四月の君
暁流多 利他
春光
君に会ったから、此処に来てよかったと思える。この気持ちの名前をなんというのだろう。世界の全てが愛おしくて、白むくらい輝いて見えて、飛び跳ねたくなるような。そんな芽吹きを大事にしまって、オレは今日、未来に帰る。
四月に出会った君へ。貴方に会えてよかった。心からそう思う。
***
宇宙総人口九百億人。この宇宙で、人々は生まれては死んでいった。数多の星も生まれては消えた。
そして七日後、太陽は消滅する。
それに抗えず、人間も死んでゆく。そんなこと何百年前から分かっていたことだ。とうに覚悟はできている。ただ、分からないのは自分が生まれてきた意味だ。
なぜオレは生まれてきたのか。親の意思の他ないが、それでも考えてしまう。どうして死ぬと分かっているのにオレは生きているのか。生まれてから今まで、オレはその答えを見つけられていない。
ふわりと浮きながら、オレは今日も偽物の酸素を吸う。オレの周りにあるものは全て地球の贋作だ。
約二億年前、増え続ける人口のはけ口になったのは月。進歩を続けた人類はついに、永久的に月に住むことになったのだ。初めて人類が月に行って一兆年、まさか人間が月に住むことになるとは思わなかっただろう。オレ達にとっては当たり前になったことも、きっと、想像もつかなかったことに違いない。
オレは、月で生まれ育った。本物の空気を吸ったことがなければ、月の八倍の重力の重みを感じたことがない。学校の授業で疑似重力訓練を受けたことがあるくらいだ。
オレはもう一度浮き上がって、くるり、と回る。重力にとらわれない、自由であるはずのこの体は、軋んで上手く動かない。
オレはひとつため息を吐いて、全身の力を抜き、ベッドに体が沈むのを待つ。ボスン、仰向けになった体はそのままに、窓に目を向ける。南側の窓は今日も青い空を映している。この青い空も偽物。
この月は大きなドームに覆われていて、酸素に近い物質フェイクオキシジェン(略してOF)を離散させないようになっている。ドームの内側はスクリーン、外側はソーラーパネルになっている。スクリーンは空がない月に空をつくるために。ソーラーパネルはこの月に人が住めるようにするための機会を動かす発電機。
ここは偽物なのに、地球と同じ太陽によって動かされている。主電力が太陽光の月では太陽が消滅すれば終わりだ。太陽が消滅しても人類が生き残る可能性があるという学者もいるけど、それは〇・一を切る確率だし、七日後、間違いなくオレ達は死ぬだろう。
希望なんて見つけられない。結局死ぬことが分かっているのに、なんでオレはここにいて、どうして息を吸って、父と母はなぜオレを産もうと思ったのか。それが、やっぱりどうしても分からなくてオレは目を瞑る。瞑ってしまえば、あとは微睡のむこうで、疑問も僅かな恐怖もなかった。オレは流されるように生きている。
母の声で目が覚めた。サイドテーブルにある時計を見ると、三時半だった。昼食も取らずに眠りこけていたらしい。
春、と母の呼ぶ声と共に自室の扉が開く。
「寝てた?」
「うん……」
霞んだ視界を晴らすように眼をこすって、だるい体を起こす。
「ちょっと、屋根裏部屋の掃除してきてくれない? お願い」
「いいけど……」
掃除する必要ある? 喉まで出かかった言葉を飲み込む。どうせ世界なんてたった七日でなくなるのに、なんて言ったら母は悲しい顔をする。母は希望を持っている。オレとは違う。
諦めに近い絶望を見せないように、黙って掃除道具を持って屋根裏部屋に向かった。紫外線じゃなくて、ブルーライトが窓から差し込む。屋根裏部屋につながる階段は足音がよく響く。歩く度に、蛍みたいに光った埃が舞いあがった。薄暗くて埃っぽい屋根裏部屋は、案外整頓されていた。とりあえず小さい窓を開け、空気を入れ替える。ここは淀んでいた。漂う埃が、吸い込まれるように外へ出る。
適当に埃を払って終わらせるか。はたきを手に取った。本棚の上を滑らせる。すると、はたきが何かに引っかかった。
見ると、一冊の本だ。
