空っぽ
@KEKEKEKE555
空っぽ
飛び降りてしまおうか。
私と同じ目線、あるいは少し下にチカチカと赤色に点滅するビルの明かりを見ながらふとそんなことを思った。高所特有の強風は私の髪をなびかせ、頭髪からふっと嗅ぎなれた甘いシャンプーの香りが漂う。目線を少し落とすと、土地柄もあってか、背広を着た会社員が帰路についていたようで、その様子を見てなぜか、蝉に群がる蟻を思い出した。けれども私はその人々を羨ましく思った。なぜだかは自分でも分からなかった。いや正確にはわかっているのかもしれないが、わかりたくもなかったのだろう。自分が何を求めて、何で満たされ、何で幸せになれるのか。無数の選択肢の中から、咀嚼し吸収できていたなら、きっとこんなところには立っていない。けれども仕方のないことであった。生きていく上で、いろんな色が混ざり合って結局のところは黒に近づいていく。そうした過程の中で、私の中に眠っていた種類の異なる劣等感に対して目を向ければ向けるほど、その区別がつかなくなり、それはやがて大きなごみの塊のようになった。
ここから一歩踏み出してしまえば楽になれるのかもしれない。けれども、脳裏にあの笑ったときのえくぼが浮かぶ。そして一歩後ずさる。どんなに苦しくても、孤独でも、先が見えなくても、この一歩を進めるわけにはいかない。私が守らなくてはいけないのだから。
私には父が二人いる。一人目の父は、祖父から継いだ八百屋をしていた。店頭に並ぶ絵の具のチューブから絞り出したしてかためたような鮮やかな色彩のトマトは今でも鮮明に覚えていた。逆に父の顔はよく思い出せなかったが、眼鏡をかけていたこと、首にタオルを巻いていたこと、そしてよく笑う人であったことはかろうじて覚えていた。
二人目の父。つまり私の現在の父は元不動産屋であり、前科者。今はピンサロを経営している。私は中学二年生のころまで、父を不動産屋さんだと思っていた。父が自分でそう言っていたからだ。けれども、その当時から父の職業について全く疑問に思わなかったわけではない。なぜなら、父が家のリビングでしていた電話の内容は、いつからか不動産屋のする電話とは遠く離れたものになっていったからだ。結局私が中学を卒業するころに父は風営法違反で逮捕されたわけである。それ以来、父は私に仕事の内容を隠すこともなくなった。母はそんな父のことを軽蔑はしているようであったが、かといって離れるわけでもなく、ただその溜まった不満を日常的に私にぶちまけた。「日本で生まれていれば私も働くことができた」「あなたは手に職をつけなさい」「きちんとした仕事をしている人と付き合いなさい」この三つの言葉を母は口癖のように私に説いた。ではなぜ、あの優しく笑う父と別れ、金色のチェーンと歯をちらつかせる父と結婚したのか。と聞きたくなることもあったが、どこか母のことが哀れで直接的に聞くことはなかった。かく言う私自身、父のことも母のことも嫌いなわけではなかった。お金は腐るほどあったようなので、きれいな家に住んでいたし、大学付属の所謂お金持ちの中学校に通わせてもらっていたし、いいものも食べさせてもらえる。「金のことは何も心配するな」と父は口癖のことのように言っていたが、その言葉通り何も不自由はなかった。けれども、家に帰って父の電話の内容が耳に入ると、母からいつものように説かれると、私の心臓は静かに、ゆっくりと搾り取られていくようなそんな感覚に陥った。そして高校二年生に上がる頃には、私は自分のことを鳥かごの鳥だと思うようになった。汚い金で買った良質な餌で生かされ、糞をして成長していく。籠の外を自由に飛んでいる鳥が、ひどく美しく見えた。
「私ね、大学受験しようと思うの。」
父と母にそう告げると母は「いいじゃないの。自分で稼ぐためにはもっといい学歴が必要だわ。」と喜び、父は「塾の金はいくらでも出してやるから、どうせならいい大学に行けよ。」と言った。「うん。頑張るね。」と言った私は、どんな顔をしていただろうか。
