「その影//踏み越えるべからず」
人一
「その影//踏み越えるべからず」
妻が死んでもう3ヶ月が経った。
死因は電車に飛び込んだことによる自殺とされた。
俺は、そんなはずはないと、今でも思っている。
自殺するようには見えなかったし、事件の日の朝も一緒に朝ごはんを食べて、笑顔で送り出された。
「誰かに押されたか?」とかもう頭が絞りきれるくらい考えたが、誰かも分からない相手を恨んでも妻は帰ってこない。
いつまでもクヨクヨしてても、妻に面目が立たない。
そう思って、できるだけ前を向いて生きてきた。
ある日の、残業終わりの帰り道、通り慣れた踏切にて事件は起こった。
――カン、カン、カン
遮断機が降りきると同時に向こう側に、不自然な影……いや見慣れすぎた人影がそこに立っていた。
「な……七奈美……どうして…」
返事はない。
だが彼女は、あの日と変わらない服で、そして顔でこちらに笑顔をむけていた。
列車が通り過ぎ遮断機が上がる。それと同時に、向こう側の七奈美も姿を消す。
「そうだよな……七奈美はもう死んでしまったのだし、見間違い…いや、神様からのご褒美だと思おう。」
少し軽い足取りで家に帰り、仏前の妻に感謝を告げてその日は眠りについた。
あの出来事から数ヶ月。
とある夜、残業で遅くなった私は、またあの道を歩いていた。
踏切に到着したが、ちょうどけたたましい音と共に遮断機が降りていた。
遮断機が上がるまでの待ち時間、何をするでもなくスマホを眺めていた。
ふと、視線を感じた気がして顔を上げると、踏切の向こう側に――
妻が、七奈美が。まるで何もなかったかのように立っていた。
「七奈美……」
妻の姿を見た瞬間、数ヶ月前の出来事が昨日の事のように蘇る。
――2度も現れてくれるなんて、やはり夢ではなく現実なのだろうか。
……いや、夢でも現実でもどちらでもいい。また妻と話せるこの機会を逃す訳にはいかない。
「七奈美……前に会った時は、何も言ってやれなくてすまなかった。あの時はもう会えないと思っていた君とまた会えたショックで、何も言葉が出てこなかったんだ。
君は責任感が強いから、残された僕がしっかりやってるのか見に来てくれたんだろう?
……でも大丈夫だよ。少しずつだけど、前を向いて歩いているから。君ももう安心してほしい。」
涙を浮かべながら、ゆっくりと目の前にいる彼女に言葉を伝える。
言い終わると、変わらず笑顔の彼女は口を動かした。
……だが、言葉が聞こえてこなかった。
まだ彼女は口を動かしている。
不思議に思うが、1歩2歩と踏み出す度に、聞こえる声が鮮明になる。
3歩踏み出したところで聞き取れたのは、
「ありがとう。あなたの決意はしっかり伝わったから、安心してね。でも今日は、そんな事ではなく、ちょっとお喋りがしたい気分なの。
……まだ時間はあるでしょう?このままお喋りしない?」
「い、いいのかい?君が望むならいくらでも付き合うよ。」
私は、抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出すのを感じながら、彼女との会話を楽しんだ。
日常のこと、仕事の愚痴のような他愛のない話か――彼女は笑顔で受け止めてくれた。
それどころか、彼女が今いるあの世の話なんかもしてくれた。
現実離れした話だが、愛する妻と話せるのだからもはや何も気にならなかった。
気づけば、かなり長い間話続けていたようで、踏切のけたたましい音はすでに止んでいた。
だが、赤色灯の光は今も辺りを赤く染め上げ、遮断機も降りたまま動かない。
私も、彼女の声を聞きたくていつの間にか、遮断機のバーのすぐ手前まで進んでいた。
……名残り惜しいが、そろそろ潮時だろう。久しぶりに彼女と話せて、心残りはずいぶんと晴れた気がする。
別れを伝えて、日常に戻るため顔を上げる。
そこには、再会した時と変わらない優しい笑顔があった。
「七奈美、ありがとう。これで最後になるかもしれないけど、君と話せて本当に嬉しかった。僕は元気にやるから、君も――
「ねぇ、あなた…ちょっと声が遠くなってきたわ。
…それに、私はまだ……まだ満足してないの。
もう少しだけ、こっちに来てお喋りしない?」
食い入るような誘いに、胸の奥が揺らぐ。
たったこれだけの言葉なのに、必死に取り繕っていた私の「帰る」という意思が、今にも崩れてしまいそうになる。
――ギィィ……
機械の掠れた音をさせながら、遮断機が上がる。
まるで最後の境がなくなり、私自身に選択のすべてを委ねてきたかのようだった。
あたりは闇の鮮烈な黒と、赤色灯の鈍い赤に包まれている。
――彼女は何も言わない。ただ変わらない笑顔をこちらに向けて立っている。
これはきっと乗ってはいけない誘いなのだろう。頭では十分理解している……いや理解しようとしている。
だが、亡き妻を目の前にして、自分の体は言うことを聞かない。
涙でぼやけた視界にも彼女の笑顔は映る。
「七奈美……」
揺れる思考を置き去りに、1歩を踏み出す。
遮断機の影を越え、その轍をまたいだその時――
激しい衝撃に襲われて、視界が真っ赤に染まっていく。
それと同時になにかに……いや彼女に。
そっと、優しく抱きしめられているような感じがした。
もう何も分からない。
愛する妻と……もう一度触れ合えるのなら、それだけでもう十分だった。
――私は、すべてを手放し差し出されたその手を握った。
「その影//踏み越えるべからず」 人一 @hitoHito93
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