思わず、手に取る。美しい花が表紙の中で咲いていた。日焼けしているのか色が薄いが、美しいその姿に思わず感歎の息がでた。その花に引かれるように、ページをめくる。しっとりとした紙の質感が伝わって、脳を刺激して、ドキドキと鼓動が鳴る。視界がチカチカと光り手が震える。震える手でページをめくった。
『拝啓、四月の君へ』
『私は今、小さな惑星にいます』
『水で覆われた、うつくしい、青い星』
『貴方を探す旅で、私は数多の花や、生き物や、優しさに会いました』
それは写真と小説が融合した本だった。ツバキ、猫、鳥、青空、雲の姿。小説の内容は、『四月の君』と呼ばれる恋人を探して、主人公の女性が数多の星を廻る、という話だった。その中で、主人公は恋人に会えない悲しみや、小さな諦め、そして淡い期待という感情の連鎖が描かれる。
『どうして私は貴方を探すのだろう?』
『貴方は、何処にもいないのかもしれないのに』
恋人に会えないことによって、繰り返される不安と問いかけ。長い旅の中で出会う、美しい景色。それは残酷なまでに、彼女に安らぎを与える。
『この星は、悲しいほどにうつくしい』
『貴方がいなくなって、光を失った私に、うつくしいと思える心を思い出させてしまう』
いつのまにかオレは頬を濡らしていた。この物語のあまりの優しさに、写真に写る地球の美しさに。月で生まれて、月で育った自分には知らない世界。
この世界が見たい。
本を読み終えて、オレは駆けだしていた。慌てて階段を下りたものだから、二段ほど階段を踏み外す。
部屋に入って真っ先に、教科書が入ったリュックをひっくり返して、中身をぶちまける。カラになったリュックに下着と財布、充電器にブランケットと突っ込む。思いだして、慌てて父の一眼レフカメラ(骨董品)を詰めてファスナーを閉める。服装は、迷った結果、制服にした。
オレは今から過去に行く。そう決心して、机の引き出しから通帳を出す。貯金額は七万八千円。財布には二千円あるし、どうなったって構わないという覚悟さえあれば、十分な額だった。
机に置いていたスマホの電源をいれ、過去行の便を確認する。あれこれと考えて二〇二〇五年の福島行の便に決める。あの作者が生きた時代。これから出発して間に合う便が福島行しかないので、それにする。
スマホと通帳を制服の内ポケットに。鞄を肩にかけ、部屋から飛び出す。階段を勢いよく駆け下りて、玄関まで向かった。母が呼び止めるのも聞かない。
「ちょっと、春! 制服でどこ行くの? 掃除は終わったの?」
そこで、屋根裏部屋の窓が開けっぱなしだったことに気づいた。
「屋根裏部屋の窓開けっ放しだから閉めておいて」
「春?」
「ちょっと、出かけてくる。帰ってくるかはわかんない。間に合わないかも」
「それって、どういう意味?」
「二〇二〇五年に行ってくる」
「うそ、でしょ……」
「ほんと。七日間くらい」
母が不安そうな表情を浮かべる。顔が青い。オレは少しだけ罪悪感を憶えた。
「七日って。もう、世界が終わっちゃうかもしれないじゃない」
「……そうだね」
覚悟を決めるために、オレはわざと冷たく言い放った。
「お、お父さんだって帰ってきてないじゃない。顔、見られないかもしれないってことでしょ」
「そうだね」
「そうだねって……」
母の動揺と悲しみが肌に突き刺さる。首を絞められるような感覚に陥った。でも、決心はついていた。今更曲げることはできない。
母の顔を見る。
なぜ自分を生んだのかと心の中で疑問ばかりを投げかけたが、今は、ありがとうと言いたくなった。不思議だ。さっきまで微塵も思わなかったのに。母の顔を見るのがこれで最後かもしれないからか。それとも、自分の中の何かが変わったのか。
オレは本を読んで、初めて生きていてよかったかもしれないと思った。あの本は、オレを知っているような気がする。
サツキが見てみたい。月には偽物の花しかない。星を見てみたい。この空はスクリーンで、星なんかないから。冷たい風を感じたい。生ぬるい風なんかじゃなくて。
「初めて見たいものができた」
だから、行ってくる。そう言って微笑んでみる。でも母は悲痛な顔で目を潤ませていた。オレはたまらなくなって、逃げるように玄関の扉を開けた。光が漏れて、視界が白む。オレは目を細めた。
