第2話 オリオ村の村娘

 森がざわめいている。獣の数が少ない。流れる空気にほんの少し、いつも感じない『匂い』が混ざっている。


 シーリィはそっと、長い栗色の髪を結った。矢筒から矢を一本取り出し、ゆっくりと弓の弦にかける。


 このオリオの森は私にとって庭みたいなものだ。少しの異変も感じ取ることができる。狩りだって一人でできるようになった。もう立派な十六歳だ。それなのにお父様ときたら、一人で森の奥に行くのは危険だと言ってまだ許しをくれない。いい加減認めて欲しい。


 シーリィはフンと鼻を鳴らした。嫌なことを思い出した。でも、この森の異変を放っておくわけにはいかない。少しだけなら大丈夫よね。

 シーリィは心の中で父に謝り、歩き始めた。




 オリオの森はトサナート山脈の麓に広がる、背の高い樹木が密集する森である。特に森の奥といわれる西側は木々の密度が高く、一度迷い込んでしまうと太陽の位置も見えないため自分の位置を確認することは困難だ。そして、彷徨い歩いて体力が消耗した頃を見計らい、森林狼の群れが襲ってくる。彼らは賢い獣だ。元気な人間は決して襲わない。私たちオリオ村の人間は彼らを敬っている。だが、危険な獣なのは変わらない。特に、この森の奥では。


 シーリィは頭上を見上げた。天まで伸びている木々は枝葉を広げ、空を隠している。日の光が入らないので涼しいが、やはり太陽の位置が見えないのは不安だ。足元に目を移すと、そこかしこに鮮やかな黄緑色の苔が生えている。これが、迷い人の体力を奪う一つの要因だ。気をつけて歩かないと足を滑らせる。歩くことに体力を奪われるのだ。


 シーリィは目を瞑り、ふーっと息を吐いた。大丈夫、心配ない。私はキタルの娘。森に愛される子。


 木々のざわめきが聞こえる。風で揺れる草。擦りあう枝葉。はらはらと踊るように落ちてくる葉。そして・・・。


 シーリィははっと目を開き、弓をつがえた。キリキリと弦が鳴く。額にじんわり汗が滲む。ゆっくりと息をして、森の奥を見る。


 ズン・・・ズン・・・。と、重たい足音が聞こえてきた。それとほとんど同時に、木の陰から巨大な獣が姿を見せた。四つ足で歩く、ずんぐりとした体形。小麦畑のような色の体毛。その獣はシーリィの姿を視界に捉えると、ゆっくりと立ち上がった。シーリィを影が覆う。


 私の倍・・・いや、それよりもう少し大きいか。黄金熊だ。冬眠に向けて栄養を蓄えているのだろう。かなり大きい。でも、なんでこんなところに。トサナート山脈からオリオの森に下りてくるのは珍しい。これも異変なのかな・・・。


 シーリィは意外と冷静に考えている自分に驚いた。そうだ、ここで慌てても仕方がない。黄金熊を追い払わないと。


 狙いを定め、弓を構える。まだ距離はある。黄金熊は立ち上がったままこちらを見て立ち止まっている。・・・いまだ。


 タンッ・・・と弦が弾ける音が森に響いた。矢は真っ直ぐと黄金熊の頭めがけて飛んだ。そして・・・。


 トンッと矢が弾かれた。黄金熊の額に刺さらなかった。


「な!」


 シーリィは焦った。急いで二本目の矢をつがえ、撃った。狙いは喉だ。


 だがこれも弾かれた。矢が通らない。黄金熊の体毛がこれほどまでに固いとは聞いたことがない。


 黄金熊はもうおしまいかと言わんばかりに鼻をブルルンといわせ、ズン、ズンとシーリィに向かって歩き出した。


 逃げないと。シーリィはそう思った。走れば、まだ間に合うかもしれない。だが、目を離すことができない。足が動かない。膝が震えている。そうだ。怖いんだ。お父様の言いつけを無視して森の奥へ入り、今死にそうになっている。この状況が心底怖いのだ。


 黄金熊の顔が見えるようになってきた。口から唾液が滴っている。鼻息が荒い。大きな獲物を前にして興奮しているのだ。心なしか、笑っているようにも見える。


「お父様・・・ごめんなさい」


 シーリィはぎゅっと目を瞑った。


『フロイア・ディペル』


 男性の声が聞こえた。凛とした、よく通る声だ。同時に「ぐあっ」という声が聞こえ、ズン・・・と地面が揺れた。


 シーリィはゆっくりと目を開いた。その眼前には、さきほどまでシーリィを喰わんとしていた黄金熊が頭から血を流し、仰向けで倒れていた。


「大丈夫ですか」


 後ろから声がする。さっき聞こえた男性の声だ。ゆっくりと後ろを振り返る。

 見たことのない紋様が施された黒いローブを纏い、右手に大きな杖を携えている。美しい灰色の髪が肩で揺れる。優し気に微笑む、整った顔。・・・まるでお伽噺の王子様だ!


