第4話 記憶――舞がいたはる
ネットの画面は、薄暗い部屋にじんわりと青白い光を広げていた。
その光に照らされたマイの横顔は、どこか興奮したように見えた。
(……まるで、子供みたいな顔しやがって)
ハルは机に向かうマイを眺め、思わずそんなことを思った。
モニターには舞――《M4I》の投稿した、未公開だったはずの古い小説群がずらりと並んでいる。
《……そっちこそ、どう読むの? これだけ揃えたんだから、あんたの目でちゃんと評価してよね》
挑発的な舞のコメント。
そこに続くリンク群を見つけた時、ハルは思わず息を呑んだ。
(全部……見せる気かよ、あいつ……)
それは舞が若い頃、まだ自分の才能を自分自身さえも制御しきれなかった頃に書いた断片だった。
技巧に走りすぎて空回りしたもの、情緒が溢れ出して形を失ったもの――それでも確かに、どれも底知れない熱を持っていた。
マイは、そんな小説を夢中で読み漁った。
くるくるとスクロールする指先が、小刻みに震えている。
「どう? 読める?」
そう問いかけたハルに、マイは小さく笑って「うん」とだけ頷いた。
でも、その横顔はどこか引き攣って見えた。
――部屋には二人分の呼吸だけがある。
モニターのページを切り替えるたび、古い文体と瑞々しい感性が匂い立つように画面から滲み出してくる。
(……これ、誰にも見せてない……ほんとの自分、だよね?)
マイは画面の前で、ほんの少し目を細めた。
まるで、見覚えのあるものを確かめるように。
「……ヘンだよ、この文体。懐かしいっていうか……もっと前に触った気がする」
「何言ってんだよ、お前。舞の小説なんて初めて読んだんじゃ……」
言いかけて、ハルは口を閉じた。
マイの横顔に、かすかに陰りが差した気がしたからだ。
(――やっぱおかしい。最近、マイの様子……)
ここ数日、マイはますます小説の世界にのめり込んでいた。
舞が放った挑戦状に、嬉しそうに笑って応え、そしてまた――。
「……これ、評価するんでしょ?」
そう言うとマイはハルの目を見ないまま、キーボードに細い指を滑らせた。
モニターには、舞への短いコメントが打ち込まれていく。
《どこか古い香りがするね。時代に置き去りにされる前に、もう少し息を吐いたら?》
挑発的ともとれる言葉だった。
でもそれは同時に、どこか憧れるような、探るような匂いもあった。
「……おい、それ本気で送る気かよ」
思わず声をかけたハルに、マイは少し唇を噛んでから、微かに頷いた。
(わかってんのか……あの舞に、こんなコメント送るってことが……)
だが、マイはもう迷っていなかった。
カチ、とキーを叩く音が妙に静かに響いた。
ハルは自然とマイの肩口から画面を覗き込む形になる。
暗い部屋で、モニターの青白い光だけが二人を照らしていた。
スクロールされる文章の群れに潜り込むたび、ハルの心臓はじわじわと重くなる。
(……どこまで読んでんだ、こいつ……)
マイの肩はわずかに震えていて、額には細かい汗が滲んでいた。
その指先は迷いなくページを繰るくせに、時折、呼吸だけがひどく浅くなる。
「……読めるのか?」
思わず出た問いに、マイはこくんと小さく頷いた。
けれどその目は、どこか遠くを彷徨っている。
「……これ、あたしが……」
「ん?」
「……あたしが、書いた気がするの。」
声は息に混じって、かすれるように零れた。
吐き捨てるみたいなのに、どこか縋るような調子で。
ハルは無言で目を細める。
マイの輪郭が少しだけ霞んで見えて、その肩越しの体温がやけに熱かった。
「……貸せよ。」
気づけば、ごく自然にマイの手元へ手を伸ばしていた。
指が触れると、マイはちいさく息を詰め、それから諦めたように肩を落とした。
ハルはマウスを奪うというより、そっと受け取る。
そして、ゆっくりとスクロールを始めた。
モニターに現れるのは、かつての舞が誰にも見せなかった自分の断片。
そして――
ハルの胸は、さらにずしりと重くなった。
***
何気ない朝になるはずだった。
台所に立ち、棚の奥を探ると、古びた瓶がカラリと音を立てた。
ドリップの粉はとうに切らしていて、仕方なく引っ張り出したインスタントコーヒーは、すっかり固まっていた。
「……まだ使えんだろ、これくらい」
スプーンで表面をゴリゴリ崩す。
粒はまるで小石のようで、カップに落ちるたび不安定に転がった。
お湯を注ぐと、小さな固まりがゆっくりと溶けていく。
その様を眺めていると、妙に落ち着くのが自分でも可笑しかった。
