Grace in the 'Hood

ひろえ

本文

道を踏み外すGo astray

 その言葉が示す通り、人が本来歩くべき道というのは『正しく』あるのだと思う。性善説とか性悪説の話ではない。大多数の人々が『正しい道』を歩み続け、その道から外れてしまう人がいる。道を踏み外した人は『悪』になる。

 そう考えると、この街は最悪だ。『正しい道』を歩めない人間で溢れている。

 踏み外さなければいけなかった人間、踏み外すのがかっこいいと思っている人間、踏み外していることに気がついていない人間。それらがまた『正しい道』の輪郭を曖昧にしてしまう。

 僕、ジェレミー・グレースはこの掃き溜めのような街The 'Hoodで生きている。


 労働を終えた僕は、いつのものように自宅の単身者向け公団アパートへと帰る。狭い入口を開けて、無人の管理人室を横切って、虫の死骸だらけのエレベーターに乗って『9』の数字を押す。

 上昇中、何度かエレベーター内の電灯が瞬く。ブツッ、ブツッと電灯から聞こえた次に、チンッとなって扉が開いた。そのまま左に曲がり、廊下を歩きながらポケットから鍵を探り当ててドアに着くと同時に鍵を開け、勢いよくドアを閉める。立て付けの悪いドアは、こうしないと閉まらないことを知っていた。

 鍵を勢いよくダイニングテーブルに放り投げ、そのまま服を脱ぎ、それらをまとめて洗濯機に入れる。僕もシャワールームに入った。

 ノズルから勢いよく水が出る。だが、それはいっこうに暖かくならなかった。いつまで経っても、冷たい水しか吐き出さない。

「嘘だろ嘘だろ嘘だろ。カモンカモンカモンカモン」

 僕はそうやって何度か温度をいじったり、水量をいじったりしたが、温度は全く変わらなかった。またボイラーが駄目になっているのだ。このアパートの暖房とお湯は、全て一階のボイラーが一括で賄っている。こういうことはたまにあったが、最近は頻度が高いように思える。

「クソッ」腹が立って壁を殴る。薄い壁を伝って部屋中に響く。

「うるせぇぞ!」隣の部屋から聞こえた。

「ごめん!」壁越しにそう送り返す。

 仕方がないから、冷水で急いで体を洗った。今日の気温が低くないのが幸いだった。体に染み付いたゴミの匂いを落とすために、毎日必ずシャワーを浴びる必要があるのが、今の仕事の欠点だった。

 このゴミ回収の仕事は、高校を中退して以降長らく続けている。最初は匂いが耐え難くてすぐに辞めようと思った。でも、慣れてしまえば思いのほか働きやすかった。走ってゴミを集めて、また走ってゴミを集める。その繰り返し。単純でいい。給料はあまり良いとはいえないが、高校を出ていない僕が職につけるだけありがたい。それに煩わしい人間関係も無く、夕方前に仕事が終わるのも好都合だった。

 シャワーを浴び終えて、冷えた体を温めようと布団にくるまってベッドに入った。少しだけ寝ようと目を閉じる。気怠い眠気に身を任せて、意識が少しずつ遠き始めたとき、上の階からの音でそれを邪魔された。ベッドの軋む音が僕の部屋に響く。布団で耳を塞いで、なんとか寝付こうとするけれど、音は激しさを増す一方だった。

 我慢しきれず、ベッドから出て箒を取りだした。その箒で天井を一回小突く。それでも音は収まらなくて、さらに三回小突いた。すると音はしなくなった。僕はそのまま箒を置いて、ベッドに入った。そして日が暮れるよりも前に眠りにつく。


 次の日も、いつもと同じ時間に目覚めた。けたたましい時計を叩いてアラームを止めると、隣の部屋から同じようにアラームの音が聞こえた。暫くするとアラームの音は止まり、代わりにガタゴトとクローゼットを開ける音が聞こえてくる。このアパートは立てた生活音は全て隣に聞こえる。プライベートなんてありはしない。

 インスタントのコーヒーを、気に入っているマグカップに淹れて飲む。頭を冷たい水で濡らして早めに着替えた。そのまま部屋を出て、廊下を左に曲がる。エレベーターホールで下向き矢印のボタンを連打していると、後ろから声がした。

「エレベーター、動いてないのよ」

 僕は振り返って、声の主を見る。ヒジャブを巻いた頭を見て、同じ階のムスリマ女性だとすぐに分かった。彼女のお腹にそのまま目を落とす。目を引く大きなお腹で、妊婦だと分かる。

「おはよう」

「おはよう。困るわよね。エレベーター止まったら。管理人は何してるのかしら」

 そう言われて、管理人の顔を思い出そうとしたけれど、上手く顔が浮かばなかった。何度か見た事あるけど、長いこと住んでても『何度か』程度なのだ。未だに直らないボイラーのことも一緒に思い出した。

「昨日は動いてたのにね」僕は動かないエレベーターを眺めながら言った。

「うん。だから夜の間に止まったみたい」

 仕方がないから、階段で下に降りようとする。女性は僕より先に階段に進み、手すりを掴みながら、一段ずつ、ゆっくりと降り始めた。

「手伝おうか」

 僕はその女性に後ろから声をかけた。

「いいの?」振り返り、微笑みを見せ、そう返す。

「いいよ。急いでないから。階段大変だよね」

 そう言って、僕は女性の左手を掴んで、一緒に降りた。九階からだと、降りるだけでも一苦労だ。

「何ヶ月なの?」僕は左手を掴んだまま、お腹を見てから彼女に問いかける。

 女性は「七ヶ月、もうお腹を蹴ってくるのよ」と答えた。

「女の子? 男の子?」

「……うーん、どっちの可能性もあるって」少し歯切れの悪い言葉を彼女は残す。

「へぇ、どっちでも楽しみだね」

「生まれたらうるさくしちゃうかも。泣き声聞こえたらごめんね」

「全然大丈夫。それよりも上の階からの音の方がうるさいから」

 そんな話をしながらゆっくり階段を降り、一階に着いた。女性はそのままバス停の方角まで歩いていった。僕はそれを見送ると、時間を確認して、少し早足で仕事先まで向かった。アパート前の歩道では老人たちが机を囲んでドミノゲームを楽しんでいた。


 仕事が終わったのは夕方近くだった。通行止めでゴミ収集車が通れない場所があって、少し長引いてしまった。僕はその足でそのまま近所にあるパン屋へと向かった。

 店に近づくと、パンの香ばしい匂いがする。ドアを開けると、白い帽子に派手な赤いエプロンに逞しい髭をたくわえた男、店主のゲイリーがカウンターに立っていた。僕に気がつくと、口元を大きく曲げて出迎えてくれた。

「ジェレミー、いらっしゃい」

「こんにちは。またコーヒーといくつかおすすめください」

 僕がいつも通りそう言うと、ゲイリーは「待ってたよ」と言い、ケースに入ったパンをいくつか紙袋入れ始めた。

「今日は肉が安く買えてね。ベーコンサンドができたてで美味いよ」

 彼は紙袋に封をして、その横の紙コップのホットコーヒーに蓋をした。

「全部で31ドルだ」

 僕は財布からぴったり31ドルを出して紙袋とコップを受け取った。

「また明日も来るよ」僕はそう言い残すと、彼は笑顔で「冷める前に食えよ」と手を振った。

 ゲイリーのパン屋が開店したのは二年前だった。長いことシャッターが閉められたままだった空き家を、彼が借金して買い取ったらしい。だが、最初こそ繁盛していたゲイリーの店は、次第に移動販売するサンドイッチ屋やケバブ屋に客を取られて、近頃は経営が非常に厳しいのだと、彼は語った。それを聞いた僕は、少しでも彼の生活の足しになればいいと思い、毎日仕事終わりに売れ残りのパンを買い取るようにした。それが実際、どれほど経営の助けになっているのかは分からないけれど、僕個人としては少ない賃金をつぎ込む形になっていた。

 パンを抱えたまま、コーヒーを啜りつつ帰路に向かう。

 一件の家の前で、壁に向かってサッカーボール蹴っている十歳ぐらいの少年が目に付いた。仕事終わりによく見る子だった。

「君」

 僕は声をかけた。いつもこの子を見るときは明るい時間帯だからよかったけれど、今はもう日が暮れ始めている。これから、更に日が落ちるのは早くなっていく。

 少年はボールを蹴るのをやめてこちらを向いた。

「君、一人? 親はいないの?」

「母さん、まだ帰ってきてないよ」少年はこっちをずっと見つめたままそう答える。急に声をかけられて、少し驚いているようだった。

「いつも何時くらいに帰ってくるの?」

「分かんない。帰ってこない日もあるから」

 なるほど、ネグレクトか。そう勘づいた。この辺りでは珍しいことではない。生活のために夜まで働き詰めで子供の生活を気にかけない人も少なくはない。立派な犯罪だけれど、律儀にそれを守ってられるほどの余裕が無い親も多いのは、仕方がないことだと思う。けれど、こんな所で子供が一人でいるのは危ないと思った。

 この街では、何が起きてもおかしくはない。ここでは、人が簡単に死ぬ。新聞を見ても、毎日のように子供も、女も殺されている。僕自身も、それは嫌というほど知っている。子供のことは、大人がしっかり気にしなければならない。僕は戒めのような気持ちで、彼に言った。

「お腹すいてる?」少年は小さな声で、うんと答えた。

「パンをいっぱい貰っちゃってさ。僕だけじゃ食べきれないんだ。一つ好きなの選んでもいいよ」そう言うと、ゆっくり少年を近づいてきた。僕は紙袋を地面に置いた。少年は小さい手を袋に突っ込んで色々と触り始めた。

「ああ、待って。ベーコンサンドは取らないで。それは僕のだから」少年は顔を上げて僕の顔を見ると、また紙袋の中を漁った。

「あぁ、でも知らない人から食べ物貰うのも、気をつけなよ。もうちょっと警戒した方がいい」

 僕はそう言ってから、自分の言葉の矛盾に気づいた。子供は「変なの」とだけ言った。

「もう暗いから、遊ぶなら家の中にしな」

 僕がそう言うと、少年は分かった、と素直に応じてピザサンドを手にして家の中に入っていった。

 アパートに向かいながら、その3ブロック前の路地裏に入った。この先に、一つのテントがあった。そこには、ラティーノのホームレス、ロペスさんが住んでいるのを知っていた。

「ロペスさん」僕はそう声をかけた。

「ジェレミーか?」テントの中からではなく、奥から、ロペスさんは、その髭に隠れた痩せこけた顔を出した。

「こんばんは」

 ロペスさんの隣に、大柄な男が立っているのが見えた。

「やぁ」その男は僕の顔を見てそう呟く。見たことない警官だった。座っているロペスさんと何か話しているらしい。

「どうかしたんですか」

「いや、このポリ公がね、ここを立ち退けって言っているんだ」

「いつもの人は?」

 この区域は殊更路上生活者が多い。警察がそれらのホームレスに立ち退きを命じるのも、見慣れた光景だった。けれど、目の前でロペスさんが立ち退きを命じられているのは釈然としなかった。僕はいつも警官に、この辺のホームレスを見逃すように『取引』していたからだ。

「彼はしばらく休暇だよ。その間、俺が彼の代わりだ」大柄の警官はそう答える。

「ロペスさんはずっとここに住んでいるんだよ。見逃せない?」僕はコーヒーと紙袋を持ったまま問いかける。男は僕の言葉に鼻で笑った。

「そうはいかないよ。この道路も市のものなんだ。シェルターにでも移動してくれよ」

 僕はロペスさんの顔を見る。彼は少し困ったような、怯えたような顔をしていた。どうしたらいいのか、心底困っているような表情だった。

「そうですか。ところで、パンいらない? そこのパン屋でいっぱい貰っちゃったんだよ」僕は警官にパンの包み紙を差し出した。

「おい、パンで警官が買収できると思ってるのか?」彼は呆れたような顔で僕の手の包み紙を見る。

「ゲイリーのとこのパン、美味いよ」僕は無理矢理、警官の手にそれを持たせた。警官はそれを触ると、中を覗いた。男の顔をじっと見る。彼はやれやれといった具合に、それを受け取った。

「これで、引いてくれない? ここだけの話、いつもの警官にはもっと少ない額を渡してる。内緒ですよ」ロペスさんに聞こえないように、小さな声でそう語りかける。

「……今回だけだからな」男はそう言って、その場を離れて大通りに向かっていった。

 僕は警察が嫌いだ。いつもいつも、我が物顔で、弱いものばかりを狙って公務を『執行』しているようにしか見えない。だが、話の分かる警官は別だ。50ドルで引いてくれるならば、安いもんだ。実を言うと、彼にはああ言ったが、いつもこの辺を管轄している警官には70ドルを渡している。最初は20ドルだった。だが徐々に要求される額が増えていった。良いように使われているのは僕も理解している。けれど、それでロペスさんや、他のホームレスの生活が守られるのならばと、納得していた。

「助かったよ、ジェレミー」座り込んだままのロペスさんは、そう言った。一緒にその白い髭も動く。彼はきっと、僕が賄賂を渡しているなんて思いもしないだろう。僕が上手く言いくるめたと思い込んでいるに違いない。

「お互い様だよ。ところでパンいらない?」


 ※


「弱き者の助けになれ」

 それは祖父がよく口にした言葉だった。

 祖父は優しく、何に対しても寛大だった。中国からの移民である祖父は、約五十年前にこの街に移り住んだらしい。

 祖父はよく、幼い僕と妹を連れ出して、様々なところへ連れていってくれた。スーパーに母の代わりに買い物をした帰りには「母さんには内緒だぞ」と言って、僕たちに必ずアイスを買ってくれた。祖父が笑ったときに見せる、口元の皺と笑窪を見ると、僕はなんとも嬉しい気持ちになる。

 妹が生まれてまもなく父を亡くした僕たちにとって、祖父は父親の代わりだった。僕は、優しく、毅然とした態度の祖父が大好きだった。

「J、J。お菓子を買ってきたんだ。母さんに見つかる前に食べよう」

 ある夕飯前に、祖父は僕に小さな声でそう言った。

 祖父は僕のことをよく『J』と呼んだ。中国で育った祖父にとって『ジェレミー』という名前は発音しづらいらしい。祖父だけが呼んでくれるその名前は、僕にとって特別で、誇りですらあった。

 祖父はいつだって、正しさとは何かを、僕に与えてくれる。

「暴力だけは絶対だめだ」

 それも、祖父が口をすっぱくしてよく言った言葉だった。

「暴力で解決するようなことは、解決とは言わない。人は、他の動物にはない手段がある。それが言葉だ。人間だけが言葉を話せる。話し合えば、分かり合える。分かり合えない奴は、放っておけばいい。いつか、そいつも身をもって言葉の大切さが分かる時が来るんだから」

 祖父の言葉は、全て僕の『正しさ』へと還元される。

 ある日、祖父と一緒に買い物に出かけた日のことだった。北西のカナダから吹く気団で、いつもよりもずっと冷えた日だった。

「ウェイミン! 久しぶりじゃないか!」

 祖父の友人が営んでいる精肉店に入ると、店主のジェイク・ドッドはそう太い腹の底から絞り出すような大声で祖父の名を呼んで、二人は抱き合った。

「やぁジェイク。チキンが買いたいんだ。クリスマスが近いからね」

「ああ、良い奴が入ってる。持ってってくれよ」

 いつもありがとう、祖父はそう言って、料金と一緒に、カウンターに煙草を三箱置いた。店主へだった。

「いいのか?」彼はその箱を受け取ってそう言った。

「何かお礼しようと思ったんだが、今持っているのはこれくらいしかなくてね。禁煙しろって娘がうるさいんだ。見つかって捨てられるくらいなら君にあげようと思って」

 僕は祖父が煙草なんか吸わないことを知っていた。これは元から彼へ渡すために、スーパーで買ったものだと気づいていた。

「なんであの人に煙草をあげたの?」僕は帰り道、祖父に聞いた。

「ジェイクはね、昔、舞台俳優を目指してたんだ。でもね、結局夢半ばで親の精肉店を継ぐことになったんだよ。やりたかったこととは違うけれど、親の店を潰したくないって、生活を切りつめて店をやっているんだ。煙草なんて買う余裕もないくらいね」

 祖父はゆっくりとそう語る。

「僕は彼のことを友人として誇らしく思う。そんな彼が、たまには良い思いをしたっていいだろ? でも、待っていたって彼に幸運が訪れるとは限らないんだ。どんなに良い奴だろうとね。この世は平等なんかじゃないからね」

 僕に合わせた歩幅が心地よいテンポを刻む。前を向いたまま、時々少し考える素振りを見せながら、祖父は話を続ける。

「いいか、J。お前が大人になって、こんな風にお金も自由に使えようになったらな、それは自分のためだけに使ったらいけないよ。弱き者の助けになれ。手の届く範囲でいい。助けが必要な人は、この街だけでも沢山いるんだ」

