優先席に座る人

脳幹 まこと

労りの心を



 アスファルトの熱気が、開いたドアから生ぬるい塊となって流れ込んでくる。

 バスのクーラーは弱々しくぬるい風を送るだけで、人々の熱気と誰かの甘い香水、そして微かな消毒液の匂いが混じり合った車内の空気をかき混ぜるだけだった。

 満員のバスには席はおろか、吊り革もほとんどが埋まっている。


 その優先席の一角に、男は座っていた。

 季節にそぐわない長袖のシャツはよれており、ぼさぼさの髪が額に張りついている。じっとりと汗を滲ませているのに、本人は気にも留めない様子で、膝の上の真新しいリュックサックを祈るかのように抱えている。


 そのとき、バスのドアが開き、一人の母親が赤ん坊を抱いて駆け込んできた。彼女の額にも汗が光り、使い古された抱っこ紐の中の赤ん坊は、暑さのせいか少しぐずり始めている。

 母親は「すみません」「すみません」と言葉をかけながら、立つ乗客たちの間を縫うように進み、まっすぐに男の前に立った。その声は、息を切らしながらも、芯には凛とした響きがあった。


「あの……こちらの席、代わっていただくことはできないでしょうか」


 男はゆっくりと視線を上げた。口元に笑みをはりつけて、こう発した。


「なるほど、お困りなのですね。私も色々と困っていますからお気持ちは分かりますよ。ですが、見ていただけるとお分かりの通り、現在このバスには席がひとつも空いていないのです」


 数秒の沈黙が、エンジンの唸りとクーラーの作動音の中に重く横たわる。

 母親は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに言い返した。


「そうですよね。ですが、あなたの座っている場所は優先席ですよね」


「そうですよね。私も困っています。ご安心ください。優先席は他にもいくつかございますから。例えば、そちらの窓際にお座りのご婦人にお願いしてみてはいかがでしょう」


 老婦人は突然の指名に口をぽかんと開け、小刻みに首を横に振った。


「私のような若輩者よりも、経験豊富な方のほうが、きっとあなたの状況を深く理解くださるかもしれませんよ」


「いや、ちょっと……ご老人に代わってもらうなんて」


「立っているご老人も何人かおられますでしょう」


 母親は改めて見回してみるが、優先席に座っているのは、老人か、自分と同じ親子連れしかいない……この男を除いては。

 全員がそれとなく顔を逸らすか、自分の子供に夢中で気にしていないか。


「とにかく本当に辛いんです。どうか……代わってもらえませんか」


 男は彼女と赤ん坊を見た後、合点がいったような表情を浮かべた。


「なるほど。あなた方のような感情論に訴える人々が、この国の論理的思考を妨げているのですね。重たい荷物があるのがお辛いと。ですが残念なことに、私にも同じ重さの荷物があるのです。なぜならこのリュックサックにはパソコンと参考書が入っているからです」


「ですが……その、膝に置かれている荷物でしたら、床に置くことだって……」


「でしたらあなたもそれを床に置けばいいだけではありませんか?」


 母親が凍りついた。様子を伺っていた乗客達も全員同じようになった。


 バス内の時が止まった。


 ぐずっていた赤ん坊が、その異様な空気を察知したのか、ひときわ甲高い声で泣き出した。

 泣き声を聞いた途端、男の表情は汚物を見るような嫌悪に満ちたものに変わった。


「その荷物をすぐに静かにさせなさい。私の荷物を見なさい。きちんとしているでしょう」


 呆然としたままの母親をよそに、男は苛立ちを吐き出し続けた。


「あなたが出来ないなら、かわりに私がやりましょうか」


「調子が悪くなったら、叩くと直ると聞いていますのでね」


「早く荷物を床に置いてください。黙らせますから。あなたは楽になる。私も不快にならない。一石二鳥です」


 地獄のような空気に耐え切れず、ついに立っていた乗客の一人が、男を強引に引っ張り上げた。

 優先席に座っていた老人も、母親に席を譲り出した。「そんな」の三文字を辛うじて発した彼女に「いいからいいから」と返す。


「アンタ、次で降りろ」


「私の目的地はまだ先ですので降りません。運賃は前払いですし、運転手さんにも伝えました。私はなんら罪を犯してはいません」


「降りろっつってんの!!」


「私は知覚過敏です。あまり大きな声を出さないでください」


「アンタ……マジで頭おかしいよ」


「何もおかしくはありません。優先席は病人に譲る必要があります」


 そうこうしているうちに、バスは次の停留所に着いた。


 男は乗客数名がかりにより、半ば強引に外に出されてしまった。

 乗り込む人は心底不思議そうな顔をしながらその様子を見ていた。


 ドアは容赦なく閉まった。

 男はドア越しに運転手に抗議しにいくが、運転手は首を横に振り、そのままバスは走り出した。


「ただバスに乗っていただけなのに……」


 男の中に悲しみが去来した。聡明な人間はいつもこうなる。今までだってこういった差別を何度も受けてきた。

 凡愚な民衆は、特別な存在を受け入れるだけの寛容さを持っていないのだ。


「被害者は泣き寝入りするしかない……これがこの国の実態。だからこそ……私の手で未来を変えなければならないんだ!」


 男はバス停の近くにある木に寄りかかり、リュックサックを開ける。


【組織】のシールが何十枚も貼られたノートPCと、【組織】のリーダーが記した書物――流血革命。


 男は赤、黄、黒の3色のまだら模様のその表紙を見て、涙を流す。

 この書物にどれだけ心を救われたことか。


「必ず……必ず、使命を達成して見せる!」


 誰もが誰もを労われる世界を目指して――

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