第七章
目が覚めると私は布団の中にいた。窓から明るい光りが差し込まれている。夜が明けたようだった。私はゆっくりと上体を起こした。近くにある携帯電話を見て日にちと時刻を確認した。今日は修学旅行最終日であることに間違いなかった。
隣に眠る麻希子はとても疲れた顔をして熟睡している。絵美の顔は布団が被って見えなかった。亜矢子を見て私は昨日の記憶が蘇った。亜矢子の顔には、涙が流れ出した痕があったからだ。
私は麻希子を起こした。麻希子の体に触ると、びっくりしたように体を動かした。そして私の顔を見て、また驚いた。私は、そろそろ起きる時間だということだけ言った。
絵美のことは麻希子が起こした、絵美も私の顔を見て驚いていたが、私には何も言わなかった。最後に麻希子が亜矢子を優しくおこした。亜矢子は私を見ると泣き出しそうになったが、やはり何も言わなかった。
私達は目が覚めてから何も話さなかった。ただ無言で個人の用事を済ませていた。昨日の出来事は誰も話そうとしなかった。昨晩、私は奈美子に抱きついた。そして、その後の記憶はなくなっていた。目が覚めた時、もしかしたら夢ではなかったのか、と思ったが、亜矢子の頬に涙の痕を見たとき、そして麻希子と絵美が私の顔を見て驚いた表情をしたことからすると、どうやら夢ではなさそうだった。きっと他の三人も夢とは思っていないだろう。
「そろそろ朝食の時間だね」麻希子が沈黙状態に風穴を開けてくれた。
「うん」亜矢子は緊張状態が開放されてほっとしたようだった。
私は黙って頷いて部屋を後にした。絵美も無言でついて来た。
大広間には疲れた顔をした生徒が集まってきた。修学旅行も最終日までくると、さすがに疲労が蓄積されたのだろうか。私の体にも疲れが溜まっているようだった。できることなら、今日はあまり動きたくなかった。幸い今日は帰るための移動が殆んどの時間に費やされる。新幹線の中で寝ていればいい、と思った。
私は席に着くと無言で朝食を食べた。麻希子と亜矢子は小さな声で、いただきます、と言った。絵美は私と同じく、無言で食べ始めた。
考えてみると、目が覚めてから私と絵美の間に会話はなかった。昨日の件があったからだろうか、私は思った。別に私は絵美を責める気はなかった。あの状態では、誰でも感情的になってしまうものだ。あの状態……。やはり昨日までの光景が、まるで夢の中の出来事のように感じた。
「なんか、ずっと朝食がごはんで飽きちゃった。私、結構朝食はパンが多かったから」私は絵美に話し掛けると、絵美が私の顔をじっと見た。
「うん、私も。パンが懐かしい。帰ったら早くパン食べたい。チョココロネ」絵美は嬉しそうに微笑んで、私を見た。
麻希子と亜矢子は、そんな私と絵美を見て微笑んでいた。
朝食が終ると部屋に戻り、支度をした。
部屋を出るときに、私達はゆっくりと部屋を見渡した。昨日まで奈美子がこの部屋にいたことは確かだった。夢などではない。それは確信できた。きっと他の三人もそうだろう。私達は顔を見合わせ、部屋を出た。
最終日は岡山駅までバスで移動。岡山駅から新幹線で東京駅に向かう。学年全員がお土産の入った大きな荷物と疲労で足が重たそうだった。