 僕はそれを聞いて「神様が見てるから?」と聞いた。学校でよく言われることだった。『神様が見ているから、良いことをしなさい。悪いことはやめなさい』

 でも、祖父の言葉は学校での教えと決定的に違っていた。

「いーや、違う。神様が見ている、なんてことは無い。見返りなんて求めたら駄目だ。だって、いつか『神様がお礼をしてくれる』なんて考えていたら、それが無かったらガッカリしちゃうだろ? それに、その考えは結局、自分のためだ。他の誰でもない、困ってる『弱き者』のためにするんだよ」

「……なんで?」

 どこまでも他人本意な祖父の考えに、僕はあまり共感ができなかった。爺ちゃんの言葉が間違っているはずがない。だから、僕はその真意を聞こうとした。

「誰もやらないことは、誰かがやらなければいけないからね。J、お前も常に、その『誰か』でいなさい」

 祖父ははっきりとした言い方で語った。僕は理屈を超えたところで、その言葉が腑に落ちる感覚がした。その揺るがない意思が、心からかっこよく感じた。

「……でも、お礼に大きいお肉くれたね」

「こういう『ラッキー』も、たまにはあるんだよ」そう言って、祖父はビニール袋を上げてイタズラに笑った。また顔に笑窪が浮び上がる。

 祖父は、語った言葉通りに、いつでも誰もやらないことをやる『誰か』で、弱き者の味方であり続けた。どこからか拾ってきた子犬を、ペット禁止の自宅に連れ込むことはしょっちゅうだし、血だらけで帰ってきたから、何事かと聞けば、高校生が暴力を受けていたのを止めに入って、パイプで殴られたと語ったこともあった。

 母は、そんな祖父のことを「あいつの博愛主義Philanthropyは反吐が出る」とよく語った。

「あいつは父親としては最低だよ。どこの誰かも知らない他人のために、家族なんて顧みない男だ。お前はあんな奴になるなよ」母は酔うといつもそう繰り返す。

 けれど、僕にはそんな母の言葉には共感できなかった。

 僕にとって、祖父の姿は既に『絶対の正義』であった。同級生たちが、コミックのヒーローに憧れる中、僕のヒーローは、スパイダーマンでも、バットマンでも、タートルズでもなく、人に優しくも己に厳しい、祖父だった。

 弱き者を助けるという大義は、は僕の中で確固とした信念へとなっていた。心の底から、祖父のような男になりたいと思った。弱き者に手を差し伸べれる人間に、誰もやらないことをやれる『誰か』なりたいと願った。

 大人になって、お金を自由に使えるようになって、自然と『弱き者の味方』であるために、僕が生活の全てを賭け続けるのも、当然の成り行きだった。

 僕にとっての『正しい道』は祖父の後ろ姿だった。その道を、踏み外さないように、この掃き溜めのような街で正しく生きてきた。


 ※


「こんにちは」

「お、いらっしゃい。待ってたよ」

 次の日、仕事が早く終わったので、日が暮れる前にゲイリーのパン屋に寄った。

「またコーヒーといくつかおすすめください」

 ゲイリーは、はいよ、と言って店の奥から紙袋を取り出した。すると、カラン、とドアの開く音がなった。僕とそう歳の離れていなさそうな、褐色肌の男が入ってきた。

 彼は「どうも」と僕とゲイリーの顔を見てから言った。わざとらしいぐらいににやけた顔で、印象が悪かった。

「そこの道路を歩いてたら、なんだかいい匂いがしてきてさ。こんな所にベーカリーなんてあったんだね」彼は店を一瞥するとゲイリーに向かってそう言った。

「まぁね。何にする」ゲイリーは僕のコーヒーとパンの入った袋をカウンターに置くとそう言った。男はそれを見ると、「じゃあ俺もコーヒーを貰おうかな。あと甘いやつが欲しいんだけど」と言って、店内のパンを物色しはじめた。

「あ、待って。そのコーヒーもしかしてドリップ?」僕が会計をしようとしていると、僕の紙コップを見てそう言った。

「あぁドリップだけど」ゲイリーがそう答える。

「アメリカン無い? 俺、濃いの飲めないんだよ」男はヘラヘラと笑いながら言った。

 僕は会計を終えて紙袋を受け取り、店を出ようとすると、ふとその男に呼び止められた。

「待って。君、常連? なんかオススメある?」

 僕は「甘いのなら、あんたの目の前にシナモンシュガーロールがあるだろ。食ったことあるけど、美味かったよ」と彼の前のウィンドウを指さした。彼は「助かった!」と大きな声で言って、それを四つほど頼んだ。僕はそのまま店を出ようとドアに手をかけたところで、またしても呼び止められた。

「待って。待って! お礼をさせてくれ。ちょっと待ってくれない?」

「何? お礼って」パンを指さしてやっただけで、お礼なんて大袈裟な奴だと思った。そもそも、こんな怪しい奴と僕は関わりたくもない。

「いいから」

 僕は正直少しうんざりしながら、言われた通り、店の外で彼の会計が終わるのを待った。紙袋を受け取った彼は店を出ると、僕に「お礼に、いいものをあげたい。この近くに俺ん家兼事務所があるんだよ。仲間の溜まり場になってるけどな。悪いようにはしないから、着いてきてくれ。すぐそこだよ」と言った。

 内心、こんな怪しい誘い方で、本気で着いていく奴なんていないだろう、と思いながらも、彼の言う『いいもの』が何なのか少し気になった。だから着いていくことにした。自分でも不用心だと思いながらも、最悪の場合、そう僕と体格も変わらない彼が、僕を引き止めれるほどの力は無いだろうという考えからだった。ゴミ収集で走り回ってるから、体力にはそれなりに自信がある。

 彼は歩き始めると、その男は「いやぁ、アメリカン無くてさ、俺ドリップってどうしても無理なんだよ。イタリアじゃ生きてけないだろうね」と言って笑った。

「イタリアはドリップじゃなくてエスプレッソだろ」

 僕がそう言うと「そっか、そうだった」とまた胡散臭い笑い方をする。それから早速紙袋を開けてシナモンシュガーロールを口にし始めた。

「うん、確かに美味いな。シナモンが効いてる」

「なぁ、いいものって何? 君は何者?」僕は彼の横を歩きながら問いかけた。

「自己紹介まだだったか。俺はジェイク。ジェイク・ドッド」彼はシナモンシュガーロールを左手に、紙袋を脇に抱えて、右手を差し出した。

 僕は思わず、その言葉に笑いそうになった。『ジェイク・ドッド』は少し先にある精肉店の、祖父の友人である店主と同じ名前だ。偶然にしてはできすぎている。明らかに偽名だと分かった。名前を隠すなんて余計に怪しい。

「……よろしくドッド。僕はジェレミー。ジェレミー・グレース」それでも、この先にあるものが何なのか、好奇心を抑えられずその右手を握った。

「ジェイクでいいよ。ジェレミー」彼はまた貼り付けたような笑顔でそう語る。軽薄なその態度が、怪しさに拍車をかけていた。

「ここだ。多分誰かしらいるだろうけど、気にしないでいい。寛いでってくれ」

 そう言われて、到着したのは汚いアパートだった。寛ぐ気になんて全く無かったが、僕はとりあえず、分かったと答えた。

 ジェイクがドアを開ける。中はカーテンを締切っているせいでやけに暗かった。そして中から漂ってくる甘いながらも青臭さの残る刺激臭。マリファナ臭かった。

「とりあえずこっちに来てくれ」薄暗い廊下を通ってリビングダイニングに向かった。その途中にある部屋から、女の大声が聞こえてきた。喘ぎ声だった。

「こいつまた勝手に男連れてきてるな。ここはお前のヤリ部屋じゃねぇのに。こういう困ったちゃんもいるけど、気にしないでくれ」ジェイクは振り返って、安心しろと言っているような笑顔でそう語る。

「なんで、君の家で、その仲間とやらが男を連れ込んでるんだ?」

「まぁ、そんなこと今はいいだろ」

 そう彼ははぐらかす。それ以上は聞かなかった。何となく、彼の語る『仲間』は良くない連み方をしているのを察していた。

 リビングダイニングは大きなテレビの下に古いビデオデッキといくつかのVHSが乱雑に置かれていて、それ以外はくたびれたソファと、ダイニングテーブルと椅子が置かれてるだけの簡素な空間だった。

「何も教えずに連れてきて悪かったよ」

 ジェイクは、部屋に入るとそう口を開いて、部屋の奥にある戸棚の中を漁り始めた。

「実を言うと、君のことは前から知ってたんだ。とは言っても、別にストーキングしてたとかじゃないぜ。このアパートに来るとき、君が、あのベーカリーに入るのを目にしてただけだ」

「それで? 結局のところなんの用なんだ? 僕が気に入ったからレイプでもしたいと?」

「まあ待てよ。そんなんじゃねぇよ」彼は笑いながら、戸棚の奥から南京錠の付いたスチールの箱を取り出すと、手際良く暗証番号を合わせてそれを開けた。

「これ、何か分かるか?」彼は中からビニール袋に包まれた一枚の紙を取り出して僕に見せつけた。やけにポップなイラストが描かれたその紙片は、角の方が欠けていた。

「何それ」僕はそれを手に取ってよく見た。そこで気がついた。これは、明らかに非合法なものだと。

「LSD?」僕がそう聞くと、ジェイクは「ビンゴ!」と嬉しそうに言った。

「いいものって、これ?」僕は呆れてそう言った。そんな所だろうと、何となく思っていたが、期待して損した。

「いやさ、実はね、それはとあるルートから輸入してるもので、仲間内で売ってたんだけど、その内の一人が最近ムショ行きになっちゃってよ。それで、このコミュニティにも少し新しい風が必要になってきたわけよ。見てたよ、君が警察に賄賂を渡してホームレスを助けてたところ。君は『良い奴』だ。頼む。これを買ってくれないか。50ドルでいい。俺たちを助けると思ってさ」

 それを聞いて僕は、こいつは確かに怪しいけれど、ただの珍しくもないドラッグディーラーだと気がついた。この街ではこんな奴で溢れている。鳩よりもよく見かける。こいつは別に人に危害を加えたりする意思はない。ありふれた小悪党。よくいる落ちぶれた若者だ。

「50ドルね」僕はそう呟く。

「ああ。別に他のやつに高く売りつけてもいい。でも一回は体験してみるべきだぜ。自分の悩みなんて全部些事だって思える」

 今なら確かに50ドルぐらいなら払える。正直、どんなもんなのか、興味が無いと言ったら嘘になる。

「でも、悪い。これは買えない。残念だけど、他の人を当たってくれ」

 この金は、この街の、弱き者たちのためのものだ。こんな所で、こんな物のために、おいそれと使えるものでは無い。

 同時に祖父がよく言っていた言葉を思い出す。

「お前が大人になって、お金をある程度自由に使えるようになっても、絶対にドラッグには手を出すなよ」

 祖父は「やりたいことはなんでもやった方がいい」とよく口にして、何かを「するな」とは語らなかった。だがドラッグには厳しかった。テレビで流れる薬物中毒で死んだ人のニュースに、心から悲しんでいたし、憤っていた。

「身を滅ぼすだけじゃない。周りの人にも迷惑をかける。絶対に、やるなよ」

 幼い僕は「やらないよ」とだけ答えた。僕の中で、祖父の言葉が生きている限り、僕の答えは昔と変わることはない。

「やっぱダメかー」ジェイクはそう言ってソファに座った。ジャケットのポケットからジョイントを取り出すと火を付け始めた。

「こんなことずっとやってるの?」僕は伏せ目で彼を見て、そう尋ねる。

「んー? ずっとではないけど、まぁ前から」

 すると、ドアが開く音が聞こえた。下着姿の女が部屋に入ってきた。女は、僕を見るなり「誰」と言ってジェイクに目配せした。

「新しい友達のジェレミーだよ」

 女はふーんとだけいって、机に雑に置かれたLSDをむしった。

「おい金置いてけよ」ジェイクのその声が聞こえていないのか、無視したのか、ふらふらとした足取りで部屋を出ていった。そのおぼつかない後ろ姿を、僕は見ていた。

「彼女、アル中でしょ」僕はジェイクに聞く

「よく分かったな。止めても止めても、どこからか酒を持ち込んでくるんだよ」口から煙を吐きながらジェイクは答えた。

「歩き方がアル中のそれだったし、汗のかき方が普通じゃなかった」

「詳しいな。お前も吐くほど飲まないと寝れないタイプ?」

「僕の母さんと、そっくりだったんだよ。歩き方も、話し方も」

 それを言うと、暫く沈黙が訪れた。いたたまれなくて、僕はその汚いヤク中の巣窟を後にする。出る前に「彼女の下着姿に免じて、警察には言わないでやるよ」と言い残した。


 ※


 目を覚ます。肌寒かった。布団にくるまりながら、窓を薄目で見る。カーテンの端から弱い光が漏れていた。時計を見ると、まだ時間は午前五時だった。もう少し寝ようと、布団に体をすっぽりと入れて目を閉じる。耳からは雨音が聞こえた。ポツポツと、頭に響く音に身を任せて体の力を抜く。

 雨音が僕の体に入り込んできて、脳をノックする。

『お兄ちゃん』と僕を呼ぶ声が聞こえる。脳裏に、妹のマーリーンの顔が浮かぶ。マーリーンはただ僕を見つめる。睨みつけるわけでも、笑顔を見せるわけでもなく、そこに立っている。何を訴えているのか、僕には分からない。妹の考えていることなんて、僕にはこれっぽっちも分からなかった。ずっとそうだった。最後の最後まで、何を思っていたのか、同じ血を分けているはずの僕には何も分からなかった。分かろうとしなかった。あの悲劇は、僕が妹のことを知ろうとしなかったから起きた。


「お兄ちゃん、起きて」

 その日も、妹に起こされて目を覚ました。「朝ごはんできてる」そう言い残して、ダイニングに向かう。窓を見ると、雨だった。

 ダイニングには母がいて、祖父がいて、妹がいた。テレビを見ながらをベーコンと卵を食べている。祖父がずっと何やら友人のことを話している。二人は相槌を打つわけでもなく、それをただ聞いていた。

 支度をしているとき、自室の壁に掛けていたキャップが一つ無くなっていることに気がついた。玄関に行って家を出ようとするマーリーンの姿を見ると、案の定僕のキャップを被っていた。

「おい、それ僕のだぞ」

 振り返った彼女は「いいじゃん、いっぱいあるんだから。私のこの前破れちゃったの。メッシュの部分が」と答える。

「いいから返せ」僕が頭に手を伸ばすと「やめて!」と思い切りはたかれた。

 急に大声を出されて、少し驚いた僕は「訳分かんない……」と言うと、妹は元々無愛想な顔を、更に無愛想に見せた。

「まぁまぁ、J。一日ぐらいいいじゃないか。マーリーンも、今度新しいの買ってやるから」

 リビングから現れた祖父がそう言う。マーリーンはそのまま黙って家を出た。

 僕も、勝手な妹に腹を立てたまま、それから家を出てスクールバスに乗り学校へ向かう。いつもの、平凡な一日でしかなかった。

 学校が終わって、帰宅すると、母がなんだか焦った様子でどこかに電話していた。僕がバッグを置いて、ソファに寝転ぼうとすると母は「ジェレミー!」と大きな声で呼ぶ。

「何?」そんな大声出さなくても、と思い少し不機嫌になりながら母の顔を見る。

「マーリーン見なかった?」母はそう聞く。

「見てるわけないでしょ」僕の学校と妹の学校は随分離れている。見かける訳がないなんて、母も分かっているはず。その時点で少し、何が起きているのか察し始めていた。

「落ち着けよ。そのうち帰ってくるさ」トイレから祖父が出てきて、母を落ち着かすように背中をさすってそう言った。

「だって、もう授業終わって何時間も経ってるのに、こんなに遅いことある?」母は焦った顔で言い返す。

「どっか寄り道してるんじゃないの」僕は再びソファに寝転んで、テレビをつけた。妹だって、もうミドルスクールに上がったんだ。親のいない場所で羽を伸ばすようになったって不思議ではない。僕は妹よりも、自分のキャップの方が気がかりだった。

 僕は妹に関心は無かった。昔よく一緒に遊んだりもしたけれど、僕もマーリーンも、そんな遊びに興じるような歳ではなくなってから、会話もめっきりしなくなった。たまに話すとすれば、今朝のような喧嘩だ。よく分からないところで笑う子供だったマーリーンは、最近はすっかり無愛想な顔しかしなくなり、僕が祖父に憧れている一方で、彼女は祖父のこととあまり好いてはいなかった。僕はそんなマーリーンが理解できなかったし、どこで何をしてようが、別にどうでもよかった。