「あなたは・・・?」


 シーリィはかすれた声を絞り出した。情けない。さっきまでの恐怖心と今の緊張で上手く喋ることができない。


 男は左手を胸に当て、軽く会釈をして名乗った。


「僕はフロージオ・ぺリエル。魔法使いです」


 なんてこと!この方は外界の魔法使いなんだわ!


「わ、私はシーリィ・イリオス。オリオ村村長の娘です。こ、この度は命を救ってくださりありがとうございました」


 ペコリと頭を下げる。ああ、自分でも分かる。今私は真っ赤な顔をしてる!




 魔法使いだと名乗った男、フロージオは思った通り外界から来たらしい。トサナート山脈を登るなんて、なんて命知らずなのかしら。


 彼はオリオ村に案内して欲しいと言ったので、連れていくことにした。無事に森の奥を抜けられるかしら。なんとなく道は覚えている。間違えないようにしないと。シーリィは慎重に歩みを進めた。


「イリオスさんは、あそこで何をしていたんですか?」


 後ろを付いてくるフロージオがそう話しかけてきた。シーリィは歩きながら答えた。


「シーリィでいいですよ。私の方が年下だと思うので」


「じゃあ遠慮なく。シーリィと呼ばせてもらおうかな。僕のことも気軽にフロージオと呼んでくれ」


「わ、分かったわ。フロージオ。私、森に異変を感じて調べていたの。多分、外界からフロージオが来たから森がざわめいていたのね」


「シーリィは森の声が聞こえるのかい?」


 フロージオは驚いた口調でそう言った。


「いえ。声が聞こえるというのとはちょっと違うわ。でもいつもと違う雰囲気がしたの」


「すごいじゃないか!この森に住む人は皆そうなのかい?」


「森に慣れた人は皆分かると思うわよ」


 シーリィは楽しかった。褒められて気分が高揚した。村の野蛮な男共とは違う。フロージオは丁寧で、優しい言葉遣いをしてくれる。外界の人間は皆そうなのかしら。


 少し歩くと、頭上から光が差し込んできた。よかった。森の奥を抜けたみたい。


 シーリィはほっと息を吐き、後ろを振り返った。言葉をかけようとフロージオを見る。さらさらと風に揺れる髪が、光を反射している。灰色だと思っていたが、違った。銀色の髪だ。まるで銀細工のような。ローブもよく見たら青みがかっている。夏の夜空のような色をしている。美しい。今まで生きてきてこんな美しいものは見たことが無い。


「どうしたんだい?」


 フロージオの声でシーリィははっとした。思わず見惚れていた。頬を染めながらシーリィは言った。


「あ、あと少しで私たちの村に着くわ!」


 オリオ村は森の中に作られた小さな村だ。高く聳え立つ木々を使い、太い枝の上や大きなうろの中に家が作られている。家と家の間には梯子がかけられている。木々の根本では子ども達が追いかけっこをして遊んでいた。


「シーリィ!その男は誰だ!」


 頭上から若い男の声が聞こえた。ネアだ。シーリィは見上げて返事をした。


「お客様よ!外界から来たみたい。お父様を呼んでくれる?」


 ガサガサと頭上の葉が揺れ、ネアが飛び降りてきた。シーリィの目の前に着地した。オリオ鹿の革で作られた上衣を羽織り、矢筒を背負っている。黒い髪が目元まで伸びている。 ネアは立ち上がり、疑わしそうな目でフロージオを見つめた。シーリィは溜息を吐いた。


