第12話 飴細工と決別
静まり返った王宮内、どこか重々しく、緊張が走っていた。
大広間の奥、皇帝クラウスは玉座の前に立ち、その瞳に戦場の赤を宿したまま、ゆっくりと口を開く。
「――我らは勝った」
低く響く声は、石壁を震わせ、遠く控える兵たちの胸を突き抜けた。
「この地に、再び帝国の旗は翻る。我らは奪われた栄光を取り戻したのだ!」
周囲に集う将官たちは、無言のまま拳を胸に当てた。
勝利は確かにここにある。しかし、その影に沈んだ命の重さを知る者たちは、容易に歓声を上げられなかった。
クラウスは玉座の背後に掲げられた古の帝旗を見上げる。
かつて失われた王権の象徴――今は戦煙を浴び、再びその色を鮮やかに取り戻している。
「帝国は甦った。だが、この剣を下ろすのは、最後の敵が滅ぶ日だ」
その言葉に、兵たちの背筋がぴんと伸びる。
静謐な空間に、やがて一つの声がこだました。
「――皇帝陛下、万歳!」
次の瞬間、それは波となって広がり、大広間を埋め尽くした。
勝利と血の匂いが入り混じる空気の中、帝国は新たな息吹を得た。
クラウスはそのまま、玉座から真っすぐ歩きだし、帝都が全貌できるテラスまで進んだ。
眼下にはそこら中に掲げられた帝国旗、人で溢れかえった城下があった。
「あ……皇帝陛下がお見えになったぞ」
一人の百姓が王城の遥か下の城下で騒ぎだす。
次第に、その声は波紋のように広がり、無数の視線が王城の高みへと吸い寄せられていく。
やがて城下全体がざわめき、旗が一斉に風をはらんだ。
「――皇帝陛下、万歳!」
誰かが再び叫ぶ。その声は幾重にも重なり、雷鳴のような轟きとなって帝都を満たした。
クラウスはテラスの縁に立ち、片手を高く掲げた。
その仕草ひとつで、城下の喧騒が一瞬にして静まり返る。
「民よ――」
声は、戦場を統べたときと同じ冷たさと炎を帯びていた。
「今日、帝国は蘇った。我らは敗北の鎖を断ち切り、栄光の門を再び開いたのだ!」
群衆の目が、涙と熱狂に濡れる。
「この勝利は、帝国の剣を支えたすべての者のものだ。兵も、民も、血を流した者も、祈りを捧げた者も……」
クラウスの声は高まり、最後に天へ突き抜けた。
「――さあ、新たな時代を刻もう! 帝国の旗の下で!」
轟音のような歓声が帝都を揺らし、鐘の音が城壁の上から響き渡る。
その瞬間、帝国はただ勝っただけではなく――再び歴史を動かす存在として息を吹き返した。
「見事ですぞ。殿下……失礼。皇帝陛下」
右隣に控えていたヴァルガスが小さく呟く。
「いや……まだ始まりにすぎないよ」
クラウスは目を細め、遥か地平線の向こうを睨むように見つめた。
帝都の喧騒も、旗のはためく音も、今の彼には遠い幻のようだった。
「我らの剣が届かぬ土地がある限り、帝国の復活は道半ばだ」
その声は、勝利の余韻に酔う民とは異なる、冷たく研ぎ澄まされた覚悟を孕んでいた。
ヴァルガスは微かに眉を動かす。
「……では、次なる標的は」
「いずれ知れる」
クラウスはそれ以上は語らず、ゆっくりと背を向けた。
その背中には、戦火と野望を背負った男の影が濃く落ちていた。
眼下で沸き立つ民衆は、まだ知らない。
この日が、帝国の栄光と共に、新たな血の歴史の幕開けであることを――。
***
戦場から戻ってから、早いことで、既に五日も経っていた。
ミレイナは未だ、に帝国を出れずにいた。いや、戦友たちに別れを告げられずにいた。
そんな今日、帝都では戦勝記念のお祝いが催されており城下からは賑やかな話し声や笑い声が響いていた。
賑わいの中、王城の南西部に新造された衛燐隊の宿舎の庭にある薬用植物園には、四人の女性が集まっていた。
「ネルフィ……どうしてこの薬草は、こんなに毒々しい色をしているのかしら?」
「確かにそうですね……」アリシアは、ミレイナに続き紫色の手のような葉を注意深く見つめている。
「マズそうな色ー」リュミエルもそれに続き、呑気に笑い、花壇に腰を掛けた。
「まぁまぁ、この薬草は”ソラティオ草”よ?
