないか?
考えがぐるぐると回り始めた。じゃあ、本物の彼って何だ?
DNAか?
記憶か?
振る舞いか?
存在証明か?
魂か?
彼の“本質”とは、いったいどこにあるんだ?
「君は、彼じゃない。でも、彼だ。僕がそう思えば、彼になる」
「でも、もし僕が『彼じゃない』と決めたら、その瞬間に君はただの物体だ」
どちらが正しいのか、もうわからなかった。
僕は自分の頭を抱えた。
脳が焼けるようだった。
心拍数が上がり、呼吸が速くなった。
「違う……違う……違う……!」
僕は何度も呟いた。
目の前の“彼”が、僕の名前を呼ぶ。その声も、口ぶりも、彼と同じはずだった。でも、違った。
どこかが違う。どこがとは言えない。でも、確実に“何か”が違っていた。
「おかえりって言って」
「好きだよって言って」
“彼”は笑った。
笑うタイミングが、わずかに遅い。瞳の奥が、空っぽだった。
それがひどく気に障った。そのくせ、手はあたたかい。
「お前は……お前は誰だ」
僕はテーブルの上にあった工具を手に取った。
ステンレス製のハンマーだ。培養槽の補修用。
指が震えた。でも、握りしめた感触は心地よかった。
「彼じゃないくせに」
「彼のふりをするな」
「でも……作ったのは僕だ」
矛盾した言葉が、脳の中をぐるぐる回る。
振りかぶって、頭をゆっくりと叩いた。
骨の下で、肉が沈む。
“彼”が目を見開いた。
「いたい……」
その声が、ひどく似ていた。だから僕は、もう一度叩いた。
「やめて」と言われた。でも、やめなかった。
彼の頭蓋骨が、ぐしゃ、と音を立てた。脳漿が、ぽたりと床に落ちる。白衣に飛び散った肉片は、ぬるぬると冷たかった。
「もうやめて」
「わからない」
「なんで」
その声すら、彼にそっくりだった。
笑えてきた。
笑いながら、何度も叩いた。
ハンマーを振るたびに、生臭い鮮血が跳ねた。肉が潰れ、骨が割れ、液体と固体が混ざり合う。
ぐちゃり、ぐちゃり。
どこまでが彼で、どこからがただの肉なのか、もうわからない。
「違うんだ」
僕はボソボソと呟きながら、手を止めなかった。
「これは殺人じゃない。これは廃棄だ」
「壊れたんだ。僕が作った彼は、壊れたんだ」
それは理屈だった。でも、理屈があると楽だった。
背後から、もう一人の僕が笑いながら指をさしていう。
「自分で造ったくせいに何を言っているんだ」
倫理が壊れていく音がした。
でも、もうどうでもよかった。
「また作ればいい」
口から勝手に言葉が漏れた。
「また作ればいい。また作ればいい。また作ればいい……」
どれくらい叩いたのだろう。
目の前にあるのは、ただの何かだった。
ころりと薄茶色の眼球が床に転がっていた。それをそっと拾い上げる。両手で包むと、血でベタベタになった手のひらがじんわりと湿った。
「壊れたものは、新しく作り直せばいい」
それだけのことだ。
何度だってやり直せる、――だって、僕は彼を愛しているのだから。
僕はしばらくその眼球を指で弄びながら、ゴミ箱に投げ捨てた。
死んだ恋人を、作り直す adotra22 @adotra
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