結局一年の浪人期間を通じて、勝ち取った大学は私が元々通っていた付属高校の大学と同じくらいの偏差値であった。しかしながら父も母も私を咎めることはしなかった。ちょうど私の合格発表の時期に父の浮気が発覚し、父は気まずさからか家に居ることが減ったし、母もそれどころではなかったのだろう。私の受験のことなど忘れたかのように、娘にこんな話をしてもいいのだろうかと思うような父の浮気の内容を毎日、毎日語っていた。「料亭」「女の人が二人」「アフター」。右から左へと流れていくはず母の言葉が嫌に頭にこびりついていった。だが、私として都合がよかった。このどさくさに紛れて、私は一人暮らしの提案を持ち出し、父からの仕送りも得ることができた。唯一の心配は、母が寂しがることであったが、意外にも母は何も言わなかった。もしかしたら万が一の時の避難場所ができたとでも思っていたのかもしれない。
管理費共益費込みで家賃11万円。RC造の1Kオートロック付き。一人暮らしにはまずまずの家であった。私は引っ越し業者にお礼を言い、玄関の扉を閉めると窓の外へと向かった。10階ということもあって、左には都心部のビル群が連なり、右には雲で薄れた山々が鎮座していた。私はポケットの中から煙草を取り出し、火をつけるとふーっと吐き出した。煙が街に広がっていき、薄れ、消えた。少しだけ自由になれたような、そんな気がした。
大学二年生の冬、人生で初めての出会いをした。さらさらの黒い髪。きれいな二重の瞼。丸顔できゅっと引き締まった口元が可愛らしかった。彼との出会いはまるでドラマのようだった。
とても寒い日の夜であった。バイトを終え、駅から家に帰る途中で急な雨に降られた私は何だか馬鹿バカしくなって、駅の前のベンチに座っていた。髪から滴る水は気持ちが悪かったし、肩や腿のあたりがだんだんと冷たくなってきて、体の芯まで冷えていくようだった。そんな私に傘を差しだしてくれたのが彼であった。
「大丈夫ですか?」
傘を差しだした彼は、不思議そうに私を見た。駅の明かりで見えた彼の目は、真っ黒なのにどこか純粋で、まっすぐで、それでいて優しかった。けれどもその目を見た時、その目に映った私がどう見えていたかの方が気になって、「大丈夫です」とだけ言い残し、その場を去ろうとした。
けれども彼は「折り畳み傘あるんで」といって、強引に私に傘を押し付けるとどこかへ行ってしまった。彼の握っていた傘の取手がやけに暖かくて、私の頬を雫が伝っていくのを感じた。気が付くと私はせっかく借りた傘を差さずに雨の中を走りだし、パシャリパシャリと音を立てながら彼の後を追った。彼の背中が見えた時、まるで助けを求めるかのように喉から声が出た。
「あの!」
彼がこちらを振り返った。彼も肩の来ていたベージュのジャケットはすっかり色が変わっていた。濡れた前髪が少しかかった目がまた真ん丸と見開かれた。
「傘、さしてないじゃないですか。」
優しく笑った彼の顔にえくぼができた。
彼は地方の出身であった。年は一つ下であったが、とてもしっかりした人であった。奨学金を借り、国立大学に通う絵にかいたような好青年。それに兄弟が多かったようで、長男であった彼はそのおかげで面倒見がいいらしい。彼が初めて私の家に来た時「これは掃除のし甲斐がありそうだ。」と大きな目をほそめて笑い、部屋に投げ捨てられたブランド物のバックや空き箱を見ると、異国のものでも見るかのように、首を傾げた。けれども彼は私に何も聞かなかった。そのブランド物を買うお金がどのようにして作られたか。私がどのようにしてこの部屋に住んでいるのか。彼なりの気遣いだったのかもしれない。けれども私は彼のことがどこまでも気になった。今までどんな暮らしをしてきたのか。好きな食べ物は何なのか。いままでどんな人を好きになったのか。どんな些細なことも聞き逃したくなかった。何が彼を作っているのか。