リュミエルだって、パスタで食べた事があるわ……」
三人の前に立ち、白衣を着た金髪の美女……ネルフィは呆れたようにつぶやいた。
「……ほら、匂い嗅いでみなさい」
ネルフィは、葉を一枚、手に取り適当にちぎり、リュミエルに渡した。
リュミエルは目を丸くし、少し腰を引いた。
「え……いいの?」
ネルフィは軽く笑い、手を振る。
「大丈夫。毒は調理前に処理するの。生だとちょっと刺激が強いだけ」
ミレイナも一枚だけちぎり、アリシアと分けた。
ミレイナはそっと葉の端を指で触れ、香りを確かめる。紫色の葉からは、甘くも少し刺激的な匂いが漂った。
「……うん、なんとなく香草の匂いね」
アリシアは眉をひそめ、手元の葉を傾けてじっと見る。
「でも、どうしてこんなに手の形みたいに分かれているのでしょう……?」
ネルフィは肩をすくめ、白衣の裾を整えた。
「……自然の偶然よ。でも、原産地は山脈を越えた先の”東方”だったはずよ」
リュミエルは葉を鼻先に近づけ、目を細める。
「なんか…………」
ぽつりと呟いたままリュミエルが膠着する。
その姿に、全員が「え?」とリュミエルを困惑した表情で見つめる。
「どうしたの?」
「大丈夫ですか?」
「ん???」
――――ぐぅううううう
「あれ……」
思わずにネルフィが呟いてしまった。
リュミエルの頬や耳は真っ赤に染まり始める。
「おなか空いちゃった」
ミレイナは思わず笑い、リュミエルの肩を軽く叩く。
「……そ、そんなに正直に言わなくてもいいんじゃない?」
アリシアは眉を上げ、ちらりとリュミエルを見た。
「ふふ、やっぱりまだ子どもね。お腹が空くと正直になるのは当然か」
リュミエルは両手を胸の前で組み、少しそっぽを向く。
「……だって……ジュースじゃお腹いっぱいにならないもん」
ネルフィは小さくため息をつきながらも、やわらかく笑った。
「仕方ないわね。では、この庭の薬草を少し使って軽食を作りましょうか。ちゃんと安全に調理するわよ」
リュミエルはぱっと目を輝かせ、ミレイナやアリシアと顔を見合わせた。
「え、本当に作るの?」
「もちろん」ネルフィは頷き、白衣の袖をまくる。「戦場での薬草も扱う私たちです。庭の薬草くらいお手の物よ」
庭の紫色の葉が、朝日に照らされて小さくきらめいた。リュミエルの好奇心も、その光と共に少しずつ膨らんでいく。
「……じゃあ、ボクも手伝う!」
アリシアとミレイナは顔を見合わせて微笑んだ。小さな庭に、戦場の影とは別の、温かい時間が流れ始めた。
***
「できたっ」
明るくはじけた声が兵舎の中……ネルフィの作業部屋中で響く。
香ばしい肉の匂いと、少し甘い薬草の香りが部屋に漂った。
「わぁ、すごい……なんだか、美味しそう」
リュミエルは両手を合わせ、目を輝かせる。アリシアはそっと頬を緩め、ミレイナは満足げに小さく息を吐いた。
「ふふ、さすがネルフィね」
リュミエルは慎重に一口味見をする。紫色のソラティオ草は、想像以上に柔らかく、ほのかに甘く、ほんのり苦味もあった。