 だがマーリーンは夜になっても帰ってこなかった。ただ事ではないと思った母は警察に連絡したが、警察からは未だに何の連絡もない。

「僕がもう一回外を探してくるよ。二人はもう寝てなさい。焦っても仕方ないさ」

 祖父はそう言って、家を出ていった。雨は激しさを増していた。母はずっと泣いている。僕はそれを見ているのがいたたまれなくなって、言われた通り寝ようと、寝室へ向かおうとした。

「ジェレミー」母の呼ぶ声が聞こえる。

「何?」

「寝るの? マーリーンのこと心配じゃないの?」僕のことを、信じられないと言わんばかりの顔で見る。

「心配してはいるよ。でも、爺ちゃんの言う通り、焦っても仕方ないじゃないか。今ここで何かできることある?」

「そういうことを言ってるんじゃないの! あんたはマーリーンのことなんてどうでもいいわけ!? それでも兄な!?」母はダイニングテーブルを拳で叩いて、そう叫ぶ。

「どうでもいいなんて言ってないだろ! じゃあどうしろって言うんだよ! この土砂降りの中、宛もなく僕にも探しに行けって言うの? ここら辺は警察も既に探してるだろ!」

 口をついて、大きな声が出た。母は「そういうことじゃないの、そういうことじゃないの」と言って、また泣き始めた。

 正直に言うと、母も祖父も、少し大事にしすぎな気がした。どうせ朝にはひょっこり帰ってくるのでは。根拠もなく、そんな気がしていた。過保護すぎるのだ。そんな過保護に嫌気がさして、マーリーンはただ一晩の非行に走っただけだと、僕の勘がそう言っていた。

「母さんももう寝なよ。疲れてるんだよ」僕がそう言っても、反応は無かった。

 次の日、僕は学校を休んだ。行っている場合ではないと、母が言ったからだった。僕は学校を休んで、家にいたところで何が変わるのか分からなかった。まだ雨は降り続いていた。

 僕はすることもなくて、ぼんやりとテレビを眺めていた。今日もニュースでは人が死んでいる。もしかしたらマーリーンも──。一瞬、そう思ったが、僕には上手く想像ができなかった。人が死ぬニュースは、僕の実生活から離れた他人事としか捉えられなかった。

 その日の昼頃、電話が鳴った。家に一気に緊張が走る。母はすぐにそれを取った。神妙な顔持ちで対応する母を、僕はじっと見ていた。僕らみたいな平凡な家族に、何かが起きるなんて、ありえない。僕はそう心の中で何度も繰り返した。

 そのとき、また知り合いたちに聞き込みに行っていた祖父が帰ってきた。

「J、母さんは誰と電話してるんだ」

 母を見て、祖父も強ばった顔ででそう聞いてきた。

「多分、警察。見つかったんだよ、きっと」僕は祖父の、いつも見せる嬉しそうな顔と、その顔に浮かぶ笑窪が見たくてそう言った。でも、祖父の表情は変わらなかった。

「はい、はい」母は言葉を繰り返していた。

「はい、はい……」

 瞬間、母の顔は見たことの無いような表情に変わった。

「何で……」その場で崩れ落ちて、電話口はガンっと音が鳴って落ち、コードにぶら下がるように、フラフラ揺れていた。

 祖父は、ゆっくりと母に近づくと、抱きしめた。母はその胸で、大声で泣き始めた。

 僕には、明確なはずのその状況が、あまりにも現実味が無くて、何かの間違いじゃないのか、相手は警察ではなくただのイタズラ電話だったのでは、母の涙は妹が見つかったことによる嬉し涙なのでは。そんなあまり意味の無い思考が巡る。信じ難い状況の中で、縋るような希望を見出そうとしたが、次第に状況がそれを否定する。

 僕のキャップは、二度と僕の手には戻らなかった。


 午後には安置所にて、一日ぶりに妹の顔を見る。いつも通り、無愛想な顔だった。母も、祖父も何も言わなかった。激しい雨のうちつける音と、すすり泣く声だけが響いていた。僕はただ、妹を失った悲しみよりも、何人もの見知らぬ男たちにボロ雑巾のように辱められた挙句、絞殺されてしまった妹が、ひたすらに不憫に思えて仕方なかった。

 マーリーンは実際に、一晩だけの非行に走っていた。誘われるがままに、ナイトクラブに行った帰りに全ては起きたらしい。子供のくせに、分不相応な娯楽に手を出してしまったのだ。子供だから、正しい危機感を持てなかったのだ。

 僕にも責任があると思った。僕がちゃんと、正しくない道に進もうとしていたのを、もっと前から分かっていたら、ちゃんと、妹と話していたら、こうはならなかったかもしれない。

 だから、僕は殺してやろうと思った。何とかして、犯人たちを見つけ出して、祖父の隠している拳銃で足を潰してから、燃やして殺してやろうと思った。妹以上の苦しみを味わいながら、後悔して死んで欲しいと思った。

 思うだけだった。僕には、そんな気概なんて無いのは分かっていた。事が起きてから、もっともらしい反省をして、子供のような想像で溜飲を下げるなんて、僕は傲慢で、情けないとも思った。

 降り続ける雨に、腹が立った。僕らの身に降りかかった悲劇を過剰に演出するような雨に、無意な怒りを募らせる。天気は僕の気分で変わるプレイリストじゃないんだぞ。いつもは、寄り添ってもくれないくせに。

 妹の葬式は、家族と数名の友人たちだけで粛々と執り行われた。事情を知らない妹の友人たちは、別れも言えず突然死んでしまった妹に、涙ながら最後の挨拶をしていた。

 まもなく、犯人たちは証拠が見つかって収監された。犯人は、世間を騒がす大悪だとか、尊大な野望を持った巨悪とかでもなく、地元の、なんでもないヒッピー少年たちだった。僕も、祖父も母も、その報告を聞いても何も言わなかった。そいつらが刑に処されたところで、妹を失った心も、孫を失った心も、娘を失った心も、何も変わるわけではない。むしろ、僕は堀の中に呑気に生きているのを想像するだけで、不毛な怒りが蒸し返すだけだった。

 それから少し季節が巡ると、今度は祖父が亡くなった。持病の悪化によるものだった。保険料が払えず、まともな治療も受けられずに家の中で眠るようにして最期を迎えた。僕も母も、覚悟していたことだったから、妹のときよりかは、幾分か落ち着きを持って受け入れることができた。

 僕は、もう二度とその笑窪を見せてくれることはない、大好きだった祖父を前に、この街では、思っていたよりもずっと簡単に人が死ぬことを知った。

 祖父の亡骸は妹の隣に供養された。これで、少しはマーリーンも寂しくはなくなるだろう、母はそう語った。

 母の酒を飲む量が増えたのはそれからだった。近所で続けていたパートもやめて、市からの補助金をほぼ全て酒代につぎ込んだ。家での振る舞いもどんどんと横暴になっていった。何かあると、すぐに僕にあたって、憂さ晴らしに手当り次第物を壊すようになった。僕がそんな母の醜態に耐えかねて、家を出たのも無理のないことだと思う。それ以降、母がどこで何をしているかなんて、僕には全くもって分からない。きっと、今でも浴びるように酒を飲んで、孤独に生きているのだろうと想像はつくけれど。そんなのは知ったことでななかった。

 もう、家族は取り返しにつかないほど壊れてしまったのだと、僕は思った。全てはあの雨の日からだ。少しずつ、雨が石を削るようにヒビを入れていき、ついには二度と修復できないほど壊してしまったのだ。僕は戻れない過去を振り返らないように、ただ忙殺される日々を生きてきた。

 それでも、僕は妹のように、二度と人が尊厳を奪われたり、理不尽に命を奪われないで欲しいと願いながら生きている。


 ※


 冬を迎える準備を進めるNYは、また一段と寒くなった。ボイラーの調子は相変わらず悪いながらも、少なくとも寒いシャワールームで冷水を浴びる必要はなくなった。

 この数ヶ月の間、自分自身でも奇妙なことだが、僕はあのジェイク・ドッドと名乗った男と何故か仲良くなり、彼の家であり、本人は『事務所』だと言うボロアパートによく顔を出すようになった。きっかけは、仕事帰りに偶然彼と出会ったことに始まる。「この前の詫びをしたい」という言葉のままに、彼に着いて行ったことだった。思いのほか話の分かる奴だったし、ランボーは一作目が至高という意見も一致して、センスが良い。

 ジェイクは、自身の名前はやはり偽名で、本名はヴィンセント・エメリであると教えてくれた。でも、僕は薄汚い部屋に住むドラッグディーラーに『ヴィンセント』は似合わないと思って、ジェイクと呼び続けた。

 僕は、彼のことを学が無いから犯罪に頼らざるを得ない、どうしようもない小悪党なのだと、最初は思っていたが、どうやら彼は僕と違って、高校は出ているらしい。その上、彼はよく図書館から借りてきた哲学書やら学術書やらを読んでおり、やけに幅広い知識を持っていた。

 彼の部屋にいるときのことだった。

「お前、神様は信じてるか?」唐突にジェイクは聞いた。彼はよくこう言った話しぶりで持論を展開した。

「父方の家系はカトリックらしいけど、僕はあんまり」

「うちの父親も敬虔なカトリック信者だけどな、宗教なんて全部嘘っぱちだぜ。イエスはただのナザレのペテン師だ。人は何かを信じてないと、まともに真っ直ぐも歩けないんだ。本能を捨てて理性を獲得した生物だから、そういうバグが起きるんだ。でも、そのバグのおかげで人は『嘘を信じる』って能力も一緒に獲得した。それで指針になる『嘘』を信じることで人生に安寧をもたらす。それが宗教だよ」

 ソファに足を上げて横向きで座るジェイクは、札束を勘定しながらそう語る。

「だからお前はこんな仕事してんの?」ダイニングの椅子に座りながら、僕はコーヒーを啜ってそう言った。

「は?」

「僕は、人は生まれてから歩く『正しい道』があると思っている。お前は神を信じれないから、真っ直ぐ『正しい道』を歩けずにドラッグなんて売ってんだろ?」

 ジェイクは笑った。

「馬鹿だなお前。俺は神の代わりにクスリを信じてるんだよ。お前も一回やって見ろよ。クスリをキメると、全部が些事に見えるぞ。学歴も生まれた場所も性別も、当然肌の色も目の色もな。そんなのにこだわってるやつは全員馬鹿だ。一番大事なのはLOVEだぜ。その真実に気づいちゃったら、神なんて信じる必要がどこにあるんだ」

 僕には彼の言っていることはよく分からなかった。

 信仰心の無い僕ですら、宗教は嘘なんて、恐ろしくて言えやしない。彼らはその教えを、救いを、神性を信じているのに。でも、仮にそれらが嘘だったとしても、それが暴かれる日は来ないだろうと考えると、やはり『信じる者は救われる』のだろうか。

 ドアが空いた。入ってきたのはジェーンだった。以前、隣の部屋で男を連れ込んでいた女だ。

「ヴィンセント」そう声が響く。

「三枚ちょうだい」続けてそう言う。

「そこにある」ジェイクは右手に札束を持ったまま、左手で机を指さす。「金早く払えよ。もうすぐ売り上げ納金なんだからよ」

「この前払ったじゃん」僕の目の前でジェーンは切手を毟るかのように、その紙を一タブ分切り離す。

「違う。今お前が取ったそれの分だよ」

「まとまった金が入ったらね」そう言って、それをポケットに強引に入れて「あとこれも貰う」と棚の奥にある箱の鍵を開けた。そこから粉が入った瓶を取り出し、同じく戸棚から出した測量機で重さを測ると、それを袋に入れて持って行こうとした。

「ジェーン」僕は帰ろうとする彼女にそう声をかけて、椅子を立ち上がった。

「グレース、いたの」目の前にいたはずの僕にそう言い、一瞥だけすると、すぐにドアに目を向ける。

「その指、どうしたの」彼女の左手は、人差し指と中指に包帯が巻かれていた。

「この前、折られた」

「この前の男に?」

「多分ね。この前の男って誰を指してるかわかんないけど。右利きだから何も問題はないわ」

「その足も?」ホットパンツから覗く彼女の太ももには、大きな黒々とした痣が浮き出ている。

 彼女は答えない。

「来週、お金が入るかもしれないから、そのとき払うわ」

 彼女はそれだけ言って、部屋から出ていこうとする。

「ジェーン、待ってよ」彼女はまた僕をまっすぐと見る。呆れているような、怒っているような顔で。

「その足よく見せて。内出血してるんじゃないの。ちゃんと処置しないと悪化するよ。膝を固定して、冷やした方がいいんじゃないかな」

 またしても何も言わない。

「いや、僕も同じ経験した頃があるんだ。昔、自転車で派手にすっ転んでさ。結構やばかったんだよ。二ヶ月くらい腫れが引かなくて」場を取り持つように、僕は早口で言った。

 ジェーンはため息を吐いて、右手でドアノブに手をかける。

「ジェーン!」僕は彼女の右腕を掴んだ、その瞬間、ジェーンは「触るな!」と大きな声で叫び、僕の手を払い除けた。一緒に、右手持っていた袋が地面に落ちた。

 呆気に取られていた僕に、彼女は「あんた、なんなの?」と聞いた。

「いや、僕は……」

「ずっと、なんなの。ほんとに。なんでそう私のことに口を挟むの?」

「……僕はただ、君を心配して」

「心配って何? あなたは私のなんなの?」

 僕は押し黙ってしまった。

「はっきり言って、お節介よ。あんたは私の友達? 恋人? 違うでしょ」僕が黙った隙に彼女はそう捲し立てる。

「……ましてや、死んだあんたの妹でもない」

「は?」想定外のその言葉に、僕は固まった。

「おい、ジェーン!」ソファからそう声が飛んだ。

「あんたは黙って!」また彼女の高い声が部屋に響く。

「ヴィンセントから聞いたよ。昔、妹がヤり捨てられて死んだんでしょ。同情するわ。心から。でも私はそのクソビッチの妹なんかじゃない。勘違いしないで」

 ジェーンは僕の目の前まで迫ると、包帯で巻かれた指を眼前に突き出した。

「私、会ったときからずっとあんたのこと嫌いよ。可哀想な人見つけて施し与えて、良い気になってる馬鹿な偽善者だから。あんた目にクソが詰まってるから、可哀想な女の子は皆、自分の妹に見えちゃうんじゃないの? ねぇ、私は可哀想? 馬鹿でクソみたいな人生歩んでずっと何かに怯えてる弱い子供に見える?」彼女の口からこれでもかと並べ立てられた、僕を傷つけるための言葉と一緒に、キツいアルコールの匂いも一緒にした。

「君が、君がずっと何に必死になってるか分からないよ」僕は彼女を少しでも落ち着かせられないかと思って、そう声を振り絞る。

「熱くなんなよクソアル中ビッチ。ちょっと寝ろよ」ジェイクが窘めるようにそう言う。

「黙ってって言ってるの! 私は今この腐れチンポ野郎に話してんだから!」ジェーンは折れた指をぶんぶんと僕の目の前に振り回す。

「あんたは私が男から暴力を受けてる頭の悪い女だって思い込んで、可哀想だから助けてやろうって気持ちで話しかけたんでしょ。逆よ、逆。確かに指は折られた。それだけじゃない。歯も二本どっかいったし、脚も腰もボコボコに殴られたわ。でもね、私はあのクソ男の指を四本折ってやったし、奥歯も飛ばしてやった。グレース、あんたに分かる?」

 ジェーンは大きく息を吸って言った。「私を! あんたの! オナニーごっこに! 付き合わせないで! そういうのが一番、反吐が出る」

 彼女はそう言い切ると、僕の足元に唾を吐くと、落とした袋を拾って、僕を睨みつけながら大きな音を立ててドアから出ていった。

 僕はどういう反応をしたらよかったのか分からなかった。妹と自分を愚弄されて怒ればよかったのか、失礼な態度を詫びればよかったのか、それとも、顎を引き寄せて思い切りキスでもしてやればよかったのだろうか。僕はただ、突然唾が飛ぶ距離で、大声で罵声を浴びせられて、呆気に取られていた。