新幹線に乗ると、殆んどの生徒が眠りに落ちた。私は文庫を取り出し、アガサ・クリスティーの続きを読んだ。先程まで話をしていた亜矢子と絵美は眠ってしまった。麻希子は私の隣の席で読書をしていた。本の表紙を見るとプラトン「饗宴」と書いてあった。私はアガサ・クリスティーを読み終わると、O・ヘンリーの「最後の一葉」の入った短編集を読むことにした。
昼食の時間になると新幹線内に弁当が配られた。麻希子が絵美と亜矢子を起こすと、今まで眠っていたとは思えない食欲で弁当を平らげた。そんな二人の姿を見て、私と麻希子は笑った。昼食が終ると、一緒に配られた紙パックのコーヒーを飲みながらいろいろな話をした。そこでも、奈美子の話には誰も触れなかった。
いつの間にか亜矢子が眠っていた。また寝るのかよ、と思って私は呆れた。お腹が一杯になったから私も寝る、と絵美が言った。私と麻希子は顔を見合わせ、ただ苦笑するしかなかった。
麻希子が耳にヘッドホンを当てて目を瞑った。私もそれを真似てデジタルオーディオプレーヤーを取り出し、aikoのアルバム「小さな丸い好日」を聴きながら目を閉じた。音楽が流れると誰かの声が小さく聞こえた。
「楽しかった?」
声のするほうを見ると、麻希子が私を見ていた。私は微笑みながら黙って頷いた。麻希子は安心したように、再び目を閉じた。
私が目を覚ましたときには、既に新幹線が東京駅に着いた時だった。ヘッドホンから流れる音楽は荒井由実の「ひこうき雲」になっていた。
東京駅に着くと、全生徒は東京駅を出た。帰りは東京駅からバスに乗って、清三中央高校まで帰ることになっていた。外に出ると強い風が吹いていた。
「風、強いよ」亜矢子の髪の毛が乱れた。
他の生徒も強い風に困惑していた。東京を行き交う人たちも、歩くのに苦労しているみたいだった。
「木枯し一号かな?」麻希子が言った。
「あれ、雪じゃない?」絵美が言ったので私は空を見た。たしかに薄暗い曇り空の中、風に乗って雪が舞っていた。
「いくらなんでも、東京で雪は早いでしょう」絵美は不思議そうに言った。
「岡山の雪が木枯しに乗ってここまで来たんだよ」なぜか亜矢子は嬉しそうだった。
「岡山で雪が降ったのは昨日だよ」絵美が呆れたように言った。
「だから、一日かけてここまで来たんだってば」亜矢子はなぜか楽しそうだった。
私はそんな無邪気な亜矢子を見て笑った。麻希子も私と顔を見合わせて笑った。
「お前ら、馬鹿みたいに空を見てないで、早くバスに乗れ」
バスの入り口に立った担任の中村が怒鳴った。中村の首には相変わらず黄色いネクタイが締められていた。
中村に怒られると、麻希子は舌を出して笑った。そして私達はバスに駆け寄った。
清三中央高校の校門付近には、我が子の帰りを迎えに来た自家用車が礼儀正しく並んでいた。
バスが高校に着くと簡単な集会が行われた。保護者が近くにいるせいか、学年主任の話し方がちょっと丁寧になっていた。学年主任はブラウンのジャケットにグレーのスラックス、つまり中村と同様に修学旅行期間はまったく同じ服装だった。旅行中、少しでもお洒落な服装に替えることができたなら、評判が良くなったかもしれないのに、と私は思った。ちょっとしたことで、女の子からの評判は変わるものなのだ。
学年主任の話が終ると解散になった。
私達は何故か握手をした。
何で握手?
亜矢子は涙目で私を見た。
どうした亜矢子?
