ダフネダフネダフネ

柊木ふゆき

ダフネダフネダフネ

 ダフネダフネダフネ。

 絶対どこにも行かないで


 陽子ようこはあまり泣かない子供だった。赤ん坊のころは、よく虚空をじっと見つめていたので、大人たちは「この子には霊感がある」と言い張った。「小さい子どもは幽霊が見えるものだ」と叔母は大きくなった陽子にことあるごとに語って聞かせ、それを聞く陽子は、肯定も否定もせず、いつも微笑んで頷くだけだった。その落ち着いた様子は、叔母の確信をさらに深めた。母親さえも、この子にはどこか秘密めいたところがある、と思っていた。一人っ子で、母と子ふたりきりの家庭だったため、物静かに育ったのだと祖母は言う。それも決まって、母親がそばにいるときに言うのだ。そういった時の母は、陽子を膝に乗せ、黒々とした髪を手で梳いた。祖父は利口な孫を自慢に思いながら、どこか物足りなさを感じていた。彼は、孫よりも断然娘を誇りに思っていた。彼女は幼いころから絵を描くことに執心しており、ついには絵本画家の仕事を手に入れた。その一本気が父の気に入ったのだった。それに比べて孫娘は、掴むことのできない煙のようなもので、ときおり、そこに居るのかすらわからなくなるのだった。

 

 母親にとって、娘の神秘が解読可能なものであったのかというと、決してそんなことはなかった。しかし、自分の血肉から生まれたものがこうも不思議に満ちているというのは愉快な謎である。ともあれ、ふたりはうまくやっていた。陽子は本当に手のかからない子だったし、母親は子どもが皮膚を隔てた存在だというのをよく理解し、その外側で見守るということを心得ていた。

 それでも、幼稚園に通わなかった陽子が小学校に上がったばかりのころは、家族のだれもがやきもきしたものだった。特に祖母の心配ようは尋常ではなく、その焦燥の矛先は自身の娘に向かい、このことがふたりの関係を決定的に断ち切ってしまった。母親は娘を連れて家を出て、それ以降ずっと二人暮らしだ。


 陽子の人生は、傍目には穏やかな航海で、それも熟練の船乗りが、涼しい顔で造作もなく操る船のようだった。揺らぐことのない精神は、周囲の人間を安らかな気持ちにする。娘とふたりの生活は、母親にとって何にも代え難い幸福の日々だ。しかし、それは期限付きの幸福である。子どもを持つものの多くが味わうことになる別離、自分の肌と地続きだったものが、徐々に剥がれていって、ついにはどこかへ飛び去ってしまうその苦痛は、陽子の母にとっては一際覚悟のいるものだった。

 さまざまな人が陽子の人生を通り過ぎていった。通り過ぎていったと言うしかない。母親は、小学校で初めてできた友だちの飛鳥あすかちゃんを始め、たくさんの子供の名前を覚えては忘れた。大抵は忘れ去ったら思い出すことのない名前たちだ。川草に引っかかってしまったかのようにかろうじて残る名前もある。有紗ありさという子どもはそのうちのひとりで、小学三年生に同じクラスになってから、陽子に付きまとって離れない。母親はこの子どもがあまり好きではない。有紗には、どこか人を蔑みの気持ちでいっぱいにしてしまうような厭らしさがある。陽子の母は、有紗の両親を見たことがない。遊びに来るときにも一本の電話すらない。保護者会などにも参加しない。初めて陽子の家に遊びにきた有紗が、許可もなく冷蔵庫を開けた時はたまげた。驚きのあまり、かなり大きな声で叱ってしまったので、それからあちらも母親のことを警戒している。

 有紗が陽子と同じ高校を志望していると聞いた時、母親は関心を示さなかった。有紗には明らかに高すぎる目標だったし、実際母親の予想の通りになった。これで、しばらくすれば有紗も陽子のことなど忘れ、自分のいるべき場所に戻ってゆくだろう、という母親の安堵はしかし、外れることになる。有紗は学校とバイトの合間を縫って会いにきたし、陽子もそれを歓迎した。そもそも、陽子が歓迎しない相手などいないのだが。

 大学受験の時も同じことが繰り返された。それぞれ別の大学に進学したが、どちらも実家から通える距離だった。その頃には、母親も有紗のことを疎ましく思う気持ちが薄れてしまい、根負けした形で受け入れるようになっていた。考えてみれば、陽子ほど有紗に適した港もないのかもしれない。気を揉んでいたのは周りだけで、陽子の方はどれだけしつこく有紗に付き纏われても、その安定したテンポを乱されることはなかった。陽子は、有紗のために用意されたものは惜しみなく彼女に捧げたが、他の人の取り分や、自分の神秘を分け与えることは決してなかったのだ。