私の興味は底を尽きることはなかった。そしてその返答に対して共感し、喜び、はたまた悲しみ、けれどもわたしの感情がなぜそこまで彼に左右されるのかは分からなかった。彼はほかの人みたいに私の顔を褒めることはしなかったし、ブランドものに身を包んでるからと言って、奢られようとすることもなかった。彼が大学の帰りにファストフードを買って、私の家に来て、映画を見て、身体を重ねる。いつからかそんな日常が作られていった。二人で遠出をするなんてことはなかったけれど、それでよかった。彼と身体を重ねることで私の心は充たされた。けれどもそれと同時にその些細な日常は私の心を締め付け、後ろめたさを感じ、それは日に日に罪悪感へと変わっていった。人に心の内を隠すことは得意だったはずなのに。
初めて彼と身体を重ねた日ことを私はよく覚えている。性行為など私にとっては金を作るための手段だと思っていた。自分の快楽だとかそんなものとは無縁のもの。相手の欲求を満たす代わりの金が得られるという一つの手段。そうやって父から学び、私は育ったのだから。その金が私の身体を、目を、口を、鼻を作ったのだから。その時の私はいつかの鮮やかな色彩を忘れていた。けれども、彼の唇が私の汚い口に触れたとき、細胞の一つ一つが悦び、頭が真っ白になった。彼の肌の感触が私を支配し、彼の舌に一つひとつ丁寧に洗われていくような、そんな感覚だった。彼が私の中にいることがどうしようもなくうれしかった。そして彼が私の中で果てると、今まで味わったことのない幸福感と満足感で、体の力が抜け、私を満たしていった。そして彼の顔を引き寄せると、また唇を重ねた。
彼を照らす常夜灯のオレンジの光がやけに美しく見えた。この光景を死ぬまで見たい。当時は心からそんなことを考えていた。
「彼氏ですか?」
バイトの休憩時間に彼の寝顔を隠し撮りした写真を見ていると、そんなことを聞かれた。顔を上げると、そこにはみくちゃんが腰をかがめて私のスマホを覗き込んでいた。彼女は私よりひとつ年下らしい女の子で、顔を合わせれば少し会話を交わす程度であったが、私はひそかに彼女の絶妙な二重幅を羨ましいと思っていた。
「うーん。彼氏なのかな」
「え、ちがうんですか?」
「言われてみれば付き合うとかの話したことなかったかも。」
「それってセフレってことですか?」
彼女はふっと笑って、長い髪をくるくると指で回した。「セフレ」なんて人生でほしいと思ったことなど一度もなかったし、自分とは無関係の単語だと思っていたから、彼女の言葉を理解するのに少し時間を要した。
「セフレじゃないよ。」
「してないんですか?」
「ううん。したよ。」
「でも付き合ってないんですよね。」
「うん。」
「じゃあセフレですよ。」
彼女は吐き捨てるように言った。彼女は何をムキになっているのだろうか。恐らく今、私は彼女から悪意のある攻撃を受けている。以前の私ならムキになって言い返していただろう。けれども、不思議と今日はそんな気にならなかった。彼との関係は、「セックスフレンド」という言葉で形容できるものではないことを私は思っていたからだ。もっと美しくて、鮮やかで、心が躍るような、いわば絆であった。きっと私も彼もお互いがいなくてはだめだと。だからこそ私は彼女のことをかわいそうに思ったのだろう。きっと彼女はこの感情を知らないのだろうと。以前までの私の様に、金色の鎖につながれて身動きが取れなくなっているのだ。だからこそ、私に彼氏がいることを認めたくなくて、セフレという安いレッテルを張るのだろう。私はインスタを開くと彼のアカウントを探し、一番映りのいい写真を彼女に見せた。
「かっこいいでしょ。私のセフレ。」
彼女はしばらくその写真を眺めていたが、何も言わずに部屋を後にした。
ある日、母が部屋を訪ねてきた。母は部屋を見て驚いたようで目を丸くした。
「意外と片付いているのね。」
「まあね。」
