第2話 逃げ場のない夜

夜の新宿――ネオンと酒と喧騒が入り混じる、眠らない街。

歌舞伎町の中心から少し外れた、花道通り。風俗店や飲み屋がぎゅうぎゅうに並ぶその路地裏を、ひとりの少女が駆け抜けていた。

原田めぐみ。茶色いロングコートに身を包み、息を切らせながら走るその横顔には、明らかな焦りと恐怖の色が浮かんでいた。

「おいこら! 待ちやがれ!」

背後から響く怒鳴り声。黒スーツの男が二人、彼女を追いかけてくる。視線の先に見えるのは、焼肉屋の提灯、酔客の笑い声、キャバクラの呼び込み、パトロール中の警官……だが誰もが、自分に関係のないこととして見て見ぬふりをしている。

ここは、そういう街だった。

めぐみは細い路地へと身をねじ込み、花道通りを右へ左へと曲がりながら逃げ続ける。視界の端で黒服の影が追いついてきていた。足がもつれそうになったそのとき、不意に前方の人影にぶつかった。

 「……おっと」

男の声がした。めぐみは反射的に尻もちをつく。まるで壁に衝突したような衝撃だった。

顔を上げる余裕もないまま、「す、すみません」とだけ言い残し、再び立ち上がろうとする。

だが――腕を掴まれた。

「……ちょい待ち」

その声には、焦りも怒りもなかった。ただ落ち着いていて、なぜか不気味なほど冷静だった。

めぐみが顔を上げると、男はボサボサの髪に、夜なのにサングラスをかけていた。表情は読めない。だが、追ってきた黒服たちとは違う意味で、“関わってはいけない男”の雰囲気があった。

「……逃げるなら、こっちだよ」

男は人差し指を唇に当てて、静かに言った。そしてめぐみの腕を引き、夜の雑踏から離れるように歩き出した。

男に手を引かれるまま、めぐみは新宿の裏路地を歩いた。

辿り着いた先は、古びたビルの一階にひっそりと佇むラブホテルだった。派手な看板とは裏腹に、入口は妙に静かで、ネオンの光も届かない。

男はパネルには目もくれず、カウンターの呼び鈴を鳴らした。

「げ〜んさん」と男が呼びかけると、カウンター奥のミラー越しに、白髭をたくわえた初老の男が顔を出す。

「お〜、たく坊。めずらしいね、女連れなんて」

「でっしょ。……あの部屋、空いてる?」

「うーん。今日は空いてるよ。ただ掃除が面倒くさいな」

「じゃあ、これあげる」

男――たく坊はスカジャンの内ポケットから、茶封筒を取り出して老人に手渡す。札の厚みが透けて見えた。

「へへ、毎度。鍵ね」

鍵を受け取ったたく坊は、そのままめぐみとエレベーターに乗り込んだ。


押したボタンは「B1」――地下だった。

地下に部屋なんてあるの?と疑問に思いながらも、めぐみは何も聞かなかった。

無言のまま部屋へ入る。少し経年劣化のある内装だったが、広さと清潔さは意外なほどで、窓がないぶん、外の騒がしさも完全に遮断されていた。

「……好きなとこ座って。水くらいはあると思うよ」

たく坊は言うが早いか、勝手知ったる様子でベッドに寝転がった。

めぐみは入り口の壁にもたれ、距離を取ったまま睨むように問う。

「……何が目的? ……体、ですか?」

その言葉に、たく坊は鼻で笑った。

「いやいや。そんな趣味ないって。……ただ、困ってそうだったから」

「……」

「だってあれ、完全に“追われてる人の走り方”だったよ」

めぐみは口をつぐんだ。ナイフを忍ばせたコートのポケットに手が伸びる。

「やめた方がいいと思うよ」

低く冷たい声で、たく坊が言った。

彼女は息を呑む。

「……もしかして、人殺しでもしたの?」

何の前触れもなくそう聞かれて、めぐみの肩がわずかに震えた。

たく坊はその微細な反応を見逃さなかった。

「違う……でしょ?」

めぐみは言葉を返さず、ただ黙り込んだ。

自分の中に渦巻く怒りや悲しみ、そして罪悪感――それらを一つでも口にしたら、きっと崩れてしまいそうで、言葉にすることができなかった。

(……アイツは、私のせいで死んだ)

――自分を守ろうとして組の男を殺したあの日から、すべてが狂った。

だから今、彼女は探している。誰がアイツを殺したのか。あの血だらけの遺体となった姿を目にしたときから、頭に焼き付いて離れない問いだった。

「……じゃあ、誰を殺したい?」

たく坊の声は、まるで心の奥底を覗き込むようだった。

めぐみは顔を上げた。

彼のサングラス越しに見える気配――それはただの野次馬でも、お人好しでもなかった。見透かされている、というよりは、黙っていても“感じ取られている”ような感覚。

(この人……何者?)