「いってきます」
いってらっしゃい、は聞こえない。懇願するような嗚咽が、オレを送り出した。
***
太陽の消滅まであと七日。活気にあふれていたはずの駅はがらんとしていた。
オレは、通帳から引き出したほぼ全額をチケット代に支払い、財布が随分軽くなった。そのチケットを買ったことを知らせるスマホ画面のまま、スマホをポケットに突っ込み、列車が来る四番線にたった。
落ち着かない鼓動。オレは息を吐き出した。
列車が来る方を見る。あと数分もしたら、やって来た列車に乗り込んで、オレは全く知らない処に行く。ソワソワと浮足立つ心を持て余して、小さく跳ねる。すると、体は水面に向かうクラゲのように浮き上がった。数時間後は、この八倍の重量を体感しているなんて。
「まもなく、四番線に列車が参ります」
列車の走行音。体中をめぐる高揚感。
――過去に行くんだ。
人類が月に住むようになって久しいが、宇宙旅行と同じで当たり前になったことがある。それが時間旅行。未来、には行けなくても過去には当たり前のように行けるようになった。何年前だって行くことができる。
でも、未来に行くことができない。そのことにほんの少しもどかしさを感じる。未来に行けたら、この決断が間違っていないのか、はっきりわかるのに。
列車が、止まる。風圧で前髪が浮き上がった。アナウンスと共に開く扉の中から次々と人がおりてきた。すれちがう人の表情が目に留まる。困惑と不安。旅行帰りの笑顔はない。漠然と、終わりが近いのだと思った。その不安に逆らうように列車に乗り込んだ。
オレは自由席に座る。シートに腰を下ろして、ホッと一息ついた。スマホの着信がなって、父から「帰ってこい」というメッセージが次々と送られてきていたが、全部無視した。
——オレは、帰らない。
意味を探すんだ。生きててよかったと思いたいんだ。反抗するように心の中で呟く。
目を瞑る。シートに身をまかせて、サツキの赤、風の冷たさ、地球の重力の重さを想像してみる。その時、オレは何を感じるのか。ゆっくりと意識が遠のいていく。父からの電話に気づかないまま、泥のように眠る。
次にオレはアナウンスで目が覚めた。オレは飛びあげるように起きた。慌てて列車を飛びおりた。一瞬の、猛烈な光を浴びて、目を細める。寝ぼけた頭を起こすように街の喧騒が飛び込んできた。
混ざりあってガヤガヤと聞こえる人の声。すーっ、と冷たい春の風が頬をかすめる。赤い自販機。薄汚れた壁。町行く人のスマホ。重い体。興奮と高揚で、視界が広がる。
ぐるりと見まわす。どこもかしこも、歴史の教科書で見たものばかり。じわじわと実感が湧いてきた。水素じゃない、ガソリンで走るバス。靴底が地面にぶつかる音。風が吹いて、匂いがして。自分の髪が頬をかすめた。
――シャッターをきりたい……!
カメラを探して、リュックの中をまさぐった。指先に硬い感触を感じ、それを掴む。そこで、ドン、と体に襲撃を感じた。振り向くと、お辞儀をしながら通り過ぎるサラリーマンと目が合った。ここは駅のど真ん中だったことに気づいたオレは、慌てて端に寄って自販機の隣に立った。骨董品のカメラを首に下げ、光の射す街の方を見る。この先には、見たかったものがあるんだ。
ドクン、心臓が跳ねる。重力が重くのしかかった体が、浮き上がりそうになる。飛んだら、有頂天で熱圏を突き破って宇宙まで行けそうだった。
オレはカメラのシャッターに手をかけて、街に足を踏み出す。太陽の明かりに、白む世界。街の喧騒。冷たい風が髪を撫でる。空が高い。雲が白い。どこかしこも光彩陸離だ。流されるように街を歩きながら、ふと考える。どこまでも違う世界。初めて見るもの、世界がキラキラと光る。太陽が、めくるめくミラーボールのように光彩を放っている。色が、光がこれほどまでに輝いていること、オレは知らなかった。
丁子茶色のタイルの上を軽快なステップで歩いていく。オレは今、喜びに満ち満ちている。春の鴇色の風に包まれているよう。
灰汁色の建物の花壇に咲いた花に目が留まる。横には立て札が置かれていて、そこには〈サツキ〉と書いてあった。