私は彼のことを母には言わなかった。母はデパートで買ってきた箱を机の上に置くと、中からショートケーキを取り出した。私はそれをお皿に乗せると母と向き合って座った。はち切れそうなほど張りのある、真っ赤な宝石のようなイチゴに私はフォークを刺した。口の中に贅沢な甘みとわずかな酸味が広がった。
「元気にしてた?」
母は私の顔を見ていった。母の目に、私はどう映っているだろうか。
「うん。元気。」
「生活はできてるの?家賃のことは大丈夫だと思うけど。仕送りで足りてるの?」
「足りてるよ。それにお父さんの助けばかりじゃいやだしね。お母さんよく言ってたじゃない。自分で稼げるようになりなさいって。」
「そんなこといったかしら。」
「言い方は少し違ったかもしれないけど。」
母は沈黙から逃れるかのように、机の上のケーキにフォークを伸ばした。つけっぱなしになっているテレビでバレンタインの特集をしていたようで、若い女特有の声が聞こえた。母はフォークを止め、テレビの方に顔を向けた。
「溶かしたチョコをハート型にして渡すのって何がいいのかしらね。」
私は彼の顔を思い浮かべた。
「その過程が嬉しいんじゃない?自分のために作ってくれたっていう。」
「でもチョコはチョコじゃない。」
母はおかしそうに笑った。久しぶりに会う母の顔は、どこか穏やかだった。別に避けていたわけではなかったが、穏やかな母の顔を見たとき、私の中の長年の疑問が気が付いたときには言葉になっていた。
「お母さんはどうしてお父さんと別れてあの人と結婚したの?」
母は目線を下に落として、再度私を見た。以前の私と同じ目。どこか懐かしく感じられた。そして薄い唇をゆっくりと開いた。
「あの人はね。あの人って前のお父さんね。お母さんと出会った頃からお金がなくてね。家庭の事情もあったからしょうがなかったし。それでも愛していた。でもよくある話でしょ。どんなに愛があってもそれだけじゃどうにもならないことってあるのよ。私はお金で苦労してきたことが多かったから、あなたにも同じ思いをさせたくなかった。そう思うのが少し遅かったかもしれないけどね。」
「じゃあ私のためってこと?」
「それだけじゃないわよ。でもあなたのためではあったわ。ただその時はそうするしかなかったのよ」
「私がお金なんていらなかったって言ったら?」
「何言ってるの。お金があったからいい高校にも塾にも通えたんでしょう。出来なくてやらないのと出来るけどやらないのは違うのよ。私はあなたにやるかやらないかの選択肢を残してあげたかったの」
「それでどうなったの?」
「どうって?」
母はきょとんと首を傾げた。この人は本当に何もわかっていないのだと思った。きっと説明しても分かってもらえない。分かるなら、あなたのためなどとは言えるはずがない。
「それで私はどうなったって聞いてるの!確かに選択肢は貰ったよ。でもそれでどうなった?お母さんは私が選んだその先を見てた?私が何でその道を選んだのかの理由まで考えたことあった?」
「あるわよ。」
母は私から目をそらし、小さい声で言った。胸がキリキリと痛んだ。
「何にも知らないくせに」
私も聞こえるか聞こえないかの小さな声でつぶやいた。初めて本音で話し、部屋には沈黙が流れた。テレビから聞こえる特集の雑音が私をイラつかせた。
母が帰ると、私は手首にカッターを押し当てた。理由はわからない。けれども行き場のない私の感情は、自分に向かうしかなかった。床にポタリポタリと鮮やかな赤色が滴り落ちた。しばらくボーっと何も考えずに椅子に座っていた。床に垂れた血は変色をはじめ、黒に近い紫色のようになっていた。
バレンタインデーにここまで心が躍ったことはなかった。私は結局自分で作ることはしなかったが、デパートで彼の好きそうなチョコレートを3つ買った。その3つを合わせたら、少し安めのブランドなら財布が買えそうな値段であった。