「ネア。この人は私の命の恩人なの。お礼もしたいわ。お父様に取り次いでもらえる?」


 ネアはしばらく黙ってフロージオを睨んでいたが、くるりと踵を返し「分かった」と短く呟いて村の奥へと駆けて行った。


「ごめんなさいフロージオ。彼はネア。私の幼馴染でこの村の門番をしているの。外界の人を見るのは初めてだから警戒しているみたい。気を悪くしないでね」


 フロージオは微笑みながら答えた。


「大丈夫だよ。知らない人間を警戒するのは当然だ。いい門番じゃないか」


 しばらく待っているとネアが戻ってきた。不満そうな顔をしている。


「村長が会うと言っている。シーリィに集会所に連れてこいだとよ」


 ネアはそう言うと、手近な縄梯子をするすると登り、枝の陰に消えて行った。シーリィははぁと溜息を吐いた。気持ちを切り替え、フロージオを見る。


「それじゃあ行きましょうか。案内するわ」




「村長の家・・・私の家でもあるんだけど。その家は村の中央の大樹にあるの。集会所もそこにあるわ」


 シーリィは歩きながらフロージオにそう説明した。彼は相槌を打ちながら、きょろきょろと辺りを見回していた。行きかう村の人達は皆シーリィに挨拶をしながら、フロージオをジロジロと見ていた。そんな人たちにもフロージオは笑顔で挨拶をしていた。


「着いたわ。ここよ」


 村の中央に聳え立つ大樹。周りの木々より背が高く。幹は何倍も太い。いくつもの階段が幹の周りにぐるりと作られ、頭上からは梯子がぶら下がっている。


「すごいな」


 フロージオは大樹を見上げて呟いた。そうでしょう。この大樹は私も好きな場所だ。とても立派で、季節によって顔を変える、私達の家。気に入ってもらえるのはとても嬉しい。


「行きましょう」


 シーリィは階段を上った。後ろをフロージオが付いてくる。歩く度、革靴が木の階段を叩くコンコンという乾いた音が響く。


 しばらく上った先に大きな建物が見えた。集会所だ。シーリィは深呼吸をして、扉を二回ノックした。「どうぞ」と野太い声が聞こえた。お父様だ。


「失礼します」


 シーリィは両開きの扉をゆっくりと引いた。鈍い音を立て扉が開く。部屋の中にはお父様と、他にも数人の大人が胡坐をかいて座っていた。


「やあお客人。オリオ村にようこそおいで下さった」


 お父様の低く野太い声が響く。フロージオは部屋に入ると杖を床に置き、片膝をついて左手を胸に当てた。私に挨拶をしてくれたときと同じ動きだわ。


「突然の訪問にも関わらず、迎え入れていただきありがとうございます。私はフロージオ・ぺリエル。魔法協会に所属する魔法使いです」


 フロージオの静かな声が部屋に響く。凛とした声にシーリィは思わず立ち尽くしてしまった。


「私はオリオ村の村長で、シーリィの父のキタルだ。歓迎しよう、外界の魔法使い殿」


「楽にしてくれ」とお父様がフロージオに向かって言った。「では」とフロージオも胡坐をかいて座った。シーリィはフロージオの隣に正座をした。そんなシーリィをキタルはぎろりと睨んだ。


「シーリィ、事の顛末を話しなさい」


 お父様は怒っている。森の奥に入ったことを勘づいてるのだわ。シーリィは憂鬱な気持ちになった。でも説明しなくてはいけない。命を救ってくれたフロージオのためにも。シーリィはぐっと顔を上げ、キタルを見た。


「実は、森に異変を感じて・・・」




 シーリィの説明を聞き終えると、キタルは右手で額を押さえ深く溜息を吐いた。


「・・・まずはフロージオ殿。娘の命を救ってくれて感謝する。ありがとう」


 キタルは深々と頭を下げた。そして頭を上げるとシーリィを睨みつけた。


「シーリィ!そんな浅慮な娘に育てた覚えはないぞ!森の奥は危険だといつも言っていただろう!お前にはまだ早いのだ!大体お前はいつも・・・」


「村長殿」


 フロージオの凛としたよく通る声が、キタルを止めた。キタルは訝しげにフロージオを見る。フロージオは微笑みながら続けた。


「私が、森に異変を与えてしまったのです。何度か魔法も使いました。恐らくはその影響で動物達も姿を消していたのでしょう。シーリィさんはそんな森の異変を察知して森の奥へと入ったのです。私にも責任があります」


