猫に九生ありて
乃東 かるる
宵のかくれんぼ
姿かたちはキジ模様の成猫。人間の目には、どこにでもいるやや小柄な猫としか映らぬようですが――齢は、すでに四百五十を超えております。
伊達に長く、化け猫などやっておりません。
車に轢かれようが、雷に打たれようが、平気でございます。怪我ひとついたしません。
なにしろ――
猫には九つ魂があるのでございます。
もっとも、それは人相手の場合に限った話。
妖相手では怪我も致します。
神が相手となると事情は別でして、魂が一つ、ぽろりと零れ落ちることもあるのです。
――四年前の、雨の夕暮れのこと。
妖との縄張り争いに辛勝しましたが、身を隠す力も尽き果てて電柱の影で蹲っていた私を拾ってくださったのが梨穂子さんと息子の陽介ちゃんでございました。
おふたりは、私のような異形の存在に気づくことなく、「ハナちゃん」と名をつけ、優しく撫で、手当てをしてくださったのです。
猫というのは家に付き、人に報いぬなどと申しますが、とんでもない。
私が命を懸けて守ると誓ったのは、この小さな家族――でございます。
夕方、18時。陽介ちゃんの学童が終わるころ。私は霊体となって窓をすり抜け、気配を消し、学童の門の近くにそっと忍び寄ります。
陽介ちゃんは私の存在に気づかぬまま、ランドセルを揺らしながら元気に歩く。
私はそのすぐ背後を、ぴたりと付いていくのです。護衛でございます。
玄関を開けて家に入る陽介ちゃん。私は素早く霊体のまま入り込み、居間の隅で丸くなる。
「ハナちゃーん、ただいま!」
陽介ちゃんの元気な“ただいま”を耳にした私は、さも今起きたばかりのように姿を現し、「にゃーん」と一声。小さな手が私の頭を撫でてゆく、その時間は――何より幸せなひとときでございます。
そんな穏やかな日々に、翳りが差したのは、つい先日のこと。
この町で、子供の行方不明事件が三件も続けて起きたのです。いずれも放課後。帰り道の途中で、ふらりと姿を消したとのこと。
警察も、保護者も大騒ぎですが……私には、もっと恐ろしいものが見えておりました。
町の空気に、ざらついた“妖気の乱れ”があるのです。
それも、ごく古い気配。
……ここで、少しお話をいたしましょう。
この街は、もともと山裾の小さな村でございました。
人の営みは、驚くほどの速さで進みます。ついこの間まで
ちなみにこの私、その鉄の馬に二度ほど轢かれております。大層痛かったので、大嫌いでございます。
……話が逸れましたね。
この地域には、かつて「かくれんぼ様」という守り神が祀られていたのです。
迷子の子供を隠して守る、やさしい神様。
家の者が迎えに来るまで、悪いものに連れ去られぬよう、そっとそばに寄り添っていてくださったといいます。
かくれんぼ様の姿は、小さな鈴を首にかけ、子供の遊び道具のような木彫りの面をかぶっていたと伝えられております。
泣いている子の涙を拭いてあげた、という逸話もございますし、かつての子供たちは「かくれんぼ様」と親しみを込めて呼んでいたようです。
けれど、時は流れ――
信仰は薄れ、
やがて、やさしさで子を守っていたその存在は、「忘れられることは、見つけてもらえないこと」そのものに囚われてしまいました。
――“かくれんぼ、かくしぼう……”
今も、どこかで誰かが口ずさむようなその歌声は、かつての愛情と今の哀しみを重ねたものかもしれません。
「かくれんぼ様」は、見つけてくれる者がいなくなったことから、かくれんぼを終わらせてもらえなくなった神です。永遠に「鬼」が来ず、見つけてもらえず、ただただ隠れ続ける日々。
それが、彼女にとっての“孤独”
その孤独が、かつて子供を慈しんでいた心を、ゆっくりと、確実に歪ませていったのでしょう。
「子供たちを隠す」のは、悪から守るためではない。
もうどこへも行かせたくないから――永遠に自分のそばに置いておきたい。
それが、堕ち神となった彼女の、歪んだ愛情というわけです。
……けれど、どんな理由があろうとも。
今この土地は、私の縄張りでございます。
ここでのおイタは、許すわけにはまいりません。
そう考えた瞬間から、私は陽介ちゃんから一瞬たりとも目を離さぬようになりました。
――ただの“お迎え”だけでは不十分。
学校にも一緒に行き、一日中付きっきりで護衛することに決めたのです。