彼がいつものようにハンバーガーとポテトを机の上に広げ、それを食べ終えると私は隠していたチョコレートを彼に渡した。彼は嬉しそうにそれを受け取ると、包み紙をびりびりと破った。
「どれから食べるとかある?」
「んーないんじゃない」
私がそういうと、彼は色の異なるチョコレートを同時に口に放り込んだ。もう少し味わって食べてほしかったが、彼が美味しいと言うのでそれでよかった。私は彼からラズベリーのチョコを一つ拝借すると口に放り込んだ。さすが高いだけあって、とても上品な味だと思った。
「風俗で働いてるんだね。」
ハンバーガーの包み紙を袋に入れていた時、背後から彼がつぶやいた。一瞬時が止まったようであった。私は背筋が凍りつくのを感じたが、反対に頭皮や脇が熱を帯び、汗が噴き出すのを感じた。しかし、彼が私にその言葉を発しているとは限らない。平静を装い、作業を止めないようにした。彼の方を向くことはできなかった。
「誰が。」
「わかってるくせに。」
「私?」
「ほかにいる?」
彼は声色を変えずに行った。私はまだ彼の方を向くことができなかった。きっと怒っているに違いない。好きな人が風俗で働いていていい気のする人なんていない。だからこそ私は彼になんと説明したらいいのかわからなかった。それにもう一つ気になることがあった。それはなぜ彼が知っているのかだ。私の働いている店はパネルにもホームページにも顔を出していない。だから直接みられない限りは、分かるはずがなかったのだ。しかしその答えはすぐにわかった。彼は私の背後から顔の前にスマホを突き出した。そこに映っていたは職場でセーラー服を着て待機している私の姿を収めた写真と顔の隠されたパネルの写真の2枚が1枚の写真に結合されたものだった。
「ごめん。」
聞こえているのか不安になるほど小さな声だった。もはや言い逃れはできなかった。私は彼のことを傷つけたのだ。ゆっくりと彼の方を向いた。しかし彼の顔は想像していたものとは違っていた。出会った時と変わらない真っ黒な目。彼はスマホをテーブルの上に置くと、ソファに深く腰掛け真っ黒の目が見えなくなるほど目を細めて笑った。
「俺さ、ブランドものとか疎いんだよね。」
「え?」
唐突に発せられた言葉の意味が分からずに思わず聞き返した。彼は表情を変えずに続けた。
「この家に来たときさ、見たことないブランドの空き箱とか高そうなバッグとかたくさんあって。値段とか知らなかったけど。前に調べたときにいくらなのか知ってびっくりしたんだよね。それ以前にいい部屋住んでるしさ。だから実家がお金持ちなのかと思ってたけど自分で稼いでたんだね。」
彼は感心したように口角を上げた。家賃は払ってないよ、などとこのタイミングで言えるはずはなかったが、それよりも私は不思議に思った。
「怒ってないの?」
「え?怒ってないよ。むしろすごいと思う。だって風俗とかって汚いおっさんとか来るんでしょ。よくできるよね。」
私は彼の言葉がショックを受けたことから発せられているのだと思った。いや、そうであってほしいと思ったのかもしれない。けえれども彼の顔はとてもショックを受けた人のものではなかった。私を見る彼のまっすぐな黒い目は珍しい生物を見つけたようなものであった。
「なんで怒らないの?」
震えた声だった。なぜ嘘をついた私の声が震えているのかが分からなかった。けれども瞬きをすると確かに涙が頬を伝った。
「怒ってほしいの?」
数秒の沈黙が流れた。彼の問いに答えることはできなかった。だが、わかっていた。私は彼に怒ってほしかったのだ。彼が怒って、もうやめてれと、そう言ってほしかった。そう言われて楽になりたかった。そうしたら何かが変わるような気がしたのだ。私はすがるように、確かめるようにかすれた声を絞り出した。
「好きな人が風俗嬢なんて、嫌でしょ。」
「好きな人だったらね。」
その日、彼は避妊をしなかった。そして不思議と私はいつもより快楽を享受した。だが、それは肉体的なものであって、精神的満足とは完全に切り離されたものであった。行為が終わると彼は私に聞いた。
