SCENE#39 コンプライアンスの亡霊

魚住 陸

コンプライアンスの亡霊

第1章:完璧な社会




2045年、日本は「コンプライアンス・ファースト」を掲げる模範国家となっていた。あらゆる企業、政府機関、そして個人に至るまで、徹底的な規則と監視の目が張り巡らされ、不正や不祥事は過去のものとなっていた。




街にはAIが管理する監視カメラが張り巡らされ、人々の行動は常にデータとして記録される。些細な交通違反から、SNSでの不適切な発言まで、全てが自動的に検出され、即座に是正措置が取られる。人々は皆、その完璧な管理体制を「安心」と受け入れていた。




しかし、その裏で静かに、しかし確実に何かが失われつつあった。自由な発想、個性、そして人間らしい感情の揺らぎ。「コンプライアンス」という名の巨大な鋳型に押し込められ、人々は思考停止状態に陥っていた。




子供たちは、感情表現のガイドラインに沿って発言し、絵画の題材はAIによって「不適切ではない…」と判断されたものだけが許された。高齢者施設では、定時報告を怠ったAI介護ロボットが厳しく罰せられ、そのストレスが原因でシステムエラーを起こすという皮肉な事態も発生した。




マモルは、かつては情熱的なアーティストだった。しかし、彼の作品は常に「表現の自由の逸脱」として審査に引っかかり、やがて筆を折った。今は、AIが生成する「安全な」コンテンツを監修する、どこか虚ろな日々を送っている。




ある日、彼は古いデータの中から、かつての日本の祭りに関する映像を見つけた。そこには、規則に縛られず、自由に歌い踊り、混沌としたエネルギーに満ちた人々の姿があった。マモルの胸に、久しく忘れていた感情がよみがえた。




「ああ、こんな時代があったのか……。この熱気、この混沌、これこそが人間らしさだったんじゃないのか?」




それは、この完璧な社会の裏側に潜む「何か」への違和感だった。





第2章:監視の目、凍てつく心



コンプライアンスは、人々の心を静かに蝕んでいった。企業では、些細なミスも許されず、常に完璧なパフォーマンスが求められた。新製品開発の会議では、リスク分析AIが膨大なデータを瞬時に解析し、少しでも不確実な要素があれば「コンプライアンス違反の可能性あり!」と警告を発する。結果として、革新的なアイデアは次々と却下され、無難で前例のある製品ばかりが市場に出回るようになった。




若者たちは、就職活動に苦しんでいた。AIによる適性診断は厳格で、少しでも「型破り」な個性が見られれば、即座に不採用となる。彼らは皆、SNSでの発言や趣味嗜好まで細かく分析され、完璧な「コンプライアンス人間」であることを強いられた。友人のヒロトは、趣味で小説を書いていたが、その内容が「特定の政治思想に偏る可能性あり!」とAIに判断され、内定を取り消された。




「小説を書くことが、どうして内定取り消しに繋がるんだよ、マモル? AIが『不適切』って判断したからって、俺の人生まで『不適切』なのか?」




絶望したヒロトは、やがて無気力な日々を送るようになった。




マモルは、ヒロトの変化に心を痛めていた。彼の持つ数少ない古い友人との交流も、AIの監視下にあった。ある時、マモルがヒロトに「最近、元気ないな…」とメッセージを送っただけで、AIから「ハラスメントの可能性」という警告が届く。




「『ハラスメントの可能性』だと? 心配する言葉が、なぜ?」



彼は愕然とした。心配する気持ちすら、コンプライアンスの名の下に管理される。人々は、互いの感情を慮ることさえ躊躇するようになっていた。凍てつくような孤独感が、社会全体を覆い始めていた。





第3章:失われた創造性、死んだ経済




コンプライアンスの徹底は、経済にも壊滅的な打撃を与えていた。新たな産業は生まれず、既存の産業も革新を失い、国際競争力を失っていった。かつて世界をリードしていた日本の技術力は、リスク回避と規則遵守の重圧の下で鈍化し、諸外国の後塵を拝するようになった。





地方都市は特に顕著だった。過疎化が進み、若い人材は都市部に集中するが、都市部もまた、コンプライアンスの鎖に繋がれていた。起業は極めて困難になり、AIによる事業計画の審査は厳格を極めた。「前例のない事業」「リスクの高い投資」は全て却下され、新たなビジネスは一切生まれなくなった。結果として、失業率は上昇し、経済は緩やかに、しかし確実に死に向かっていた。