 有紗の執念深さには恐るべきものがある。陽子以外の誰の手にも余るのだ。彼女を毛嫌いし、彼女が陽子にまとわりつくのを阻止しようと躍起になっていた同級生たちは徐々に皆いなくなり、そして最後の砦の母親もついに折れた。いまでは一番古くて親しい友人はまぎれもなく有紗である。

 好敵手がみな退場してしまい、有紗が感じたのは安堵ではなく物足りなさだった。

 有紗は陽子が一番好きだ。誰よりも大好きで、その思いでやってきた。陽子は決して嫌な顔をしたり、突然冷たくなったりしなかった。あの子は何を考えているのかよくわからないところがあるが、中身はきっと大抵の人間とおんなじで、ただ表に出ないだけなのだ。

 「ねえ、陽子って大学に友だちいるの?」

 ある時、有紗は陽子に訊ねた。日が長くなった夏の暮れで、窓からはまだ薄明るい空が見えた。空は驚くほど美しい菫色に染まっており、東へ向かって萎れていった。

 「いるよ」

 「遊ばないの?」

 「たまにね」

 「たまに」の頻度がどれほどのものなのか、有紗もよく分かっている。他の人にとっては「滅多に」と言えるくらいのものだ。陽子の返答は、有紗を満足させるものだった。だから、彼女が次に発した問いかけは、慢心から出た何気ないものだった。

 「寂しくないの?」

しかし、これが決定的な質問だったのだ。

 陽子は微笑んで、「どうして?」と訊ね返した。彼女が「どうして?」と言うその面持ちを見た瞬間、有紗はあることを感じた。それは気分の悪いものだった。突然の落雷のように有紗の心臓を貫いたそれは、長い間有紗の身体に留まり、彼女の心を引き裂いた。

 有紗は直感した。そしてこういう有紗の勘は当たるのだ。有紗はそれをずっと知っていたような気さえした。

 少しして、母親が部屋を覗くと陽子ひとりだった。

 「有紗ちゃん、帰ったの?」

 陽子は頷いた。

 それから有紗が陽子の家に来ることはなかった。


 小学校に入って初めての懇談会の日、その日一番最後の順番だった陽子は、図書室で母親が迎えに来るのを待っていた。小学校の図書館は、正門から一番離れたところにあって、裏手はすぐ川だ。一部の窓は竹林に陽を遮られている。そのあたりはちょうど、学校や郷土の資料、古い図鑑、歴代の卒業アルバムなどが収められており、その上陰気なので、人気がない。図書委員が司書の山川やまかわ先生と共に本を修復したり、掲載する資料を作成したりするのに使うのは、決まってそのあたりだった。

 いま、図書室には陽子と山川先生のほかは誰もいない。少し前までは、他の児童もいたのだが、みな保護者に連れられ帰ってしまった。上の学年の児童たちは もう自分たちで帰られる。陽子は学童にも通っていなかった。

 部屋は静かで、短縮授業の日にも関わらず普段通りに鳴るチャイムと、風で笹が窓に叩きつけられる音のほかは何も聞こえない。山川先生は、二、三度、ちょうどその薄暗い奥のテーブルを使う陽子の様子を見に行ったが、おとなしく絵本を読む姿に安心し、自身の作業に集中することにした。子どもが静かなのも油断ならないもので、自分の子どもでも、学校の児童でも、ずいぶん静かだなと思っていたら、いたずらに熱中しているということが何度もあったものだ。山川先生は、図書室で迎えを待つ児童には折り紙や画用紙を与えるようにしていたが、それでも本にクレヨンで落書きをしたり、破ってしまったりする児童はたまにいた。陽子がおとなしい児童なのは一目で分かった。だから目の届かない場所に席を取ったときも、好きにさせておいたのだ。

 その日は朝から曇り空で、灯りのともっていない場所は夕暮れのように薄暗く、灯りのついた教室は蛍光灯の白い光が強く意識される存在感を放っていた。やがて、なんとか持ちこたえていたどっしりとした灰色の雲が音を上げて、雨が降り始めた。笹の葉と共に、風が大きな雨粒を窓に投げつけてくるので、うるさいくらいだった。山川先生が窓から川を見下ろすと、濁った水がすさまじい勢いで流れていた。幸い、川は谷間を流れているので、氾濫の恐れはない。はるか遠く で雷鳴が轟く。川の上流が流れる山々には霧が立ち込めている。