その日。陽介ちゃんは学校でかくれんぼをしておりました。
鬼から逃れるように、校舎の裏へ。
その陰に、既に“異様な何か”が、立っていたのです。
音もなく――空気の層が一枚ずつ剥がれるような気配。カラカラ……と、風のような音が、耳を撫でてまいります。
壊れかけたオルゴールのような調子で、童歌を口ずさむ声が聞こえました。
かくれんぼ かくしぼう
影にまぎれて ひとりでいたこ
みつけたこどもは わたしのこ
おうちへ かえろ もうかえろ
それは、人の形をしているようで――しておりませんでした。
顔があるべき場所は、ぽっかりと空洞。
その奥に、ぎらりとひとつだけ、光る目――
隠し神。
私は即座に霊体から実体へと戻り、陽介ちゃんの前へ立ちはだかります。
突然現れた私に、ポカンとしていた陽介ちゃんが、ようやく我に返って叫びました。
「は、ハナちゃん⁉︎」
その声を聞いた隠し神は、するりと指を動かし、目の前の空間に異界の扉を開けました。
風が巻き、空間がねじれ、陽介ちゃんの身体がふわりと浮き上がります。
「陽介ちゃん!」
私が叫んだ瞬間、彼の体は黒い裂け目に吸い込まれていきました。
――行かせるものですか。
私は、迷うことなくその裂け目へ飛び込みました。
異界の内側には、現実をひっくり返したような風景が広がっておりました。
黒板は逆さに吊られ、廊下は天井に貼りつき、時計の針は止まったまま。
空には、筆で描いたような黒雲が、吊るされたまま動かずに浮いております。
そして、どこからともなく、まるで逆再生のように反響する笑い声――
子供たちの声。それはもう、この世のものではない調べでした。
私はすぐに辺りを見回し、陽介ちゃんの姿を見つけました。どうやら、隠し神は異界へ連れ込んだだけで油断したのか、すぐ傍には気配がありません。
「陽介ちゃん!」
私が呼びかけると、彼はこちらに気づき、泣きそうな顔で駆け寄ってきました。
「ハナちゃん!ハナちゃん!」
私に飛びつき、わっと泣き出す陽介ちゃん。
「陽介ちゃん、涙を拭いて。泣いてはいけません。さあ、私に着いてきて」
私がそう言うと、陽介ちゃんはほんの少し目を丸くして――それでも怯えずに、涙を拭ってこくんと頷いてくれました。猫が喋っているというのに、怖がらずに信じてくれます。
……やはり、優しい子でございます。
私は彼を安全な物陰へと誘導します。
「陽介ちゃん。これは、かくれんぼです。私が“もういいよ”と言うまで、絶対に出てきてはいけませんよ」
陽介ちゃんは真剣に頷きました。
怖がらせぬように、私はそっと、陽介ちゃんの小さな手に頭を擦りつけます。
だってこれは、そう――私たちが勝つための遊びでございますから。
彼を隠した私は、静かに踵を返しました。
陽介ちゃんから遠ざける位置に移動してから隠し神の気をこちらへ引き寄せるよう、異界に向けて敵意を放ちます。
……カラカラ。
風に似た音が、また鳴りました。
廊下の奥、教室の出入口から、それは姿を現します。
長く伸びた影。人のようで人でなく、輪郭は揺れて定まらず――顔には何もありません……あるのはただ、ひとつだけ光る穴のような目。
「かくれんぼ、かくしぼう……坊やはどこ?……」
隠し神は、血の気もない指をゆるやかに掲げ、また闇の奥へと新たな扉を開こうとしています。
陽介ちゃんを探すつもりでしょう。
――許しません。
私は、己の体に封じていた妖力を解放しました。
骨が軋み、筋が張り詰める。背が伸び、牙が伸びる。
毛並みは逆立ち、四肢は太く、爪は鋼を裂く刃へと変わる。
虎ほどの大きさに身体が膨れ上がり――
私は、化け猫の本性を現しました。
陽介ちゃんを隠したのは、怖い思いをさせたくないからでございます。
私はあの子の前では、いつまでも「可愛いハナちゃん」でいたい。こんな姿を見せるわけには参りません。
――あの子には、髪の一本にも触れさせはしません。
喉の奥で低く唸り私は闇の中へ跳躍しました。
隠し神は影のように、音もなく廊下の天井を這い回る。その動きは異様なほど滑らかで、ふとした隙に背後へ回り、私との戦闘を避け陽介ちゃんを探し出そうとしている。
私は即座に床を蹴り、黒板の上を駆け、追いつく。
宙に舞うチョークの粉が白い霧となり、その中で私は影を追い詰めました。
目と目が合う。穴のような隠し神の目からは、凍てついた狂気が滲んでおります。