——サツキって……。
見たかったもの。
――この時代の花はうつくしい。
道端には宝石のような美しい物たちが転がっている。きらめく、今が。いつか失われてしまう、脆く、儚い、うつくしさが。
カメラを構え、ゆっくりとシャッターをきる。歯切れのよいカシャリという音が鳴った。解像度の荒い、星芒の色彩でも笑みがこぼれる。やっぱり、うつくしい。
カメラを下ろし、再び進もうと視線を人波に向ける。
刹那、目が合う。一閃。赫々の光が弾けるように衝撃が走った。鳥肌が立ち、風で髪が巻き上がる。女の子が自分を見ている。その目に、その髪に、目が離せなくなる。濡羽色の髪のどれほど鮮やかなことか。淵底に吸い込まれるように目が離せなくなった。目細しいほどに、その少女は一心にオレを見つめ、オレを離さなかった。
彼女の巻き上がった前髪が彼女の目を隠し、風が光り、透ける前髪の向こうで、彼女は目を逸らした。オレも目を逸らす。目を逸らすその時まで、世界はゆっくりと進む。
鼓動が止まらない。足の下を春光が奔る。
***
オレはこの時代の街を撮って回った。ここでは驚くことばかりだった。移動方法も何もかも違っていて、最初は困った。
此処に来て三日目になる。地面で目を覚ますのも二回目だ。ホテルは未成年一人で予約できない。だから、仕方なくベンチのある公園で寝泊まりしている。
かけていたブランケットは寝相で首に巻き付き、ベンチで寝ていたはずなのに地面で寝ている。後頭部についた砂を払い落としながらオレは起き上がった。空はまだ薄暗い。冬の名残をのこした澄明の空を見ながら、公園の水道場に向かう。
「つめてっ」
蛇口から轟々と流れる水を頭にかけ、寝ぐせを直す。ぽたぽたと水が滴る髪をタオルでふき取り、生乾きの髪で朝食を買いに行く。ここから十五分くらい歩いたところにコンビニがある。そこで買おう。白白開けの空を見上げながら、歩きだした。昨日もこの空を見上げたが、何度でも感動する。何度だってシャッターをきりたいと思う。移り変わる色彩は誰かによって作り上げられたものではなく、自然のものなのだ。
コンビニにたどり着き、会計を済ませたオレは、買ったカロリーメイトの箱を開け齧る。一日三食、三日間、これで済ませている。流石に飽きてきた。
ぼんやりとしたチョコ味を感じながら、どこへ行こうかとスマホの電源を入れる。
この時代にはウミガメが生きているらしい。水族館に行こうと決めたオレは駅への道を辿る。駅に着いた頃には旭光が街に降り注いでいた。ビルの角に光の玉が輝いている。
電車を待つニ十分間。誰もいないホームに立ち、耳を澄まして、眠ってしまいそうな静けさに目を瞑る。静寂が鼓動を轟かせる。生きているんだと思った。
アナウンスで目を開ける。シューという走行音が止み、空気の剥ける音と共にドアが開く。此処に来る時のことを思い出しながら列車に乗り込む。
水族館は真っ青で、銀波が揺らめいていた。冷気がズボンの裾をすり抜け、冷やす。その一瞬を捉えて、水縹に透けるウミガメを撮る。息を飲む生命のうつくしさ。
でも、いつかは死んでしまう。そう思ったら、水も光を失い、このウミガメもただの肉塊に思えた。
写真を現像して、福島駅に戻った。公園に向かうために連絡通路を通る。通る人たちの足音がよく徹った。
その中で、軽く叩く様な音が後ろから近づいていた。
「あ、あの!」
しばらく自分が呼び止められているのだと気づかすに進んだ。肩を叩かれ、ようやく自分に話しかけられていたことに気づく。
「これ……落としましたよ……」
振り返った先にあった、緊張した面持ちで話しかける少女に時が止まる。
肩まで垂れた長い髪が艶々と光を放つ。上目遣いで覗く顔は、昨日の少女だった。
少女の目は不安そうに揺らめいて、写真を差し出す。朱色に艶めくツバキの写真を受け取る。そこでポケットから写真を落としたのだと気づく。
「ありがとう」
写真を受け取る。少しの間だけ、オレと少女が写真でつながる。