部屋の静寂を切り裂くように、たく坊のスマホが震えた。

「……ちょい待ち」

たく坊はベッドから起き上がり、電話に出る。

「もしもし、お疲れっす」

相手の声は小さくて、めぐみには聞こえない。ただ、たく坊の顔色は変わらない。

「うん、大丈夫。ちょっと道端で拾った子と避難中って感じで。……あー、それよりさ、迎えに来てくんないすか? “ローズパレス”。地下の部屋です」

返事を聞きながら、たく坊はちらとめぐみのほうを見る。めぐみは不思議そうな顔をしていたが、何も聞かず、ただ黙っていた。

「……うん。先にお茶でもしとくわ。よろしくー」

電話を切ると、たく坊はまた気だるそうにベッドに倒れこんだ。

「友達ですか?」

めぐみがぽつりと訊いた。

「んー……まぁ、そういうのに近いようで、そうでもないようで」

曖昧に答えるたく坊に、めぐみはそれ以上、何も訊かなかった。

再び、部屋には静けさが戻った。


重たい空気を吹き払うように、めぐみがふと口を開く。

「……あたし、原田めぐみっていうの」

唐突な名乗りに、たく坊はわずかに眉を上げたが、黙って聞いている。

「なんか……ちゃんと名前言うの、久しぶりな気がして。最近は、誰に会っても隠すことばっかで」

少し笑ってみせたが、目は笑っていなかった。

めぐみは、視線をどこか遠くにやったまま、ぽつりと続ける。

「実はね……あたし、人を探してるの。殺された人がいて。……その人のことが、どうしても忘れられないんだ」

たく坊は何も言わない。ただ、静かにタバコに火をつけて、煙をゆっくりと吐いた。

めぐみは、それに気づいていないかのように、話を続けた。

「全部終わらせたいの。その人を殺したやつを、この手で見つけて、ケリをつけたいだけ」

言葉にこそ強さがあったが、握りしめた拳は細かく震えていた。

そして、その震えが、彼女の覚悟の重さを何より物語っていた。

それから、しばらくして部屋のドアがノックされた。

たく坊が立ち上がり、ドアを開ける。

現れたのは、鋭い目元に無骨な雰囲気を纏った男だった。

「おう、たく坊」

「意外と早かったですね」

たく坊が軽く笑うと、男は部屋の奥をちらりと見やり、めぐみの姿を認めて立ち止まった。「……めぐみ?」

めぐみも、はっとして声を上げる。「尾上君……」

一拍の沈黙。尾上は目を細めるようにして、めぐみを見つめた。

「……お前がここにいるとはな」

その言葉に、めぐみは少しだけ頷く。

「この人が……助けてくれたの」

尾上はゆっくりと視線をたく坊へと移し、短く「そうか」とだけ言った。その声は、静かすぎるほど小さかった。空気が、急に冷たくなる。何かを言うべきか、言わないべきか――そんな迷いが、彼の瞳の奥に確かにあった。だが結局、彼はそれ以上何も言わなかった。


廊下に出たあとも、めぐみはまだどこか落ち着かない様子だった。

そんな彼女に、たく坊が小声で尋ねた。

「……今夜、寝る場所あるの?」

めぐみは、少し間を置いて首を振った。それを見て、尾上が顎でうしろを指す。

「この部屋、一晩だけ使わせてやる。……鍵、閉めとけ」

「え?」

「朝になったら出てけ」

めぐみは何か言おうとしたが、結局言葉にはならなかった。ただ、小さくうなずいた。

「……ありがとう、尾上君」

それから一拍おいて、視線をたく坊へ向ける。「たく坊も……ありがとう」

たく坊は笑みを浮かべて、片手を軽く振った。

「じゃ、おやすみ」


尾上は何も言わずに踵を返し、たく坊もその後を静かに追った。

ホテルの駐車場から、黒いハイエースがゆっくりと出ていく。

運転席の尾上は無表情でハンドルを握っていた。

助手席で窓の外をぼんやり見つめていたたく坊が、ぽつりと口を開く。

「……知り合いだったんですね。あの子」

尾上は煙をくゆらせたまま、前を向いている。

「ああ、そうだ。あいつが何しに新宿を走ってたか、知らねえけどな」

「探してるみたいでしたよ、“誰か”を」

「……だろうな」

交差点の信号で車が止まる。尾上はようやくたく坊の方へ視線を向けると、低く告げた。

「……あの女。テツの女だよ」

たく坊――佐伯拓真の視線が、ゆっくりと尾上に向く。

「三か月前、俺たちが殺した、な……」

車内に、沈黙が落ちる。エンジンの微かな唸りと、外から聞こえるクラクションの音だけが響いていた。

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裏切りのツキ 藤沢至 @fujisawa0000

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