その指先がこちらを向き、呪の糸を放った。
空気が歪む。あれに触れれば、魂ごと異界に引きずり込まれます。
私は身をひねり、石膏の壁を爪で引っかき粉塵を巻き上げ跳躍。牙を突き立てようとした、その瞬間――
「……甘い」
耳元で、古い木の柱が軋むような声。
その体が霧のように崩れ、幻影だったことが明らかになりました。
本体は、天井の梁の上。
すでに術を放つ構えで、私を狙っております。
「遅い……」
鋭い呪撃が穿ち、背中に冷たい痛みが走る。
体が半ば霊体化し、動きが鈍る。
だが、私は怯まない。
「……ふん、たかが一魂。くれてやろうじゃないか」
わざと背を向け、ふらつくように歩き始めました。
血の跡が、ぽたり、ぽたりと床に落ちていく。
隠し神の穴のような目が、細く笑いました。
――誘いに乗った。
するり、するりと影が伸び、私の足元へ忍び寄る。
その瞬間、私は静かに足元の血を爪で弾いた。滴り落ちた血で――結界の輪を描いていたのです。
跳ねた血が、最後の線をつなぐ。
瞬間、術式が完成。
――
影が結界に触れたその刹那、朱色の火花が走り、術式が爆ぜるように発動しました。
隠し神の体が硬直しその動きを止める。私は迷わず霧に紛れ、音もなくその背後へ――跳ぶ。牙と爪が閃き、首元を――今度こそ本体を、引き裂く。
「……おまえ……っ」
仮初の神を喉奥から裂いた。
その体は崩れ落ち、黒い血を吐きながら呻く。
「……子供たちはわたしの……もの……あいしてる……」
歪んだ愛情と、狂おしいほどの渇望が、その声には混じっておりました。
愛するがゆえに“食べてしまいたい”――そんな、堕ちた神の情念。
「子供たちを愛しておられたのなら……昔のように、優しく導いてあげればよかったのに。哀れよな……。」
この神は、祈りを失ったあの日からずっと――
誰かが「見つけてくれる」のを待っていたのでしょう。
遊び終わった子供を迎えに来る親のように、名を呼んでくれる誰かを……。
けれどその名は、もう誰の記憶にも残っていなかった。……孤独とは、神すらも狂わせるものでございますね。
私の声に、返答はありませんでした。
やがて隠し神は消え、ぽとりと小さな鈴が落ち、ちりん……と悲しい音を立てました。
私は、急いで陽介ちゃんの元へ行き、傷から血を滴らせたまま、そっと身を伏せました。そして、陽介ちゃんの耳元で囁きます。
「……もういいよ」
少年の目が、光の射す方を向きます。
異界の空がひび割れ景色が淡く色褪せる。
世界そのものが、崩れ、消えていく。
陽介ちゃんの身体が光に包まれ、現世へと還ってゆくその姿を見届けたその瞬間――
胸の奥が、すうっと、冷たくなりました。
まるで、骨の芯を氷でなぞられるような寒気。
肩口の傷から、魂が……淡い光となって、音もなく滲み出していくのが分かります。
目には見えずとも、それは確かに私の一部。
背骨の奥がわななき、他の魂たちがわずかに震え、身を寄せ合うような気配を残しました。
視界が狭まり、意識がゆるやかに闇に包まれ――
やがて、コトリと、一つ。
私は魂を、落としたのです。
けれど、それでも構いません。
魂とは、本来、大切なものを護るためにこそ使うもの。それが、私という化け猫の、矜持でございますゆえ。
「ハナちゃん……?」
慌てて家の玄関を開け、半べそで呼びかけます。
「ハナちゃん……どこ……?」
靴を脱ぎ、ランドセルをおろして、心細そうな声でもう一度――
「ハナちゃん……」
その時、襖の奥から、いつもの声が響きました。
「にゃーん」
何食わぬ顔で姿を現した私は、いつものように陽介ちゃんの足元にすり寄ります。
「ハナちゃん!!」
陽介ちゃんは私に飛びつき、涙をこぼして頭を撫でてくれました。
ギュッと抱きしめてくれます。
陽介ちゃんのぬくもりが、八つの魂の残り火にそっと火を灯すようでございました。
……優しい子でございます。私は、あなたが大好きです。
――猫には、九つの魂がございます。
今の私には、あと八つ。
次は、もっと上手にやってみせましょう。
簡単に死ぬわけには参りません。
私には、この親子を護る、大切なお役目がございますゆえ。
(了)
猫に九生ありて 乃東 かるる @mdagpjT_0621
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