「……わっ、美味しい!」
アリシアも箸を伸ばし、笑顔を見せる。
「これならお腹も満たされそうだわ」
ミレイナは小さな皿を手に取り、リュミエルとアリシアに分け与える。
「戦場での厳しさとは違うけど、こういう日常も大切ね」
ネルフィは微笑みながら、手元の調理器具を片付ける。
「ふふ。さあ、みんな、ゆっくり食べましょう」
紫色の光を帯びた薬草の一皿は、戦場の影を忘れさせる、ほんのひとときの平穏を運んでいた。
***
私たちは祭で賑わう城下に来ていた。
時刻は夕方、次第に夜に移り変わり祭のピークを迎える頃だ。
ネルフィは「私は疲れたから、楽しんでいらっしゃい」と断られてしまった。
どうやら、ネルフィも戦いの疲れが取れていないのだろう。
アリシアとリュミエルは二人とも町娘のような可愛い恰好をしていた。
年相応な恰好だ。
そう思えば、アリシアは17歳で、リュミエルは14歳で自分よりも年下だ。
私はと言うと、狩人のような恰好をしている。
”帝国に来た時”と同じ軽装で、ただ鎧や肩当てを付けてない事だけが違いだった。
***
提灯の光が揺れる通りには、屋台がずらりと並ぶ。
香ばしい肉の匂い、焼き菓子の甘い香り、酒の香り……。
人々の笑い声が重なり、ざわめきは心地よい波のように押し寄せる。
「わぁ……すごく美味しそう……」
珍しくアリシアは両手を合わせて目を輝かせる。
「ボク、これ買ってくるね!」
リュミエルもそれに続いて、小走りで”レッサーボアの腸詰め”を買いに行った。
「二人とも気を付けるのよ」
私は、屋台へと向かう二人の背中をただ見守っていた。
二人に続いて隣で歩いたところで、私たちには”別れ”があるのだから。
「お、いらっしゃい。
お嬢ちゃん達、お目が高いね~。ここの腸詰は帝国で一番ウマいぜ」
筋骨隆々で、ヴァルガス騎士団長と同じサイズの短髪の大男が陽気に二人に話しかける。
「ここの一番ウマいやつ、三本!」
リュミエルはカッコつけて、ギリギリ腕が届く屋台のデッキに肘を駆けた。
その様子にアリシアは「まぁ、」と驚きつつもクスクスと笑っていた。
ふと、こちらを振り返ったアリシアと目が合った。
全てを見通すかのような碧い瞳が夕陽と混ざり、儚く見えた。
「??」
アリシアは一瞬固まると、いつものようにニコッと笑って見せてくれる。
私も、それに少しくらいが笑って見せた。
今、目の前にいるアリシアとリュミエルよりも気がかりな事がある。
ミルザとミリアのことだ。
帝国での日々は楽しく、父が戦死し、母が狂ってからの日々を忘れるかのようだった。
どうしても、二人の幻影が私の脳を横切り、
『ミレイナ姉さん!』
『姉さま』
あの子たちの声も聞こえてしまう。
一体、私は、どうしたら”ここ”に別れを告げられるのだろうか?
肩越しに過去が忍び寄る。その温もりも、切なさも、今ここにいる幸せの影に紛れ、胸を締め付けた。
だが、祭りは容赦なく進む。色とりどりの提灯、笑い声、香ばしい匂い。すべてが現実だ。
――どうしたらいいの?
