箱庭の生物部
冬
箱庭の生物部
昼休みの教室は、いつもと変わらず賑やかだった。
リョウは笑って相槌を打ちながら、友人の冗談に肩を揺らす。
全部いつもと同じ。そのはずなのに、今日はどこか白けたような目で見下ろすように自分を見ている自分がいた。
息が詰まるような感覚になって、自然な流れで席を立つ。廊下に出ると、扉の向こうの声が少し遠くなって、何だか少しほっとする。
購買で買ったパン片手に校内を歩く。ふらふらと何も考えずに歩いているうちに、気づけば特別教室棟まで来ていた。
ここは文字通り特別教室ばかりだから、授業のない昼休みに通る者はいない。足音が吸い込まれるような静けさの中で、リョウは立ち止まった。
——来る場所間違えたな。戻るか。
踵を返そうとしたとき、目の前の教室の扉が目に留まった。ほんの少しだけ開いているようだ。特別教室は授業があるとき以外は鍵がかかっていて入れないはず。扉の上のプレートには「生物室」と書かれていた。
——閉め忘れか?
だが、そんなことを気にするリョウではない。腹も減ったことだしここで食べていこう。空腹に背中を押されるままに、リョウは扉を押し開けた。
中に入ってみるが、当然誰もいない。
思いのほか日差しが強い。リョウは日陰になった席に腰を下ろしてパンをかじった。
シンとした空間に、モーター音と水が落ちる音だけが淡々と響いている。生物室に置かれている水槽の音だ。
なぜかこの学校の生物室には、大きさも形もさまざまな水槽が大量に置かれている。そしてリョウがたまに授業で生物室に来るたびに、水槽は確実に増えていっている。この高校に七不思議があるのかは知らないが、もしあるとしたらこの『増える水槽の謎』は確実に入っていると思う。
スマホを取り出そうとして、やめる。なんとなく目に入った横の水槽をぼんやり眺める。
ライトに照らされてキラキラと輝く水草の間を、色とりどりの小さな魚たちがゆったりと泳いでいる。
——あ、エビもいる。めちゃくちゃ赤い、小さいエビ。こんなまじまじ見たことねーから知らなかった。へー、エビって飼えんだ。
バタン。
急に扉が閉まる音が響いた。リョウは驚いて顔を上げた。準備室につながる扉の前に、見知らぬ女子生徒が立っている。その手にはバケツを持っている。
彼女も驚いた顔をしていた。が、すぐに視線をそらして、教室の後ろにある水槽の近くまで移動して、バケツを床に置いた。バケツの中は、リョウには何だかよくわからないものがいろいろ入っているようだった。
——まあ、向こうが話しかけてこねーなら、こっちから話すこともねーか。
リョウも気にしないことにしてパンをかじった。しかし教室の後ろからは、絶えずバシャバシャと水が流れ落ちる音がしていて、正直気になる。
そっと振り返ってみると、ホースのようなものを水槽の縁にひっかけて、バケツに水を移しているようだった。そして、いくらか水が少なくなった水槽の中を、彼女は慣れた手つきでスポンジでこすっていた。なるほど、掃除中だ。
——掃除してるやつとかいるんだな……まーそりゃいるか。
だが、生物室の水槽はいつ見ても汚れ一つなく綺麗で、どこか掃除とかが縁遠いもののように感じていたのも事実だ。
というか、何で彼女がこんな作業をやっているんだろう。委員会か? いや、委員会を昼休みにまで真面目にやるようなやつがこの学校にいるとも思えない。それに、そもそもそんな委員会活動は聞いたこともない。じゃあ——
「部活か?」
うっかり話しかけてしまった。水槽を見つめていた瞳がこちらを向く。
「うん。そうだよ」
思いのほか普通に会話が成り立って、少し驚く。だが、彼女はまたすぐに水槽に視線を戻して掃除を再開した。
「何部?」
「生物部」
「ふーん……そんな部活あったんだな。この水槽の何個かがお前の担当ってことか?」
「いや、別に担当とかないよ。全部私の」
「はッ!? これ全部お前が一人で掃除してんのかよ!?」
「そうだよー。他にやる人もいないしね」
「でも部活なんだよな? ……まさか全部押し付けられてんのか?」
なんだか大人しそうなやつだし、もしかしたら断れなかったのかもしれない。
「いや、私以外はみんな幽霊部員だからね。私が趣味で水槽を置いて、管理も全部やってるだけ」
ただの変なやつだった。ちょっと心配して損した。
だが、こいつは呆れられているのを気にした様子もない。そしてリョウが話しかけなければ、ただひたすらに黙々と作業を進めていく。その様子が何だか、
「……楽しいのか?」
「ものすごく」
「ふーん」
彼女は水槽から目をそらさないまま、一切表情を変えず答えた。その間にも、次々とバケツから水槽に水を注ぎ続けている。
どんどん水が増えていく水槽の中を、名前も知らない魚たちが慌てたように右往左往していた。
リョウがそんな様子をぼんやり眺めていると、昼休みが終わる予鈴が鳴った。
小さな箱庭のような生物室から現実に引き戻されるような感覚。リョウは少し、この空間に名残惜しさのようなものを感じていた。でも、もしかしたら生物室は彼女にとって、自分一人でいられる大切な場所なんじゃないか。自分はここに来ない方がよかったんじゃないだろうか。そう思って、リョウは少し小さな声で問いかけた。
「……なあ。また来てもいいか?」
「邪魔しないなら全然いいよー」
こちらを見もせずに、そして特に気にした様子もない返答が返って来た。心地のいい無関心だと思った。互いの事情だとか、内面だとかに深入りせず、話題は目の前のものについてだけでいい。そういう距離感が、なんだかとても気楽だった。
水を水槽いっぱいに入れ終えると、彼女は道具をまとめて準備室に置いてきた。そしてリョウと一緒に生物室を出て鍵を閉めると、足早にどこかに行ってしまった。方向を考えるに、職員室に鍵を返しに行ったのだろう。
——そういえば、あいつの名前聞くの忘れたな。
リョウは授業をサボろうかとも思ったが、今からサボる場所を探すのも面倒になって、そのまま教室に戻ることにした。
教室を出たときよりも、ほんの少しだけ世界が明るく見えたような気がした。
箱庭の生物部 冬 @fuyu_wa_samui
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