 シーリィはちらりとフロージオを窺った。微笑みを絶やさないその顔は、どこか強さも感じる。お父様にも負けない強さ。この人は今までどんな人生を歩んできたのだろう。


 キタルはうむと呟き、しばらく黙った後シーリィに向かった。


「フロージオ殿もそう言ってくださるのだ。今回は許そう。しかし次はないぞ」


「はい。ごめんなさい。お父様」


 シーリィは頭を下げた。お父様は少し面食らったように「わ、分かったならもういい!」と言った。素直な私に驚いたのでしょう。でも、これもフロージオともっと話がしたいから。ここは素直な娘を演じるのよ。シーリィは心の中でそう呟いた。


「で、ではフロージオ殿。あなたはなぜ外界からこちら側に来たのですかな?ただ迷い込んだだけのようには見えませんが」


「私はこの大陸の各地を旅しています。様々な文化や伝承に触れ、それを書き残しているのです。まあ趣味みたいなものですね。こちら側の国のことはずっと昔から気になっていたので、頑張ってトサナート山脈を越えてきました山を下りた先で、シーリィさんに出会ったのです」


 フロージオはそう滔々と話した。キタルは「なるほど」と頷いた。


「では、決議を取ろう。私はフロージオ殿に、村に滞在してもらうことに賛成だ。他の者はどうかね」


 キタルは周りに座る大人たちにそう問いかけた。この村には小さいながらに議会が存在する。食料部門、狩猟部門、備蓄部門など、各部門の代表者が集い、大きな決め事などはこの議会の多数決によって決まる。村長に権力が集中しないようにするためだ。


「賛成です。外界人なんて久しぶりですね」


「賛成よ。仲間を助けてもらったんですもの」


 数人が手を挙げ、賛成の意を示した。見る限り過半数を超えている。シーリィは心の中で拳を握った。


「では賛成多数ということで、フロージオ殿の滞在を認めることとする!解散!」


 会議が終わり、数人が集会所を出た。さっき手を挙げなかった、反対派の人達だ。中にはフロージオを睨む者もいた。この村は内向的な人が多い。仕方ないことだけど、私は嫌いだ。


 そんな嫌な感情を抱くシーリィの横で、フロージオが取り囲まれていた。


「話を聞かせてくれ!外界の魔法はどんななんだ?」


「トサナート山脈を越えてきたんでしょう?危険はなかったの?」


 皆、外界の人間に興味深々のようだ。私も色々と話したいことがあるのに!シーリィはやきもきしながらその様子を見ていた。


 フロージオは苦笑いを浮かべながら一人ひとりに答えていった。途中でキタルが割って入った。


「それぐらいにしておけ!フロージオ殿も旅の疲れがあるだろう。話はいつでも聞けるのだ。今日はここまで!」


 周りの大人たちは残念そうにその場を離れた。まったく、いい大人がまるで子どもみたい!


 フロージオが「あの!」と叫んだ。「なんですかな?」とキタルが聞く。


「さっき、外界人は久しぶりだと聞こえたのですが。ここには外界から人が来ることがあるんですか?」


「数年に一度、外界から来ることがある」


 部屋がシンと静まった。声は、部屋の隅から聞こえた。周りの大人たちがいそいそと座り直す。お父様は驚いた表情で声の主を見た。


「・・・司祭様」


 そこには背中を丸めた小さな老婆が座っていた。オリオ村に伝わる伝統的な紋様が描かれた布を体に巻き付け、部屋の隅に鎮座している。まるで気が付かなかった。


「どなた?」


 フロージオが小声で尋ねてきた。私は更に小さな声で答えた。


「司祭様よ。この村の祭りごとを取り仕切っているわ。こういった会議には参加はするけど、発言することは滅多にないのよ」


 司祭様はゆっくりと顔を持ち上げ、こちらを見た。いや、目が開いているのか閉じているのか分からないから、見えているのかも分からない。だけど目が離せない、不思議な感じがする。


「迷い込む者、一攫千金を狙う者、彷徨う者。外界からは時々そんな人間がやってくる。だが、どんな人間も等しくこの国から出ることはできない。この国で、我々とともに朽ちていくのだ。そうだろう、『海の魔法使い』よ」


 静かな空気が、重たく部屋を漂う。司祭様の不吉な言葉が心に染みこんでくる。それにしても、『海の魔法使い』ってなんだろう。シーリィはちらりとフロージオを見た。


 フロージオは目を見開いていた。髪と同じ銀色の瞳が司祭様に向いている。驚いているのだ。彼が『海の魔法使い』なのか。


 私は、彼の笑顔以外の表情を初めて目にした。

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