「…ミ……ナ……なに……です?」
微かに、耳からアリシアの声が入ってくる。
その声は少し困惑したかのような声だ。
「え……う、うん?どうしたの?」
ハッと、棒立ちしていた私は、その場でバタバタと手を慌ただせた。
「ミレイナ?どうしたんです?」
アリシアは、心配したように私に詰め寄ってきてくれる。
「ううん。別に何も心配かけるような事じゃないわ。
……さ、早くお祭りを楽しみましょ」
アリシアの視線に捕まり、胸の奥で何かがぎゅっと締め付けられる。
――心配はかけたくない。ここにいる、今のこの瞬間を楽しむべきだ。
でも、心の奥でミルザとミリアの笑い声がまだこだまする。祭りの喧騒に混じり、記憶の欠片が刺すように痛む。
「……うん、そうね。楽しみましょう」
言葉には微笑を乗せたが、手のひらは少し冷たかった。
アリシアはその微かな震えに気付かず、にこにこと手を引く。
「これミレイナのぶん!」
リュミエルに渡された腸詰は温かく、バジルの匂いが鼻を突き抜けていく。
とても、温かく、冷たく震えていた掌が少し温まったかのような気がした。
「ありがとう」
私は、そういってリュミエルの頭を撫でた。
「ふふん」と囁く彼女に感謝しながら。
***
「う~ん。美味しいです」
「レッサーボアには感謝」
「バジルの匂いが最高ね」
私たちは、この商店街をゆっくりと腸詰を片手に散策していた。
商店街には、多くの露店が開いていて、どこもかしこもが人で賑わっていた。
レッサーボアの腸詰を片手に通りかかった金細工アクセサリーの露店では、リュミエルがねだり始めていた。
「アリシア、ボクこれ欲しい。お願い……ダメ?」
「うーん、ちょっと高いけど……仕方ないですね」
アリシアは困った顔をしながらも、小銭を差し出す。
リュミエルは満面の笑みでアクセサリーを受け取り、嬉しそうに首にかけた。
「やったぁ!ありがとう、アリシア!」
そうして、リュミエルは前髪に樹枝状結晶の氷のブローチを身に着けた。
「よかったわね……似合ってるわよ」
満足そうなリュミエルが自慢するかように可愛くアピールしてみせてくれた。
「つぎも行くよ~」
楽しそうに彼女……空色の髪の少女はブローチを橙色に輝かせながら進んでいっていた。
「ねぇ、アリシア、あそこの飴細工見て!」
リュミエルが指さす先には、色とりどりの飴細工が並ぶ露店があった。
「わぁ、可愛い……」
アリシアも思わず立ち止まり、目を輝かせる。
リュミエルは嬉しそうに跳ねるように歩き、私たちの手を引きながら次々と屋台を巡っていった。
私はそんな二人を微笑みながら見守る。小さな町のざわめきの中、束の間の平和が、まるで時間を止めたかのように感じられた。
「これ、あげる」
目の前にちょこんと現れたリュミエルは、色鮮やかな飴細工を差し出していた。
透きとおる紅色が、灯りに照らされてきらきらと輝く。
「わ、私に?」
「うん!ミレイナの剣にそっくりだなって思って」
彼女の笑顔は、何よりも甘く、何よりも眩しい。
指先に触れる飴の冷たさと、心に広がる温かさが、不思議な対比を描いていた。
「ありがとう」
「いいってことよ」
アズベル家の紋章のような双頭の鷹の飴だった。
なんで、没落したような貴族の紋章がデザインされているのか?