一昨日はこんなに近くではなかったから新鮮な気持ちだった。ショーウィンドウに飾られた服を手に取った時のようだ。憧れていた少女を目の前にし、気分が高揚する。オレは激しい鼓動を悟られないようにほほ笑んでお礼を言った。彼女は「あ、いえ……」俯いて首を振った。
ここで立ち去るのが普通だ。でも離れがたくて、何か接点を作れないか、うだうだと考えて沈黙が流れる。
話しかけたい。言葉を交わしたい。でも。オレは未来から来た。だからそれは許されない。時間旅行のマナーとして、過去人と言葉を交わしてはいけない。人の記憶に残ってはいけないから。オレみたいな時間旅行をしに来た未来人は、本来此処にはいない人。オレは覚悟を決め、ここを立ち去ろうと、お辞儀をした。
不意に、鴇色の彼女の唇が動いた。
「あの!」
裾を掴まれ、呼び止められる。期待と困惑で視界が揺れる。彼女の黒羽色の髪は流れるように靡いていた。
「名前! 教えてくれませんか!」
考える間もなく、言葉が口をついていた。
「……名前だけでいいの?」
少女の顔が、艶やかな赤に染まる。その瞬間、オレの心は形容したがい焦りのようなものに襲われる。
「で、できれば連絡先も……」
オレは「やっぱり?」とおどけてみせる。ここで、連絡先を教えられたらどれほどいいだろうか。「ごめんね」と言った。
彼女の顔から赤みが消える。分かりやすくショックを受けた顔だ。その表情で高揚した気持ちは急激に下がる。彼女の顔を見ていられなくなって、オレは目線を下ろした。彼女を傷つけたくなくて、「携帯持ってなくて……」なんていう嘘を吐いた。それを拒絶と解釈したのか、彼女は真っ青な顔で「ごめんなさい」と言って走り去ろうとした。オレは、それを咄嗟に引き留める。せっかくのチャンスがなくなるのは嫌だった。
身勝手すぎることをしていると思う。それでも、言葉を絞り出した。
「ま、待ってくれる? 名前、教えてほしくて……」
彼女の大きなガラス玉のように輝く黒瑪瑙みたいなが見開かれて、睫毛がカラスの羽の如く瞬く。小さく、息が漏れた。
彼女の唇が静かに、「紺青花です」と言った。オレは噛みしめるように反復した。そしてオレも自分の名前を名乗る。
「オレは春です。卯月春」
「春……」彼女がオレの名前を呼ぶ。そうして、照れたように笑う。その一言で、その表情ひとつで、オレは叫び出したくなるくらい恥ずかしくなって、そして嬉しくなった。
体中が熱い。彼女の言葉一つで、オレは焼き尽くされそうになってしまう。
「また、会えますか」
また。
彼女がそう言った途端、オレの中の炎が、ふっ、と消え去った。『また』なんてあるのだろうか? 忘れていた運命がオレの中で囁く。
そんなの何処に? 今この瞬間も、未来では刻一刻と終末を迎えている。もしかしたら、太陽の寿命が早く終わりを告げ、オレはこの場から消え去ってしまうかもしれない。公園のベンチで朝目覚めた時に覚えた希望も、瞬く間に消えてしまう。暗澹とした失望が自分の影から湧き上がり、オレを飲み込む。
輝く彼女を見据えた。
——この子には明日があるんだ。生まれた意味なんて関係ないんだろうな。
なんて眩しい。
『どうして私は貴方を探すのだろう?』小説の一説が頭に浮かぶ。なぜオレは探す。生きている意味を。無駄だ。どうせ死ぬのに。
嘲笑が笑みを作る。
「また会えるといいね」
彼女は凄く悲しそうな顔だった。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
***
彼女に会った日から二日経った。此処に来て、とうとう七日目。今日は未来に帰る日。
彼女に会わなかった二日間。オレはそれまでと変わらず、色々なところを撮ってまわった。あの時ほどの絶望に襲われることもなく、静かに過ごした。自分の余命なんて元々分かっていたことだし、今更落胆するほどのことでもない。ただ、あの時だけはそのことが酷く悲しかった。それはなぜだろう。
写真を撮って歩いた頃には、もう外は夕闇に覆われていた。終わりの時間は刻一刻と迫っている。もうおしまい。でも、不思議と心は穏やかだった。オレはあまり生に執着がないようだ。首に下げたカメラの縁を撫で、そう思う。
刹那。俯いた視線の先が光る。燦爛と。
ピカッ!
