第1話 伝承の国へ

 ずっと代わり映えしないと思っていた景色が少し変わってきた。草木の背丈が低くなり、空が広く見える。花の種類も大きさも違う。所々雪が積もっている。まるで布団のほつれから飛び出た綿のようだ。


 見上げると岩肌が空まで続いている。ような気がする。道程は果てしない。


 それもそのはずだ。ここは人が越えることが許されないと言われるトサナート山脈。どれくらい登ったのかは分からないが、恐らくはその中腹程度だろう。中腹を越えると一気に白い魔物に襲われるという伝承がある。そう、雪の災害のことだ。その影響で、この山を越えようとする人間はいない。


 フロージオは立ち止まり後ろを振り返った。風が強く吹き、夜に溶けるような、深い海の底のような色のローブがなびく。フードがはらりと落ち、肩まである銀色の髪が揺れた。


「随分登ったなあ」


 眼下には広大な森が広がっている。木々は風に揺られて鳴いている。


「さて」


 フロージオは落ちたフードを被り直した。革の背嚢を背負い直し、杖をコンッと地面に突いた。一本の木で作られたその杖はフロージオの身丈より五十ミースほど高く、木の根をひっくり返したような形になっている。上部の根のような部分には蒼色の球が一つ、埋まるようにして付いている。


「あと少しかな」


 フロージオは杖をつきながらゆっくり地面を踏みしめるように歩き出した。




 ザク、ザクと歩く度に音がする。地面は土ではなく雪に変わってきた。見上げると、昼過ぎにも関わらず鉛色の雲が天蓋のように空を覆っている。これはじきに雪が降りそうだ。


「今日はここまでか」


 フロージオはあたりを見渡した。薄く雪が積もっている。所々岩肌が顔を覗かせている。草花はほとんど見えない。これほど過酷な環境では育ちにくいのだろう。「うーん」とフロージオは唸った。


「洞窟もなさそうだなあ」


 やれやれとかぶりをふり、フロージオは背嚢を下ろして杖を右手に持った。上部の蒼い球がぼんやりと光を帯びる。風が起こり足元の雪が舞い上がる。ローブがはためく。


『フィリア・エリクシ』


 フロージオが唱えると杖の先に真っ赤な火球が浮かんだ。それは少しずつ勢いを増し、ごうごうと音を立て大きく膨らんでいった。やがて、火球の色が赤から蒼に変わった。燃え盛る炎ではなく、美しい球体となった。


 フロージオは軽く杖を振った。すると蒼い火球は杖の指す方向へと飛翔した。冷気を切り裂き、ヒュウウンと音を立て火球は飛び、少し先の岩肌へと着弾した。


 ドオオン!!!と、大きな爆発音が山に響いた。雪煙が巻き起こり、視界が悪くなる。フロージオは左手を翳し雪煙から顔を守った。


 雪煙が落ち着くと、フロージオは背嚢を背負い、火球が着弾した場所へと歩いた。そこには爆発の勢いで、大人が一人すっぽりと収まる大きさの穴が開いていた。


「まあ、こんなところか」


 フロージオは背嚢を下ろし、腰を下ろした。背嚢から干し肉とパンを取り出し、ガジガジとかじった。ふと鼻先がチクッと痛んだ。見上げると、雪がちらちらと降り始めていた。




 夜中には吹雪になった。ビュウビュウゴウゴウと強風が雪を運ぶ。フロージオは魔法で火を起こし、暖を取っていた。山を登る途中で狩ったトサナート狼の毛皮で身を包む。寒さが少し和らいだ。フロージオは揺らぐ炎を見ながら考え事をした。


 『星の降る国』。山脈の向こうにあると言われる伝説の国だ。生まれ故郷でも、今まで旅した国でも噂には聞いたが実際に足を運んだことのある人間には出会わなかった。伝承を伝える作家として実在するなら一度は行ってみたいと思っていたが、その国へ行くにはこのトサナート山脈を越えなければならない。事実上不可能なのだ。


 だが、とある縁で『星の降る国』が実在することを知った。そして、山越えしなくても向こう側に行く事ができる方法も。知ったのならば行くしかない。もうこの足は止められなかった。


「それにしても」


 フロージオはぼそっと呟いて外に目をやった。吹雪は勢いを増し、視界は完全になくなった。だが、『白い魔物』と言われるほどの脅威は感じない。『白い魔物』は泣きながら人々に襲いかかるそうだが、今のところただの風の音だ。


「伝承は所詮伝承というわけか」


 フロージオは静かに目を閉じ、意識を手放した。




 翌朝は快晴だった。空から強い光が降り注ぎ、昨日積もった雪がキラキラと輝いていた。まるでガラス細工のようだ。


 フロージオはまた登り始めた。雪に足を取られないよう、一歩ずつ踏みしめながら歩いた。汗が顔を伝い、ポツリと地面に滴り落ちた。ふうと深く息を吐く。


 空を見上げ、太陽の位置を確認した。方角は間違っていない。そろそろのはずだ。

しばらく歩くと、少し先に一際目立つ、突き出た岩肌が見えた。


「あれが、魔物の鼻か」


 あいつは、この巨大な突き出した岩肌が目印だと言っていた。とすればこの辺りだろう。あの岩肌以外に目立つ場所はない。


 フロージオは左右を見回した。一面に雪が深く積もり、それ以外は何も見えない。

「少し探すか」


 フロージオが歩き出そうとしたとき、キイ、キイという音が聞こえた。何か生き物でもいるのだろうか。フロージオは立ち止まり、またあたりを見渡す。なにも気配はない。気のせいか、と思った矢先、またキイ、キイと聞こえた。次は少し大きい。