一瞬だけ疑問に思ったが、戦が終わったと同時に城下の広場に貼られた全兵士の武勲の一覧を思い出した。
その掲示板は三つも用意され、敵を多く屠った者から順に書かれているものだった。
当然……クラウス陛下が一番上で、私が二番目に位置していた……。
その次はヴァルガス騎士団長、カストール辺境伯、ディアーク侯、ソフィア夫人、アリシア、リュミエルの順だったはず。
「……あれ、ほんとだわ」
確かに、飴細工の露店に並べられていたのは、精巧に作られた帝国貴族の紋章だった。
ディアーク家の水を纏う長剣や、カストール家の道化の仮面のようなもの……それにアズベル家の紋章。
「ミレイナ、どうかしました?」
アリシアの声に、私は思わず肩を震わせた。
その柔らかな声音は、私の胸の奥に巣くう“影”にまで届いてしまうかのようだった。
「……この飴細工、綺麗だなと思っただけよ」
私は、結局”生きる意味”を探したことで、再び取捨選択かのような苦境に立たされているのだ。
与えられた選択肢は二つ。
一つは、このまま“アリシアとリュミエルと共に生きる道”を選ぶこと。
もう一つは、 “ミルザとミリアの声を追い続ける道”を選ぶこと。
どちらかを選べば、もう片方は永遠に失われるだろう。
帝国と王国……頭では分かっている。だが、心は決して簡単に答えを出させてはくれない。
アリシアとリュミエルの笑い声が、飴細工よりも透きとおるように響いていた。
けれど、その明るさの隙間から、あの二人の幻影が私を呼んでいた。
『これからも俺に守らせてよ』
『ミレイナ姉さま……』
甘い香りと、苦い記憶と、今ここにある温かさ。
すべてが渦巻き、胸の奥で痛みと歓びがせめぎ合う。
――私は、本当にどちらを選ぶのだろう?
***
徐々に、黄昏の暁が夜の訪れと共に帝都アベルハイトを包みこむ。
商店街の通りには灯火が点され、増々、祝杯の響きが高まっていた。
王城の大広間には、いつもながらの緊張感や威圧感で溢れていた。
王城の一端の警備兵すらも、平時よりも輝くような漆黒を基調とする外套……それに縫い付けられた帝国の象徴たる双翼の獅子も心なしか毛並みを逆立ているように見える。
――――ガシャン
王城の正門の大扉が開かれる。
鉄と鋼が擦れ合う重苦しい音が、広間に集う貴族や兵らの胸を震わせた。
集う視線は一斉に、その暗がりの奥へと注がれる。
誰もが知っている――今宵、ただの祝宴では終わらぬことを。
「バザルナード王国、国王レオンハート・アウラル・グラディア・バザルザード入場!」
高らかに響く侍従の声と同時に、列をなして入場する随伴の騎士たち。
その鎧は異国の陽光を閉じ込めたかのような銀白に輝き、歩みの度に床石がわずかに震えた。
最後に現れたのは、一際堂々たる気配を纏う男。金の王冠を戴き、鋭くも慈愛を湛えた眼差しが広間をゆるりと横切る。
帝都の灯火と対峙する、もう一つの「王国の威光」。
貴族たちは息を呑み、帝国の重臣たちすら背筋を正す。
クラウスは、檀上の奥に設けられた二つの玉座の内、王国と相対すような漆黒で禍々しいものに座っている。
軍服をアレンジした皇服に、長い毛皮のローブを纏い、愉快そうに笑みを浮かべ両手の指を絡めている、
その傍には”戦禍の魔杖”が置かれていた。
ガチャリ、ガチャリ、ストッ――――
王国の威光がクラウスの横にある白銀で眩い程の輝きを放つ玉座に腰を掛けたと同時に、
彼の騎士たちは彼の背後と左側に別れて像のように整列した。
「…………。」
レオンハートは、静かに右手を軽く上げて、ひじ掛けに置いた。
彼の右指にはめられた数多の指輪やリングが輝きを放つ。
同時に、王国の外交官だと思われる、ちょび髭の中年が、一つの書状を持ち前に出た。