「……こうやってな、ダマになったのを潰して崩すのが好きなんだよ」
誰にともなく呟くと、背後から小さな気配がした。
振り返ると、マイがいつの間にかそこに立っていた。
じっと、ハルの手元を見つめている。
「なに、それ……また変なこだわり?」
「変って言うなよ。……こういうの、落ち着くんだよ」
マイは首を傾げ、小さく笑った。
けれどすぐに視線を外し、薄い唇をきゅっと引き結んだ。
そのまま何も言わず、リビングへ戻っていく後ろ姿が、少しだけ頼りなく見えた。
***
PCを置いている机に座ろうとしたとき、
不意に、細い指がハルの袖をつまんだ。
「……あたし、そっちの椅子がいい」
「……は?」
「今日は、そっちで。……だめ?」
いつもハルが座る、背もたれの柔らかい椅子を指している。
断る理由なんてなかった。
むしろ、こんなふうにマイの方から何かを望むのは珍しくて、それだけで胸が少しざわついた。
「……お前、今日はずいぶんワガママだな」
そう言って苦笑しながら椅子を譲ると、
マイはほっとしたように腰を下ろし、膝の上でそっと手を組んだ。
そして小さく肩をすくめて、ハルを見上げる。
「ハルも……近くにいて」
「……ったく、甘えんの下手なくせに」
ハルはそう言いながらも、マイの隣に座り込み、いつもの距離よりずっと近い場所に身体を寄せた。
小さな熱が、そこから伝わってくる。
こんな風にして並んで座るのは、たぶん初めてだった。
それなのに――マイは今、妙に遠い場所を見つめている気がした。
画面には、舞がまだ誰にも見せなかった未公開の小説群。
マイはその一つ一つを、指先で触れるみたいに慎重にスクロールしていく。
「……まだ、読むのか?」
ハルがぼそりと訊くと、マイは小さく頷いただけだった。
頬にかかる髪がふるりと揺れて、その奥で唇がかすかに震えた。
「……これ、変なんだ。読んでると……胸の奥が、ぐわって……なるの。」
掠れる声は、どこか戸惑っているようで、それでいて抗えないものに引き寄せられている感じがした。
マイは舞の文章を読み進めながら、いつの間にか息を詰めるみたいに肩をこわばらせていた。
「おい……もうやめとけ。お前、ちょっと変だぞ?」
ハルがそっとマイの肩に触れると、その身体はびくりと跳ねた。
触れた指先に、異様な熱があった。まるで微熱のある人間みたいに。
「……やだ、まだ……読みたいの。」
それだけ言うと、マイはまた画面へ意識を戻した。
そしてマウスのホイールを、意味もなく前後にこすっている。
それだけの仕草なのに、どこか不安定で、ハルは小さく息を詰めた。
(何なんだよ……舞の文章ってだけで、こんなになるか?)
ふと耳に届いたマイの呟きは、どこか舞に似ていた。
比喩の選び方や、語尾の柔らかい伸ばし方――
まるでその文体が、マイの中へ静かに浸透しているようだった。
ハルは思わず息を呑んで、無意識にその横顔を探った。
さっきまでのマイはただ変なやつだったのに、今は妙に綺麗で、触れたら壊れてしまいそうで――
「……なぁ、マイ」
呼びかける声は、自分でも情けないくらい小さかった。
けれどマイは応えず、ただ舞の言葉だけを追いかけている。
画面には、まだいくつもの未公開の物語が並んでいた。
読みかけの息が、マイの薄い胸を小さく上下させる。
ハルは何も言えずに、その隣でただ黙って座り続けた。
マイの小さな熱が、だんだんと狂気にも似たものに変わっていく気がして――
胸の奥が、そっと冷たくなるのを感じた。
***
舞の部屋は、一見すると整然としていた。
白と黒で統一されたシンプルなデスクに、最新型のノートPC。
壁には余計な装飾もなく、生活感はほとんど感じられない。
けれどデスクの隅には、色褪せた片耳のちぎれかけたぬいぐるみが無造作に置かれ、きれいに揃えられたメモ帳やペンの傍には、分解途中のイヤホンやボタン電池が転がっている。
どこかちぐはぐなその光景に、舞は頓着する様子もなく、ただモニターを睨んでいた。頬杖をつき、指先をキーボードに滑らせる。その動きは迷いがなく、それでいてどこか苛立ちを滲ませていた。
(……さて、どこまで食いついてくれるのかしら)
その唇に、意地の悪い笑みがほんの一瞬だけ浮かぶ。
静かにキーを叩くたび、スクリーンには次々と短編のリンクが並んだ。
未公開――いや、舞自身すら見返すことが少なかった、若い才能の疼きと焦燥にまみれた文章たち。
(どう? また、心の奥を引っかき回されてるんじゃないの?)