 ジェイクに目を向ける。僕からの視線に気づいたジェイクは、肩を竦めて、冷笑的な態度を示した。僕は彼らしいなと思った。


 次の日も、仕事終わりに大麻臭くてカビ臭いボロアパートを訪ねる。もうこれが僕にとっての日常となっていた。

 部屋に入ると、ソファの上で寝ていたジェイクに声をかけた。

「ヘイ、ヘイ、ジェイク」

「何だよ、また来たのか」寝起きの彼は、僕の顔を見てそう言った。僕は両手に抱えた紙袋を乱雑な机の上をどけて置いた。

「シャワー貸してくれよ。僕の家のボイラー、またダメになっちまった」

「んぁ、まぁいいよ。お前臭いもんな」ジェイクは起き上がって、目を擦った。

「原罪だよ。ゴミ収集を行う者の」笑いながら僕はそう答える。

「使い終わったらちゃんと洗い流しとけよ。俺汚いの駄目なんだよ」

「よく言うよ。そんな薄汚れたソファで寝といて」

「ヴィンテージだよ。ここだけの一点物だぜ」

「物は言いようだな」

「またあのイカした体型のおっさんところのパン?」僕の置いた紙袋を見てそう彼は言った。

「あぁ、まあね。なんか食う? ドーナツ売り始めたらしいよ」

「いいね。ドーナツくれよ」

「パサパサだったけど」

「パサパサのドーナツ大好き。ママのおっぱいと一緒によく食ってた」

「はい」僕はそう言って、ソファに向かって小さい油が染みた紙で包まれたドーナツを放り投げた。

「おい、破片が飛ぶだろ」ジェイクはそれを何とか両手で受け止めてそう言った。

「いいだろ、そこにあるのは薄汚いソファと薄汚いドラッグディーラーだけなんだから」

「そのゴミ臭さ落としてから言えよ」ジェイクは笑いながらそう言って、包み紙を開けると、ドーナツをかじった。僕も腹が減っていたから、シャワーを浴びる前に一つ食べようと、袋からクロワッサンを取りだし、椅子を引いてそこで食べ始めた。

「マジでパッサパサだな。一瞬アリゾナの土食ってんのかと思った」

「3ドル5セントの土だよ。味わって食べな」

「物は言いようだな」

 ジェイクは、手元のドーナツを見て「OK、ちょっと待てよ……」と言うと、自身のバッグを漁ると、ケースに入ったガラスパイプを取りだした。僕のテーブルの奥にある棚から鍵付きのスチール箱を引き出すと、慣れた手つきで鍵を外し、中から小さいビニール袋を取り出す。

「見たことないな。何それ」

「みなさんご存知コカの木から取れるコーラじゃない方の奴だよ。クラックタイプのね」

 ジェイクはガラスパイプにその粉末を詰め込むと、ポケットからライターを取りだし炙り出した。

「あ〜、そんで、これを食うと、なんと不思議、アラスカの土も、ひとたび吸えばミシュランもアソコから星を噴き出す最高のドーナツに生まれ変わるってわけだ」いつの間にか、アリゾナの土はアラスカの土に変わっていた。

 ジェイクは「ブシャッSquirt!  ブシャッSquirt!」と言いながら下品なジェスチャーをする。

「最悪なヤク中しかいないな、ここは」

「ウェルカ〜ム。ドープでワックなファッキンフッドへ」

「ねぇ、今日はジェーン、いないの?」今日はやけに静かだと思って、そう聞く。

「何だ、お前パンであいつの機嫌買おうとしてんの? やめとけ、逆に怒らすだけだぜ」

「そんなんじゃないよ。『そんな安い女だと思ってるの!』って怒るのは目に見えてる」

「俺は別にここの奴らのこと把握してるわけじゃないからなぁ。勝手に入って、勝手に出てって、クスリを買ってくだけだから。みんないつの間にか来るようになって、いつの間にか消えてく。ジェーンみたいに、勝手にヤリ部屋にする奴もいるけど。あいつは今頃お堀の中かもな。お前ぐらいだよ、居座って何も買わずにパン食ってるの」

「『友達になってくれてありがとう』とも素直に言えないんだな」

「俺はいつだって素直だよ。でも、こういう感じも悪くないだろ。まるで時計じかけのオレンジのコロヴァミルクバーみたいじゃんか」

 その言葉を聞いて、小汚くて暗いこの部屋を見渡す。僕は頼むからキューブリックにあの世で詫びて欲しいと思いながら、「どちらかと言うとトレインスポッティングだな」と言った。

「じゃあお前はスパッドだ。人は良いけど、それ以外がまるでクソ」ドーナツ片手に、ジェイクはパイプで僕を指した。

「馬鹿だな、結局はそういう奴が最終的に得をするって話だったろ。それに、僕はヘロインもコカインもやってないから健全っていう、大きな違いがある」

「健全ね。本当にそれが健全の条件かね」彼はそう言って、丸めたドーナツの紙をスリーポイントシュートのフォームでゴミ箱に投げた。紙はゴミ箱の上を行き、そのまま床に転がり落ちた。


「ここのシャンプー、何だかすごい泡立つね。おまけに匂いがキツい」

 シャワーを浴び終わった僕は、ソファで本を読んでいたジェイクにそう声をかける。

「概ね同感だけど、借りといて文句言うかね。多分、誰かが置いてったやつだよ」

 僕はふぅんとだけ言って、彼のソファの端に腰かけた。

「なんか映画でも見るか? 暇だし」そう言って立ち上がったジェイクは、テレビラックにある大量のVHSを漁り出した。「なんか見たいのある?」僕の方を見てそう言う。

 その光景を見て、ふと昔の記憶が蘇る。

「……あるけど」

「なんだよ、うちにあるやつ?」

「名前が分かんない」

「なんだそりゃ」

 古ぼけたテレビで、古ぼけたビデオを祖父と一緒に見た記憶が浮かぶ。

 映画と呼べるかも分からない映画だった。祖父が何十年も前に仲間たちと、違法に入手したビデオで見た「地球の制止する日The Day the Earth Stood Still」に影響を受けて、日本から輸入した8ミリビデオを片手に撮り、VHSにダビングしたものだと教えられた。

 四人程の若者たちが、銃を片手に何か中国語で言い争っている場面が印象に強く残っていた。その中には若い祖父の姿もあった。

 何を言っているのかは分からないし、手ブレを酷く、おおよそ出来が良い物とは言えなかった。それでも、映像の中の真剣な顔をした祖父はどこか楽しそうな表情をしていて、それを見ていた時の祖父も、そこはかとなく嬉しそうだった。そして、そのぎこちない演技と、拙いカメラワークの中で映し出されていた背景は、素晴らしく美しかった。

 僕はそれを祖父の隣で見るのが好きだった。

「これが爺ちゃんの故郷?」僕はそう祖父に聞く。

「ああ、そうだよ。綺麗な所だろ。実際はもっと綺麗なんだよ。川が飲めるぐらい透明で、春になったら花が辺り一面に咲く。この丘を下ったらでっかい茶畑があってさ、そのお茶がまた絶品で、ここの名物だったんだ」

 その話をする祖父の顔から、また笑窪が見える。

「貧しい農村だったけどね、住んでる人が皆良い人ばかりで、時間がゆったりとしていたな」

「NYとどっちが良い場所?」

「う〜ん、難しいな。ここにも良い人はいっぱいいるけど、皆少し余裕が無い。忙しなくて、少し息苦しい。ここにはなんでもあるけど、あの村にはなんにも無かった。なんにも無いけど、その『なんにも無い』ってのが案外重要なんだって、こっちに来てから思い知らされたよ」

 当時の僕はその言葉の意味はあまり理解できなかったが、行ってみたいなと言った。

「行けばいいさ。大人になったらどこへでも行けるよ」

 他人事のような言い方に、僕は「爺ちゃんは帰りたいと思わないの?」と聞いた。

 祖父は少しばつの悪そうな顔をする。何か間違ったことを言ったかな、と思った。

「帰りたくないって言うと、嘘になるな。でも、もう帰れないんだ」

「なんで?」

「僕はもう、この街の人なんだよ」

 僕はそれ以上聞かなかった。祖父が嬉しそうにも、楽しそうにもしない話題なんて、する意味は無い。そう思った。


 結局、僕らは『ザ・グリードDeep Rising』を眺めていた。隣から漂うマリファナの香りが臭かった。

「……ねぇ」僕は隣のジェイクに声をかける。

「シッ! いまいい所だから黙ってくれ」

 オッ、オッ、フゥー! と彼は興奮する。人が化け物に食われていくだけの描写に、よくそこまで熱中できるなと僕は思いながら、言われた通り黙っていた。

 次第にジェイクは黙った。僕も黙っていた。

「で、何?」映画を見ながら、彼は聞いた。

「別にたいしたことじゃないけど……」

「もじもじすんなよ。気持ち悪い」

「僕って偽善者かな?」

「なんだお前。ジェーンに昨日言われたこと、そんな気にしてたのかよ」

「いや別に、僕だって、最初はあんなのそこまで気にしてなかったさ。でも、僕の善意があんな風に、人に拒絶されたのは初めてでさ。考えてたら、嫌でも気にはなるよ。僕が正しいと思ってたことって、ただの独善的な思い上がりで、傍から見たらお節介でしかないのかなって」

「思いのほか繊細だよな。ほっとけよ。あんなアル中でヤク中のファッキンビッチの言葉なんて」

「ジェーンはただのきっかけだよ。疑問自体が無くなるわけじゃない」

「めんどくさいなお前」ジェイクはそう言ってジョイントを吸って、少し考え込んだ。

「じゃあ、お前はなんでずっとそんなことしてきたわけ?」

「約束なんだ。爺ちゃんとの」

「約束?」ジェイクが顔をしかめる。

「『弱き者の助けになれ』って。僕にとって、爺ちゃんだけが正しい道なんだ。誰もやらないことは、誰かがやらなきゃいけないから……」

 僕の言葉を聞いたジェイクは、うーんと唸ってから「確かに、独善的だな」と言い切った。

「やっぱり?」

「ああ、独善的かつ短絡的。視野狭窄で無知で愚か。愚の骨頂」

「そんなに言うかな」

「……俺はさ、アル・パチーノに本気で憧れてんだ」彼は藪から棒にそう語り始めた。

「あぁ、良いよねアル・パチーノ。サウスブロンクスの誇りだ」

『哀しみの街かどThe Panic in Needle Park』見たことあるか? 初めてあれを見たとき、俺は痺れたんだ。あのヘロイン中毒者の演技、とんでもなかった」

「それで、お前は役者じゃなくてヘロイン中毒者の方に憧れちまったってこと?」

「馬鹿言え。まぁ、今の仕事はそれに影響受けたのは間違いではないけど。とはいえ、俺はそれ以降アル・パチーノの虜でさ、俺はあんな男になりたいって思ったんだ。俺はそれを疑ったことはない。つまるところ、お前の祖父への憧れは、それと一緒だろ?」

「何が言いたい?」

「信じたものを投げ出すのは、ダサいってこと。お前は『良い奴』だ。信じろよ」

「……そっか」

 そうだよな。この掃き溜めのような街には正しい道を歩めない人で溢れている。誰もやらないことは、誰かがやらなければならない。祖父だけが僕の絶対の指針だ。独善でも、それだけが真実だ。僕が進む道は、祖父の姿を追う限り、絶対に正しいのだ。

「じゃあ、LSD使うか? お前のしょうもない悩みも吹き飛ぶぞ」ジェイクはまた胡散臭い笑い方で、煙を吐きながらそう言う。

「遠慮しとくよ」僕はそれだけ答えた。


 それからも一段と冷えていくこの街で、僕はいつものような生活を続ける。

 朝起きて、水を浴び、ゴミを拾い、パンを買い、人にあげて、金を渡す。そして、たまにあのボロアパートに顔を出す。

 久々の休日に、洗剤を切らしていたことを思い出し、買い物に出かけようとした。そのとき、アパートの前であのムスリマの女性がトラックから大きな荷物を受け取ってるのが見えた。

「手伝おうか?」僕はそう声をかけた。

「ああ、ごめんなさい。エレベーターがまた動かないから、どうしようかと手をこまねいていたの」

 振り返り、ヒジャブの間からいつもの和らげな顔を見せた妊婦のお腹は、また大きくなっていた。

「もしかしてもうすぐ生まれるの?」

「そうなの。だからベビーベッドとかを買っただけど、思ってたよりも大きくてね」

 僕はアパートの九階まで運ぶのを手伝った。なかなかの重労働で、これは妊婦には無理だと思った。僕は何度かこれぐらいの重さのものを運んだ経験はある。粗大ゴミを急いで回収する経験が、こんな所で活きるとは思わなかった。

「失礼だけど、家族は?」僕は重いダンボール抱えながら、彼女に聞いた。

「夫はちょっと前にいなくなって。兄妹はオレゴン、両親はパキスタンにいるんだけど、疎遠でね」

「そうなんだ」

 いなくなった、とはどういう意味だろうか。亡くなったのだろうか、それとも何か別の要因があったのだろうか。どちらにしても、この街は色々な事情の人が集まる。踏み込んだことを聞くのは良くないと思い、詮索は自重した。

「僕も父親が小さい頃に亡くなって、母と祖父に育てられたから、父親がいない大変さは分かる。辛いこともあるかもしれないけど、頑張って。力は貸すよ」

「ありがとう。そういえば名前聞いてなかったわね」

「ジェレミー。ジェレミー・グレース」

 階段を登りきって、ダンボールを地面に置く。それを引きづって、部屋の前まで運んだ。

「私はアイシャ。助かったわ。良ければランチ食べていって」

「いいの?」

 アイシャからキアヌサラダとミートパイをご馳走になった僕は、それで満足してしまい、自室に戻ると買い物も忘れてそのままベッドに入ってしまった。

「こういう『ラッキー』も、たまにはあるんだよ」

 祖父のその言葉が眠気の中でよぎった。やっぱり、いつだって爺ちゃんは正しい。爺ちゃんの言う言葉に、間違いなんてありはしないんだ。消えてく意識の中で、そんな確信があった。


「ヘイ、ロペスさん」

 仕事帰りに、僕はいつもロペスさんのいる路地裏を訪ねた。

「どなたで」

 テントの横に立つその制服を見て、僕はまたか、と思った。また立ち退きを命じられているのだろうか。

「近所のジェレミーだよ。たまにパンをくれるんだ」

「また立ち退きを?」僕は、警察に絡まれてばかりの不幸なホームレスにそう聞く。

「困ったことにね」ロペスさんは肩を竦めて僕を見る。本気で困ってる訳じゃない、という彼なりのメッセージだろう。僕に気を使ってるのだと分かった。

「そうかジェレミー。IDを」大柄で金髪の白人警官は僕にそう言う。

「OK、OK、ちょっと待ってよ。これ持ってて」僕はその警官に持っていたコーヒーカップを渡すと、パンの袋を脇に挟み、財布を取り出す。

「これです」僕は警官にIDカードを見せ、「何かあったんです?」と聞いた。

「あぁ。今しがた目の前でね。ニューヨーク市の土地で寝泊まりという犯罪が」

「まぁ、今は支援施設やシェルターもいっぱいで大変なんですよ。勘弁してやってください。この街にはもっと大きい犯罪で溢れてるでしょ? さっきも4ブロック先で酔っ払いが喧嘩してたよ」

 この掃き溜めのような街は、いつでも犯罪で溢れている。こんななんでもないホームレス一人見逃さないことが、何故そんなに重要なのか、僕には理解できなかった。

「さっきから君はなんなんだ?」警官はイラついた様子で僕を睨みつけて、そう言った。

「僕は単に困ってる人を助けたいだけです」

「それは俺らの仕事だよ」

「助けてる? ここでロペスさんを排除して誰が得するんですか?」

「近隣住民と、市民だよ。税金を払ってるね」

 その含みのある言い方に少し腹が立った。まるで、僕が産まれる前からこの街で生活しているロペスさんが、市民ではないかのような言い方だ。でもここは怒りを抑えた。

「ところでパンいらない? いっぱい余ってんだけど」僕が紙袋を胸元に押し付けると、男は無言で受け取る。僕の常套手段だ。話がわかってくれると助かるんだけどなと思った。男はそれを開けて、中を少し探った。

 次の瞬間、紙袋は地面に叩きつけられるのを目が追ったと思ったら、上半身に強い衝撃が走る。すぐに僕の二の腕は男に掴まれたと同時に、思い切り壁に叩きつけられたのだと気づく。何が起こったのかすぐには理解できなかった。

「ジェレミー!」ロペスさんが、白い髭の間からそう叫ぶのが見えた。

「動くな!」後ろの巨漢は耳のすぐ近くで叫び返す。

 僕の腕を無理矢理後ろに引っ張ったかと思うと、太い腕でそれを強引に押さえつけられた。

「贈賄罪で現行犯逮捕だクソガキ! 俺がそんな賄賂受け取ると思ったか!」

 男がそう叫ぶ。腕に冷たく硬い感触を感じる。そして同時に金属の擦れる音がした。

 男は片手で無線を掴むと、何か連絡をし始めた。

 一体何が起きたのか。贈賄罪? 贈賄罪って何? 現行犯? 誰が? 僕?

