すぐそばにいる遠い人

宇佐美秋澄

第1話

教室という箱庭のなかで、僕は今日もまた

「他人」でありつづけている。


にぎやかな昼休み、どこかで笑い声がはじけ、誰かの名前が呼ばれている。けれどその音たちは、僕の輪郭をすり抜けて、何も残してはいかない。


いや、最初から僕はその風景の一部じゃなかった。ただ、そこに在るだけの静物。みんなが見落としていく、壁ぎわの鉢植えのように。


でも、それでいい。そう思っていた。


いや、正確には──そう思おうとしていた。



「……葵、今日も来てるね」


「ん? あぁ……うん、まぁ」


窓際の席からふと視線を送れば、グラウンドの隅で、あのふたりが並んで歩いているのが見える。笑いながら、話している。ほんの数メートル先にいるのに、その姿は遠い夢のようだった。


葵、中学の頃から、ずっと想っている人。


あの夏、同じ制服を着て同じ時間を過ごしていた頃から、僕のなかで、彼女は特別だった。


ただ一緒に下校するだけで、意味もなく笑い合えるだけで、心が満ちることを知った。


でも──彼女は別の高校に進んだ

そう、彼氏と同じ高校に。


皮肉なことにその彼氏は、僕の親友だった。



「まだ、好きなんでしょ?」


放課後、教室に残っていた僕に、クラスメイトが何気なく言った。


「……バレてた?」


「そりゃ分かるって、視線で分かるもん」


苦笑いする彼に、僕は何も言えなかった。

ただ、曖昧にうつむいただけだ。


葵に気持ちは伝えていない、伝えるつもりもなかった。


彼女が幸せならそれでいい。彼と一緒にいるのなら、それが彼女の選んだ道なら──と、そう思っていた。


いや、それもまた、自分をごまかす方便だった。



夏の終わり。蝉の声がやっと消えかけて、夕暮れが少しずつ早まる頃。


「ねぇ、秋澄。久しぶりに、一緒に帰らない?」


部活帰りの彼女に声をかけられた。


断れなかった。嬉しくて、懐かしくて、そして、怖くて。


「彼とは……今日は?」


「うん。用事があるって」


歩幅を合わせて、家までの道を並んで歩いた。中学の頃と変わらない道。少しずつ暗くなる空。風に乗る夕飯の匂い。すべてが、何かを思い出させる。


「変わらないね、この道」


「うん。変わらないね」


彼女の横顔を、横目で見た。


笑っていた。懐かしさに少しだけ目を細める、あの笑顔。

でも、それは僕のものじゃない。

僕に向けられたものでもない。

……そのはずなのに、心が勝手に騒ぐ。


「……あのさ、」


声が出かけた。けれど、その先が言葉にならない。


言ってはいけないと思った。


彼女は、もう誰かの大切な人なのだ。僕が割って入る場所なんて、最初からどこにもない。


でも、それでも…


「……なんでもないよ」


「そっか」


彼女の靴の先が、静かにアスファルトを蹴った。


ほんの数秒、ふたりとも黙った。


それは心地よい沈黙だった。

だけど、同時に、耐えがたい沈黙でもあった。



もう、分かっている。


僕は誰かと群れることが苦手で、輪の中に入るのが

下手で、不器用で、臆病だ。


でもそれは、誰にも心を開きたくないわけじゃない

ただ、「彼女じゃない誰か」に心を開けないだけ。


あの夏の日からずっと、葵が僕の世界の中心だった。


彼女の笑顔が、声が、隣にいるということだけが、僕の世界を支えていた。


だけど、もうそれも、幻想なのだ。


彼女の未来に、僕はいない。


僕の未来に、彼女を描くこともできない。


それでも…


それでも


「そばにいられるだけで、幸せだったよ」


帰り際、彼女が交差点で手を振るとき、僕は心のなかでそう呟いた。


風が吹いた。

夕焼けが滲んで、まるで涙のように、世界がゆらいだ。



ひとりになった帰り道。


心の奥に、ぽっかりと穴があいているのが分かる。

埋めようのない、空白


誰にも埋められない、彼女のかたちをした空白だ。


それでも、人と関わることを諦めたわけじゃない。


新しい人間関係に踏み出せないのは、まだこの空白を受け入れきれていないだけだ。


そう、自分に言い聞かせながら、僕はゆっくりと歩き出した。


夜の気配が、すぐそこまで迫っていた。


でも、きっといつか朝は来る。


それが今じゃなくても、いつか──


彼女を忘れることはないだろう。けれど、


彼女のいない世界を、生きることはできるはずだ。



そんな希望だけを胸に、僕はひとり、歩いていく。

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すぐそばにいる遠い人 宇佐美秋澄 @usami_18

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