***
王国の外交官が膝を折り、掲げた書状を恭しく広間の中央に差し出した。
羊皮紙に刻まれた赤い紋章は、遠き異国の誇りと決意を象徴している。
「――我らが王、レオンハート・アウラル・グラディア・バザルザード陛下は、
このたび、帝国クラウス陛下に盟約の証を差し出される所存にございます」
張り詰めた声が石壁に反響し、空気を震わせた。
その言葉に、帝国貴族の中からわずかなざわめきが走る。
盟約――それは「同盟」か、それとも「服従」か。
誰もが解釈に迷い、王と皇帝の視線だけが広間の中心でぶつかり合う。
クラウスはゆるりと笑い、重く低い声を落とす。
「ほう……王国の獅子が、我が帝国の翼と並び立とうと申すか」
レオンハートの眼差しは、炎のように燃えてもなお揺らがぬ静謐を保っていた。
「…………。」
クラウスは静かに、傍に控えていたヴァルガスに向けて指を鳴らす。
すると、ヴァルガスは、書状と”一振りの剣”を持ち壇上へと上がる。
「……我が帝国としては……陛下のお考えとしては、王国は【服従】するべきでしょう、とのことです。」
ヴァルガスは、珍しく声を震わせ低く、驚愕したような表情で書状を読み上げる。
クラウスは、増々、愉快そうに口角を上げて、まるで蛇のような眼で王国の選択を待っていた。
大広間がざわつく。
帝国民や、王国から来訪してきた重鎮たち、その全てが困惑し騒ぎ出した。
「な、なんと……帝国は”服従”を求めているのか」
「陛下は何をお考えになって……」
「ククッ……戦力ではこちらが上手ですからね」
「ふざけるな、若造めが」
「どこまで愚弄するのか……帝国」
王国の随員たちは蒼白となり、ざわめきは怒号へと変わりかけていた。
しかし、レオンハートは一歩も動かず、ただゆるやかに立ち上がった。
玉座から放たれるその気配は、炎に照らされた鋼のように揺るぎない。
沈黙が広間を支配し、やがて彼の低く響く声が空気を切り裂いた。
「――帝国皇クラウスよ。獅子は決して翼の影に膝を折らぬ」
その一言に、ざわつきは一瞬で凍りついた。
誰もが息を呑み、視線は王と皇帝の間に走る火花へと釘付けになる。
クラウスは笑みを深め、戦禍の魔杖に指先を添えた。
「フフ……よかろう。ならば今宵は、獅子が翼に食い破られる夜とするか」
――――ドォォォン――――
その瞬間、閉じられていた、大広間の扉が慌ただしく開かれた。
「……待ちなさい!」
澄んだが、深い哀切を孕んだ声。
広間に集う者たちは一斉に振り返り、息を呑んだ。
そこに立っていたのは、誰もが亡き者と思っていた公国の公女――リヴェラ。
透きとおるように白いドレスが揺れ、蝋燭の炎に照らされるたびに、その姿は半ば実体であり、半ば幻影のように見える。
「り……リヴェラ公女!? まさか……」
「死んだはずでは……幽霊……?」
「いや、あれは……」
ざわめきが広間を呑み込み、王国の騎士ですら一歩後ずさる。
だがリヴェラの瞳はただまっすぐ、王座に座る二人――クラウスとレオンハートを射抜いていた。
「この盟約……従わないなら王国は”滅ぶ”わよ?」
彼女は静かに、檀上へと進み始める。
「……よく来たね。リヴェラ、いや、久しぶりだね」
クラウスは、さっきと変わらずの笑みのままこの状況を愉しんでいた。
「…………敗戦国の姫が帝国に来るとは、公国はおかしいのでは?」
「そもそも、公国が王国をそそのかすから始まったんじゃない」
再び会場内はざわつくが、今度はその全てが公女へと向けられる。
「…………」
彼女は無言のまま、檀上へと上がり、二つの玉座の間に立つ。
「この場で争えば、王国は負けるわよ?……私たちみたいにね。
いくら王国と言えども古には勝てるはずはないわ。
アナタたちの先祖も、何代にも渡って無様に負け続けてきたじゃない?