「ねぇ、何!? 僕が何したって言うんだよ!」僕はそう叫んで、振り返ると、鬼の形相で警官は「動くなって言ってんだ!」と叫んで、手錠ごと僕の腕を無理やり引っ張る。

「痛い痛い痛い!」そう叫ぶと、次は思い切り頭を掴まれて、壁に叩きつけられた。鉄の味がした。今ので口が切れていた。

「おい! ジェレミーは関係ないだろ!」よろよろとした歩き方で近づいてきたロペスさんが、そう警官に訴えかける。

「お前も動くなって言ってんだ!」男は叫び、僕の手を解放し、振り返るとロペスさんに対して銃を構えていた。

「ロペスさん!」僕がそう叫ぶと、男は「お前もだガキ! そこで大人しくしてろ!」と僕にも銃を向ける。

 僕は黙った。ロペスさんも両手を上げたまま黙った。

 この路地裏にサイレンの音が近づく。赤と青のライトが交互に薄暗いここを照らす。

 どこで何を間違えたのだろう。何故こんなことに。僕は弱き者の助けになりたかっただけなのに。爺ちゃんの言う通りに……。僕は、道を踏み外してしまったのだろうか。僕が歩いていたのは、正しい道ではなかったのだろうか。

 パトカーから警官が二人降りてくる。

「署まで連行する」

 男をそれだけ言うと、僕の肩を掴んで、無理矢理パトカーに乗せる。男も一緒に乗り込むと、バタンと大きな音を立ててドアが閉まった。運転手の男が、振り返って僕を見ると、パトカーはゆっくり走り出した。

 何故こんなことに。僕の頭に混乱と後悔が駆け巡る。そんな僕を置き去りにして、パトカーは、よく見知った道路を走り始めた。


 取り調べ室は物々しい雰囲気が流れており、なんだかこの場に僕は似つかわしくないように感じた。その重苦しく息が詰まる部屋に、僕は訳も分からないまま押し込まれて、既に数十分経っていた。あまりの退屈さに辟易していると、何やらファイルを抱えた警察が入ってきた。

「あぁ〜。今から取り調べを行う。あなたには黙秘権がある。あなたの供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる場合がある。あなたは弁護士の立会いを求める権利がある。もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、質問に先立って公選弁護人を付けてもらう権利がある」

 男は気怠げにそう僕に言う。これが有名なミランダ警告か、と呑気に感心してしまった。自分の置かれている状況が、なんとも他人事のような気がしてならなかった。

 尋問が行われる。僕は賄賂を渡そうとしたことをすんなりと認めた。言い逃れようとしても返って状況が悪くなるだけだと思った。素直な供述に、警察は意外そうな反応を見せる。

 取り調べは、僕が素直に全部語ったことにより、順調に進んだ。ただ、過去にも同じように賄賂を渡していたことは隠した。近辺のホームレスを見逃す警官がいなくなってしまうのは困るからだ。

「拘置所に送検される前に一度だけ君には電話できるチャンスがある。ご家族は?」

「しばらく連絡とってないけど、母が一人」

「そうか。父親や他の家族は?」警察はファイルを開いて何かを見る。

「いません。父と祖父、あと妹は既に亡くなっています」

「亡くなっている……。ジェレミー……グレース……グレースか」

「何か?」

「母の名前は?」

「エレナですが。エレナ・グレース」

 警察官の眉間に皺が寄る。

「ということは、祖父の名前はチャン・ウェイミン?」

 僕は祖父の名前をこんなところで聞くとは思わず、驚いて声が出た。

「なんで? なんであんたが爺ちゃんのことを?」

 男は「やっぱりか」と呟いて、親指と人差し指で両目を擦った。

「なんで、警察が僕の爺ちゃんを知ってるんですか」

「うちの署はみんな知ってるよ。あんたの爺さんは、死ぬまで上手く逃げ仰せたってね」

「逃げ仰せた? どういうこと? 説明してください」僕は言葉の意味がよく分からず、語気が強くなる。

「……もしかして、君は何も聞いてない?」

 彼はきょとんとした顔でそう言った。

「何を言ってるのか分かりません。逃げ仰せたってなんですか? なんであんたたちが爺ちゃんのことを?」

「昔のことだ。私も詳しくない。後は母親にでも聞きなさい」

「説明してください! ここで! 今!!」

 剣幕に僕が叫ぶと警察官が少したじろいだ。

「落ち着けって。これじゃどっちが尋問してんだか」

 僕は言われた通りに、務めて冷静を装った。内心は全く穏やかじゃなかった。僕の知らない祖父のことを、こいつは知っている。それが気になるし、気に食わなかった。

「教えてください。祖父と何があったんですか。僕には知る権利がある」

「分かった。私の知る範囲で教えるよ。先輩から聞いた話だから、あまり真に受けるんじゃないよ」

 そう言って彼は語り始めた。

「何十年か前、まぁ私の親の世代ぐらいの話だ。一九四五年に中華人民共和国が成立したとき、チャン・ウェイミンは国民党支持者だったらしい。……歴史の授業をちゃんと受けてたら習っただろう。当時、共産党が国を掌握する過程で、そういった国民党やその支持者は徹底的に弾圧された。処刑や投獄が日常茶飯事だった時代だよ。君の祖父もその標的の一人だったようだが、どうにか命からがら逃げ延びたらしい。

 ただ、逃げ延びた先でただ静かに暮らしていたわけではない。彼は香港や東南アジアを拠点に、他の国民党残党と連携して反共活動を続けていたようだ。資金を集めたり、情報網を作ったりと、非常に組織的だった。記録によれば、彼は国民党のある種の中核メンバーだった可能性が高いようだ。そして、一九五〇年代初頭に中国政府から国際指名手配されている。彼がアメリカに来たのはその頃だろう。冷戦下では、反共産主義者であることはアメリカにとって歓迎されることだったが、彼は正規のルートではなく、国外の仲間のツテを使って偽造パスポートを用いてニューヨークに入国したと見られる。そこから名前を変え、この街で潜伏を続けたらしい。ここまではいいね?」

 警官はそう言うと、一呼吸置いた。僕はその話を聞きながら、少しづつ、動悸が早くなるのを感じていた。

「冷戦下のアメリカは、君の祖父のような反共産主義者をある種、利用していた部分もあった。しかし、それはあくまで合法的な範囲での話だ。問題は……彼が国内で行った活動だよ。ニューヨークには当時から中国系移民のコミュニティが存在していたが、彼はそこを拠点に再び反共産主義のネットワークを作り始めた。その資金調達の手段として、密輸や詐欺といった不正な行為に手を染めていたという記録が残っている。君の祖父の行動は単なる政治活動ではなく、犯罪行為とも密接に結びついていたんだ。ニューヨーク市警とFBIはその動きを追っていたが、彼は非常に用心深く、しばらくは尻尾を掴めなかった。

 ところが、一九六〇年代に入ると、彼の活動の記録はぱたりと無くなった。大方、妻と出会って、娘……君の母が生まれて、家庭を持ったことでそういった活動からは足を洗ったというところだろうね。けれど、だからといって過去に犯した犯罪が消えるわけでは無いのは分かるだろう。数年前に、彼が使用していた偽造パスポートが問題になって、ようやく捜査の網が彼に迫った。アメリカの移民法に違反していたのは明白で、さらに中国政府からの指名手配も加味されれば、大きな国際事件になっていたはずだ。しかし、逮捕に踏み切る頃には、知っての通り彼は既に亡くなっていた。我々が彼を法の裁きにかける前にな。流石に、優秀なニューヨーク市警とFBIと言えど、あの世に逃亡されてるようじゃ、捕まえることは叶わないってわけだ。いや、本当に悔しい話だよ」

 彼は自身のジョークに少し笑いながらそう言った。僕はその冷笑を含んだ物言いに、拳を握りしめて言った。

「そんなの、そんなの、ありえない。嘘に決まってる」

「……本当に、君は何も聞いてないんだな。そう思いたいのは分かるがね、これが現実だ。君の祖父が家族の前では善人を装っていたとしても、本性はそうじゃない。例えば、一九六〇年代後半、ニューヨークの中国系コミュニティに流入していた違法なネットワークの一部に、彼の名前が何度も出てきている。ほら、当時は中国内戦の混乱や冷戦の影響で、大量の武器が市場に流れ込んでいた。それらを密かに国外に流す仕事を請け負った組織がいくつかあったんだ。彼がそのルートの一つに深く関与していたらしい。主に香港から武器を東南アジアやアメリカ西海岸へ密輸していたという報告がある。密輸された武器は、反共産主義者たちだけでなく、地元の犯罪組織にも渡っていたようだね。

 さらに、アメリカ国内で中国系マフィア、いわゆる『三合会Triad』と呼ばれる犯罪ネットワークが台頭してきた。彼がそのいくつかの組織と連携して資金を動かしていたという情報もある。たとえば、現金を洗浄するために偽の貿易事業を立ち上げたり、アメリカ国内で非合法な賭博や密輸を運営したりしていたと報告されている。特にニューヨークやカリフォルニア州では、移民の間での闇市場や地下経済が急速に拡大していたからな。その中に彼の名前は確かに記録されていたようだ」

 警官は少し間を置き、こちらの反応をうかがうようにした後、さらに続けた。

「七十年代に入ると、アメリカの法執行機関はそういった活動の取り締まりを強化した。君の祖父が足を洗ったのも、その影響を受けた可能性がある。当時、彼の資金の動きを追う中で、いくつかの疑わしい取引記録が見つかった。香港やシンガポールの銀行口座を介して大量の資金を移動させていたらしい。これらの資金の一部は反共産主義活動の支援に使われたとされるが、残りは犯罪組織の資金源になっていたという証言もある」

 これらの話を聞いている間、僕の頭の中は混乱していた。武器の密輸、マフィアとの繋がり、資金洗浄──そのどれもが、祖父の穏やかなイメージからは到底結びつかない。しかし、警官の語る内容はあまりにも具体的で、全てを否定するのは難しいように思えた。

「もちろん、全てが全て、確固たる証拠に基づいているわけじゃない。当時は情報提供者の証言が大半を占めていたし、本人から裏を取る前に彼は亡くなった。それに、FBIやニューヨーク市警も、反共産主義活動と犯罪の境界線が曖昧だった当時の状況に苦労していた。だから、これがどこまで真実かは断言できない。でも、記録を見る限り、君の祖父は決して善人一辺倒の人物ではなかったというのは間違いないよ」

 警官の言葉は冷たく、どこか挑発的だった。

「まぁとは言っても、もちろん、これらの話には裏が取れていない情報も多い。それに、私は直接チャン・ウェイミンの捜査に関わったわけじゃない。ただ、記録や聞いた話を総合した結果だ。真に受けすぎる必要はないが、完全に否定することも難しいだろう」

 警官は一歩引いたような口調でそう言ったが、その目には冷たかった。

 僕は頭の中で、その言葉を何度も繰り返す。真に受けるな──そう言われても、この話を聞かされた以上、何事もなかったかのように元の世界に戻れる気がしなかった。

 信じられないという気持ちはあった。でも、同時に合点がいく部分も多い。

『国には帰れない』と、祖父はいつも言っていた。その理由が、単なる個人的な事情などではなく、彼自身の行いに起因するものだとしたら……辻褄が合う気がした。そして、祖父がドラッグや暴力には人一倍厳しかったのも、かつての自分の行動への戒めだったのかもしれないと思うと、寒気がした。

 そして弱き者を助ける祖父の行動理念──それは、労働者の権利を守る反体制運動としての姿勢と一致しているようにも見えた。だが、その裏で何があったのか、どんな理由であの笑顔が生まれていたのか、僕には分からなくなっていた。

 信じたくはない。けれど、妙に腑に落ちてしまう感覚が、確かにあった。

 祖父が犯罪者であったなどと信じたくはないのに、その話に触れた途端、長い間どこか心の片隅に潜んでいた疑念が目を覚ます。

 目を背けても、浮かんでくるのは、あの頃の思い出だ。輝かしく、優しく、僕を支え続けてくれた祖父との記憶。けれど、今やそれが、別の意味を持って僕に問いかけてくる。あの優しさの裏には、何か別の理由があったのではないかと。

 まるで、これまで僕を築き上げていた基盤が、一瞬にして崩れ去るようだった。僕という存在が、ばらばらに空中分解する。

 思い返せば、僕はずっと『正しい道』を歩いていると信じ込んでいた。祖父が教えてくれた『正しさ』を胸に、それが道標になると思っていた。けれど、本当にそうだったのだろうか。

 僕はとっくの昔に、その『正しい道』を踏み外していたのかもしれない。そもそも、歩んでいたその道が、本当に正しかったかどうかすら、理解しようとしていなかったのかもしれない。

 そんなことばかりが、頭の中をぐるぐると巡って離れなかった


「もしもし、母さん」

「何? ジェレミー? どうしたの急に。知らない電話番号だから誰かと思ったじゃない。今どこ?」

 久々に聞いた母の声は、変わったところは何も無かった。

「留置所。訳あって捕まった」

「はぁ? 何言ってんの?」

「でも保釈金払ったらすぐ出れるらしい。お金は今度返すから、今だけ払って貰えない?」

 僕はそれだけ言うと、電話口から僕を責め立てるような言葉が聞こえる。通話時間は限られていたし、それ以上聞く気にもなれなかったので、場所だけ伝えて電話を切った。

 留置所の硬いマットレスの上で考え事をしていた。だがこの場所は考え事には向いていない。大声で話す人々で溢れかえっていた。それに時々怒声がする。すえたような匂いも充満している。ゴミ収集で臭さには慣れたつもりだったが、それとはまた別種の臭さだった。

 それでも僕は務めて思考に頭を巡らせる。

 思い出される祖父との思い出。

 僕はこの先どうしたら良いのだろう。ずっと信じてきた祖父の教えが、信じきれなくなっている。

『偽善者』と僕を罵るジェーンの顔が浮かんだ。今となっては、そう言われるのも仕方がないと思った。

 僕は、祖父がこの街で行っていたことは、ただの罪滅ぼしだったのではないかと思い始めていた。僕や、マーリーンにも優しく接していたのは、僕らが『幼く弱い』存在だったからではないかと思った。

 中国で、貧しい村で育った祖父はきっと、僕には想像のつかないほど苦しい思いをして、ジェイクのような矮小なドラッグディーラーなんかとは桁違いな犯罪を行わなければならなかったのではないか。

 中国から逃げて渡米し、婆ちゃんと出会い、母さんという娘を持ち、僕らと慎ましく生活する一方で、爺ちゃんは罪悪感から『無償の奉仕』に走らせたのではないか。自身の幸せの形である『家族』を顧みずに、見知らぬ『弱き者』のために、身を削って奉仕を行うことが、爺ちゃんの贖罪の形だったのではないだろうか。

 そんな確かめる術の無い疑惑がどんどんと膨れ上がっていき、やがてそれは根拠の無い確信へと変貌していく。

 僕はもう、爺ちゃんを信じれない。

 幼い頃から僕の根っこに染み付いていたのは、祖父の底抜けな理想主義だった。

『弱き者の助けになれ』

 それだけが真実だった。正しい道だった。積み上げてきて、それが自分だと信じて疑ってなかったものが、根底から崩されてしまった。

 敬虔なクリスチャンはイエス様の教えを、救いを、神性を信じている。例えイエスがナザレの一介のペテン師だとしても、それが証明されて信仰が覆される日は訪れない。

 じゃあ僕は?

 信じていて、僕の人格を作り上げていた『教え』が、欺瞞だと明かされてしまった僕は?

 僕は、何を信じたらいい?