ダメだと分かっているのに。どうしようもなくその名前を呼びたくなってしまう。
『貴方を探す旅で、私は数多の花や、生き物や、優しさに会いました』
そうだ。オレはこの旅行で、貴方に会った。本当は名前を呼びたくなる理由も分かってる。意味だって、気づき始めてる。でも、少しだけ時間が足りない。どうか、神様。「こ……」
「紺青さん!」
もう少しだけ、オレに時間をください。
***
ため息を吐いた後だった。呼びなれない声。強く肩を掴まれ、振り返った。まさかの人物に、私は声をあげる。
「は。春くん⁉︎」
そこには紛れもなく、眉を下げて笑う彼の姿があった。
「紺青さんがいたから、つい声かけちゃった……」
「そ、そうなんだ」
その一言で、今まであった、嫌われたかもしれないという不安が吹き飛ぶ。「えへへ……」と笑うその笑顔に、私もはにかむ。高揚と緊張を誤魔化すように話題をふった。
「写真、撮ってたの?」
うん、と彼は頷く。
「いいね、ここは」
「へ?」
春の顔が紺碧に暮れる空へと向けられている。表情が見えない。
「星がある」
星があるなんて当たり前のことを言う彼の髪が風に揺蕩い、透き通った。「紺青さん、」彼の明離な声に呼ばれて、私は返事をする。彼の瞳はどこか遠くを見つめてる。
「この辺で景観のいいところ知らない?」
戸惑った。思いつくところはあったが、案内してもいいのか。自信が持てなかった。
「……私が綺麗だと思うところでいい?」
「もちろん」
人の流れに逆らうように、彼の手を誘う。心が陽だまりのように温かくなる。
駅前の人混みを抜けて、どんどん人が少なくなる。ひらけた橋の上で立ち止まる。
「ここなんだ」
「ここ……?」
「うん。ここ通学路なんだけど、この橋の上からは空が綺麗に見えるんだよね」
「空、好きなの?」
投げかけられた質問に一拍置いて答える。
「私も好きだけど、春くんが空好きなのかと思って」
春が驚いたように動きを止める。何秒か俯いてから、彼は「そうかも」と答える。
「オレは空が好きなのかも」
推量で言われた答えが、いつもミステリアスな彼らしくてつい笑ってしまう。
「かもって……。あやふやだなぁ」
「そうかな」
「そうだよ」
私が答えた質問や誘いにはなんにも答えてくれなくて、春のことを私はなにも知らなくて。どこかどころかどこも掴めなくて。話せるだけで嬉しいと思うのに、それがどこか寂しい。もっと、話をしたい。
春が空に向かってシャッターをきる。その髪が靡いた。私と違った、甘栗色の髪の毛。それを、心からきれいと思った。
「これで最後だ」
「なにが?」
「……フィルムが」
春の桜のように笑う彼が、ひどく悲しそうで、今にも散ってしまいそうに思えた。
「紺青花って、いい名前だよね」
春が突然そう言った。
「今の空みたいな色を、花紺青色っていうんだ」
その彼のたった一言で穏やかな春の風が、春嵐にかわる。
私も空を見上げる。知らなかった。ただの黒だと思っていた空が変貌する。
この輝きを、鮮やかな気持ちをなんといえばいいのだろう。街の全てが息づいている、この気持ちを。
「花紺青色って綺麗だね」
「そうだね」
帰らなくちゃ。そう言った彼の顔は穏やかで、私は不安になった。
「……また、会える?」
駅に向かって歩く途中で私は訊いた。さっき覚えた不安が消えない。凄く、嫌な感じがした。
「それはできない」
冥漠とした声と遠さに、咄嗟に振り返る。街は急に騒がしくなり、春がどんどん遠くなる。
「春?」人混みが彼を隠しては、突き放す。
「オレらはもう会えない」
「どうして」
車の走行音、来たばかりのバスのアナウンス、街行く人たちの話し声、そのどれもが春を飲み込んでいく。春の表情が見えない。その甘栗色の髪だけが、闇に染まって青絲に輝く。
「オレは未来から来た」
未来。漠然と、どれくらい先のことなのだろうと考えた。それを読みとったかのように彼は「オレは一兆年後から来た」と言った。
そこで気づく。春の制服。調べても出てこなかった。春が明日を約束しなかったのも全部、春が未来から来ていたから。
