私は、不気味な大きな黒い目の子供に言われました。「あの人が、ママになる人だったんだね」と。

大濠泉

第1話

 私は結婚直前で、彼氏と別れました。

 三年も付き合っていたのに。


 私は、自分の住む街から遠く離れた産婦人科病院に、中絶手術のために出かけました。


 ほんとうは、中絶なんか、したくありませんでした。

 付き合って三年の彼氏が二股をかけていたため、私は捨てられたのです。

 周囲には「彼との結婚はもうすぐ」と伝えていたのに……。

 

 私は文字通り、身も心もボロボロになってしまいました。



 その遠方の産婦人科病院は、思ったよりずっと明るく清潔な感じでした。

 待合室では、お腹の大きな妊婦さんたちが幸せそうに微笑みを浮かべています。

 皆が幸せそうに見えました。


 私は罪悪感を抱えながら、目を落として受付まで歩きました。


 私は生まれてから、ずっと健康で、ほとんど病院に通ったことがありません。

 もちろん、手術なんか受けたことはありませんでした。

 ところが、今から、私は寝台に乗せられて、手術を受けようとしています。

 まさか初めての手術が、こんな屈辱的な、悲しい出来事になるだなんて。

 私は夢にも思いませんでした。

 

 どうして私が、こんな酷い目に遭わなければならないのでしょうか。

 頭の中にいくつものクエッションマークが並びました。

 と、同時に涙が止まりませんでした。


 生まれてからこのかた、こんなに涙を流したことはありませんでした。

 悔しさと、せつなさと、憎しみが、心の中をぐるぐると渦巻くばかりでした。

 産婦人科病院を出たら、すでに薄暗い夕暮れ時になっていました。


 切なさが胸に込み上げてきて、独り暮らしのマンションには戻りたくありませんでした。

 どちらへ向かうかも定かでないまま、重たい気持ちを胸に抱えて、トボトボと歩いていました。


 すると、道すがら、小さな公園があるのに気がつきました。



 住宅街の片隅にある、疲れた人の憩いの場のような、とても小さな公園ーー。

 緑の木々が、澄んだ風を運んでいました。

 人も、まばらで、ベンチには暖かそうな陽が降り注いでいました。


 私は思わずベンチに、身を預けるように座りました。

 そして、ただ、ボウッと無心になっていました。



 それから、どれくらい時間が経ったのでしょうか。

 ふと目の前を見ると、キノコの形をした遊具が置いてありました。

 その四方にトンネルがあって、そこから子供たちが出入りするような作りの遊具でした。

 その小さなトンネルを、数人の子供たちが音もなく、静かに出入りしていました。

 空中をふわふわ漂うように、遊んでいます。

 何かがおかしいと思って、よく目を凝らしました。

 すると、その子供たちは妖精のように小さな子供たちだということが、わかりました。

 皆、表情のない顔に、黒い大きな目をしています。

 身体は半透明で、光り輝いていました。


 私は朦朧もうろうとした頭で、その子たちをジッと見続けてしまいました。

 その子たちも、私の視線に気づいたのでしょう。

 皆が、私の方を、無感情な瞳で見返してきました。


 すると、声にはならない声が、私の耳に届いたのです。


「あの人が、ママになる人だったんだね」


 ひとりの子が、たしかに、そう言いました。


「でも、もうママじゃない……」


 声にならない声が、私の意識に入ってきました。

 大勢の子供たちの、穴が空いただけのような、感情のない黒い瞳が、ジッと私を見詰めていたのです。


 私は恐怖と疲労で、めまいを覚えました。

 そしてそのまま、気を失ってしまったのです。



 夢うつつの中、


(遠くの方で、赤ちゃんが泣いてるーー)


 そう思っていたら、目が覚めました。


 どれくらい時間が経ったのでしょう。

 顔は涙と鼻水で濡れていました。



 公園の草むらの方から、やっぱり赤ちゃんの泣き声が聞こえます。


 ほぎゃー、ほぎゃー。


 と、小さく甲高い声がします。


 私はおっかなびっくり、その泣き声に近づいてみました。


 すると、草の茂みの中に、小さな白い子猫が捨てられていました。

 ようやく目が開いたばかりの、小さな子猫でした。

 青い目が美しい。


 私は思わず、その子猫を抱き上げました。

 小さくて、頼りないけど生きています。

 私は、バックの中からハンカチを取り出すと、子猫を包みました。



(もう生命は殺せない。

 ごめんなさい……)



 そんな感情が、湧き起こりました。


 そんな私の様子を、小さな瞳たちが、じっと見ている気がしました。


 私は子猫を連れて、その公園をあとにしました。



 その夜、私は、その小さな白い子猫に〈リン〉という名前を与えました。

 もうこれからは、りんとして生きていこうと、私は決意したからです。

 


 その夜以来、今では、リンが、私の心の癒しになっています。


(了)

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私は、不気味な大きな黒い目の子供に言われました。「あの人が、ママになる人だったんだね」と。 大濠泉 @hasu777

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