「グレース! グレース! 迎えだ!」

 やることがなくて、眠りかけていたところにその声が響く。僕がここに入ってから、どれくらい時間が経ったか分からない。時計が無いからだ。

 留置所を出ると、預かられていた上着を返された。入口には不機嫌な顔をした母が立っていた。それは無愛想な顔の妹と、よく似ていた。顔を合わせるのはいつぶりだろう。

「ここに著名を」

「はい」

 僕が示された書類にサインをしていると、母は「あんた、何したわけ」と不機嫌な顔を崩さずに聞いた。

「別に何も。警察官にパンを渡そうとしただけだよ。あの人、ゲイリーのとこのくるみパンが、お気に召さなかったみたい」

「馬っ鹿みたい」

 母そう言って踵を返すと、留置所の前に停められた、随分と懐かしい車に乗り込んだ。僕も助手席に乗り込む。昔の記憶と違って、アルコール臭かった。

「保釈金、返してよ。こっちは生活が厳しいのよ」

「市から補助金貰ってんだからいいじゃん」

「無限に貰ってるわけじゃないんだから」

 どうせ酒につぎ込むくせに。その言葉は飲み込んだ。

「あんた本当に何したの。現行犯で捕まるなんてただ事じゃないでしょ」

「……母さんは、爺ちゃんが中国にいた頃何してたか知ってる?」

 僕ははぐらかすように、そう聞いた。僕の言葉に、母の眉がぴくりと動く。

「何? なんで父さんが出てくる訳? もういいでしょあんな奴の話は」

 僕は黙る。実の父を『あんな奴』と呼ぶ母と建設的な会話は望めないと判断した。

「ねぇ、なんで黙ってんの。もしかして、まだ父さんの真似事してんの?」

「悪い?」母の不機嫌が伝染した僕は、当てつけのようにそう返す。

「はぁ〜」運転席から、大きなため息が漏れる。

「そんなんじゃあんたはまだ子供だよ。父さんはろくでもない人だって何度も言ってるでしょ」

「ろくでもない……」その言葉にまたあの警察官の話が浮かぶ。母が言いたいことは、取り調べ室で聞いたそれではないのは、僕も分かっていたが、記憶が結びついてしまうのも、詮無いことだった。僕の思考を遮るように、母は続ける。

「あいつはね、見ず知らずの他人のために家の金をつぎ込む大馬鹿だよ。家族のことなんて顧みもしない」

「何度も聞いたよ」窓の外を見ながら、僕はそう言った。

「じゃあ、知ってる? 私が子供の頃、突然サマーキャンプは諦めてくれって言われた。なんでだと思う? 私の為のサマーキャンプの金を、訳わかんない古物商の人にまるまる渡してたのよ。あいつの博愛主義は昔っから大嫌い。あの薄汚い髭も、下手くそな英語も、全部大っ嫌い。ジェレミー、あんたはあんな人にはなんないでよ」

 いつもの僕なら、爺ちゃんを馬鹿にされて、なにか言い返してたところだった。でも今の僕には爺ちゃんの独善が本当に『正しい』のか分からなかった。

「そもそも、あいつの血のせいで私がどれだけ苦労したか知ってる? この街ではアジア人の血があるだけで、どれだけ侮辱されるか分かる? 四分の一しかアジアの血が流れてないあんたには分からないだろうけど」

 母さんの言葉は、ほとんど八つ当たりだった。「分からないよ。そんなの」僕は小さな声で言い返す。

「中国なんて、行ったこともないのにスーパーでニーハオって言われたことある? アジア人だからって理由で就職に困ったことある? 本当に大嫌い」

 車が激しく横に揺れる。

「母さん、また酒飲んでた?」僕はさっきから車内に漂うアルコールの匂いの元を確信して、そう聞いた。

「何? あんたも飲むなって言うの? ブタ箱から連絡来て、息子が捕まったって言うのよ。飲まずにやってられないでしょ」

 僕はまた窓の外を見る。パトカーが来ればいいのに。母さんも、僕のようにブタ箱にぶち込まれればいいんだ。そうすれば、僕に頼るしかなくなって、アルコールも抜けて、少しは反省するのに。

「あんたの家、どこだっけ」

「もう10ブロックぐらい行ったところ」

「あんたね、仕事してんなら少しはこっちにお金入れなさいよ」

「僕だってお金に困ってんだ」

「見ず知らずの他人のためにお金を使って? 本当に馬鹿みたい。なんで父親も、息子も揃ってこう馬鹿なの」

「飲んだくれて酒に生活費を全部使うより、他人のために使った方がマシでしょ」

「あぁ、もうやだ。何でよ何でよ何でよ!」左手でハンドルをバンバンと叩く。これ以上付き合ってられないと思った。

「もういい。ここで降ろして」

「はぁ? 何で? そんなに母さんの運転が嫌? だったらあんたも免許ぐらい取りなさいよ」

「うるさないなぁ。もういいって。酔っぱらいの運転はいつか事故りそうで嫌なんだよ」

 母さんはブツブツと何なの、と繰り返しながら車を右に寄せた。停車したのを見て、僕は何も言わずドアを開ける。

「もう二度と問題起こさないでよ! 今回だけだからね!」窓を開けて母さんが叫ぶ。それを一瞥した僕は、真っ直ぐ家へと向かった。


 僕が逮捕されたときの話を聞いたジェイクは大声で笑った。

「俺より先にお前がパクられるなんてな! ケツの穴は無事だったか!」

「うるさいな」僕は当て擦りのつもりでそう返したが、僕の身に起こった悲劇を笑い飛ばしてくれる友人に、少し安心した。

「それで、今日はいつものオッサンのパンは買ってないのか?」手ぶらの僕を見て、彼はそう言った。

「……まぁ、そんな気になれなくて」

「保釈金返さないといけないんだもんな」そう言ってまたジェイクは笑いだした。

 僕がここに来た理由は、どうしようもないこの友人に、こんなことを話すためだけではなかった。僕は悩んでいた。

『弱き者の助けになれ』それが僕の絶対の指針だったけれど、あの一件以降、もう僕にはそれを信じれるだけのものが決定的に無くなっていた。

 爺ちゃんは国を追われた犯罪者で、爺ちゃんの行っていた奉仕は、ただのおためごかしで、僕に優しくしてくれたのも、弱き者への奉仕も、過去の罪の精算だった。根拠なんて無くても、既にそれが僕の中で真実となっていた。

 僕はどうしたら良いのだろう。自分の身を削って誰かの助けになっても、損をするのは結局のところ自分で、それが実を結ばないことがあるのも、僕は知っていた。

 この数日で、警備の強まった路地裏からロペスさんが追い出されてしまったことを近所の人から知った。新聞で、また子供がこの街で殺されたことを知った。子供を家に置いていた母親が捕まったことも知った。それらが、僕への見せつけのような証明に感じていた。

『弱き者の助け』なんて、ジェーンの言う通り、僕のオナニーでただの独善なのだ。

 ジェイクは『信じろ』と言った。でも、僕にはもうそれができない。僕は世迷いごとを振りかざす子供でしかなくて、世界は綺麗事では回っていない。僕は祖父との思い出に縛られた子供時代に別れを告げて、現実と向き合わなければならない。それが苦しくて、辛かった。

 だが、そんなシリアスな悩み事を、隣で馬鹿笑いしているジェイクに相談する気なんて失せていた。

「ねぇ、君は前に、クスリをやれば全部が些事に思えるって言ったよね」僕は彼にそう尋ねる。

「あぁ、言ったっけ、そんなこと。でも確かにそうだぜ」

「ここに50ドルある。売ってくれないか」

 僕は財布の中を見せる。もう、この金の使い道を、誰かのためだと信じられるほど子供ではなくなってしまっていた。

「いいのか?」ジェイクが神妙な顔つきになる。友人ではない、売り手の顔に。

「『神託』が必要でね」

「……Lを一タブ、それでいいか」

「うん」ジェイクは立ち上がり、慣れた手つきで棚の奥のスチールの箱の鍵を開ける。中の紙を一枚引きちぎる。

「責任は自分で取れよ」

 僕は彼に手を伸ばしながら「クーリングオフは効かないってわけね」と言った。

「そういう事じゃねぇよ。何にしても、結論は決めるのはお前だって事だよ」

 釈然としないジェイクの言葉と一緒にその紙片を受け取る。

 僕はその場を後にして自宅に戻った。

 部屋は寒くて暖房をつけて、水と一緒にそのビニール袋に入れた紙片を机に置く。

 LSDは鬱やPTSDに有効だとジェイクから聞いたことがある。このちっぽけな紙は、神のことを信じたことはない僕にも、神秘的な体験を届けてくれるらしい。

 爺ちゃんの『ドラッグはやるな』なんて言葉を、いつまでも守っていられない。僕は今すぐ『正しさ』を信じたい。信じられる何かを教えて欲しいのだ。縋るような思いで、『神託』をこの紙片に望んだ。

 僕は徐々に温度を増していく部屋を回遊する。本当にこれでいいのだろうか。僕は取り返しのつかないことに、手を出そうとしているのではないだろうか。現実との境が分からなくなり自殺したニュースをよく聞く。LSDだったかどうかは知らないけれど、このアパートでも数年前に麻薬を常用していた人が、首を吊って死んだのも知っている。そもそも、これを口に入れてどうするのだろう。紙は飲み込むのか? ガムみたいに噛んで吐き出すのか?

 買ってしまったのだからしょうがない、二の足を踏んでいても始まらないと思い、僕はそれを口に含む。

 唾液と混ざって紙に含まれた薬液が溶けていくのを感じる。吐き出したら意味が無いように感じて、結局僕はそれをよく噛んで飲み込むことにした。飲み込んでから水を一杯飲んだ。

 それから、しばらくテレビを見て過ごした。特に何かが変わった感じはしなかった。なんだか耳と目が敏感になったような気がしたが、自分の思い過ごしの範疇にも感じられた。キマっているのか、いないのかよく分からなかった。喉が渇いて、コーヒーでも飲もうとしたが、インスタントコーヒーを切らしていたのに気がついた。仕方ないから、スーパーに買い物に行って、帰りにジェイクに文句でも言ってやろうと思い、家のドアを開ける。

 ドアの先は、見慣れたはずのアパートの廊下ではなく、一流ホテルの廊下にでもいるかのように、煌びやかで豪奢だった。いや、正しくはそう感じるだけで、目に映るものは見慣れた年季の入った設備でしかない。だが、それらが放つオーラは、ただの公団アパートのものとは思えなかった。その古さが、逆にアンティークのような気品を漂わせていた。

 いつの間にか、完全にキマっている。そう確信した。だが部屋に戻る選択肢は頭に浮かばない。この豪華な空間が、僕を歓迎しているのだ。僕をホテルに宿泊した客のようにもてなしているのだ。踵を返す術なんて、ないだろう。

 僕はまっすぐエレベーターに向かう。まるでブロードウェイを歩くスターにでもなったような気分だった。

 エレベーターに乗り込むと、いつもは無愛想な対応しかしないこの機械も、僕の外出を祝福してくれているようだった。気分がいい。とにかく世界の全てが僕の為にある用だった。

 なんて気持ちの良い世界なのだろう。誰もいない管理人室すら、今日は僕の外出を盛大に祝っていた。

 アパートを出る。アパートの前でスケボーに勤しむ青年たちが僕の前を横切る。恐ろしくなった。

 アパートという空間を一歩出た先は『外』だ。いつもは当たり前のようなその空間が、今は恐ろしい。道路には車が超スピードで過ぎ去っていく。

 道路を走る車と、歩道を歩く歩行者の違いが分からなくなる。

 裸ひとつで高速道路に置き去りにされたような恐怖が押し寄せる。ここを歩くのは、なんて危険なのだろう。何か一つ間違えれば、僕の体なんて木っ端微塵じゃないか。なんて恐ろしいんだ。

 でも戻って良いのだろうか。あのホテルに、僕は戻る権利なんてあるのか。僕はこのまま恐ろしい道を歩き続けなければいけない義務感に襲われた。

 二、三歩歩いてから、ふとズボンの軽さに気づく。ポケットに手を突っ込む。財布を忘れた。そうだ、財布がなければ買い物もできないじゃないか。僕は部屋に戻っていいんだ。この恐ろしい外の世界なんて行かなくても良いのだ。

 そう思って、僕は走ってアパートのエレベーターに向かいボタンを連打した。エレベーターは唸り声のような大きな声で威嚇する。そう思うと、その大きな口を開ける。僕は、財布を取りに帰らなければいけない。財布を取るために、ここに飛び込まなければならない。意を決して、その口の中に飛び込み、また9のボタンを連打する。大きな唸り声が聞こえる。僕はその内側にいる。エレベーターの上昇は無限にも思えた。でも、そんなことは無いのは、僕は知っている。僕のエレベーターに抱く恐れは確かなものであったが、同時に薬の作用で感情が倍増されているだけなのも分かっている。

 目の前の出来事に、子供のように感情が先立つのと同時に、冷めた理性的な感情が同居しているのを自覚していた。それがなんとも恐ろしかった。時間が経てば、この理性的な面も失われてしまうのだろうか。そうなってしまったら、僕は何をしでかすのだろうか。全く予想がつかない。それもまた、恐ろしいことだった。やはりジェイクにでも傍に居てもらった方が良かったのかな。でもあいつの電話番号なんて知らないし、電話を持っているのかも知らない。今からあいつの家に行くなんてのも、もっと恐ろしい。それは死ぬことよりも恐ろしい。

 エレベーターのドアが開く。廊下は先程のような輝きは失っていた。出て行くときだけ、あんなにも歓迎するなんて、薄情な奴らだなと思った。

 部屋のドアを開こうとしたけど、開かなかった。何度かガチャガチャとドアノブを捻る。

 鍵なんてかけたっけ。覚えていなかった。ポケットをパンパンと叩いて鍵を探す。無い。どこかに落としたのだろうか。もう一度、あの恐ろしい外に探しに行かなければならないのだろうか。それは嫌だ。なんとしても避けたい。僕は何度もポケットを叩く。そうしていれば、いつか僕のポケットから鍵が出てくると思った。

「あら、どうしたの」

 そうしていると、声をかけられた。純白のヒジャブが目に痛かった。アイシャだった。

「鍵を、鍵をね、開けたいんです。落としたかもしれない。鍵を開けたいけど鍵が無くて。探してて。でも無くて。だから、鍵を開けたいから外で落とした鍵を、無いから、鍵を開けるために外に探して、鍵を開けようとね」

 要領を得ない話し方をしていることに、自分でも驚いた。このままではまずい。ここで早く部屋に戻らなければならないという焦りが生まれた。そのためには早く鍵を見つけないと。更にポケットを叩く。

 焦っている僕を見ながら、アイシャがなにか口を開いている。僕は聞き取っている余裕が無かった。

「もう一回」そう言って、耳をそばたてる。耳が聞いた言葉が意味として頭に結びつかない。習いたての外国語を聞いているようだった。

「部屋」「隣」「外出」という単語だけなんとか理解できた。そこで僕の部屋は隣だということに気がついた。アイシャに礼を言った。ちゃんと言えていたかは自信はなかった。

 隣の部屋を開ける。鍵はかかっていなかった。

 ドアを閉めようとしたとき「お酒、飲んでるの」と彼女が言ったのは理解できた。

「少しだけ」そう答えて、アイシャのお腹をふと見る。前に見たときよりもずっと大きくなっている。もうすぐ生まれるのだろうか。

「これはまずい。理性が無くなってきたぞ」

 部屋に入り、開口一番にそう独りごちった。言えていたかは分からなかったし、気にもしなかった。僕は喉の乾きを感じて、コップに水を注いで飲みきった。水の味が口の中で弾ける。甘いのだ。飲み物の甘さじゃない。アイスクリームを飲み物にしたかのような甘さが鼻の奥から突き抜ける。

 それに暑い。もうすぐ冬だというのに暑くてジャケットを乱暴にベッドに投げつけて、つけっぱなしだった暖房を消した。

 気がついたら椅子に座っていた。気がついたら目を閉じていた。徐々に頭で情報が処理できなくなっている。行動のための、無意識の順序立てが上手くできなくなっている。

 何かを実行しようと考える前に、体が覚えている動きをなぞる感覚があった。

 とにかく僕は目を閉じていた。目から入る情報を無くそうとしているのだと、そのときに行動の意図に気がついた。

 僕は椅子に座りこみ、首を上に向けたまま深呼吸していた。だけど、目の奥が明るいのだ。視覚じゃないところで色と光を認識している感覚がする。瞼の裏が発光して色の爆発を起こしているようだった。

 人生で初めて、眩しくて目を開いた。そのまま地面を見る。ピンク色の地面におかしな肉塊が見える。何だろうと考えていると、その肉塊は動いた。僕の意のままに動かせた。楽しくなって、それをしばらく動かしていた。そんなことをしていると、それが僕の体と繋がっていることに気がついた。さらにしばらくして、それが足だということに気がつく。

 僕は腹が立った。動かすのが楽しかった時間を、つまらない事実に奪われたような気がした。

 苛立って、部屋をグルグルと回ったり、枕を蹴ってみたり、トイレの水道の水を飲んでみたりした。すると、何か大きな音が聞こえた気がした。管楽器の音に聞こえた。外でオーケストラでもしているのかと思って、窓に近づこうとしたが、床がマシュマロのように柔らかくて、上手く歩けない。それでも、何とか前に進んで窓を開ける。

 車が走っていた。なぜ走っているのだろう。ここは僕の部屋なのに。

 ぼんやりと外を眺める。車は止まったり、走ったり、飛んだり、大きくなったり、小さくなったりを繰り返す。

 そこで僕が見ているのは、アパート前のただの道路だと気がついた。自分が立っている場所と、見ている場所の区別がつかなくなっていた。さっきまで目に刺さるようなパステルカラーだった空は、今では灰色を多分に含んだ白だった。もう日が暮れる。靴で地面を撫でる。床はマシュマロなんかでは無く、いつもの踏みなれたフローリングだ。僕の沈んでいた理性が浮上しているのを、それで確信した。同時に、窓を開けて上半身を乗り出していた自分を思い出して、怖くなった。ここは九階だ。落ちたらひとたまりもない。LSDを使用して、飛び降り自殺をした人の話を思い出した。その人は、きっと自殺のつもりなど、微塵もなかったのだろう。