「・・・なんだ」


 フロージオは少し警戒して杖を構えた。注意深く、周辺に意識を向ける。耳をすますと、キイ、キイという音があちこちから聞こえた。これは、動物の鳴き声というよりかは、何かが軋む音のように聞こえる。その音は次第に大きく、数を増やしてきた。そして突然、シン・・・と音が止んだ。


 フロージオは一瞬、気を抜きそうになった。だが刹那、違和感を覚えた。フロージオは直感で、この場にいてはいけないと思った。


『アイオリア!』


 ふわっと、体が宙に浮く。足が地面から離れる。それとほとんど同時に、地面が動いた。


 山の上からゴゴゴゴゴと音が響く。腹の底を揺らすような音だ。フロージオは高度を上げ、下を見下ろした。


「これは・・・。雪崩か」


 地すべりのように、雪を纏った地面が滑り落ちていく。フロージオがさっきまで立っていた場所は一瞬にして煙の中に消えた。雪崩はゆっくりと、しかし強大な勢いを持って山を下って行った。




 雪煙が収まり、フロージオはゆっくりと着地した。ぺたんと、地面に腰を下ろした。浮遊魔法はかなり体力を消耗する。フロージオは背嚢から水筒を取り出し、グビリと水を飲んだ。


 さっきの巨大な雪崩が『白い魔物』なのだろう。およそ伝承通りだ。あのキイ、キイというのが泣き声に聞こえるということだ。しかし危なかった。あと数秒判断が遅れていれば僕は今頃雪の下だろう。


 ふーっと、深く息を吐く。まだ鼓動が早い。落ち着くまで少し待とう。フロージオは座ってあたりを見渡した。所々に雪が残っているが、ほとんど雪崩となって山を下った。灰色と茶色の混ざった岩肌が目立つ。ふと上の方に窪みを見つけた。フロージオは眉をひそめ、目をこらした。穴のように見える。フロージオは立ち上がり、その窪みに向かっては登り始めた。


 窪みは、洞窟だった。フロージオの身丈より少し大きいくらいの広さの洞窟だ。フロージオはふっと微笑んだ。


「見つけた・・・!」




 洞窟は、真っ直ぐ続いていた。少し進むとすぐに光がなくなったので、フロージオは小さな火球を浮かべ、それを光源にした。時折しゃがまなければならない高さになったが、それ以上狭くなることはなかった。


 ポタポタと、上から水滴が滴っている。あちこちに水溜まりができている。雪解け水が染みているのだろう。火球の明かりが岩肌を照らす。湿った岩肌がテラテラと光を反射した。


 時間の感覚が分からない。半日ほど、歩いただろうか。


「どれくらい続いてるんだ・・・ん?」


 先に、小さな光が見えた。出口だろうか。歩くペースが速くなる。だが、近付くにつれ出口ではないことが分かった。光は青白く、およそ太陽の作り出すものではなかった。フロージオは少し失望しながらも、その青白い光の正体が気になり歩みを進めた。




「これは・・・すごい」


 フロージオは嘆息した。そこには広い空間が広がっていた。壁のあちこちから水が染み出し、場所によっては小さな滝のように勢いよく落ちている。その水が地面にいくつもの水溜まりを作っている。水溜まりは段を作り、下へと続いていた。そしてその水溜まりのどれもが青白く光を帯びていて、穴の中を照らしている。


 フロージオは火球を消し、近くにある水溜まりを覗き込んだ。


「・・・苔、か」


 水溜まりに手を突っ込み、水底をさらう。手に付いた苔を見ると、発光していた。水底に生えるこの苔が光を発し、澄んだ雪解け水がその光を反射して青白い光を作り出していたのだ。発光する苔なんて、聞いたことがない。


「なんと幻想的な」


 フロージオは目を細め、しばらく立ち尽くしてその情景を眺めていた。




 恐らく、光る苔が生えていたあの空間が洞窟の真ん中あたりだったのだろう。それまでの時間とほぼ同じくらい歩いていると、冷たい風が吹き込んできた。土のにおいがする。出口が近い。フロージオは慎重に歩みを進めた。ここから先は、伝承の地だ。


 出口を視界に捉える頃には、日は沈み夜が訪れていた。月明かりだろうか。ぼんやりとした光が見える。フロージオは歩みを進めた。


 洞窟を出ると、周辺には草木が生い茂っていた。反対側には草木は無かった。洞窟を進んでいる間に標高が下がったのだろうか。下っている感覚は無かったが。


 フロージオは空を見上げた。ほお、と感嘆の息が漏れた。煌々と輝く満月、そして零れそうなほどの星々を湛えた紺碧の夜空。眼下には森林が広がっている。まだ暗くてよく見えないが、村や街らしき場所は見当たらない。とりあえず、明るくなってから動くことにしよう。


 フロージオは洞窟に入り、背嚢をゆっくりと下ろして杖を地面に置いた。



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