絵美は私に抱きついてきた。ちょっと、ちょっと、他の生徒が変な目で見てる……。
「とにかく無事に終ってよかった。明日は休みだから、明後日は元気な顔をしてみんなで会おうね。絶対約束ね!じゃあ、指切りしよう」麻希子が小指を出した。
麻希子、君までどうしたのだよ……。私は仕方なく四人で小指を絡ませて指切りをした。
みんなと別れると、私は自分の家の車を見つけた。父が重そうな荷物を持つ私を見つけると、走り寄って来てくれた。
「ただいま」
「おかえり」
「寂しかったかな?」
「いや、別に」
私はがっかりしたが、父を見るととても嬉しそうな表情だった。
「お前に彼氏ができないと思っていたら、彼女ができたんだな」車に乗ると父が笑いながら言った。
「え?」
「抱き合っていた彼女、結構可愛かったじゃないか。今度、家に連れてきてもいいぞ」
私は自分の顔が赤くなるのがわかった。
学校に登校すると、すぐに学年集会が行われた。校長が神妙な顔をして話し出す。
校長はまず二学年に対し、修学旅行お疲れ様、と言った。そして修学旅行から帰ってきた翌日に、二年の男子生徒がバイクで事故を起こし亡くなったということだった。その生徒の名前を聞いて私は息を呑んだ。死んだ生徒は、淳だった。
修学旅行から帰ってきた日の夜、後部席に違う高校の女子生徒を乗せてバイクに乗り、走行中カーブを曲がりきれず電柱に衝突したということだった。幸いにも一緒に乗っていた女子生徒は一命を取り留めたが、淳は即死だったらしい。
全校生徒は黙とうをした。
集会が終ると私は思わず、麻希子を見た。しかし麻希子は何も知らないかのように絵美や亜矢子と話していた。
「死んだ生徒、結構いい感じだったのに」教室に帰る廊下で絵美が何気なく言った。
「でも、いろんな女に手を出してるって噂だよ」亜矢子が小さな声で言った。
「ただのお調子もんだったんじゃないの。そう思わない亜美?」麻希子は私を見た。
「えっ?あ、そうだね……」私は笑って誤魔化した。
そういえば奈美子と淳の関係は、麻希子にも話したことが無かった。
私はゆっくりと深呼吸した。きっと淳の葬儀に行くことはないだろう。
「写真、出来たよ」教室に戻ると亜美がプリントアウトした写真を机の上にだした。
私達は写真を見ると、無言になった。じっくりと私は写真を見た。
「なんか、綺麗に撮れてるね」絵美が写真を見ながら言った。
確かに綺麗に撮れていた。違和感があるくらい綺麗に。私達四人は鮮明に写っていた。あの時に見た白い影も、そして奈美子の姿もなく綺麗な写真に仕上がっていた。
私達は誰も何も言わずに写真をお互いに回しながら見ていた。亜矢子の溜め息が聞こえた。私も溜め息を漏らした。
「でも、なんか、物足りないよね」麻希子が私達を見渡しながら言った。
私達は顔を見合わせた。そして笑い出した。四人で笑った。
「うん、物足りない。ちょっと寂しい……」亜矢子が言った。
「でも、きっと忘れられない思い出だね」絵美の言葉に私は頷いた。
私は後楽園で最後に撮ってもらった写真を見た。岡山城が背後にそびえる写真には、私一人しか写っていなかった。奈美子は写っていない。私一人がとても嬉しそうに笑っていた。私は目を凝らして写真を見た。小さく白い物が辛うじて写っていた。あの時に舞っていた白い雪。その小さな粒は、まるで結晶までもが見えるくらいに鮮明に写っていた。
佐和子を見ると、彼女の目には涙が溜まっているのがわかった。
「みんな素敵な友達だね」佐和子は涙がこぼれ落ちないように言った。
「まあ、そうだね」私は笑った。「ところで、どうして佐和子は泣いているの?」と言って佐和子の顔を覗き込んだ。
「亜美は悲しくないの?悲しいから、あまり話したくなかったんじゃないの?」佐和子は訊ねた。
「まあ悲しいけど。それに、ちょっと信じてもらえるかわからない話しだしね」と言って私はまた笑った。「でも、最後に写真を四人で見たとき不思議な気持ちになったの。それは、ただ四人で笑っていたかった。なんと言うか……何かを誰かに訴えると言った気持ちはなかった。あれは現実だとか夢だったとか、幽霊とか心霊写真だとかどうでもよかった。この話を誰かにしたいとも思わなかったし、あの三人も同じ気持ちだったと思うんだ。言葉にはできないものが、本物の喜びのような感じがした」
「私には話してくれたね」佐和子は言うと涙を堪えながら笑った。
そして、私も笑った。
喫茶店の中は、いつの間にか混んできていた。同じ大学の学生らしき人もいた。
「ねえ、そろそろ学校に行かない?」と佐和子は言った。行こう、と私は言った。午後から授業は無い筈だった。しかし私はたしかに大学のキャンパスに行きたい気持ちだった。
雪の木枯らし 飯村景行 @yasuyukiss
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