「なんで風俗嬢になったの。」
「お金のため。」
私は無心で答えた。彼はわたしの頭を支えていた腕を抜くと、自分の頭の下へと引き上げていった。
「お金ないの?」
「あるよ。実家には。でもね助けを借りたくないの。」
彼は興味をなくしたように小さくため息をついた。
「じゃああんな値段のブランド品買わなきゃいいのに。」
「だって言われるんだもん。私の通ってた高校ってお金持ちの子が通う高校だったの。それで大学に入ってから出身高校言うと、へーお金お持ちなんだ、って。でもこれ以上お父さんにお金もらいたくなかったから。自分で稼ぐしかないでしょう?」
「ヴェブレンが聞いたら喜ぶね」
「ん?」
「何でもないさ」
彼はあざ笑うように言った。そして少し考えるように顎に手を置くと子供のように言った。
「俺、好きな人が風俗嬢だったら嫌だけど、風俗嬢は好きだよ。」
唐突な彼の言葉が理解できなかった。
「どういう意味?」
「俺の親って仲いいんだよね。傍から見ると。ラブラブな夫婦ねって。なんでだと思う?」
「わかんない。」
「子供が多いからさ。それに親父は外面はいいからさ。理想の旦那で理想の父親ってちやほやされて。でも現実は違う。親父は母親のことを愛しているわけじゃないんだ。俺の妹なんて、眠らされてる間にできた子だぜ。可哀そうだろ。」
彼はけたけたと笑った。壊れた人形のようだった。
「それと風俗嬢が好きなのと何の関係があるの?」
「金さえ払えば快楽をくれるところ。俺の父親が風俗にはまったおかげでこれ以上兄弟が増えずに済んだ。ある意味救世主だね。」
彼は軽い冗談を言うように笑った。
「お母さんは何も言わないの?」
「言えないのさ。怖くて。俺も詳しく事情を知っていたわけじゃないけど、俺も親父のあの目が嫌いだった。だから逃げた。」
彼は天井の常夜灯を見つめていた。オレンジ色の光に照らされた顔の顔は、寂しそうで、可哀そうだった。
「無償のやさしさも愛なんて言葉もこの世にはないよ。特に子供が愛の結晶なんて言うやつは本当に馬鹿だと思う。みんなおかしいのさ。自分の心の中にある色んな欲望をきれいに見せるためにきれいな言葉で取り繕うんだ。」
少し早口で言い終えた彼の顔を見つめていた。きっと彼は、自分のことを快楽のついでの存在だと思っているのだろう。彼は無償のやさしさや愛なんてこの世にはないと言った。ではなぜあの日、彼はわたしに傘をさしてくれたのだろうか。少なくとも私は、そこに何か欲望なんてものは感じなかった。それに私が彼に持っていた感情は、何だったのだろうか。
「じゃあ、どうしてあの日、私に傘をさしてくれたの。」
んーと彼はうなった。そして思い返したようにふっと笑った。
「俺さ、整形顔好きなんだよね。好きなタイプの顔の子が雨の中悲しそうな顔して座ってたらチャンスって男ならだれでも思うよ。」
私はゆっくりと目を閉じた。そして、初めて会った時の彼の顔を思い出した。彼の目が好きだった。私はゆっくりと起き上がって彼の顔を見つめた。うす暗闇の中見る彼の目は、まっくろで、どこか知らない人の目に見えた。
「じゃあ私のこの気持ちは?なに?」
私は彼を見下ろして言った。どこの誰かもわからない彼は、私の気持ちをどのように受け取っていたのだろうか。
「俺のこと好きだったの?」
私は彼の問いかけに答えることができなかった。彼と会っていないと胸が苦しくなった。何をしているのか気になった。私だけを見ていてほしかった。だからこそ怒ってほしかった。私と同じ気持ちでいてほしかった。物に当たってでも、私の首を絞めてでも彼に取り乱してほしかった。それぐらい彼の中で私は影響力を持っていたかった。けれども、不思議なもので好きという二文字を私は受け入れようとしなかった。そして好きとは何だろうかという漠然な疑問だけが残った。私が何も答えずに彼のおでこのあたりを見つめていると彼が口を開いた。