 理性的な思考の中で、もう、効果が切れたのかな、なんて考えていた。頭が疲れた。靴を脱いで、ソファで横になる。

 だが眠気は訪れなかった。体がソファと一体化するような感覚が徐々にしてくる。背中から根が出てそれがソファとの結合を計っているようだった。沈む。体が、ソファの奥底へと沈んでいく。

 まだ理性が残っている僕は、これはまずい、何がまずいのか分からないけれど、とにかくまずい、そう思って立ち上がり、とりあえず水を飲んだ。今度は水が炭酸だった。トリップには波があるのだと、そこで知った。

 どうにかしないと、何をどうするのか分からないけれど、とにかくどうしかしないと。思考がそう堂々巡りする。気がつけば、僕はフローリングに寝転んで、天井を見上げていた。

 天井の影が、黒を通り越して部屋を包む。すると部屋中に瞬きが散らばる。

 僕の部屋は『宇宙』となった。僕は宇宙を垣間見てる。そう確信した。

 ここは全てが顕現する宇宙だ。全てが僕の手の中だ。僕は笑った。大声で笑った。この現実を、僕は超越したんだ。笑わずにはいられなかった。

 宇宙を見るとは、この世を俯瞰で見ることだった。全てが見える。全てが分かる。そして、僕が奇跡だと思った。こんな世界で、僕が、母と父の元産まれて、育って、色んな人と出会って、去って、そして死んでいくのが。

 なんという奇跡だ。『生』とはなんと素晴らしい奇跡だろうか。僕は生きていることに、心の底から感謝した。

 生きているだけで万々歳ではないか。それに比べれば、この世のほとんどのことなんて些事だ。学歴も、生まれた場所も、目の色も、肌の色も、全てが。そんなことで、死なないならば、全部どうだっていいじゃないか。

 ジェイクの言っていた言葉を、実感として覚えた。

 ならば、と思って僕は宇宙に『答え』を教えてくれるように頼んだ。僕の人生の答え、幸福の答え、運命の答え、未来の答え、とにかく『答え』を。この素晴らしい生を、完璧へと押し上げてくれるものを。

 宇宙とは、この世の全てだ。この世が生まれてから、終わるまでの全てが目の前にあった。僕はそれを見ているのだから、僕の望むことも全て見れるのだ。当然の成り行きだ。

 だが違った。見るだけでは不十分らしい。まるで鍵穴が違うかのように僕の望みは拒まられた。

 僕は考えた。でも考えても仕方がなかった。だから身を任せた。頭を使うのをやめ、全てを流れのままに委ねる。それによって、体の内側から、何かが這い上がってくる。それは僕の本質であると、直感的に自覚した。そして、僕が空間を包み込み、空間が僕を包み込む。もう既に、僕は僕の体という桎梏から抜け出ていた。全く未知の感覚が、五感の中に充満する。僕は宇宙と繋がった。

 今、僕は宇宙の中にあり、宇宙は僕の中にあるのだという実感があった。

 肉体は仮初の入れ物でしかない。僕は生を与えられてここにいるだけであり、僕の『生』の『本質』は肉体には無いことに気がつく。これが魂か、と思った。今僕は魂で宇宙に『接続Connect』、というよりも『還流Repatriation』している。

 僕は祈った。イエスでもブッダでもアッラーでも何でもいい。とにかく神と呼ばれる存在に。姿を見せてくれと祈り、願った。僕に『信じれる正しい道』を教えてくれと願った。今の僕は、それらと対話できるステージにいるのだと確信していたからだった。僕を救って欲しい。どうか、どうか。

「神様なんて居ないんだよ」

 現れたのは祖父だった。よく見知った、あの笑窪を見せて、そこにいた。

 僕は驚かなかった。肉体を抜け出して、魂で宇宙に還流しているのだから、死んだ祖父の魂と対話するのも、また自然なことだった。

「本当に、神なんて居ないの?」僕はそう祖父に問う。彼は優しく微笑んでいるだけで、何も答えない。

「じゃあ、いいよ。爺ちゃんが、もう一度僕の正しさになってよ」そう伝えた。祖父は少し寂しそうな顔を見せる。

「爺ちゃん、否定してよ。爺ちゃんの行いは、贖罪なんかじゃないって。爺ちゃんが犯罪者だろうがなんだっていいよ。爺ちゃんの行いは、高潔な正義によるものだったって。僕に、もう一度爺ちゃんを信じさせてよ」

「……J」爺ちゃんが口を開く。爺ちゃんの姿が曖昧になる。爺ちゃんのビジョンは、僕の思い出が作りあげていた偶像だということに気がついた。今、僕は魂で会話していたのだ。そこに音はない。実体はない。

「ごめんな、J」爺ちゃんは、それだけ伝えると、僕には爺ちゃんと対話できなくなった。

「なんで、置いてくんだよ……」なんで、なんで、と繰り返す。

 言葉が反響する。宇宙に。地球に。アメリカに。ニューヨークに。この掃き溜めのような街に。僕のアパートに。寂れた部屋に。僕自身に。

 僕はリビングにいた。宇宙ではない、ちっぽけな部屋に。たった独り。

 寂しくて、悲しくて、涙が溢れた。部屋が滲んだ灰色に包まれる。家の中に雨が降りだす。

「お兄ちゃん」

 声が聞こえた。妹の声だとすぐに気がつく。

「マーリーン……」僕は彼女の顔を見る。白くて、青い、死んだ時のままの姿でそこにいる。妹は、僕を見透かす目で僕を見ていた。魂での対話では、虚飾も見栄も通用しない。

 僕はこの場所で、彼女に謝らなければならなかった。

「マーリーン、ごめん。ずっと、お前を言い訳に使ってた」

 マーリーンは何も言わない。僕の妹は、僕を責めたり、恨んだりするような奴じゃないのは分かっていた。でも、謝らないといけなかった。

「ずっと、ずっと、僕の『弱き者の助け』を、続けてたら、お前が報われると思ってた。僕だって、罪滅ぼしだった。誰かを助けていれば、弱い人の味方になっていれば、いつか、お前を殺した奴に天罰が当たるんじゃないかって。そんな訳ないのに。お前よりも、ずっと苦しい死に方で、罰を受けるじゃないかって……」

 マーリーンは僕のことをただ見ていた。手には、僕のキャップがあった。

「それで、お前のことなんて知ろうともしなかった、お前が苦しんでる時、何もできなかった僕が、いつか許されるんじゃないかって……。ごめん、ごめん。爺ちゃんは、『自分のためじゃなくて、弱き者のためにするんだ』って言ってたのに、僕はそれができなかった。『爺ちゃんを信じてる』なんて言っておいて、結局は信じきれないから、お前を言い訳に自分の行いを肯定して、最低だよ。本当は、爺ちゃんのことなんて、ずっと信じ切れていなかったのに……」

 雨は降り続ける。水嵩が増していく。涙が水の中に滲んでいく。苦しくて、怖くて、悲しかった。溺れて死んでしまうのだと思った。

「弱き者、弱き者って、お兄ちゃんがいちばん弱いくせにね」マーリーンがそう言って、キャップを僕に被せた。こんなの、もういらないのに。

「知ってる。だから、助けて欲しかった。本当は、僕が助けて欲しかった。だから、人を助けていれば、弱い僕も救われると思ってた。ずっと、気が付いてなかったけど、今、それが分かった」

 僕はもう一度、妹の顔を見る。これが終わってしまう前に、家族との再会を、しっかりと覚えておきたかった。でも、そこにマーリーンの姿はなかった。

「爺ちゃん、マーリーン、ごめん。ごめんなさい」悲しくて、寂しくて、また子供のように泣き出した。その悲しみは、無限のように続いた。いつまでも、いつまでも、悲しみから抜け出せない。僕はこのまま、悲しみの海の底で死ぬんだと思った。それが、たまらなく恐ろしかった。死ぬことよりも、悲しみが終わらないことが、恐ろしかった。


 延々と続くトリップと悲しみの波を乗り越え、目を覚ました頃には、次の日の夕方だった。僕はフローリングで寝ていた。

 五感がまだ鋭くなっていて、顔を洗った水が余計に冷たかった。鏡の中の僕は、目が真っ赤に腫れていた。水を飲んだ。甘くも、炭酸でもなかった。カルキの味がいつもより際立つ。腹が減っていた。まずいオートミールが、ずっと美味く感じた。

 僕のその足で、そのままいつものボロアパートへと向かった。夕日が網膜を刺すかのように眩しかった。冷たい風が、僕の皮膚を凍らすかと思った。車のブレーキ音とクラクションが、いつまでも耳に反響する。

「やっぱりな。そりゃ完全にバッドトリップしてたな」

 ジェイクは煙草を吸いながらそう言う。

「分かってたわけ?」僕がそう聞くと、ジェイクは口角を上げて言った。

「ああいう幻覚剤は、摂取した時の感情に引っ張られるんだ。お前が悩んでそうだったから、多分、それを増幅させるだけだろうとは思ってた。もう一度確かめてみるか?」煙草で僕の方を指して、決め台詞かのように言った。

「部屋の中で溺死する経験なんて、一回で十分だよ」

 僕が見た爺ちゃんも、マーリーンも、今となってしまえば僕の頭が作り出した幻覚でしかないのは分かった。僕は宇宙になんかなってないし、魂で対話なんてしていない。

 僕が気がついたこと、教えられたことは、既に知っていることの反芻でしか無かった。

 核心に触れたような気になっていただけの、車輪の再発明でしかない。

「恐ろしい経験だったよ。現実から逃げようとしたけど、その先にあるのも、結局はただの現実だった。あれでLOVEだとかなんだとか考えれるお前は、頭がハッピーでいっぱいみたいで羨ましいよ」

 ジェイクは何も言わない。いつもの軽い口ぶりで何か言い返してくると思っていたのに。

「……で、お前はずっと何を悩んでんだよ。そろそろ教えてくれてもいいだろ。友達だろ」

 僕はその言葉に、心が少しだけ逆立つ。彼も、彼なりに僕の役に立とうとしているのは分かっていた。

 僕は、これまでの経緯を話した。爺ちゃんの教え、取り調べ室で言われたこと、母さんのこと、トリップ中に見たこと。

 ジェイクは根気強く話を聞いてくれた。

「僕の人生は、僕の頭が辻褄合わせで作ったカバーストーリーに、まるっきり否定されちゃったってわけ。もう何を信じたらいいんだか分かんなくて、頭がずっとぐちゃぐちゃなんだよ」

 僕の話を聞いた彼は「ある種のニヒリズムだな」と簡潔にまとめた。

「カート・ヴォネガットと同じだ。ヴォネガットも、第二次世界大戦を通して、神の存在を信じれなくなったんだ。『スローターハウス5Slaughterhouse-Five』とか読めば分かるけど、それ以来彼は筋金入りのニヒリストへと変貌させたんだ。人生は、シーソーのようで、不幸と幸福に一喜一憂して、それを繰り返して死んでいく。人生とは『そういうもの』って達観に至った」ジェイクは、僕でも知ってる作家の名前を出して、僕と重ね合わせたのか、そう語り出す。

 僕は、それが自身にも当てはまるかは疑問だった。僕が見たのは、ヴォネガットのような死体の山でも、爆撃でもない。

 それでも、ヴォネガットに比べればちっぽけな悲劇を味わっただけかもしれないけど、僕には、信じるものを失う気持ちをは共感できた。

 僕はジェイクの話を真剣に聞いた。僕の話を、彼は聞いてくれたんだから、という気持ちと一緒に、彼の話に何かヒントがある気がした。ヴォネガットなんて読んだこともなければ、詳しくもない僕に、それは刺激的だった。しばしばヴォネガットの文章の良さに脱線しながらも、彼は話を続ける。

「でもな、ヴォネガットはお前みたいに、くよくよとどうしたらいいか悩むほどケツの穴は小さくなかった。彼が今でも評価される所為はここにある」

「どういうこと」僕が話に食いついたのに、ジェイクは嬉しそうにして話し続けた。

「ヴォネガットはある日、少年から一通のファンレターを貰う。少年は、ヴォネガットの作品の本質を『愛は負けても親切は勝つ』とまとめた。神を信じれず、ニヒリズムに陥りながらも、彼は作品の核心として『親切』を描き続けたんだ。それだけが真実だって信じてな。お前の言う『正しい道』だ。お前の『親切』は本当にただの罪滅ぼしか? それだけ? 爺さんの『親切』が偽物だったら、お前の行いまで偽物になるのか?」

 僕は何も言わなかった。何か言ったら、僕の思考がそこで止まる気がした。僕は、彼の言葉について、もっと深く考えなければならない気がした。

「俺が初めてお前に会った時、何で話しかけたか覚えてるか?」

 そう言われて、思い返す。もうずっと昔のことのようだった、無償の奉仕に明け暮れていた頃の僕を。

「僕が『良い奴』だったから、でしょ」

「そうだよ」

 ジェイクが僕の背中を叩く。「痛いな」と悪態をつき、お返しに彼の足を蹴った。彼は笑っていた。背中の痛みが、いつまでも残って、僕の体に滲んでいく。

「そんな僕を利用して商売したかっただけのクソ野郎のくせにさ」

 良い方向に話をまとめようとするジェイクに、僕はそう返す。彼は「そうだっけ、忘れた」と笑いながら言った。

 僕はそのままジェイクのボロアパートで寝泊まりした。仕事には行かなかった。ずっと真面目に働いてたんだ。少しぐらい休暇を貰ってもいいだろ。行く意味が分からなかったから、そう言い訳を心の中でした。

『生きてるだけで万々歳』

 人が簡単に死んでいくこの街で、生きてるだけで十分。人はこのくらいでは、死んだりはしない。生きていることに比べれば、この世の大半は取るに足らない些事だ。幻覚の中で知った、唯一の実践的なライフハックだった。


 二週間ほど、頭を整理したくて僕は無意に日々を過ごした。本格的に冬に入ったこの街は、体を芯から冷ますように寒くなっていく。アパートのボイラーはとうとう完全に駄目になってしまったらしく、何日か修理が入ることになった。おまけに、上の階で水道管が破裂したらしく、僕の部屋は水漏れするようになった。水に濡れた部屋を見て、あの幻覚が現実になったように思えた。

 僕はそんな自宅には居られず、もっぱらジェイクのボロアパートで過ごした。たまに、ドラッグを買いに来る同年代ぐらいの人と話したりした。あるとき、突然ジェーンがやって来た。指の包帯は、テーピングになっていて、足の痣はかなり薄くなっていた。僕は彼女に声をかけたが、まるきり無視された。

 暇を持て余した僕は、良識は無いくせに知識だけやたらある友人を見習って、図書館で本を借りて読んだり、寂れた映画館で低品質なポップコーンムービーを見たりした。そして意味もなく爺ちゃんとよく歩いた道や、買い物に寄ったスーパーなんかを歩いた。

 全部自分のためだった。自分のためにお金を使って、やりたいことを、思うがままにして生きるのは楽しかった。けれど、どこかつまらなかった。

 アパートのボイラーが直ったと聞いたので、久々に自宅に帰った。どうやら水道管もいつの間にか直っていたようだったので、地面の水を雑巾で拭いて、濡れて酷い匂いのするラグマットを外に干した。多分、しばらく暖かいから凍る心配は無いだろう。

 コーヒーを飲もうとキッチンに行ったが、切らしていたのを思い出した。二週間の奔放な生活のせいで、所持金はあまりないけれど、コーヒーの無い生活なんて考えられないから、スーパーに買いに行こうと思って外に出る。

 信号待ち中、ふとあの場所を追い出されたという、ロペスさんが気にかかり、いるはずのない、僕の捕まった路地裏に顔を出してみた。当然、よく知るラティーノの姿も、テントの姿も、警官の姿も無かった。その代わりに、新しい知らないホームレスがいた。僕は「ごめんなさい」とだけ残して、後にする。

 そうだ、この街で路上生活者が溢れているなんて当たり前で、僕が誰かを助けても、助けなくても、そこには変わらず弱い人が生まれて、変わらず生活している。そんな当たり前なことから、僕はずっと目を背けていた。

 何も変わらない。この掃き溜めのような街は、僕が変わっても、何も変わらないのだ。『そういうもの』だから。僕もニヒリズムが板についてきたなと思った。

「待て、待って、ジェレミー!」

 後ろから声がした。よく知る声を。振り返る。着古したダウンジャケットを着たその人は、よく知るラティーノだった。

「ロペスさん……どうして? 立ち退きさせられたって……」

「いやぁ、何、人聞きの悪い。釈放されてたんだね、良かった。君が目の前で捕まったんだ。私のためにね。近隣住民に迷惑がかかるってあの警官が言ってたろ。その通りだと思って、自分からシェルターに移動したんだ」

 そう嬉しそうに話す彼は紙袋を抱えていた。それもまた、よく知る紙袋で、よく知る匂いだった。

「そこで仕事を紹介して貰ってね。君みたいな若者から施しを受けてばかりじゃなくて、私も、少しは真っ当な生き方をしなければならないと思って。まだ路上生活をやめれるほどのお金は貰えてないんだけど……」

 それで、と言って紙袋を彼は探る。

「そう、さっき君に会えないかと思ってこの辺を歩いていたら、偶然君を見かけてね。急いで買いに走ったんだ。このベーカリーのパン、君がよく買ってたから、好きだと思ってさ。どうにかして、ちょっとでも恩返しできないかと、給与を全部使ったんだ!」彼は笑いながらそう言って、中からチキンサンドを出して見せた。

「ゲイリーの……」

「ああ。君はずっと警察に、お金を渡してたんだろう。私のために」

「……知ってたの」僕は驚いて目を見開いた。

「まぁね。気づかないふりをしていたから、君がそう思ってたのも仕方がない。ありがとうジェレミー。君に甘えてたってあの時、自分を恥じたんだ。こんな若い人に、私はずっと居場所を守ってもらっていたって。これだけじゃ恩返しには足りないと思うけど、今はこれぐらいしか手が届かなくてさ」ロペスさんは、そう言ってチキンサンドを袋に戻すと、袋ごと僕に手渡した。

「……でも、そんな、僕は」何かを言おうとするけど、言葉がつっかえて出てこない。

「もっとちゃんと働いて、家を持ったら、しっかりを恩を返したい。でも、今はこれだけ受け取ってくれよ」

 涙が溢れそうになる。こんな所で泣くのは恥ずかしいと思って、それをぐっと堪える。

「僕は……あなたが思ってるような良い人なんかじゃない。恩返しする価値なんてない。それは自分で食べてください」

 ロペスさんは、僕の言葉を聞いて、少し黙ってから口を開いた。

「私は君よりもずっと長く生きている。金なんて無くてもすぐには死なないことを知っている。私の気持ちを無視しないでくれよ」

 金なんて無くてもすぐには死なない。それは、僕もよく知る事実だった。

 胸元に袋を押し付ける。僕は黙ってそれを受け取った。

「そうだ、パン屋の店主に君の話をしたよ」

 そこで、僕はしばらく行ってないゲイリーのことを思った。「なんて言ってた?」

「最近来なくて寂しいって」

 僕の涙がまた溢れそうになる。

「それに、ここだけの話、君の買っていくパンは、かなり経営に助かってたって。君は自分を良い人なんかじゃないって言ったけど、君に救われている人は結構いるんだ。君の『親切』に」

 僕は耐えきれずに、泣き出した。この人たちの優しさが胸に染みて痛かった。

「ありがとう。ありがとう」泣きながらそれだけ繰り返す。ロペスさんは何も言わず背中をさすってくれた。

 その優しさが、また染みた。


「じゃあ、また!」太陽にような笑みを見せるロペスさんに、別れを告げて、僕は買い物に行く気なんて無くなってしまい、帰路へと向かった。

 アパートの前に、ベビーカーを押す女性が見えた。すぐにアイシャだと分かった。既に生まれていたことに驚いたと同時に、やたら大きいと思ったベビーカーに、赤ちゃんが二人乗っていたことにもっと驚いた。

「こんにちは」僕は声をかけた。

「あらぁ、こんにちは」ヒジャブから覗く麦色の肌が、柔らかく動く。

「生まれてたんだ。赤ちゃん。それも二人」

「そうなの、双子なのよ。女の子と男の子。生まれたばっかり」

「また今朝エレベーター止まってたよね。ベビーカー持つよ」

 そう言って、踊り場でアイシャが赤ちゃん二人を両手で器用に抱き抱えると、僕はベビーカーに紙袋を乗せて持ち上げる。階段を登りながら話をした。

「ほんと、よく止まるなぁ。ここのエレベーター。なんだかいつも手伝ってる気がする」

「本当にね。ボイラーが直ったのは良かったけど、直るまで病院から連れ帰ったばかりのこの子達が冷えないか心配で」

「双子なんて、知らなかった」

「二人もいるって言ったら、うるさくなるって思われるかもしれないと思って」

 赤ちゃんの声が迷惑をかけないか、彼女はずっと気にかけていたのだろうと思うと、僕は少し胸が苦しくなった。

「うるさいって言う奴いたら、僕がそいつに文句言うよ。大変だと思うけど、気にしないで」

「ありがとう。そういえば、あなたこの前、部屋で大声出して叫んでたけど、どうしたの?」

 僕はなんの事かと思って考えた。すぐにトリップ中だった時のことに思い当たる。叫んでた記憶はないけど、彼女がこう言うのだから、きっと叫んでいたのだろう。

「ごめんなさい。あのときは、ちょっと色々あって」口ごもる僕に、彼女は「お酒は程々にね」と笑って言った。

 九階に着いて、ベビーカーを下ろした。僕が紙袋を取ると、アイシャは赤ちゃんをベビーカーに寝かせる。

「良かったら、あり物しかないけど、ランチ食べていって」その言葉に甘えて、アイシャの部屋に二度目の訪問をした。

 ダイニングの椅子に座ってる間、赤ちゃんをベビーベッドに寝かしているのを横目で見ていた。すると、片方の子が突然泣き出した。すると、もう一方も、それにつられて泣き出した。

 アイシャは慌てて片方を抱いてあやしながら、片方を撫でて落ち着かせようとしている。

「あーあー。抱いていい?」

 僕がそう聞くと「ごめんなさい本当に。さっきまであんな寝てたのに」慌てた早口でそう答える。

 赤ちゃんを抱き抱えて、アイシャの真似のように横に揺らしてあやす。

「そっちは妹。バラカって名前。アラビア語で『恩寵Grace』って意味。あなたの名字と一緒ね」アイシャはそう言って微笑んだ。

「バラカ……」体をゆりかごのように揺らしていると、バラカは泣き止んで、無邪気に笑い始めた。

「なんだか、僕の妹を思い出した。昔、こうやってあやしてたことがあったなって。今まで忘れてたけど」

「不思議よね。私は、私の親や兄に、こうやってあやされてた記憶が浮かんだの。覚えてるはずなんて、ないのにね。あなたも、きっと親にこうやって、愛してもらってたのよ」

 親に──

 僕の腕の中で、無垢に笑うバラカの姿を見る。

 僕も、こんな風に。爺ちゃんや、母さんから、覚えてないけど、父さんにも、僕もこんな風に育てられたのかな。

 僕がバラカに右手の指を差し出すと、バラカは笑い声をあげて僕の指を掴んだ。それは、なんとも頼りなく、弱かった。

 ──僕にも、こんなときがあったのかな。こんなにも、か弱く、どうしようもなく愛おしいときが。

 脳裏に、幼い僕と爺ちゃんや母さん、マーリーンとの思い出が溢れていっぱいになる。だだっ広いセントラル・パーク。狭苦しいダイニング。人の多いスーパー。母さんのビーフシチュー。夕日が反射するハドソン川。寒い地下鉄。古ぼけたビデオ。四人で見に行った映画館。爺ちゃんの大きい手の平。母さんの嫋やかな髪。マーリーンと取り合ったおもちゃ。

 一緒に遊んで、話して、気遣ってくれて、怒ってくれた、もう二度と戻らない日々が。いくつもいくつも、浮かび上がって消えていく。

 いつの間にか、視界が滲んでいた。

「……アイシャは、この子達のこと、愛してるよね」

 僕は、そう彼女に聞いた。アイシャは驚いたような顔を見せてから、少しはにかんで言った。

「当然でしょ」

「なんで?」

「……どういう意味?」双子の兄を揺らしながら、アイシャがそう聞く。

「……分かんなくて。母さんも……それに爺ちゃんも、僕を愛してくれた。それが、なんでなのか、分かんなくて。僕が、こんな風に小さくて、弱かったからなのかなって。守らないと、死んじゃうから……」

「家族だからでしょ。それだけじゃ駄目?」

 さも当然のように、そう返された。

「それじゃ、理由には……」

「十分でしょ、それだけで」

 いつの間にか、アイシャの胸の中の兄は眠っていた。安心しきった顔で。

 僕は訳もわからず涙が溢れた。

「大丈夫?」アイシャは心配そうに僕の顔を見る。

「なんか、最近泣いてばっかりだ」

「疲れてるのよ。ランチはまたにしましょ」

「……うん」

 僕はバラカをベビーベッドに寝かせると、涙と鼻水を袖で吹いて、ダイニングに置かれた紙袋を取った。中から適当にパンをいくつか出した。

「これ、貰い物だけど少し置いとくよ。よかったら、食べて」

「いいの?」

「赤ちゃんのためにも、ちゃんと食べないと。安心して、豚肉とかは入ってないから」

「本当に? ありがとう」

「困ったら、いつでも呼んで欲しい。何でもするよ。父親にはなれなくても、少しでも助けになりたい」

 そう言い切ると、アイシャは「お互い様よ。ジェレミーも困ったらいつでも呼んでね」と言った。 僕は「うん」と答えると、また涙が溢れそうになったので、急いで自分の部屋に戻った。

 僕は部屋で泣いた。ロペスさんの、ゲイリーの、アイシャの優しさが苦しかった。

 馬鹿な事で悩んでいたと思った。僕は母さんが、そして何よりも爺ちゃんが、僕たちに注いでくれた愛に、勝手な邪推で理由をつけてたことが恥ずかしくなった。自分の身勝手さに、怒りすら感じた。

 愛に理由をつけるのは簡単だ。

 けれど、理由の無い愛を受け止めるのは、なんて難しいのだろう。

「ごめん。爺ちゃん。ごめん。マーリーン」そう呟いた。今度は、幻覚じゃない、もうこの世のどこにもいない、本当の家族に。

 僕のすべきことが、明確に分かった。


 その日は雨が降っていた。この街も徐々に暖かさが包み始めていたが、雨の日はそれでも冷える。

 僕は母の家の呼び鈴を鳴らす。誰も出てこない。

「母さん、母さん。いる? 僕だよ。ジェレミーだよ」ドアを直接叩いてそう問いかける。部屋の奥から、足音が聞こえた。ドアが開くと、ボサボサの髪に、くたびれたTシャツを着た母がやつれた顔を見せる。

「ジェレミー……何よ急に。というか、住所知ってたの?」

「市に問い合わせた。少し話があって」

 入りな、と言われて母の家に入る。マットに濡れた靴を押し付けて入ったそこは、なんともアルコール臭くて、散らかっていた。

「急に来ないでよ。びっくりするじゃない」

 母は戸棚からブランデーを出すと、グラスに入れることもせず直接口をつけた。

「電話したけど出なかったんだよ」

「で、何」母は椅子を引いて腰掛けた。僕もテーブルを挟んで向かい側に座った。

「まずは、これ」背負っていたリュックから封筒を取り出して、机に置いた。母はそれを、ブランデーを口にしながら横目で見た。

「保釈金。あのときはありがとう。全額持ってきた。少し色をつけて」

「あぁ、そう。じゃあありがたく受け取るわ」母が封筒に手を伸ばしたが、僕は封筒を自分の方に引いて受け取らせなかった。

「はぁ? 何? それ渡しに来たんでしょ」母があからさまに不機嫌な顔でそう言った。

「一つ約束がある」

「何?」

「絶対に、このお金は酒には使わないで」

 僕がそう言うと、さらに母は不機嫌になった。その顔は、やっぱりマーリーンに似ていた。

「そんなの、私の勝手でしょ」

「母さん、話をしよう」

「はぁ? 何の?」

「なんでもいいよ。最近起きたことでも、読んだ本でも、見た映画でも、なんでもね」

「……意味が分からないんだけど」

 雨音が更に強まる。

「僕の友達に、同じようにアル中の人が居たんだ。ジェーンって言うんだけど。でも、ちゃんと病院に通って、最近はかなり症状も良くなってきたんだ」

 母はそれを黙って聞いている。

「それを見て、ちゃんと治療すれば、母さんもアルコールに頼らなくてよくなるんじゃないかと思って。でも保険に入ってない母さんに通院するお金なんて無いでしょ?」

「そもそも、病院行くなんて言ってないんだけど」

「だから図書館で色々調べたんだ。アルコール依存症のリハビリには、まず正しい認識と、断酒、それから家族との会話が望ましいって」

 母はそれを聞くと、片手で顔を覆って大きなため息を吐いた。

「父さん譲りのあんたの博愛主義も、とうとう私にまで矛先が向いたってわけね」

「そういうことでいいよ。母さんが良くなるなら」

「なんであんたがそこまでするわけ? これまでずっと、私もあんたも放ったらかしてたのに」

「家族だから」

 僕がそれだけ言うと、母は「呆れた」と言って、また大きなため息をつく。

 それから僕は一方的に話し始めた。

「ゴミ拾いの仕事は辞めたんだ。というか、クビになった。前科持ちになった上、二週間も無断欠勤したから当然だよね。久々に職場に行ったらさ、所長のマイクに言われたんだ。『お前はクビだ!』って。すごい剣幕な顔してさ。映画みたいだったよ。それで、今はホームレスとかネグレクトの子供を支援する団体にいる。給料はあんまり良くはないけど、福利はしっかりしてるよ。人手不足だから忙しいけど」

「馬鹿みたい。というか馬鹿。人手不足なんて当たり前でしょ。誰もやりたがらないんだから、そんなの」

「誰もやらないことは、誰かがやらないといけないから」

 母はまたため息をつく。でも、僕の話を遮ったり、話を切り替えたりはしなかった。僕の話を聞く間、母は酒には口をつけなかった。

 僕の話を、ちゃんと聞こうとしてくれているんだ。

 母さんがこうなってしまった原因はきっと、家族を失った痛みだ。母さんは、幼くして母を亡くして育ち、生まれたばかりの僕らを残して夫がこの世を去り、それでも父と二人で幼い我が子を育て、徐々に手がかからなくなってきたと思った矢先、娘を悪意により最悪の形で失い、立て続けに父も亡くし、そして息子も家を去った。母さんにとって、現実は酒に頼らなければ直視できないものだったのだろう。

 僕はずっと、家族と向き合わなかった。妹を、理解できないからと興味も持たなかった。祖父を、偶像ばかり追って本質を見ようとしなかった。そして真に分かり合うこともできないまま二人は死んだ。

 家族を失った痛みを分かり合えるのは、同じ家族を失った家族だ。

 まだ母さんも、僕も生きている。まだ分かり合える。死んでしまったら、もう二度と話し合うことも、分かり合うこともできないけれど、幸運なことに僕らは生きている。人が簡単に死ぬ、この掃き溜めのような街で。

 救える者がいるのならば、僕は救いたい。

 分不相応な願いかもしれないけれど、それが大儀である必要なんてない。

 それで、何も変わらないかもしれない。明日も、当然のように人が死ぬ。僕の行動で、この街が掃き溜めから脱することは無いだろう。

 それでも、目に見える範囲だけでも、僕のできる範囲で構わないから『恩寵』を与えたい。祖父がそうしてくれたように。

 僕は、僕が『正しい』と思える道を歩んでいたい。

 そう、強く思う。

「そういえば、パンを買ってきたんだ。僕が街の色んな人に配ってたら、徐々に好評が広がってさ。結構繁盛してるんだよ」

 僕はリュックから紙袋を取りだした。

 明日も、このパンと、コーヒーを買おう。

 そしたら、また母さんと話そう。話したいことならいくらでもある。

 ジェイクのことや、ロペスさんのこと、ゲイリーのこと、ジェーンのこと、アイシャと双子のこと、それに爺ちゃんのことも、マーリーンのことも。

 母は、僕の出した紙袋を漁って、ドーナツを取りだした。それを齧って、「パサパサね」とだけ言った。


道を踏み外すGo astray

 その言葉が示す通り、人が本来歩くべき道というのは『正しく』あるのだと思っていた。

 でも、今では、正しく真っ直ぐな道なんて、誰にも分からないのだと思う。倫理というテンプレートがあっても、人はそれぞれ信じているものが違う。神かもしれないし、恩人かもしれない。または親か、あるいは自分。

 みんな何かを信じて、『正しいと思う道』を歩む。人が踏み外してしまうのは、その道なのだ。

 正しく真っ直ぐな道を、僕はもう信じられる。

 それでも、この掃き溜めのような街は変わらず最悪だ。道を踏み外す人間で溢れている。

 踏み外さなければいけなかった人間、踏み外すのがかっこいいと思っている人間、踏み外していることに気がついていない人間。

 けれど、確かに『恩寵Grace』が、この掃き溜めのような街the 'Hoodにはある。

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Grace in the 'Hood ひろえ @hiroe21233

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