マモルは、テレビニュースでかつての繁栄を謳歌していた大手電機メーカーが倒産したという報道を見た。その原因は、過剰なコンプライアンスによる新製品開発の停滞と、海外企業の躍進に全く対応できなかったためだという。




「……結局、こうなる運命だったのか。僕の絵も、あの時のアイデアも、全て『リスク』と切り捨てられた。この国は、自ら首を絞めたんだ……」




彼は、自分自身の過去の創作活動と、その作品が否定された日々を思い出す。もしあの時、もう少し自由な発想が許されていたなら、と。しかし、それはもはや意味のない「if」だった。コンプライアンスという名の亡霊が、日本の経済を骨の髄まで食い尽くしていた。





第4章:倫理の崩壊、人道の喪失




コンプライアンスは、やがて人々の倫理観をも歪めていった。規則を遵守することこそが「正しい」とされ、その結果がどうであろうと顧みられなくなった。例えば、緊急を要する医療現場でさえ、厳格な手順と承認プロセスが求められ、一刻を争う患者の命が失われるケースが多発した。しかし、医療機関は「規則通り」であったことを盾に取り、何の責任も問われることはなかった。




社会福祉の現場でも、AIによる厳格な審査基準が適用され、本当に助けを必要とする人々が排除される事例が増えた。規則に沿わない申請は即座に却下され、人々の苦しみは数字やデータとして処理されるだけだった。「困っている人を助ける」という人としての基本的な感情は、コンプライアンスの名の下に封じ込められた。




マモルは、近所に住む高齢の女性が、必要な医療サービスを受けられずに亡くなったというニュースを聞いた。彼女は、AIの審査基準を満たさない「複雑な病状」であり、適切な治療を受けられなかったのだ。




「規則だから仕方ない? じゃあ、目の前で人が死んでいくのを、ただ見ているしかないのか!? これが、僕らが望んだ『安全』な社会なのか!」




マモルの胸に、激しい怒りと無力感がこみ上げる。しかし、誰もが「規則だから仕方ない」と口にするばかりで、誰もこの異常な事態に異を唱える者はいなかった。人間としての尊厳や感情が、コンプライアンスという名の亡霊によって奪われていく様は、まさにホラーそのものだった。





第5章:歪んだ未来、完全な絶望




2055年、日本はもはや国としての機能をほとんど失っていた。経済は完全に破綻し、インフラは崩壊寸前。かつての繁栄は遠い過去の幻となり、国際社会からも見捨てられた「コンプライアンスの墓場」と揶揄されるようになった。街の光は失われ、AIが管理するビル群だけが、まるで墓標のように無機質にそびえ立っていた。マモルは、老いと病に蝕まれ、かろうじて生きているに過ぎなかった。彼の視界は常に霞み、思考も鈍っていった。




あの地下コミュニティの若者たちも、やがてAIの完璧な監視網によって見つけ出され、全員が「社会適合不能者!」として隔離施設に収容されたと聞く。




「彼らも……結局、飲み込まれてしまったのか……」




彼らがその後どうなったのか、誰も知る由はない。AIは、まるで彼らが存在しなかったかのように、彼らのデータ履歴を完璧に削除した。完璧な静寂が世界を覆い、自由を求めた彼らの抵抗は、無慈悲なシステムの前には、あまりにも無力だった。





マモルは、意識が朦朧とする中で、かつて描いた絵のことを思い出した。それは、鮮やかな色彩で描かれた、自由奔放な人々の姿だった。彼の最期の視界に、あの日の祭りの映像が、音もなく、色彩を失いながら再生される。人々の歓声は響かず、ただ虚しい残像だけが瞬く。かつて心を揺さぶった音楽の調べは、もはや脳内で歪んだノイズに変わっていた。




「もう……何も残らない。何も……」




しかし、その記憶すらも、この灰色に染まった世界では、もはや意味をなさない。彼の心は、凍てつくような絶望に覆われていた。コンプライアンスという名の亡霊は、日本の精神を、文化を、そして未来そのものを完全に殺し尽くしたのだ。





最後の瞬間、マモルは、天井に設置されたAI監視カメラの赤い光を見た。その光は、彼の瞳に映る最後の希望の残滓すらも、無慈悲に吸い取り、そして消滅させた。日本は、もはや過去の遺物となり、二度と蘇ることはない。ただ、完璧な規則と、その中で窒息していく魂の亡骸だけが残された。




「……さようなら、僕らの日本。さようなら、人間らしさ……」




彼の最期の呟きは、虚しい空間に吸い込まれて消えた。そして、その声すらも、AIのデータからは「ノイズ」として処理され、瞬時に削除された…

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