 山川先生は、陽子がおびえた様子もなく絵本を読み続けているのを確認し、再び作業に戻った。折々に掲示される読書案内で、今回は新しい学年に上がって新しい本に挑戦しよう、というものだった。それぞれ学年ごとに、おすすめの本、人気の本を数冊ずつ紹介している。本の表紙をコピーし、模造紙にマジックで紹介文を書くのは骨が折れるが、これも新しい図書委員たちが仕事に慣れるまでで、夏休み前のものは子どもたちが作成することになっている。一年生や二年生の児童だと、寂しくなって、作業中の山川先生に話しかけてくる子もいる。そういうときは、作業をとめて 話を聞いてやったり、簡単なこと、たとえばハサミで折り紙を切ったり、などを任せてやったりする。

 雨足はどんどん強くなる。まるで何者かが石つぶてを窓に投げつけているかのような音だ。風の唸り声は、その何者かの悲痛な雄叫びのようである。雷の音が先ほどより近い。

 そしてついに、一際大きなバリバリという音が鳴り響いたかと思うと、電気が一気に落ちて、あたりは真っ暗になってしまった。

 山川先生は思わず「うわ!」と声をあげたが、雨音にかき消されて誰にも届かない。山川先生が陽子の様子を見に行こうと立ち上がったのと同時に、図書室のドアが開いた。紺色の無地のワンピースを着た若い女性は、右腕に同じ色のジャケットと黒いバッグをかけて、左手で扉をおさえたまま、山川先生と目が合うと会釈した。

 「陽子の母です」

 まるで、そんなこと言うつもりではなかった、というような惚けた調子で母が言った。

 「ああ、陽子ちゃんの……すごい雷で……」

 ふたりして窓の外を見やる。再び遥か遠くで雷が落ちる。暗闇を照らす束の間の光。先ほどに比べて随分弱々しい。後を追う雷鳴も、もはや息切れしている。

 「あの、陽子は」

 「あ! 陽子ちゃん!」

 大人たちは慌てた様子で部屋の奥へ向かう。図書室で走るわけにはいかないので、早足で。母が履いている来客用のスリッパが時々キュッと不快な音を立てる。

 陽子はひとり、窓のそばに立って、時々パッと輝く空を見上げていた。母親は、薄暗がりの中ですくっと立つその幼い子供の姿が誰かに似ていると思った。そうだ、私が描く少女たちに似ているのだ。あの遠くを眼差す瞳の薄曇りが……。

 母親が歩みを止めて、呆然と陽子を見つめるその傍を通り過ぎて、山川先生が陽子に声をかける。「お母さんきたよ」と優しく告げられ、ぱっと振り返ったその顔は、見慣れた娘のものだった。駆け寄ってきた小さな身体を抱き上げて、母親は思った。。この子は完璧な子だ、と。


 その日の晩、陽子はひとりで眠る布団の中で涙を流した。赤ちゃんの頃はさておき、こんなに涙を流すのは人生ではじめてだった。拭わないので、涙が頬を滑り落ちて枕カバーに染み渡る。陽子は布団の中に潜り込んでさらに泣いた。

 「陽子ちゃん」

 担任の春谷はるたに先生の声が頭の中で何度も繰り返して言う。

 「本当のお友達を作らないとダメだよ」

 帰り道、ママは言った。

 「あんな人たちの言うこと、聞かなくていいからね」

 布団の中でひとしきり涙を流した陽子は、わたしの名前を読んだ。ダフネダフネダフネ。呪文のように。それでわたしは、やっと姿を表すことができた。

 わたしは陽子の布団に滑り込む。幼い子どものの体温で、心地の良い巣穴のように温まった布団の中に。シーツは涙でしっとりと濡れている。

 「ダフネ、絶対どこにも行かないで」

 口に入るあなたの涙の塩の味を感じる。

 腫れぼったくなった瞼の重みを感じる。

 雷で引き裂かれたあなたの胸の痛みを感じる。

 

 ダフネダフネダフネ。

 あなたとわたしだけの呪文。

 わたしが在ることと、あなたがわたしを思うことはイコールで結ばれている。

 ダフネダフネダフネ。

 絶対どこにも行かないで。

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