舞は息を潜めるように画面を切り替え、送信ボタンに指をかけると、わずかに止まって、それから決意を帯びた動きで押し込んだ。
「……さて、どうするのかしら」
誰にともなく零したその声は、わずかにかすれていた。
***
遠く離れたハルの部屋――
マイはその文章群を夢中で追っていた。
でも、視線の奥はだんだんと焦点が合わなくなっていく。
(これ……知ってる。ずっと……知ってた気がする……)
無意識に握りしめた膝の上で、細い指が小刻みに震える。
マイの胸の奥で、何かが逆流する。
それはそれは舞の文章に埋め込まれた「間(ま)」だった。
舞が無意識に書いていた焦燥、孤独、薄暗い承認欲求。
それがマイの神経を、まるで直接針でつつくように突いてくる。
画面をスクロールする指先が、ピタリと止まった。
「……やだ……やだ、やだ……これ……」
喉の奥で潰れた声が零れる。
でも、それ以上言葉にならなかった。
舞の部屋。
モニターの向こうでマイが狼狽するのを想像して、
舞はひどく満足そうに目を細めた。
「……ほら、もっと見なさいよ。
あたしがどれだけ、吐き出してきたか――
あんたなら分かるんでしょ?」
ディスプレイに向かってそっと囁く。誰も聞こえないはずのその声は、まるでダイレクトにマイの胸へ突き刺さるみたいに響いた。
マイはゼリーの袋を握りつぶし、けれど口元には運べなかった。
何度も小さく呼吸を乱し、それを整えるように、また画面へ視線を戻す。
(……もっと読みたい。
でも……こわい。
こわいのに……やめられない……)
***
マイはいつの間にか、立ち上がって台所にいた。
冷蔵庫を開けて、がたん、と牛乳パックを取り出す。
それをコップに注ぎながら、薄く笑っていた。
「……なんかさ。あたし、こういうの――
前からやってみたかったんだ。」
ハルは意味が分からず、ただ唇を噛む。
でもマイの笑みは、どこか不安定で、注がれた牛乳はこぽこぽと波打っていた。
次の瞬間――
マイの手からコップが滑り落ち、床に砕けた。
「あ……」
白い液体がじわりと広がっていく。
マイはそれを呆然と見下ろしたまま、動かない。
「お、おい、マイ! 何してんだよ……!」
慌てて駆け寄るハル。
マイはびくりと肩を震わせ、目を見開いた。
「……あたし……また……」
何かが崩れ落ちる音がしたのは、ハルの心の中か、マイの中か――もう分からなかった。ハルはそっとマイの肩に手を置いた。その手を振り払うでもなく、マイはかすかに震えながら口を開いた。
「……ねぇ、ハル。」
「……ん?」
「……あたしさ。
昔、ハルのこと――
……好きだったんだよ。」
その声はあまりにも小さく、けれど確かに届いた。
頭の奥を真っ白にするには十分すぎる言葉だった。
ハルは心臓を掴まれたみたいに言葉を失った。
(――何、言ってんだよ……マイ……)
マイはゆっくりと首を傾ける。
何かを見つめるように、それとも何も見ていないように。
(マイ――いったい、どうしたんだ)
「でも……やっぱ、おかしいね。
だってあたし……舞で、
そう呼ばれたかった……」
喉の奥で潰れた笑いが転がった。
「また真っ白になるの、やだな……」
その瞬間、マイの体がかくんと折れた。
ハルは慌てて抱き留め、震える身体をそっと引き寄せた。
「しっかりしろ……舞」
鼻が触れそうな距離で、その目を覗き込む。
小さなCCDのインジケーターが、
かすかに赤く瞬き――
次の瞬間、静かに光を失った。
了
舞と呼ばれたかった少女 夏目 吉春 @44haru72me
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