信じられなくて首を振る私に、彼はほんとだよと言う。
バスのライトが射し、再び春の表情が露わになる。彼の顔は、静かで、朧だった。
「オレは今日、未来に帰らなきゃいけない」
「会いに来てよ」かすれた声で縋った。また会えると言ってほしかった。彼はゆったりと首を振る。深潭に飲み込まれる。
「オレが未来に帰ったら、太陽は消滅する。そうしたらきっと、人は生き残れない。みんな死んじゃうんだ」
少しだけ困ったように眉を下げて、彼は笑う。そんなことない! 叫び出したくなるけど、そんなことないとは一ミリも思えなくて、私は必死に涙を堪えた。
「それじゃあね」
「何処にも、行かないで」
別れを告げる彼を引き止める。
生ぬるいものが頬を伝った。ぼたぼたとタイルに骨炭の染みを作る。
「最後に花に出会えてよかった。心からそう思うよ」
もう、待ってなんて言葉も出なかった。嗚咽と溺れそうな涙に息もできなかった。水を掻くように手をのばす。あの手を掴んで、引き止めたい。神様、永遠に時を止めて。
歩く人に肩がぶつかって、舌打ちをされても構わなかった。ただ、彼に違づきたい。でも泣いてしまって歩けない。「待って」その声も、闇闇に飲まれていく。
「春ぅ……っ!」
刹那、衣擦れが聞こえた。甘い匂いが香って、人の温かさを感じる。
「オレのことは忘れて。君はこの世界で生きて」
春の手が私の背に優しく触れる。熱い涙が春の肩を濡らす。私は春の背に手を回し、ブレザーの生地を強く握った。混乱していた全てが私の中にすっと納まる。
「忘れない。絶対に」
彼が息を飲む。もう一度「忘れて」と囁く。更に腕に力を込め、首を振る。
「忘れない、絶対に。私は貴方に出会えてよかったから。生きることの幸せを知ったから」
春の呼吸が小さく揺れる。その揺れは徐々に大きくなっていく。
私の肩に、ぽとり、と雫が落ちた。
***
退屈だった。平坦だった。何も変わりはしない世界への希望は早々に捨て去り、オレはただ毎日を眠ったようにやり過ごした。楽だった。苦しかった。何もせずとも終わりはやって来るのに、オレは終わらせたかった。
でも本に出会った。オレは生きる理由をひとつ見つけた。過去には今オレの生きる世界にはない、オレが見たいものがある。オレは未来への急行列車に飛び乗った。誰の反対も聞かずに。だって、オレが見つけたたったひとつの意味なのだ。
オレは其処で出会う。四月のサツキ。金色の星。そして、四月の冷たい風のなかで、まっすぐにオレを見つめる君に。話しちゃいけない。関わっちゃいけないと思うのに、オレは君に名前を訊いた。君のことを知りたがった。もう少し、時間があれば、オレのこの気持ちが確かめることもできた。だけどオレには時間がなかった。それでも、オレは君に出会えてよかった。
***
あの後、私たちはお互い帰る時間が来てしまい、別れた。多分、もう二度と会えない。
物語には、ハッピーエンドというものがあるけど、ここは現実。未来の地球は滅びて、春も消えてしまったのだろう。朝、目が覚めてそんなことを考えた。寂しかった。悲しかった。あんなに優しい春が、もういないなんて。朝日が差し込む部屋の中で私は泣いた。朝から泣いていたことを母に心配されたこと以外、日常と変わったところはなかった。変わったのは私だけ。
そして私は今、机に向かって小説を書こうとしている。今までずっと悩んでいて書けなかったものだ。自分のため、春が呼んだという小説を書こうとしている。私も読みたいけど、未来の物語だから私は読めない。だから自分で書こうと思った。写真も自分で撮る。
でも、先に一枚だけ撮った。特に珍しくもない、ビルの花壇に咲いていた花だ。サツキ。彼はこれを撮っていた。スマホの画面に映るサツキの花を見つめて、私はほほ笑む。
私はペンを握った。冒頭は決まっている。
『拝啓、四月の君へ』
『遥か彼方から、奇跡みたいな物語をあなたに。』
四月の君 暁流多 利他 @Kaworu0913
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