前の戦いで王国が勝てた理由は”帝国”の”先帝”のおかげなのよ。
王国は敵国の帝国の掌で踊らされていたのよ」
静まり返った広間に、リヴェラの言葉が冷たい刃のように突き刺さる。
「……帝国の掌の上、ですと?!」
王国の随員の一人が思わず叫んだ。だがその声は、広間の重さにすぐ掻き消された。
レオンハートは、黙したままリヴェラを見据えている。
その瞳には怒りも驚きもなく、ただ深い炎が揺れていた。
「リヴェラ……公女」
低い声で、ようやく王は口を開いた。
「ならば、汝は――帝国の代弁者か」
リヴェラはゆるやかに首を振る。
その微笑は、どこか儚く、そして切なげだった。
「……どうでしょうね?私にも分からないわ。
でも、王国が愚かな選択を取る前に、亡き父……マーザディウスに変わって盟約を果たしに来たわけよ。
だから言うわ『帝国と争えば、全てが血に染まり、アナタの代で王国は終わるでしょう』ってね」
クラウスが笑い声を漏らす。
「フフ……さすがは幽霊公女。死人は未来をも視るか」
彼の声音は愉快そうだったが、その瞳の奥には、わずかに警戒の光が宿っていた。
リヴェラはふと、王の方へと視線を戻す。
「レオンハート王……選んで。獅子として誇りを貫き滅ぶか、それとも翼の影に身を委ね、民を生かすか。
どちらが真の勇気か――答えを、この場で示して」
「…………」
会場にいる全ての人が唾を飲み込む。
重々しい剣幕のレオンハート。
彼から発せられる、息をのむかのような威圧感。
すべては王国の威光にかかっている。
「――分かった。王国は帝国に”一部服従”という手段を取ろう。
内面では服従で、外面は盟約だ。
――王国は、住まう王国民すべての命を救うために、仕方なく”服従”しよう」
広間にざわめきが走る。
「一部……服従だと?」
「そんなものが通じるはずが……」
「いや、王は……王は命を優先したのだ」
クラウスは一瞬、目を細めた。
その笑みは崩れぬまま、しかし瞳の奥に揺らめく光は蛇から猛禽へと変わっていく。
「ほう……なるほど。翼の影に入った獅子は牙を隠し、時を待つというわけか」
彼はゆるやかに立ち上がり、杖を鳴らす。
大広間に響いた音は、まるで裁きを告げる鐘のようだった。
「良いだろう。王国は帝国の”庇護”を受ける。だがその庇護は、血と忠誠によってのみ支えられる……」
クラウスがそう告げたとき、リヴェラは小さく目を伏せた。
彼女の口元にはかすかな安堵と、それでも消えぬ憂いが宿っている。
「レオンハート王……あなたの選択が、果たして救いとなるのか、それとも新たな呪いとなるのか
……それはまだ誰にもわからないわ」
「――そんな事、分かっておるわ小娘……」
レオンハートは静かにそう呟くと、ドサッと玉座に座り込み天を仰いだ。
***
戦後の帝国の“夜”には、二つの光が交錯していた。
一つは、王宮の大広間。
盟約が結ばれたその場所は、煌びやかな燭台に照らされながらも、そこに映る影は暗い。
かつて獅子と謳われた王は、いまや翼の影に潜むただの影法師。
光の中で、最も暗い影が浮かび上がっていた。
もう一つは、帝都の片隅の小さな酒場。
騒がしく笑う声の裏で、ひとりの少女はグラスを重ねていた。
ミレイナは、アリシア、リュミエル、ネルフィ、そしてソフィア夫人を呼び寄せ、
別れを告げることもできず、ただ酒に溺れることで心を誤魔化していた。
赤らんだ頬に浮かぶ笑顔は、崩れ落ちる寸前の仮面のように脆い。
――歴史の均衡と、決別。
その二つの夜が重なり合うとき、物語は新たな幕を上げようとしていた。
次の更新予定
隔週 日・木 23:00 予定は変更される可能性があります
ヴェルトハイム男爵譚 和泉 @115232
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