「わからないなら教えてあげるよ。好きじゃなかったと思うよ。空っぽなだけ。それを満たしてくれる相手が欲しかっただけ。だって本当に好きだったとしたら、何も言わずに風俗嬢なんてやめてるはずだろ?でもやめてない。さっき金のためと言っていたけど、君が好きなのは金だけなのさ。もっと言うならばお金を持っていると周りから思われている自分が好きなのさ。そしてそのために身を削って、それを俺と会って癒していた。それだけ。俺だってそうさ。傷の舐めあい。」
私は黙った。今まで彼はこんなことを言う人ではなかった。私に対して何かを言う人ではなかった。いつも笑って私の話を聞いてくれていた。
「私の何を知ってるの?」
震える声で言った。だが自分の声とは思えないほど低い声だった。そして腹の底からふつふつと形容の出来ない感情が沸き上がってきた。
「何も知らない。何も言われてないし。ただ一緒にいてそう思っただけ。そのやりすぎな整形とか左の手首の傷とか、腐るほどあるブランドものとかさ。そういうとこだけ見たら、ああこの子は空っぽなんだなって思っただけ。さっきの理由を聞いてもね」
その言葉を聞いたとき、私の中でぷつりとなにかが切れる音がした。空っぽ。その言葉だけが私の中でふわふわと宙を浮いているようだった。そして、私はあることに気が付いた。言ってはいけないと思った。けれども、もはや私にそれを制御する力も気力も残っていなかった。
「あなたと、あなたのお父さん。そっくりね。話を聞いてる限りだけど」
その時、彼はゆっくりと起き上がった。そして体を反転させ私の方を向いた。その瞬間身体に衝撃が走った。それと同時に、腹部のあたりに鈍痛が走り、かはっと情けのない声が出た。私は身体を半分つぶされた虫のようにのたうち回り、腹部を抱えてうずくまった。
「もう一回言ってみろ」
恐ろしい声だった。刺青の入った人の声とも酔っぱらいの怒号とも違う。人の発した声とは思えなかった。
「おい。もう一回言ってみろ、このくそ売女。誰と誰が似てるって。何百万かけたか知らねーけど次は顔行くぞ。」
そういうと彼はわたしの髪の毛をつかみ、勢いよく引き上げた。私の目から反射的に涙があふれ出た。声を出そうとしたが、震えて何も発することができない。彼はわたしの頭をグワングワン前後に振るとごみを捨てるかのように枕に放り投げた。私は恐怖で枕に顔をうずめた。体はぶるぶると震え、逃げ出したくても言うことを聞いてくれそうになかった。彼は私の後頭部をつかむと枕に押さえつけた。息ができない。私は頭を上げようとじたばたと動き回ったが、成人男性の力に勝てるわけもなく、ただ息が苦しくなるだけだった。そしてだんだんと意識が遠のいていった。
何時間ほどたっただろうか。気が付いたとき、彼は部屋にいなかった。私はまた泣いた。声を出して泣いた。まだ腹部には痛みが残っていた。気を失っている間に胸も殴られたのだろうか。腹より胸の方が何倍も何倍も痛かった。
「いたっ」
まな板の上で大根を切っていると、指からたらりと真っ赤な血が流れた。すると今の方からドタバタという足音と共に「ままー」という声が聞こえた。娘は私の指を見ると、また今の方に駆け出し、絆創膏を持ってきた。
「まま、大丈夫?」
「大丈夫よ。ありがとう。」
私は娘から絆創膏の箱を受け取ると、一枚取り出し人差し指に巻き付けた。赤い血が白いガーゼにしみこんでいく。娘の方を見ると満足そうに笑っている。無色透明の私の天使。いつかこの子が父親のことを私に聞いたとき、自分をどうやって育てたのか私に聞いたとき、私はきちんと話せるだろうか。それを愛と受け取ってくれるだろうか。私は娘の顔にできたえくぼを見ながら、ふとそんなことを考えた。
空っぽ @KEKEKEKE555
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます